クアトロ・ラガッツィ 下 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

著者 :
  • 集英社
4.27
  • (60)
  • (42)
  • (22)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 675
感想 : 49
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (504ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087462753

作品紹介・あらすじ

四人の少年は、二年の歳月を経てヨーロッパへ到着する。ラテン語を話す東洋の聡明な若者たちはスペイン、イタリア各地で歓待され、教皇グレゴリオ十三世との謁見を果たす。しかし、栄光と共に帰国した彼らを待ち受けていたのは、使節を派遣した権力者たちの死とキリシタンへの未曾有の迫害であった。巨大な歴史の波に翻弄されながら鮮烈に生きる少年たちを通して、日本のあるべき姿が見えてくる。第31回大佛次郎賞受賞。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 極東の端っこの日本から、16世紀・戦国時代にヨーロッパに少年が渡っていた。。。なんともロマンがある。世界史の中で日本は決してガラパゴスで閉じたものではなく、様々な影響を受け、影響を与えていたということが、単純な驚き。

  • ー たしかに、彼らが見聞きした西洋の社会、法と正義、民主の歴史は戦国末期の日本社会で生きた結果を生み出さなかった。しかし、それは彼らが傑出していなかったからだろうか?彼らが傀儡だったからだろうか?いったいだれが、封建制の上に立つ絶対権力を組織化していくさなかの日本で、法と正義と平和の主張をなしえたであろうか?

    心に抱く信仰さえもが死によって抹殺されるような社会にあって、いったいどのように「傑出した」 人間が法と正義を主張できたであろうか?少年たちが見たもの、聴いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。世界に扉を閉ざし、世界を見てきた彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしたのは当時の日本である。それでも、彼らは、自分たちの信ずることを貫いて生き、かつ死んだ。このあとの章でわれわれはその壮絶な後半生を見るであろう。人間の価値は社会において歴史において名前を残す「傑出した」 人間になることではない。それぞれが自己の信念に生きることである。 ー

    名作。
    プロローグからグッと来る。
    最後が分かっているからこそ、「ローマの栄光」の儚さと「落日」までの展開がずっと心苦しい。

    最後の穴吊りの拷問がエグすぎる。

    権力者の意向に応じて、キリスト教徒にこれだけだけの迫害を出来る日本というのがこの国の姿なんだろうな。

    信長、秀吉、家康が世界とどう向き合ったのかを考えると、これは国家だけの話ではなく、企業がいかにグローバル化して世界で戦う企業になるべきなのか、分かりやすく教えてくれる作品でもある。

  • ようやく読み終えた。
    やはりこの話はこう終わるよね、とため息とともに切なさで胸がいっぱいになる。

    ようやく旅に出発した4人の少年たち。本の中ではあっという間に帰ってくる。個人的に、訪欧時の出来事がたくさん描かれているのだろうという勝手な期待があったので、その点においては少しだけがっかりした。

    けれど、帰国後の話は今までに知っていたものの何よりも詳しい。
    遠藤周作の「沈黙」と重なる部分もあって、ジュリアンが殉教したのは沈黙のほんの少し前なのだなぁと、自分の知っている話と繋がったことで少しだけ身近に感じた。

    江戸時代の鎖国の背景、巷で言われるスペインの日本征服の噂、様々な角度から触れており、まさに論文と呼ぶべき代物である。
    当時の日本が非常に混乱していた時代だったが故に、どうしても海外の資料に頼らなければならない反面、その信憑性についてもしっかりと吟味してくれている。

    宣教師の発言には時折「?」と思う部分も多いけれど、日本人の生き方や習慣、心、などを心の底から理解することは難しいであろう彼らの発言であるからこそ、行動としてはごく正確に書き表されているだろうと思える。そういった面から、日本でもまだ謎の多い歴史上の人物を自分なりに推察してみるのも面白い、と思った。

  • 下巻は、日本出発から2年の月日を要しポルトガルに到着した彼らが、スペインをへてローマに至り、教皇グレゴリオ13世との謁見を果たすところから。
    「キリスト生誕を祝うため東方の王が三人の使者を遣わす」という伝来を踏襲して実施された謁見は、カトリック教会の勝利としてヴァチカンから最大級の歓迎を受け、教皇は心打たれて滝のように涙を流したと記録されています(3人とするため中浦ジュリアンはあえて「病欠」にされましたが)。

    4人はヨーロッパとキリスト教世界から最大の栄誉を得て帰国の途につきますが、日本の状況は大きく変化します。
    まず最大の理解者だった信長が本能寺に倒れます。次に、光秀を倒した秀吉の勢力伸長と九州征伐。
    島津氏に侵攻された大友氏が救援を要請し、秀吉がまさに九州平定に乗り出すそのタイミングで、イエズス会副管区長のコエリョが大坂城に秀吉を訪ねます。
    彼はここで決定的な発言をします。「秀吉の九州進撃が実現した暁には、全キリシタン大名を秀吉側につかせる用意がある」

    イタリア系オルガンティーノやヴァリニャーノは政治に介入しないよう細心の注意を払っていましたが、スペイン・ポルトガル系のコエリョ、フロイスは布教=国家の海外進出だったので、布教の障害となる島津氏の征伐に加勢することは当然だったかもしれません。
    しかし、この発言が秀吉の心のうちに、キリシタン大名を味方にするために宣教師は利用できるという打算と、キリシタン大名は自分でなく神に仕えており将来的に自分を脅かすという猜疑心を生み出してしまいます。

    秀吉の内心の変化はすぐ形になって現れます。島津征伐の主力は、黒田孝高、高山右近らキリシタン大名を動員。1587年5月 島津氏降伏。6月 伴天連追放令と高山右近の改易命令。利用価値のなくなったキリシタン大名は改宗か改易を迫られ、異教とされたキリシタンは迫害の対象となります。
    4人が戻ってきたのは、こういう状況の日本でした。しかし、彼らは1人をのぞき自ら信ずる宗教に殉じます。次々迫害の手が迫るなか、司祭として布教活動を展開。1612年伊東マンショ病死。1614年原マルティーノはマカオに出帆、布教活動を続け1629年当地で死亡。1633年中浦ジュリアン刑死。

    4人の少年は日本人で初めてヨーロッパを見聞きし、当時最先端の文明に触れ帰国しました。グーテンベルグの活版印刷機を持ち帰ったのも彼らです。時代が時代であれば、遣唐使や明治の留学生のように歴史に名を残しえた存在でしたが、当時の日本はそれを許しませんでした。帰国後の事績が小さかったことをもって、わが国の有識者の評価は総じて低いですが、筆者は声を大にして異を唱えます。筆者もまた、戦後まもない頃に航路をたどってローマに到着しルネサンス美術を日本に持ちかえった留学生でした。全巻を通じ、彼らへの強烈なシンパシーがあふれています。

    4人への愛惜を込め筆者は書きます。
    ▼ 少年たちが見たもの、聴いたもの…を押し殺したのは当時の日本である。世界に扉を閉ざし、世界を見てきた彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしたのは当時の日本である。
      それでも、彼らは、自分たちの信ずることを貫いて生き、かつ死んだ。このあとの章でわれわれはその壮絶な後半生を見るであろう。
      人間の価値は社会において歴史において名前を残す「傑出した」人間になることではない。それぞれが自己の信念に生きることである。

    彼らの純真な姿に心打たれつつ、生きることへの勇気を教えてくれる一冊です。

  • 天正少年使節の物語であるが西洋側からの記録や日本側からの記録など様々な視点から事実に基づいた文学作品となっている。読後感じるのは非常に感動的な読み応えのある作品でした。特に天正少年使節をめぐる戦国時代の歴史や戦国大名たちの有り様が別視点から見ることができ非常に勉強になります。また私にとって興味のなかった天正少年使節の人生がいかにすごかったのか、西欧に渡っての名声と名誉そして、日本に帰国してからの鎖国をめぐる伴天連追放令に伴う処刑や拷問等の殉教の有り様が少年たちの相反する極端な人生の運命を通して私たちにも非常に考えさせられる物語でした。この小説は事実に基づくものであり歴史小説としても大変勉強になります。一読の価値あり。

  • 学校では写真というか図と一緒に紹介された記憶はある『天正少年使節』。
    思えば、なぜ使節が派遣されたのか、その後彼らがどうなったのかはほとんど考えたことがなかった。
    その時代背景とともに丁寧に書かれた本。上巻の最後の方から現れる少年使節のことよりも、キリスト教が日本でどう扱われていたかが良くわかると思う。
    決して面白おかしく読める本でもなく、どちらかというと読みにくい部類ですが、とある時代の宗教の扱われ方を覗いてみたい人にはいいかも。

  • この作品を読むと、歴史は見る視点によりこうも変わるのか理解できる。一般に秀吉や家康は、戦国時代に天下統一した粗暴な織田信長の後を引き継ぎ日本を安定させた偉大な人物と評価されている。ところがキリスト経信者から見ると、信長はキリスト経を保護した偉大な殿様であり、秀吉、家康はキリシタンを弾圧した悪魔的な殿様である。日本のキリスト教史を記したフロイスの「日本史」には秀吉は醜悪な容貌の男であったと記されている。また秀吉の異常な肉欲について嫌悪している。宣教師やキリスト経信者26名が長崎で殺された事件は、ローマ時代以来の殉死とみなされている。
    天皇制を擁護する神道側からすれば、キリスト経禁経は世界征服を目論むスペインによる侵略を防いだ善作ということになるだろう。
    一方的な解釈にならぬように、歴史はいろんな角度から眺めることが必要だ。

  • 戦国時代末期に、天正少年使節として欧州に渡った四人の少年たちの運命を、当時のキリスト教への庇護と弾圧と絡ませながら辿った本。
    読書家で知られるライフネット生命の出口治明氏が絶賛してたので、是非ともと思い読んでみた。

    キリスト教を庇護して宣教師たちにも支援を与えた信長の時代、九州の有力大名たちは領地での布教を認め、中には自身が洗礼を受ける者達も居た。
    巡察師として来日したヴァリニャーノは、欧州の組織上層部に日本でのキリスト教への支援を確固たるものとするべく、信長の後援のもとで使節団を送り込む計画を推進する。
    しかし使節団出発後まもなく信長が本能寺で倒れ、8年後に使節が帰国した時の秀吉の世では徐々にキリスト教弾圧が強まり、家康が天下を取った後もその流れは変わらず、隠れキリシタンという日本独特の地下に潜った広まりのみになっていった。
    使節団に参加した少年たちも弾圧の波に飲み込まれ、布教かなわずに棄教した者、禁教として処刑された者、マカオへと亡命した者と悲しい人生の末路を辿ったのであった。
    結局は時の権力者たちの支配の道具としてとしか見られなかったキリスト教は、日本への布教には時期が早かったのかもしれない。

    上巻でキリスト教布教の背景や状況の変化を微に入り細に入りながら解説しており、ここは正直言って読むのが疲れてしまい、何度か挫折しそうになった。
    しかし使節たちが海を渡り、ルネッサンス期の欧州で活動するあたりから、俄然面白くなる。
    この時代の日本が、華やかなる文化が開きつつあるイタリア周辺の時世と繋がり比較できることや、ルネッサンス期の著名人たちが使節たちの訪欧に時を同じくして絡んだりと興味が尽きない。
    また著者の解釈としても秀逸だったのが、欧州の美術館で宗教画を見ると必ず出てくる「東方三博士の礼拝」を演出するために、四人の使節のうち一人を教皇との面会の時に列席させなかったとすることだ。
    一般には病欠とか言われてるそうだが、いくつかの情況証拠から導き出しているこの説はおそらく確かなものだろう。
    イエス生誕の時の有名なエピソードになぞらえて、使節団の重要さを訴えようとするなどはイエズス会の面々も中々の策士と言えよう。

    歴史は日本史、世界史という形では切り分けられず、繋がっているということを改めて認識させてくれたこと、日本のキリスト教初期に時の政権との不安定な関係の中で布教を進めざるを得なかった者達の葛藤、そして時代の荒波の中で希望・栄光とどん底を味合わざるを得なかった少年使節団と、テーマを幾つも含む興味深い本であった。

  • 最近、「世界史の中における日本の位置づけ」に興味があります。
    この本は、戦国時代の末期に、いわゆるキリシタン大名からヨーロッパに向けて派遣された「天正少年使節」について書かれた一冊です。
    16世紀の半ば、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を布教しに来て数年後の日本から、記述が始まります。
    日本に来た宗教関係者が、どのように日本や日本人について感じていたか、いっぽうキリスト教というカルチャーショックを受けた日本、特に九州ではどのような反応があったかについて、詳しく記述されています。
    そして日本の実質的な王となった織田信長がキリスト教に対してどのような態度をとったか、その背景にはどのような考えがあったのか、残された資料を追って、著者の考えが記されています。
    上巻も400頁を超えたところでようやく、主人公である4人の少年が登場します。
    下巻は、この4人の日本人がローマという「世界の中心」に行きどのような待遇をされたのかが、ヨーロッパ側の資料を紐解き、描かれています。
    信長の治世に出発した4人が、8年という歳月を経て日本に帰国。
    豊臣秀吉の治世になって激変した4人の運命が、つづられていきます。
    小説という形ではなく、日本とヨーロッパの資料を咀嚼し編集した「歴史書」と言えるタイプの、本になるかと思います。
    読んでいて驚いたのが、16ー17世紀の日本について、多くの記録がヨーロッパに残っているということ。
    そして、”世界の果て”から来た4人がどのような思惑によりヨーロッパに向かい入れられたのか、本書を読んで始めて、認識することができました。
    背景説明の頁数が多く、登場人物も多くて読むのには苦労しましたが、ヨーロッパ世界と日本との関係について、目を開かせてもらえた一冊でした。
    主観ではなく客観的な視点から、日本や日本の歴史を見るというのは大切なことだなあと、あらためて認識しました。
    この時代のことに興味が湧いて来たので、関連する書籍を探して、読んでみることにします。

  • 1582年に長崎から出帆した使節は、マカオ、マラッカ、ゴア、モザンビークから喜望峰を回り1584年11月にポルトガルのリスボンに到着した。ポルトガルは既にスペイン王家が支配しており11月にはスペイン王フェリペ二世に謁見し、1585年3月にローマに着く。その後もイタリア各地を廻るが先々で大歓待を受けている。

    ローマ教皇への謁見では壮大なパレードが行われた。『ユダヤの町ベツレヘムに、救世主は生まれたまえり。星に導かれ、東方より敬虔なる王らは来たりて主を礼拝せり。』それからアカデミアのリヴィオ殿は日本人を歓迎してこう述べた。彼らは三人の王のように東方から来りて教会を癒し、今またアカデミアを癒したり、と。4人の使節は東方の三王(一般的な邦訳は三博士)に模せられ三人が馬に乗ってパレードで行進し、枢機卿会議で公式に謁見した。そのため一番身分の低い中浦ジュリアンはグレゴリオ教皇と先に面会はしたものの公共謁見には参加していない。ローマカトリック教会にとっても東の果ての王の使節の訪問はこの上ない広告塔だったのだ。グレゴリオ13世は使節が来て18日後に亡くなり、コンクラーベの結果選ばれたシスト5世は即位式とポッセッソ(司教座獲得式)の主賓として少年使節を招待した。ポッセッソにも説明書では3人と書かれているが残された壁画からは4人とも参加できたようだ。

    1586年4月にヨーロッパを離れ、翌年5月にゴアにつきバリニャーノと再開するがこの時既に秀吉は宣教師の追放を命令していた。使節がようやく長崎に戻ったのは1590年出発から8年が経っていた。

    天下を取った秀吉は当初キリスト教徒にも寛容だった。1586年イエズス会副管区長コエリョが「キリシタン大名の有馬、大友を救うため」と言う名目で大阪城に秀吉を訪問した。この時秀吉は九州平定後の朝鮮と中国の侵攻を計画しておりコエリョに南蛮船の調達を依頼している。通訳をしていたルイス・フロイスがこの時九州の全キリシタン大名を秀吉に味方させると言明したのだがこれは逆効果だった様だ。前巻でバリニャーノは日本人は本心を表に出さないと書いていたのだがこの時の秀吉がまさにそうで、宣教師がキリシタン大名を支配できるということをおくびにも出さずに確認していた。秀吉は教会保護状を出しキリシタン許可状をインド、ポルトガルにも出すように指示している。自分が支配者であることを喧伝しようとしていたのだ。また仏教徒の島津を倒すためにはキリシタン大名高山右近、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らは有力な味方であった。

    九州平定後も秀吉は博多に留まり再建を計る。朝鮮出兵の基地とするためでもあった。その博多にコエリョの乗ったフスタ船(小型の軍船)が現れた。秀吉はこの船に乗り込み見て回り大砲を発射させ、大興奮であったのだが翌日にはコエリョとフロイスを長崎に返しさらに3日後伴天連追放令を出した。コエリョ達はイエズス教会に貸し与えられていた長崎を保証してもらうために秀吉への協力姿勢を見せていたが逆に追放されることを早めてしまった。小西行長や高山右近はコエリョにフスタ船をすぐに秀吉に寄進するように勧めたが歓心を買っていると勘違いしたコエリョは聞き入れなかった。この時の右近の言葉がイエズス会日本通信に残っている。「まもなく大いなる反動が起こり、激しい迫害が突発する。」「悪魔は眠ることがない。このようにキリシタンの改宗が盛んになっていることを悪魔は快く思っていないだろう。かならず改宗を妨害するために仕事を始めるだろう」

    秀吉は右近を高く買っていたがキリスト教を捨てるか大名を捨てるかと迫り右近は大名を捨てた。行長などにも十字架の旗を捨てさせ、長崎を没収し、各地のキリスト教施設は破壊された。その後キリスト教弾圧は家康時代にいっそう激しくなるのだが天下統一し支配体制を確立するためには命令に従わずキリスト教を信じるものは邪魔だったのだろう。寺社勢力は逆に秀吉や家康に協力している。

    そのころ秀吉はフィリピンに入貢するよう脅迫を始めていた。それに対し真意を確認するために派遣されたスペイン人神父バウチスタが滞在許可を得た際に勝手に布教を始めてしまう。そしてそこにスペイン船サン・フェリペ号の漂着と言う事件が起こり、船荷を合法的に没収するために船員が世界地図を元にした説明「スペイン王の世界征服にはカトリック神父が先駆的な役割を果たす」「前もって信徒にしていた者を使ってその国を征服する」があったと言う話をもとにバウチスタ神父をはじめ26名が捕えられ片耳をそがれて長崎で処刑された。(日本26聖人の殉教)これは16世紀の最初の殉教で古代ローマ以降最大のものとなった。この件についてはイエズス会、フランシスコ会は互いを避難しているが例えばコエリョやフロイスは秀吉に対抗すべくフィリピンなどから軍の派遣を要請しようとしていた。また石田三成や前田利家がなんとか流罪で済まそうとした際に処刑を勧めたのが仏教徒の侍医頭である施楽院全宗だった。右近の言う悪魔が秀吉だけだったということではないようなのだ。

    1600年頃日本のキリスト教徒は40万〜70万ほどにのぼったらしい。当時の人口は諸説あるが1200万から2000万人で九州では1200万説の場合で130万人ほどだった。人口比では今よりもキリスト教徒は多くしかも有力な大名が何人もいる。イエズス会の日本での宣教は前半は当時最大の成功だったが、弾圧が始まってからは世界でもまれに見るほど殉教者を出している。しかし同時代には地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノが異端審問で火刑に処せられているようにキリスト教徒が全て正しいという話ではもちろんない。

    さて、帰国した4人は当初は秀吉の歓待を受けキリスト教の布教に望みを繋いでいた。伊東マンショは秀吉からの仕官のさそいをうまく断わっている。有馬晴信に教皇の回勅を渡し使節としての使命は終わり、4人は司祭になることを決意した。そして。
    伊東マンショ 日向の王の血縁として紹介され1608年司祭となるが4年後に病没。
    千々石ミゲル 大村純忠の甥で有馬晴信のいとこ 司祭になることができず棄教した。その最期はわかっていないが島原の乱の天草四郎がミゲルの息子という噂が残ったらしい。キリスト教も仏教も信じきれなかったあたり現代であれば普通の人だったのだろうに。
    原マルティーノ 最年少ながらラテン語を習得し日本で最初にグーテンベルク印刷機を使った人でもある。家康の伴天連追放令でマカオに亡命し日本に戻ること無く亡くなった。
    中浦ジュリアン 島原の乱以降密告制度ができ潜伏して各地の信者に秘蹟を授けていたがついに捕まる。60歳になっていたジュリアンは逆さ吊りの刑に5日間耐え亡くなった。「幸いなるかな 正義のために迫害される者、天の王国はその人の者である」

    著者の若桑さんが書きたかったのはこういう世界の変化に巻き込まれた少年達を始めとする個人の物語だそうだ。悪役として登場する秀吉、武士としてもキリスト教徒としても鑑の様な右近、そして例えば神父を慕って死を見届けたいとついていったばかりに捕まり26聖人のひとりに加わってしまった入信したばかりの大工フランシスコなども含まれている。

全49件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

若桑みどり (わかくわ・みどり):1935-2007年。東京藝術大学美術学部芸術学専攻科卒業。1961-63年、イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。専門は西洋美術史、表象文化論、ジェンダー文化論。千葉大学名誉教授。『全集 美術のなかの裸婦 寓意と象徴の女性像』を中心とした業績でサントリー学芸賞、『薔薇のイコノロジー』で芸術選奨文部大臣賞、イタリア共和国カヴァリエレ賞、天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ』で大佛次郎賞。著書に『戦争がつくる女性像』『イメージを読む』『象徴としての女性像』『お姫様とジェンダー』『イメージの歴史』『聖母像の到来』ほか多数。

「2022年 『絵画を読む イコノロジー入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

若桑みどりの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
谷崎潤一郎
トム・ロブ スミ...
トム・ロブ スミ...
村上 春樹
村上 春樹
伊坂 幸太郎
J・モーティマー...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×