戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の記憶がある (集英社文庫)

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レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087465341

作品紹介・あらすじ

「森さんは場に感応するタイプです」姜尚中のその一言から、戦争や虐殺の傷跡の残る場所を訪ねての対談は始まった。アウシュビッツ、デンクマール、三十八度線-人が存在する限りこの世から戦争はなくならないのか。悪夢にも似た重苦しい旅で、二人は何を感じ何を思い、どんな真理に辿り着いたのか。文庫版のために行われたヒロシマでの対談を収録。さらに本文にも大幅に加筆した決定版。

感想・レビュー・書評

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  • 著者:姜尚中,森達也
    本文デザイン・地図作成・カバーデザイン:今井秀之
    編集協力:オフィス イング(村山加津枝)、木村礼子


    [一行感想] (ふつう対談本を読んでも目が滑るんですが、)この本は、読者も考えさせられる対談。


    【目次】
    プロローグ(森達也) [003-007]
    目次 [008-012]

    第一章 戦争の世紀のトラウマ――場所に残された記憶を辿って 015
    (まえがき)
    善良な村人が殺戮者になるとき 026
    虐殺のメカニズム 033
    誰の心にも巣くう異物感情 042
    背中合わせの人権と非人権 049
    抹殺への飛躍 058
    絶滅のファクトリー 068
    国家と非合目的性 078
    加害の正義 083
    ヒトラーの磁場の中で 094
    中枢の空洞化、末端の肥大化 097
    愚かさを知る勇気 106
    暴走の記憶をとどめる場所 115
    オウムに潜む究極の善意 124
    モンスターの再生産 131
    注 138

    第二章 勝者、敗者、被害者の記憶――裁きの場で 159
    一億総玉砕の裏側 166
    儀式としての東京裁判 175
    被害者への転換 180
    普遍なる天皇制 183
    なぜ戦争を終わらせられなかったか 192
    忘却と記憶の反転 203
    注 215

    第三章 限定戦争という悪夢――冷戦の最前線で 231
    朝鮮半島分断へ 240
    いびつな階級と同族憎悪 245
    見えない恐怖の裏返し 254
    過剰殺戮と富裕化の時代 258
    外なるオウム、内なる北朝鮮 267
    アメリカのトラウマ 278
    統一か奴隷の平和か 287
    注 295

    第四章 そろそろ違う夢で目覚めたい 309
    純真無垢な残虐性 319
    リアリティなき殺人の連鎖 324
    差別と駆除と原爆と 327
    「異常」なる隣人の排除 334
    第三者の使命 342
    戦争パラサイト 349
    果てしないセキュリティ幻想 355
    記憶する罪 361
    注 367

    第五章 ヒロシマ、その新たな役割――「核なき世界」の発信地に 371
    広島を東アジアの「入場チケット」に 372
    二十一世紀、この十年の戦争 375
    戦争とメディア 378
    「二分法」で考えるとは 384
    戦争と絶対他者 387
    広島・原爆・核 394
    もう一つの広島の歴史 400
    核をなくすために 404
    広島で六者協議を 407
    拉致問題と国家 414
    注 421

    エピローグ(二〇一〇年一月六日 姜尚中) [425-430]




    【抜き書き】
    □□第一章 戦争の世紀のトラウマ 
    □pp. 45
    森  じゃあ、ユダヤが一つの民族かというと、実はユダヤも多民族です。ユダヤ人という人種など存在しないのだから。でも、民族が違うとか宗教が違うとか文化が違うというレッテルを張ることが、歯車の澗滑油になることは事実でしょう。日本だってそうですよね。実はハイブリッドな民族なのに、単一民族幻想が肥大して、ついには戦争に至ります。
     少数派を排除したいという原始的欲求が人類にはあるのでしょうか。危機管理意識が高揚したときに、文字通りのスケープゴート(いけにえ)にするために。〔……〕

    【※単一民族観が日本でより流行ったのはむしろ戦後になってからのはずです。】


    □pp. 73ー75
    姜  ドイツでは1980年代に歴史家論争があったわけです。その中で、なぜホロコーストだけが特異な、しかも絶対的に他のどんな悲惨な事件とも比較できない一回限りのある出来事として語られるのだろうかという疑問が投げかけられました。〔……〕スターリンの粛清、そして、その時代の餓死者の数も膨大だった。文革のときもまだはっきりした数字はわからないけど、死者の数だけみれば、ナチスのホロコーストの犠牲者を上回っているはずです。
      だったら、なぜドイツだけが永遠に十字架を背負わなければいけないのか。これが修正主義者たちの疑問ですね。ホロコーストとスターリンの時代、文革の時代、あるいはポル・ポトの大粛清を比較すると、共約可能な部分があるというわけです。良心的な哲学者たちは、それを否定しますが、他とは比べられない絶対的な部分、それは何かというと、今、言ってくれたとおり、スターリンでも毛沢東でも、人間を改悛させようとしたことです。だから、よく左翼用語で自己批判しろという。〔……〕結果論は別にして、少なくとも建前としては人は変わりうるという、それを前提に置いていたと思う。そこは社会主義ですよね。
     ところが、ヒトラーのホロコーストは人種・民族のDNAにかかわる問題。変わりっこない。根本に生物学的な発想がある。だから、もうそれはアプリオリ(先天的)に決まっていて、その人種・民族に応じた遇し方があって、それは社会的にメリットがあるかないかというランクづけになる。で、ユダヤ人の最後の役割として、労働がある。これも果たせないやつは、抹殺する。そういう形で、ある人種・民族を固定的にとらえて、転向不可能、可塑性をはじめから否定したわけです。
    森  スターリンにしても毛沢東にしても、思想統制の試みが一定の過程を経ながら虐殺に繋がってしまったわけだけど、ナチスにはその気配がない。いきなり殺戮にジャンプしている。その要因の一つは、やはり優生思想でしょうか? 
    姜  そういう考え方、つまり社会ダーウィン主義的な人種差別主義が、ある時代においては、かなり社会に浸透していったと思う。でなかったら、植民地支配なんかできないし、ネイティブアメリカンの問題や、あれほどの奴隷制度もなかったと思う。

    □pp. 86ー87
    森  政治学者のラウル・ヒルバーグは、そもそも完成されたユダヤ人絶滅計画など存在しないのしていなかったと主張しています。〔……〕
     “この企てに加担したのはだれなのか。〔……〕全過程を方向づけ調整した機関は存在しなかった。絶滅のエンジンは、まとまりのない、分岐した、とりわけ分散的な機構であった。” 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』上 (柏書房)
     さらにヒルバーグは、この時期のドイツ国内におけるユダヤ人評議会はドイツ官僚機構とある意味での共生関係にあったとの前提に立ち、ドイツ国内のユダヤ人は結果的にホロコーストの共犯者となっていたと主張して、大きな論争を巻き起こしています。ユダヤ・ロビーから彼が弾圧を受けなかった理由は、彼自信がオーストリア生まれのユダヤ人であるからです。
     アウシュビッツ生還者でイスラエルのパレスチナ占領政策に反対を表明した作家のプリモ・レーヴィとかも含めて、ユダヤ人でありながら一方的な被害者の視点だけに回収されない彼らの主張はとても重要です。だからふと考えます。ホロコーストの解釈が迷宮に入りこみやすいひとつの理由として、95年のマルコポーロ廃刊事件が示すように、ユダヤ・ロビーの圧力が自由な思考にバイアスを加えている可能性は、否定できないと思います。その思考が正しいか間違っているかという位相ではなく、封殺はするべきではない。

    □ p. 88
    森  狂気とか闇とか、鬼畜とか悪魔のようなとか、あるいは洗脳されたとかマインドコントロールとか、そういう語彙を使いながら、自分たちとは違うスタンダードの中に彼ら加害の側がいたように考えようとする。でもそれでは、話は終わってしまう。
    姜  終わりますよね。
    森  終わるから確かに楽ですよ。楽だけど繰り返されます。〔……〕彼らが悪行に加担したその理由を、〔……〕もっと必死に考えないと。


    森  〔……〕モンスターなど存在しない。まずはそこから考えたい。特に戦争や虐殺などを考えるとき、加虐のメカニズムを考察することは重要です。これをタブーにしてはならない。反ナチ法やアウシュビッツ修正史観に対する反発なども含めて、特にユダヤ人を長く差別し迫害してきた欧米諸国において、加害者であるナチスの人間らしさ口にすることすらがタブーであるとの意識が、戦後は強く惹起されました。その帰結として、ホロコーストの被害者遺族であるユダヤ人たちによる強引なイスラエル国家建設を容認し、パレスチナ人迫害を黙殺し、これが中東戦争のきっかけになり、湾岸戦争や九・一一につながり、今のアフガンなイラク戦争にまで拡大する。つまり連鎖です。その意味では、ホロコーストは終わっていない。
    姜  確かに。だから、僕は議論の行き着く先は、人間の差別じゃなくて、最終的に狂気とかという形でしか触れない出来事と、我々がどう向き合うかということじゃないかと思う。


    □p. 94
    森  今のアウシュビッツにはドイツ人も大勢訪れるけれど、世代的には二回りほど替わっています。そんな彼らがあの展示を見ても、ただもう申しわけありませんでしたと謝罪するしかない……。
    姜  でも、それだけで終われば、ほとんど意味はない。
    森  意味ないです。それではいつ反復、継続されるかわからない。これは日本についてもまったく同じことが言えるのだけど、かつて加虐の主体であったなら、その加虐のメカニズムの内側に踏み込まないと。
    姜  だからこそ、ヒトラー崇拝者というのは跡を絶たないし、ネオナチも依然として健在です。だから、もっと加害者の内側の問題にスポットをあてて問いを立てないといけない。


    □ p. 109
    姜  〔……〕そうした解釈の図式の背景には、反ユダヤ主義があったと思う。
     アーリア人対セム人の構図は、世界を塗りつぶそうとしているユダヤ人が敵であって、それがアメリカを支配しているし、さらにスラブの地であるソビエトを支配していると。だから、マニ教的な二元論を感じるんです。
     九・一一以降、「アクシス・オブ・イーブル」(悪の枢軸)という言葉が全世界に浸透してきました。その分け方は、人種的民族的ではなく、民主主義や市場経済を知っているか、アメリカの自由を知っているかどうかという形で分けているんですが、それでも同じような二元論的な世界の分割の仕方が繰り返されていますね。
     ただ、アメリカの場合には、撲滅というのではなく、そういう国も民主化できるとしている。〔……〕
     僕は「アクシス・オブ・イーブル」が出てきて、唖然としたんです。何だ、こんなことによって、最も進んだ民主主義社会のメディアが動くのかと。これはナチスの時代のプロパガンダとどこが違うのかと。


    □□第二章 勝者、敗者、被害者の記憶 
    □pp. 170
    姜  ある社会学者が言っているけれども、神なき時代の可視の神が国家であると。僕は、ナショナリズムというのは共同体の不死化だと思うんです。だから、小林よしのりの漫画を見ても、自分たち日本人という共同体の中の関係はピュアであってほしいと願っている。やはり共同体というのは、信仰がなくても、最後に残された最も神に近い自分の帰依すべきものだから、自分の国とか共同体を人から批判されると、ひどく怒ったり、自尊心が傷つけられたりするんでしょうね。それはかなり自分たちのアイデンティティの根幹にかかわるものを持っているからです。〔……〕

  • 319.8

  • 【314】

  • ふつうの人がふつうに殺戮していた。
    ポピュリズムの権化がナチス、ヒトラーが反ユダヤ主義を口にしたらあっというまに突出して世論の支持を得た。
    欧州では、潜在的にユダヤ人はあまりいてほしくない、よき隣人でないと思っていたけれど、だからといって彼ら全員を殺してしまえという妄想は描かなかった。
    官僚主義的な組織によって、それを完遂した。
    アウシュビッツでは、ガス室の隣にSSの食堂があった。

  • 政治学者の姜尚中と、映画監督の森達也の2人が、20世紀の戦争の記憶をたどる対談です。

    「森さんは場に感応する方ですから」という姜の言葉で、戦争の痕跡を残す場所を訪ねながら対談するという本書の企画が始まったとのこと。2人が訪れた場所は、ナチスのホロコーストに協力したポーランドの村・イエドヴァブネをはじめ、アウシュビッツ、デンクマール、市ヶ谷駐屯地、朝鮮半島の38度線、ソウルの戦争記念館、そして広島の平和記念公園など。

    これらはいずれも、戦争という悲惨な過去をいまだ過去にすることができずにいる場所です。そうした場所に立ち、人類の歴史のトラウマにみずからの身体を置くことで、戦争の悲惨を観念的にもてあそぶような振舞いへの歯止めになるのではないでしょうか。

    しかしながら同時に、それらの場所に立つことは、前へ歩み始めるスタート・ラインに立つということでもあるのではないかと思います。

    そのように思ったのは、38度線の統一展望台で、目の前を流れるイムジン河を眺めながら2人が語った言葉を読んだときでした。姜が「河は浅そうですね」と語りかけ、それに対して森が「浅いですね。歩いて渡れると思いますよ」と応じます。それに続く姜の言葉は、次のようなものでした。「そこの坂道を駆け降りて、森さんと二人で大声を上げながら河を渡る気になればできますね。ここにいる観光客や兵士たちも後に続くかもしれない。統一など簡単です」。

    終始重苦しさにつきまとわれている対談ですが、それと同時に、けっして希望がなくなってしまったわけではないということを強く感じました。

  • 本屋に平積みになっていたので、つい買ってしまった本。

    巻頭言を読むと何やら面白そうな本なのだが、中身はあまり、、というか、だいたいわたし、森達也の本読みすぎで、彼の言ってることは何か目新しいことがあるかというとそうでもなく。

    ただ、一ヶ所だけ印象に残ったのは、姜尚中が言った「抱きしめる」という言葉に対して森達也が反応したところ。第一章の本当に終わりの方。

    「国家は抱きしめられない」「抱きしめられるのは『個』である」

    なるほどね。

  • 現地に赴き、現地で思う。
    人はよく知りもしないで(想像や固定概念や、自分勝手な妄想で)、戦争や他国や原発や震災被災者について、語りすぎる。姜尚中さんと森達也さんは、いろんな思いはあっても、事の起きた現場を訪ね、事について語り合った。
    現地に行かなければわからない肌感覚や視点が、非常に繊細に語られ、事の良し悪しではない、人間の本質について語り合った本と言える。

    人間はなぜ他者(人間)に敵意を抱くのか。そのことについて、昨年、一昨年からずっと考えてきた。
    この本からも、その探求の一端を得ることができた気がする。

  • 気が付いたら、嵐の中なんだろうな。

  • 姜尚中氏と森達也氏の対談集。
    この対談自体は2004年に行われたものであるが、今読んでも古い部分は全くなく、つまりこの時点から状況は好転していないのであろうことに暗い気持ちにさせられる。
    さらさらと読める本ではなく、特に第1章のナチスやパレスチナ問題に関する「戦争の世紀のトラウマ」は、何度も読むのを中断して考え込まされた。
    しかし、示唆に富む言葉が多く、恐らく今後何度も読み返す本になると思う。

  • 読むのに苦労しました。なんたってこのふたりの対談ですから、深いのなんのって!
    でも、内容は本当にためになり考えさせられる。そして、これからが見えてくる。
    善の怖さ、集団の怖さ、個の大切さ。そしてこれから人類が向かう道、そして日本人は・・・・
    とにかく、戦争を考えさせる八月が近づいてきたらいかがかな?

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著者プロフィール

姜尚中(かん さんじゅん)
1950年、熊本県熊本市生まれの政治学者。専攻は政治学・政治思想史で、専門はポストコロニアル研究。国際基督教大学準教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、聖学院大学教授、同学長を歴任。東京大学名誉教授。
主な著作に『マックス・ウェーバーと近代』、『反ナショナリズム』、『在日』、『母―オモニ』など。特に亡き息子との共作とも語る『悩む力』、そして震災や生死、亡き息子への思いをテーマにする『心』などが代表作。

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