悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記 (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087473360

作品紹介・あらすじ

「世界の悪者」にされNATOの空爆にさらされたユーゴ。ストイコビッチに魅せられた著者が旧ユーゴ全土を歩き、砲撃に身を翻し、劣化ウラン弾の放射能を浴びながらサッカー人脈を駆使して複雑極まるこの地域に住む人々の今を、捉え、感じ、聞き出す。特定の民族側に肩入れすることなく、見たものだけを書き綴る。新たに書き下ろした追章に加え、貴重な写真の数々。「絶対的な悪者は生まれない。絶対的な悪者は作られるのだ」。

感想・レビュー・書評

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  • ストイコビッチ

  • あまり覚えていない。

  • サッカーはよく分からない。ルールは知っているし、日本リーグの頃は
    閑古鳥鳴く国立競技場にさえ行った。でも、Jリーグになった最初の1年
    だけは試合の結果も追っていたが、諸事情によりサッカー観戦を止めた。

    ストイコビッチをはじめ、ユーゴ出身のサッカー選手は辛うじて名前を
    知っているくらいだ。だから、本書は読み通せるか不安だった。

    案じることはなかった。多分、まったくサッカーを知らなくても読める。
    副題に「ユーゴスラビアサッカー戦史」とあるように、旧ユーゴスラビア
    全土をくまなく回り、選手や協会関係者、サポーターに取材し、試合の
    経過も記されている。

    それでも、本書を貫いているのはユーゴスラビアの現代史である。それも
    世界中から「悪者」のレッテルを貼られたセルビア人への強い思い入れを
    感じる。

    第二次世界大戦でナチス、ソ連、連合国を相手にユーゴスラビア独立を
    成し遂げたチトー大統領の圧倒的なカリスマで維持していたような国だ。
    民族主義を厳しく禁止したチトーの死、東西冷戦の終結と続けばユーゴ
    の崩壊は当然の結果だったのかもしれない。

    そのなかで、何故、セルビアだけが「悪者」にされたのかは『ドキュメント
    戦争広告代理店』(高木徹)に詳しく書かれている。

    スポーツと政治は別物なんてのは綺麗ごとなんだと思う。有能なスポーツ
    選手だろうが否応なしに政治に絡めとられて行くことがある。それを本書
    は丹念に描いている。

    「NATO STOP STRIKES」

    本書のカバーにも使用されているストイコビッチの写真。名古屋グランパス
    のユニフォームの下に着ていたTシャツの胸に、何故、この言葉が書かれて
    いたのかが記されている場面では思いがけず泣かされた。

    絶対的な悪者は生まれない。絶対的な悪者は作られるのだ。著者は言う。
    その通りだと思う。

    一方的に流されるプロパガンダに染まる前に立ち止まらなければならない。
    旧ユーゴスラビアの問題のすべてをセルビアだけに負わせていいはずが
    ないのだ。

    本書は1998年から2001年までをストイコビッチを中心にしたサッカーと
    いうスポーツに視点を置きながらユーゴスラビアを描いているが、その
    ユーゴスラビアも2003年には消滅した。

    七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、
    二つの文字、一つの国家。そんなバルカンの火薬庫と呼ばれた国は
    地図上から消えた。それでも、セルビア人に貼られた「悪者」のレッテル
    は歴史上でつきまとうのかもしれない。

  • われわれがさして関心がない事柄でも、マスコミの報道というのは知らずしらずのうちに耳にはいってくるもので、その点ではマスコミの力は大きい。

    当時からテレビも新聞もあまり見ておらず、ユーゴスラビア紛争やコソボ紛争に特に関心があるわけではなかったけれども、セルビアに関する悪評はなんとなく知っていた。民族浄化という名の下に恐ろしい虐殺を行っているらしいということを。

    NATOによる爆撃が開始され、それまで加害者であったはずのセルビア人が急に被害者になり、一般的には正義の側と思われていたNATOがどうもそうでもないらしい気配がただよってきて、セルビア人のサッカー選手であるドラガン・ストイコビッチが、母国への爆撃中止を訴えるデモンストレーションをピッチ上で行ったとき、正直、どう反応していいのかわからなかった。

    セルビア人=加害者側の民族 ストイコビッチ=サッカーのヒーロー
    このふたつをうまく結びつけることができなかった。

    といってもそれから急にユーゴ問題に関心が高まったというわけでもなく、ユーゴ紛争はユーゴ紛争であり、サッカーはサッカーであって、前者は後者に較べてあいかわらず興味を引く話題ではなかった。その点はいまでもそうである。ただしこの問題の理解が少しだけでも深まったとしたら、それはイビチャ・オシムとこの本の著書木村元彦氏のおかげである。

    本書は、「サッカーを通じて世界を観る」という言葉がピッタリのレポートだ。
    著者は、紛争の中心地である旧ユーゴスラビア各地でサッカーとサッカー選手を取材して回る。
    憎悪が蔓延しているこの地域で、縁もゆかりもない日本人フリーライターが、場違いにもサッカーのインタビューをして歩こうというのだから、非常に馬鹿馬鹿しいシチュエーションというか、聞かれた方がビックリするだろうし、まかり間違えば相手を怒らせて殺されかねないだろう。実際著者はコソボの武装組織に銃口をつきつけられ地べたに這わされるという目にあっている。

    ではこれは無責任な傍観者のレポートなのだろうか。
    本人は真剣のつもりでも現地人にとってはた迷惑でしかない、一人よがりのジャーナリストによる勘違いレポートなのだろうか。

    そうではない。ここでは、人々の生活の中に息づいているサッカーというポーツを通すことによって、戦争という異常な現象が生活の中にどう入り込んでいるのか、その姿をまざまさと浮かび上がらせている。戦争というものを知らないわれわれにも、サッカーという共通言語を通して、その過酷さと無慈悲さを知らしめる。国際政治の中の大言壮語ではなく、生活のレベルで、戦争のもたらす悲惨な風景を浮かび上がらせている。それは、著者のまっとうな視線と筆力のおかげであるが、サッカーという国際的でありかつ個人に親密なスポーツが持つ力のおかげでもあるだろう。

    その中で、著者はセルビアが負う悪名の不当性と、クロアチアやNATOの悪辣さ――まあ、どっちもどっちといったところなんだろうが――を、遠慮がちに訴えている。その誠実さと公平性は信頼に足るものだ。

    この本を読むことによって、われわれは、しらずしらずに染まっていた一方的なプロパガンタから逃れることができる。もちろんそのことによって私が何かができるというわけではない。けれども、そのことだけでも大きいことである。本書を読んだわれわれはもうストイコビッチに対して、あるいはセルビア人に対して、間違っても「この怪物め!」というような無知に基づく愚劣な言葉は吐かないだろう。日本の中で、そしてサッカーファンの中で、セルビア対する不当な偏見を中和するために果たした本書の役割はきわめて大きいと思う。

    もしわが国が他の国々に較べてセルビア人に対する偏見が少しだけでも少ない国であるとしたら、それはおそらくこの著者のおかげだろう。私は本気でそう思う。

    それにしても、こういうもろもろの苦しい事柄の中でも人は生きていかなければならない。
    力づけてくれるものの一つとして、サッカーがあるのだろう。
    サッカーをめぐる喜びと悲しみが、その役割を果たしているのだろう。

    いや、そこまで断定したらいいすぎか。
    サッカーにそんなものを求めてはいけないのかもしれない。

    しかし、求めてはいけない、というきまりはないのも確かだ。

    私自身は、そこまでサッカーに求めてはいない。
    が、もちろん、そうであることを否定はしない。

    それが幸せであるかどうか、それはまた別の問題としてある…

    むむむ。
    なにを言いのかわからなくなってきた。

    ですから、これで終わりにしておきます。

  • カバーの写真(”NATO STOP STRIKES"と書いたアンダーウェアを着ているストイコビッチ)のシーンは、TVのニュースで見ておぼろげながらに記憶に残っている。しかし、あの時ストイコビッチがどんな苦悩の中にいたのかを当時の自分は全く想像できていなかった。
    著者の(あくまで、サッカーを題材にした)取材を通して、旧ユーゴが、そしてプラーヴィ(=タレントの宝庫だった旧ユーゴ代表)が、解体せざるを得なかった状況が見えてくる。少なくとも、当時のニュースを通してなんとなく信じていた「セルビア・ミロシェビッチ悪玉一元論」とはかけ離れたものであろうことが...。

  • スロベニアとクロアチアには観光で行ったこと有り。あの時、世話になった人々(私と同年代の人もいた)は大変な時代を生きてきたのか。色々思う所がある。また読み直そう。

  • 2012/05/26
    from Y.S.
    衝撃。

  • 大義名分を掲げた戦争の影で、犠牲になるのはいつも弱い立場の人である。
    西側諸国、そしてアメリカの思惑に人生を破壊されたセルビアの人々の悲哀を、果たしてどれだけのジャーナリズムが伝えただろうか。
    NATOの空爆が正当性に著しく欠けていたと言うことは、後世までしっかりと語り継がれるべきだと思う。
    そして、それを全く報じる事のなかった日本のジャーナリスト気取りの人達、選手たちが祖国の亡くなった人の為に喪章を付ける事すら許さなかったサッカー協会は恥を知るべき。

  • サッカーと政治の冷たい現実

    「 7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」ピクシーことストイコビッチなど数々のタレントを輩出してきた多民族国家旧ユーゴスラビア。1990年代の内戦、紛争を経て、1999年にNATOによる空爆を受ける中、それぞれのルーツを持つサッカー関係者が何を想い、何に直面し、何を感じたかを描いたルポ。

    ジーコジャパンなるものがドイツで幕を閉じ、川淵キャプテンの大失言によって次期代表監督はジェフ千葉のオシム監督に向かって急速に動いている。マスコミは彼の身長や、語録、若手起用などありきたりなニュースで盛り上がっているが、残念ながら彼の出身について語られるものは少ない。「旧ユーゴスラビアの代表監督を務めた」というところで報道が止まる。それより先には行かない。川淵キャプテンが「オシムの言葉」という本を読んで感銘を受けたとコメントしているのにも関わらず、どうやらマスコミは本を読んでいないような印象を受けてしまう。

    「オシムの言葉」の中では、もちろん彼の語録やサッカー観がたっぷりと詰まっているのだが、同時にボスニアで生まれ、内戦で家族と離れ離れになり、戦争に直面した彼の人生も描かれている。「悪者見参―ユーゴスラビアサッカー戦記」では、その戦争に直面したサッカー関係者の様子が刻々と記されている。

    筆者は「オシムの言葉」と同様に木村元彦氏。7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国と表現された旧ユーゴスラビア。東欧のブラジルとも呼ばれ、サッカー界で有名な選手を多く輩出し、ワールドカップでは日本とも縁があるクロアチアとも切っても切れない国。そんな国で起きた生々しい悲惨な事実を知る上で読んだ方がいいだろう。自らの足で現地に赴き、ボバン、ストイコビッチ、ミハイロビッチ、シューケル、オーストラリア代表ビドゥカ(クロアチア系移民)など日本に馴染み深い選手、そして決して有名ではないかもしれないが、コズニク、ミレ爺さんなど多くのサッカー関係者の現実を伝えた一冊。これはサッカー関係の本というよりかは、一つの戦記かもしれない。
    何が真実で何が真実でないか?フィールド上のプレイの奥底にある、民族意識、差別、戦争、別れの現実。日本のマスコミの伝達能力の乏しさ。様々な生き様と生々しい現実を知ると、オシム報道にも違和感を感じるかもしれない。私は個人的に旧ユーゴスラビアの内戦やコソボ扮装やNATOの空爆については恥ずかしながらほとんど何も知らなかった。サッカーを通じて知ったことを複雑な感情で受け止めている。

  • フットボールはフットボールだ

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著者プロフィール

1962年愛知県生まれ。中央大学卒。ノンフィクションライター。東欧やアジアの民族問題を中心に取材、執筆活動を続ける。おもな著書に『オシムの言葉』(集英社文庫)、『蹴る群れ』(集英社文庫)、『無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代』(ころから)、共著に『さらば、ヘイト本!』(ころから)など。

「2019年 『13坪の本屋の奇跡』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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