全東洋街道 上 (集英社文庫)

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  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087505634

感想・レビュー・書評

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  • 「今 トルコ、左翼とか右翼とかテロばっかりでしょ・・・
     頭の人ばっかり ダメネ
     人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ・・・」

  • 藤原新也(1944年~)は、インド、中近東、東南アジア、チベット、アメリカ、日本などを対象に、写真、エッセイ、紀行などを発表してきた著述家。小説や(石牟礼道子、瀬戸内寂静らとの)対談なども手掛けている。1972年発表の処女作『印度放浪』は、沢木耕太郎の『深夜特急』(1986年)以前に、アジア(インド)を放浪する若者のバイブルとなり、1981年に発表した本書では毎日芸術賞を受賞。1983年発表の『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞に推されたが、本人の意思により辞退している。また、同年発表された『メメントモリ』は、本書(1983年文庫化)と並び、今も版を重ねるロングセラーである。
    本書は、トルコのイスタンブールから中東・パキスタン、インド、東南アジア、中国、韓国を経て日本に至る、1年以上に亘るアジア横断を、多数のカラー写真を添えて綴ったものであるが、一般にイメージされる旅行記とは相当に趣を異にする。
    それは、藤原氏の、類を見ない着眼、感性、洞察力、表現力をして初めて可能ならしめているのであろうが、ある光景、あるエピソードが、ほぼ例外なく人間の本質や人生、或いは人間社会というものに結びつき、様々なことを考えさせるからのだ。
    そして、“東洋”という地域は、藤原氏にとって、最もその感覚を刺激する場所なのである。
    【以下、上巻について】
    藤原氏はイスタンブールで次のように語っている。
    「ここイスタンブールであろうと、カルカッタであろうと、あるいはシンガポールであろうと、香港であろうと、そして東京であろうと、ロスアンゼルスであろうと、オレンジの皮と豚の頭は均質に、そして確実に腐っていくはずだ。ただ、それが街の内側に梱包され隔離されるか、あるいは、街行く人々の目の前に放逸に投げ出されているかどうかの違いにすぎないだろう。東洋ではまだ、人びとの生活が梱包されずに表通りに放り出されている。家々の扉が開けっ放しになっていて、きわめて個人的なことがらが公共の面前に曝されている。私は八年前にカルカッタでアイスキャンデーを食べながら、人の家のお産を見ていた時の自分の姿を思い出した。おかしみがこみ上げてきた。私はこんな東洋を愛している。何年も前から、この私と同じ血液の波打つ東洋の全姿態を頭の先から足のつま先まではっきりと見てみたいという熱に似た欲求があった。選り好みをすることなく、その総てをそのあるがままに見ること。善悪、美醜入り乱れてこそそこに世界がある。その総てを見据える。」
    藤原氏は本書の中でしばしば、「全東洋」は、インド亜大陸を境にして「乾いた鉱物世界の西東洋・イスラム教の世界」と「潤った植物世界の東東洋・仏教の世界」に明確に断絶し、対立していると語っているのだが、上巻はその西東洋の世界を辿ったものである。
    私は本書を読みながら、40年前に藤原氏が辿った道・国々、そこで生きる人びとの今を想像していた。インターネットやスマホの普及、様々な面でのグローバル化は、人びとの生活を赤裸々に放つ東洋を変えたのだろうか。。。また、不幸にして戦争・紛争に巻き込まれた地域(上巻では、数年前にISが首都と宣言したシリアのラッカも通っている)の人びとはどうしているのだろうか。。。
    様々な意味で「東洋」を、「人間」を、考えさせてくれる作品である。
    (2020年1月了)

  • 2006

  • (1982.12.02読了)(1982.11.29購入)
    内容紹介
    東洋の魂を求めて放浪400日!チベットでは山寺にこもり、チェンマイでは売春宿に泊まる…。全アジア都市の聖・食・性を写し出す、毎日芸術賞受賞のオールカラー・人間ドキュメント。

  • そんなに願ってなくても、気がつけば導かれる。エジプトへ。

  • ・1/9 読了.旅行記というより散文のようだ.行った先々の描写というより作者が感じたことに重きを置いて書かれている.写真もよく見えないものが多くて、なんか物足りない気がする.芸術的には優れているのかもしれないが.全東洋というよりかなりある地方に偏って書かれてるのもいまいちかも.

  • 今年66歳の藤原新也は1944年3月4日福岡県門司市生まれの写真家。

    1972年の衝撃的なデビュー作『印度放浪』からすでに38年、写真と文章を駆使した独自の表現方法で、それをたとえば≪藤原描写≫とか≪藤原イズム≫とでも呼べばいいのか、ともかく、一切ぶれることなくその路線を貫き通して、その後も1977年には『逍遥遊記』(木村伊兵衛写真賞受賞)、1981年には本作品で毎日芸術賞を得ていますが、面白いことに1983年の『東京漂流』に、あの大宅壮一ノンフィクション賞ならびに日本ノンフィクション賞の受賞をよしとせず、なんと辞退したというのです。

    何故か?

    ところで、いったいぜんたい、はたして彼は写真家なのか、それとも作家なのか。

    あるいは、それにしても、彼の写真は、文章の補完物なのか、それとも彼の文章が写真の補完物なのか。

    いや、そういう既存の物差しで測れないような、写真と文章のタッグ・マッチというかコラボを組むことによって、まったく新しいジャンルを自らが創出したといっていいと思います。

    おそらく、写真家たらんとして極限まで写実性や象徴性を追求した結果、どうしようもないその曖昧性に突き当って、そして、もっともっと写真そのものの持つ深い意味性を引き出すために、どうしても文章のちからが必要だったと思われます。

    これこそ藤原新也の写真至上主義とでも言うような、写真に対する彼の偏愛のなせるわざで、だからこそそのパワーが十二分に発揮できない写真に我慢がならず、思わず手が出た=文章を付随したというもので、ゆえに、だからこそ彼が、文章に与えられる2つの権威ある賞を断ったということは、まったく胸のすくような決意と立場性をわきまえた行動で、とても感服します。

    いつも際物師めく一歩手前できびすを返して、しかし死体の血の一滴ももらすまいぞと貪欲に冷静沈着に被写体を撮るとき、たぶん彼はシャターを押す瞬間の少し前には、すでに対象を詳細にメスで切り刻んで解剖分析しているのに違いありません。

  • ようやく彼の「言葉」は印度を離れた土地では急激に色褪せるコトをしっかりと認識できた。写真は大好きだけど。

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著者プロフィール

1944年福岡県生まれ。『印度放浪』『全東洋街道』『東京漂流』『メメント・モリ』『黄泉の犬』『日本浄土』『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』『死ぬな生きろ』『書行無常』『なみだふるはな』など。

「2022年 『若き日に薔薇を摘め』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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