存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087603514

作品紹介・あらすじ

本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻き込んだ、衝撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇-。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。

感想・レビュー・書評

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  • 存在の耐えられない軽さ

    1.動機
    読者レビュー「読んでみたら?の外国文学」にあったためです。
    外国文学は、年に一冊読むか?読まないか?です。
    結論、出会えてありがとうございます の書籍となりました。

    2.舞台
    ソ連に侵攻されたチェコが舞台です。
    著者の故郷です。
    チェコが開放されて、解禁となった著書であると後書きにありました。

    3.主人公
    外科医。応援でたまたまチェコへ。
    外食先のレストランで1人のウェイトレスと出会います。
    そのウェイトレスは、彼が読む書籍が、自身と馴染みのある同じ書であったため、彼に惹かれます。
    そして、2人は、ソ連侵攻後に、夫婦となります。

    4.書籍より
    「人生のドラマは重さというメタファーで表現できる。その重さに耐えられるか?または下敷きになるか?勝つか?負けるか?」
    「人間の真の善良さは、いかなる力も提出することのない人にのみ純粋にそして自由である。」

    5.読みおえて
    ①国家と市民
    ②共産主義と民主主義
    ③母と娘
    ④男と女
    ⑤理性と欲望
    ⑥残された人と亡命した人
    ⑦人間と動物
    ⑧生存と死

    読み返すことで、これらの構造があること、さらに複数のテーマが重曹的に展開されていることに気づきます。

    チェコで侵攻を体験し迫害を受けた著者だからこそ描けた世界。
    そして、この日本語訳が、解釈を読者に委ねてくれる幅を持たせてくれているのでは?と思えるほどの深い書でした。

  • Milan Kundera : Odyssée des illusions trahies, un documentaire inédit
    https://actualitte.com/article/109500/television/milan-kundera-odyssee-des-illusions-trahies-un-documentaire-inedit

    存在の耐えられない軽さ/ミラン・クンデラ/千野 栄一 | 集英社 ― SHUEISHA ―
    https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-760351-4&mode=1

  • 男女間において、社会において、自由から全体主義への変化の中において…
    対峙している心と体の重さ軽さの揺れが切ない。

    それにしても素敵なタイトルだな…

  • チェコスロバキアの「プラハの春」を背景とした描いた、優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザを取り巻く恋愛物語。ニーチェの永劫回帰の考え方が盛り込まれており、非常に哲学的で、メタファーを多用した難解な小説である。一度ではなかなか理解し難い文章だが、恋愛の軽さと重さ、人生の軽さと重さなど、深く考えさせられるものとなった。

  • 各章で主要な登場人物である男女四人それぞれに視点を移しながら、背景にある1968年の"プラハの春"とソ連の軍事介入という歴史的事件によって、人生を大きく左右される四人の遍歴を描いた恋愛小説作品です。

    ヨーロッパを舞台にしたベストセラーの恋愛小説というプロフィールからは、大人の恋愛ドラマを楽しむ作品を期待する向きもあろうかと思います。ところが実際には、冒頭のニーチェの永劫回帰についての考察をはじめとして所々で挿入される哲学的な語りや警句、物語や人物に対する直接的な言及など、作者自身による饒舌な語りが頻繁に割り込むメタフィクショナルな手法や、通常なら避けるであろう時間の前後による登場人物のネタバレ的な重要な事実の事前開示、"プラハの春"に関連する政治思想の話題など、多様な要素によって構成される複雑な作品となっています。シンプルな恋愛小説を想定するならば少なからぬギャップがあり、中途で放棄するケースもありえそうです。

    前述のような要素以外にもシニカルにも感じさせられる著者の語り口調もあって、全体を通して作品としての敷居の高さを感じさせられました。しかし、それにも関わらず物語の終章に到達した時点では、主役である男女二人への思い入れは十分に深まるとともに、「愛とはいったい何か」といった問いを陳腐に感じさせない幕引きには、感じ入るところが多くありました。時間を置いて再び読み直したい作品のひとつです。

    以下は参考までに、主要四人の登場人物について簡単な情報を書き残したものです。
    ----------
    【トマーシュ】…医者。十年前に離婚しており妻子・両親とは絶縁状態。若いテレザを妻として迎え入れるも、プレイボーイぶりは変わらず連日にも渡る浮気が状態化している。
    【テレザ】…勤め先の飲食店で偶然見かけたトマーシュに惚れ、実家を飛び出してプラハにあるトマーシュのもとに押し掛けて結婚に至る。トマーシュの浮気は黙認状態。のちにカレーニンという子犬を手に入れる。
    【サビナ】…離婚歴のある独身女性であり、画家。トマーシュとは以前からの知己で、肉体関係をもつ。テレザには週刊誌での仕事を紹介する。
    【フランツ】…妻子ある大学教授。不倫関係にあるサビナを崇拝する。

  • 「人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。」
    ニーチェの永劫回帰から始まって、ここに辿り着く。小説の構造自体がこの憧れた繰り返しに倣う。
    Einmal ist keinmal 一度は数のうちに入らない と引用されるドイツ語の諺が、タイトルとイコールになり、ダンスの夜に幸福の内に終わる、その後を知っているからこそ尚更、幸福を感じる、というのは最初の引用の通り。ケッサク。

  • 難解な本の代名詞のようになっている『存在の耐えられない軽さ』。この題名からして難解である。なぜ耐えられない「重さ」ではなく「軽さ」なのか。
    人間存在の一回性を「軽い」と表現したのは、ニーチェが永劫回帰を「もっとも重い荷物」と呼んだことに由来している。永遠に繰り返されるものが「重い」なら、一回限りのものは「軽い」。
    小説の中でしばしば引用されるのが、Einmal ist keinmalというドイツ語の諺である。一度しかなかったことは、一度もなかったのに等しい。この言葉に従うなら、一度きりの人生など、何の重みもない。
    どのような人生も、所詮は一回限りの現象でしかなく、永劫回帰という重荷の前では重さを失って、空気のように軽くなり、無意味なものになってしまう。
    もし人生を繰り返すことができるなら、いくつもあった分岐点に立ち戻り、果たしてどちらの選択が正しかったのか判断を下すこともできよう。しかし、同じ人生を二度生きることはできない。この軽さこそ、耐えられない軽さである。
    考えすぎだ。そうかもしれない。考えたくないなら、それも勝手である。だが、考えたくないということは、やっぱり人間は耐えられないのかもしれない。存在の軽さに。

  • インパクトのあるタイトルなので、ずっと気になっていた本をついに読んだ。

    あらすじは梗概通りなので繰り返さないが、思わせぶりなタイトルが示す、「存在の軽さに耐えられない人は誰か?」というと、筋書き的には、とても「軽い」プレイボーイの彼氏(トマーシュ)を持って、始終ノイローゼ気味の恋人(テレザ)なのだろうし、映画版の開設でもそう書いてあるのだが、作中で、「存在の耐えられない軽さ」というフレーズが登場するのは、P156 のサビナ(トマーシュの愛人)の場面だけだった。(見落としたのかもしれないが。)

    歴史の大きなうねりに比べれば、個人の人生も、その中の恋愛も、取るに足らない「軽さ」ではあるのだろうが、本人にとっては十分に「重い」。

    大変技巧的な小説で、時間軸も行ったり来たりするし、夢の中の話が、そうとは明記されない形でいきなり登場するので、途中で読み返すこと多々。(ペトシーンの丘の自殺志願者のための銃殺広場のシーンとか、終盤の、トマーシュが飛行場に出頭する場面とか。)

    共産主義の暗部が、これでもかという次元で生活の隅々に行き渡っていて、自由のありがたみが身に染みた。。

  •  重いはずの人間、重くなれるはずの人間、重くあっていいはずの人間が、軽いということがわかってしまったときの絶望感。女も軽い。ただのたまったものを吐き出す痰壺であり、ペニスでもって女の物語の歴史の一部になって、自己満足するためにやってるのだ。その女の過去に同意のうえペニスを挿入しましたという事実をつくることを目的としており、それにより世のほかの人間へのマウンティングへもつながる。女性をセフレかやり捨てする場合、痰壺・攻略自慢・ものとして扱うことで自分がものでないように思えるための道具・フォローの言葉を入れることで自分のコミュニケーション力を再確認する、みたいなものである。そして歴史も軽く、国は簡単に滅ぶ。一部の人間によって思い通りにもなるし、消え去りもする。行き当たりばったりで、国も歴史も、再現性もないし、科学的もでもない。一番重い存在でも軽い存在でもなく、存在らしい存在だったのは飼っていた犬だけだった。
     タイからカンボジア国境に行って、地雷を踏んだカメラマンが飛び散ってドイツ人男性歌手とアメリカ人女優と白い旗に血の雨が降る場面とかが印象的だったが、特に良かったのは以下の文。

    P336
    フランツは急に大行進が終わりにきたということを感じた。ヨーロッパのまわりには静けさの国境がはりめぐらされ、大行進がそこで行われている空間は惑星の真ん中の小さな舞台以外の何物でもない。かつて舞台のまわりにおしかけた群衆はとっくに顔を他所に向け、大行進は孤独で観客なしで進行している。そうだ、とフランツは自分にいう。世界の関心が失われようとも、大行進はさらに進んでいく。しかし、それは神経質になり、熱狂的になる。昨日はベトナムを占領するアメリカ人に反対し、今日はカンボジアを占領するベトナムに反対、昨日はイスラエルを支持し、今日はパレスチナ人を支持し、昨日はキューバを支持、明日はキューバに反対、そして、常にアメリカに反対する。あるときは大量殺戮に反対。あるときは大量殺戮を支持。ヨーロッパは行進を続け、次々とおこる事件のリズムに遅れないように、その一つも逃さないように、歩みをますます速め、ついに大行進は突進する人たちの行進となり、舞台はだんだん小さくなって、ある日寸法のない単なる点となるのである。

  • 再々読。何度読んでも本当に素晴らしい。人は己の存在の軽さにも、重さにも決して耐えられるものではない。それを克服するには存在の絶対的同意が必要であり、キッチュなものの中へ潜り込まなければならない。しかしキッチュの俗悪さを認識している人にとってそれは受け入れ難い行為なのだが、皮肉なことにそうした人ほど己の軽さや重さにも自覚的なのである。そして最後に塵に変える時、誰もがキッチュなものとして他者の記憶に留められることになるだろう。それでもカレーニンは微笑んでくれる。それは無条件で与えられる、絶対的肯定そのものだ。

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著者プロフィール

1929年、チェコ生まれ。「プラハの春」以降、国内で発禁となり、75年フランスに亡命。主な著書に『冗談』『笑いと忘却の書』『不滅』他。

「2020年 『邂逅 クンデラ文学・芸術論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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