存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

  • 集英社
3.91
  • (322)
  • (246)
  • (288)
  • (36)
  • (16)
本棚登録 : 3588
レビュー : 291
  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087603514

作品紹介・あらすじ

本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻き込んだ、衝撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇-。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 各章で主要な登場人物である男女四人それぞれに視点を移しながら、背景にある1968年の"プラハの春"とソ連の軍事介入という歴史的事件によって、人生を大きく左右される四人の遍歴を描いた恋愛小説作品です。

    ヨーロッパを舞台にしたベストセラーの恋愛小説というプロフィールからは、大人の恋愛ドラマを楽しむ作品を期待する向きもあろうかと思います。ところが実際には、冒頭のニーチェの永劫回帰についての考察をはじめとして所々で挿入される哲学的な語りや警句、物語や人物に対する直接的な言及など、作者自身による饒舌な語りが頻繁に割り込むメタフィクショナルな手法や、通常なら避けるであろう時間の前後による登場人物のネタバレ的な重要な事実の事前開示、"プラハの春"に関連する政治思想の話題など、多様な要素によって構成される複雑な作品となっています。シンプルな恋愛小説を想定するならば少なからぬギャップがあり、中途で放棄するケースもありえそうです。

    前述のような要素以外にもシニカルにも感じさせられる著者の語り口調もあって、全体を通して作品としての敷居の高さを感じさせられました。しかし、それにも関わらず物語の終章に到達した時点では、主役である男女二人への思い入れは十分に深まるとともに、「愛とはいったい何か」といった問いを陳腐に感じさせない幕引きには、感じ入るところが多くありました。時間を置いて再び読み直したい作品のひとつです。

    以下は参考までに、主要四人の登場人物について簡単な情報を書き残したものです。
    ----------
    【トマーシュ】…医者。十年前に離婚しており妻子・両親とは絶縁状態。若いテレザを妻として迎え入れるも、プレイボーイぶりは変わらず連日にも渡る浮気が状態化している。
    【テレザ】…勤め先の飲食店で偶然見かけたトマーシュに惚れ、実家を飛び出してプラハにあるトマーシュのもとに押し掛けて結婚に至る。トマーシュの浮気は黙認状態。のちにカレーニンという子犬を手に入れる。
    【サビナ】…離婚歴のある独身女性であり、画家。トマーシュとは以前からの知己で、肉体関係をもつ。テレザには週刊誌での仕事を紹介する。
    【フランツ】…妻子ある大学教授。不倫関係にあるサビナを崇拝する。

  •  重いはずの人間、重くなれるはずの人間、重くあっていいはずの人間が、軽いということがわかってしまったときの絶望感。女も軽い。ただのたまったものを吐き出す痰壺であり、ペニスでもって女の物語の歴史の一部になって、自己満足するためにやってるのだ。その女の過去に同意のうえペニスを挿入しましたという事実をつくることを目的としており、それにより世のほかの人間へのマウンティングへもつながる。女性をセフレかやり捨てする場合、痰壺・攻略自慢・ものとして扱うことで自分がものでないように思えるための道具・フォローの言葉を入れることで自分のコミュニケーション力を再確認する、みたいなものである。そして歴史も軽く、国は簡単に滅ぶ。一部の人間によって思い通りにもなるし、消え去りもする。行き当たりばったりで、国も歴史も、再現性もないし、科学的もでもない。一番重い存在でも軽い存在でもなく、存在らしい存在だったのは飼っていた犬だけだった。
     タイからカンボジア国境に行って、地雷を踏んだカメラマンが飛び散ってドイツ人男性歌手とアメリカ人女優と白い旗に血の雨が降る場面とかが印象的だったが、特に良かったのは以下の文。

    P336
    フランツは急に大行進が終わりにきたということを感じた。ヨーロッパのまわりには静けさの国境がはりめぐらされ、大行進がそこで行われている空間は惑星の真ん中の小さな舞台以外の何物でもない。かつて舞台のまわりにおしかけた群衆はとっくに顔を他所に向け、大行進は孤独で観客なしで進行している。そうだ、とフランツは自分にいう。世界の関心が失われようとも、大行進はさらに進んでいく。しかし、それは神経質になり、熱狂的になる。昨日はベトナムを占領するアメリカ人に反対し、今日はカンボジアを占領するベトナムに反対、昨日はイスラエルを支持し、今日はパレスチナ人を支持し、昨日はキューバを支持、明日はキューバに反対、そして、常にアメリカに反対する。あるときは大量殺戮に反対。あるときは大量殺戮を支持。ヨーロッパは行進を続け、次々とおこる事件のリズムに遅れないように、その一つも逃さないように、歩みをますます速め、ついに大行進は突進する人たちの行進となり、舞台はだんだん小さくなって、ある日寸法のない単なる点となるのである。

  • 「人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。」
    ニーチェの永劫回帰から始まって、ここに辿り着く。小説の構造自体がこの憧れた繰り返しに倣う。
    Einmal ist keinmal 一度は数のうちに入らない と引用されるドイツ語の諺が、タイトルとイコールになり、ダンスの夜に幸福の内に終わる、その後を知っているからこそ尚更、幸福を感じる、というのは最初の引用の通り。ケッサク。

  • これは小説の顔をした哲学書ではないだろうか。「恋愛小説」と銘打ってあるが、それを期待して読むべきではないと思う。

    さて、本書はニーチェの「永劫回帰」という概念から出発する。そして物語を通じて我々は「重さと軽さ」について登場人物たちの人生に触れる形で考えていくことになる。
    冒頭で問いが投げかけられている。
    「重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」(p9)
    これについての答えは明確には出されていない(なんとなく著者は重さを肯定的に見ているように感じるけれども)。しかし我々がそれを考えるヒントなら、作中の二人の女、テレザとサビナの人生という形で提示されている。テレザが重さを、サビナが軽さを象徴しているのだ。
    冒頭、重さについて。「その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷きになり、地面にと押さえつけられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。」(p9)
    軽さについて。「それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。」(p9)
    まさにこの通りにテレザはトマーシュという愛の重荷に苦しみしかし耐え続けて生きて死に、サビナは裏切りの旅路の果てに限りなく軽くなった。
    物語のラストの方ではっきりとこう書かれている。
    「テレザとトマーシュは重さの印の下で死んだ。彼女(筆者注:サビナ)は軽さの印の下で死にたいのである。彼女は空気より軽くなる。これはパルメニデースによれば、否定的なものから肯定的なものへの変化である。」(p344)
    テレザ(とトマーシュ)はトラックに押しつぶされて死んだ(重さの印)。サビナは火葬されその灰を撒布されて死ぬのだった(軽さの印)。
    おそらくはテレザとトマーシュが死ぬことになる直前、彼らは人生の終点で悲しみと、そして幸福を味わっていた(「悲しみは形態であり、幸福は内容であった」p395)。これが重さの末路だった。私には肯定的なものだとは思えないが、確かに彼らは真実味を帯びた、地に足付けた太く濃い人生を生きて何がしかのはっきりと重みを持ったものを得られたとは思う。

  •  実は恋愛小説が読みたくて間違えて(というか帯に「恋愛小説」って書いてあるんだから集英社のせいであり私に罪はない。罪無くも自らを罰する境地には達していない)この本を買ったので、作者による物語からはみ出た解説や頻繁に前後する時系列など、普通の小説らしからぬ技巧に内心うんざりしながら読んでた。まず主人公格の男が超絶モテて複数の美女と寝つつ奥さんを深く愛する辺り、どうやって心情に入り込めばよいのか途方に暮れた。
     難しいので、副読本(?)として映画版を観た。おかげで物語が自分に溶け込んでくれたような気はする。何なら結局すごく感動した。そのうち小説をどうしようもなく読み直したくなるのだろう。勿論、あくまでそれは色々削ぎ落した映画だけが溶け込んだだけかもしれない。以下はそれを前提としての感想です。

     チェコが自由化をしようとしてソ連にぶっ潰された1968年の「プラハの春」を背景に、身軽でモテる外科医トマーシュ、愛に生真面目なテレザ、奔放で立ち止まることがなくそれ故に悩む女サビナ。それぞれが自分や相手の人生の重さ・軽さに悩み、それでも対峙してゆく様が非常に心を揺さぶられた。

     一回ぽっきりの人生、死んだら終わり。そんな吹けば飛ぶようなちっぽけな存在である自分自身を地上に繋ぎとめてくれるものはなんだろう。『存在の耐えられない軽さ』に、どう対峙すれば良いのだろう。
     この小説を読んだ上で答えを一つ提示するとするならば、ただ誰かの重さを、ぎゅっと大事に抱き留めることなのかなと思う。……すごく月並みな回答になったな。でも、私はそんな生き方に辿り着くことができるだろうか。

     恋愛小説という狭い枠組に閉じ込めるのはもったいない小説なのかも知れないけど、愛に溢れた物語だなと感じた。特に終わりは哀しくも胸を打つ。

  •  高校生のときにだいぶ背伸びして買ったこの本、5年に1回くらいのペースで定期的に読み直すのがルーティンになっている。昨今の #stayhome の煽りを受けてこの春、久しぶりにまた手に取った。
     10代、20代、30代と読む中で、どんどん「おもしろい」と感じる箇所が増えていく。正直、高校生のときはこれを読んでいた片想い中のクラスメイトの気を引くことしか考えていなくて、内容なんて全然わからないし何も伝わってこないけど、とりあえずわたしも最後のページに辿り着いたぞという報告を彼にすることが第一のそして唯一の目的だった。哲学を専攻していた大学時代に読んだときは、哲学を専攻しています私、というアイデンティティをより隙のないものにする努力の一手法として「ミラン・クンデラ」の力を拝借したようなものだ。
     そして今回。少なくともこれまでのような不純な動機はなんら持たずに、まぁ暇だしちょうどいいじゃないか、程度の軽いモチベーションで読み始めたわけだけれど。トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの恋模様がこんなに活き活きとエネルギッシュな熱を帯びて伝わってきたのは今までにない経験だった。不純な動機による「なんとしてでも読まなくてはいけない」が一切ない中で、それでも純粋に読みたいと思ったのは全く初めてのことだった。
     とは言っても、わたしの脳はまだこの小説の恋愛小説としての部分しか認識することしかできず、後半の「俗悪(キッチュ)なもの」という表現を多用した社会情勢批判(なのかどうかすらいまいちわかっていない)は正直まったく意味不明だった。今まで歴史や地理に興味を持たなさすぎた。もしこの先の人生でそれらに興味を持つようなことがあれば、40代、50代でまたこの本を読んで「ただの恋愛小説じゃないよねこれは」などと得意げに言える日が来るかもしれないけれど、現時点では非常に想像し難い。
     なかなかいい気分でいったん本棚にしまう。

  • 難解な本の代名詞のようになっている『存在の耐えられない軽さ』。この題名からして難解である。なぜ耐えられない「重さ」ではなく「軽さ」なのか。
    人間存在の一回性を「軽い」と表現したのは、ニーチェが永劫回帰を「もっとも重い荷物」と呼んだことに由来している。永遠に繰り返されるものが「重い」なら、一回限りのものは「軽い」。
    小説の中でしばしば引用されるのが、Einmal ist keinmalというドイツ語の諺である。一度しかなかったことは、一度もなかったのに等しい。この言葉に従うなら、一度きりの人生など、何の重みもない。
    どのような人生も、所詮は一回限りの現象でしかなく、永劫回帰という重荷の前では重さを失って、空気のように軽くなり、無意味なものになってしまう。
    もし人生を繰り返すことができるなら、いくつもあった分岐点に立ち戻り、果たしてどちらの選択が正しかったのか判断を下すこともできよう。しかし、同じ人生を二度生きることはできない。この軽さこそ、耐えられない軽さである。
    考えすぎだ。そうかもしれない。考えたくないなら、それも勝手である。だが、考えたくないということは、やっぱり人間は耐えられないのかもしれない。存在の軽さに。

  • 対照的な、テレザとサビナ。彼女達には幸せを感じる芯の部分に「重さ」を据えるか「軽さ」を据えるかの違いがあるようにみえます。

    ですが両者とも「重さ」には責任が伴い、「軽さ」には空虚さが伴う事を自覚し、苦しんでいる所は共通します。

    対して、トマシュとフランツ、男性2人は、無責任な方が、愛に気付いたときに「重い」最後を迎え、 完璧なタイプの方が、自ら崩壊して哀れともいえる死を遂げます。

    しかし2人とも政治的にスポイルされ死んだようなもので、本音のトマシュはソ連の傀儡となった国家に反動したのだし、大人しい学者のフランツはヨーロッパの安全な所にいる自分に嫌気がさしたのかデモに参加して危険な目にあうのですから。

    4人それぞれの考えや生き方が自分自身の一部にあり、読むのに時間はかかりましたが深くて楽しい小説でした。

    • Curtさん
      内容は良かったですが、私も同じく、読むのに時間がかかる本でした。
      内容は良かったですが、私も同じく、読むのに時間がかかる本でした。
      2015/10/09
  • 今月の猫町課題図書。1987年に映画化されて有名になったクンデラの代表作。初読。

    トマーシュとテレザの物語を中心に、愛と性の様々な側面を同時並行的に描く。性愛的友情を標榜して奔放な女性関係を楽しむトマーシュと、そんなトマーシュを束縛しようとするテレザ、愛を Kitsch なものにできないサビナ、サビナに永遠にあこがれるフランツ、無垢の愛を示すカレーニン。人生は、あるいはセックスは、歴史は、二度と繰り返すことのできない一度きりの軽いものだと言いつつも、著者は「重さと軽さ」「心と身体」の 2章 x 2 に象徴的なように、多相的に(あるいは犬のように)物語を繰り返す。

    ところどころで考察される恋愛観にはハッとさせられることもあったが、そんなに凄い小説だとは思わなかった。それぞれの視点から(しかし、絶対的存在としての著者のナレーションで)繰り返し描かれる構成と、時系列的なエンディングを中ほどにもってきて、「繰り返し」を示唆した最終章の構成が面白いと言えば面白いが、いまどき普通か。プラハの春(チェコ事件)を背景としたことで政治的な読まれ方をしているのも、世間的な評価が高い一因かもしれない。

  • 再々読。何度読んでも本当に素晴らしい。人は己の存在の軽さにも、重さにも決して耐えられるものではない。それを克服するには存在の絶対的同意が必要であり、キッチュなものの中へ潜り込まなければならない。しかしキッチュの俗悪さを認識している人にとってそれは受け入れ難い行為なのだが、皮肉なことにそうした人ほど己の軽さや重さにも自覚的なのである。そして最後に塵に変える時、誰もがキッチュなものとして他者の記憶に留められることになるだろう。それでもカレーニンは微笑んでくれる。それは無条件で与えられる、絶対的肯定そのものだ。

全291件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1929年、チェコ生まれ。「プラハの春」以降、国内で発禁となり、75年フランスに亡命。主な著書に『冗談』『笑いと忘却の書』『不滅』他。

「2020年 『邂逅 クンデラ文学・芸術論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ミラン・クンデラの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
エーリッヒ・フロ...
G. ガルシア=...
遠藤 周作
村上 春樹
フランツ・カフカ
ミラン・クンデラ
ミラン・クンデラ
ポール・オースタ...
ミラン・クンデラ
ドストエフスキー
有効な右矢印 無効な右矢印

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする
×