不滅 (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (592ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087603699

作品紹介・あらすじ

パリ。プールサイドに寝そべっていた「私=作者」は、見知らぬ女性の、軽やかにひるがえる手の仕草を見て、異様なほど感動し、彼女をアニェスと名づけた…。こうして生まれた「女」の、悲哀とノスタルジアに充ちた人生が、時空を超えて、文豪ゲーテと恋人の「不滅」を巡る愛の闘いの物語と響きあう。詩・小説論、文明批判、哲学的省察、伝記的記述など異質のテクストが混交する中を、時空をゆきかい、軽やかに駆け抜けていくポリフォニック(多声的)な、壮大な愛の変奏曲。

感想・レビュー・書評

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  • 時代を行き来し空間を飛び越えて、イメージが増殖する、仕草が受けつがれる、エゴイズムが転生する。文字盤は巡り、人生が繰り返される。

    「顔」
    アニェスのお話。
    ■アニェスは架空の人物である。作者がプールサイドで、水着を着た老婆が年甲斐もなく高く上げた両手をヒラヒラするようにしてあいさつしてたのを見て強い印象を受け、その仕草の担い手として彼女を創作した。
    ■アニェスは意思の力で夫と娘に対する愛情を保っている。「この意思が一瞬でもゆらいだりしようものなら、籠が開いていると知った鳥のように、愛は飛び去ってしまうだろう。」
    ■アニェスは、鏡に映った自分の顔、クリスチャンネームとしての自分の名前など、他の人たちならアイデンティティーを保つための大切な拠りどころに疎外感を感じている。「なぜなの? これが本当のあたしかしら?」。また、エゴイスティックな考え方には激しい嫌悪を感じ、誇大に自己主張する者たちには殺意さえ抱いてしまう(冷たいシャワーに対する好尚をかまびすしく主張するサウナの女、エンジンの音をがなりたてて通行人を脅かすバイク乗りの男)。
    ■アニェスが乞食に施しものをするのは「彼らが人類の一部だからするのではなく、彼らが人類と異質であるからこそ、人類から排除されそしてどうやら彼女と同じように人類と連帯していないからこそ施しをするのである」。
    ■アニェスの父なら、乗っている船が沈没する際には、先を争って救命用のボートに駆け込んだりしないだろう。「憎しみというものの罠は、憎しみがわれわれをあまりにきっちりと敵に結びつけてしまうことである。それが戦争の猥雑さである」。「というのは、父が嫌悪したのは、まさしくそういう親密さなのだ。船の上での押し合いへしあいが彼の心を嫌悪感でいっぱいにしたので、むしろ溺死する方を選んだのだ。たがいに打ち合い、足を踏んづけあい、相手を死地に送りあうひとびととの肉体的な接触は、海の清浄さのなかでの孤独な死よりも、ずっと厭わしいと父には思えたのだ」。
    ■アニェスは年に二三回、ふるさとのスイスを訪れ、父との思い出をあたためる。そして父が教えてくれたゲーテの詩を復唱し、もう家族がいるフランスには戻らなくてもいいものと夢想する。「山々の頂に/憩いあり、/木々の梢に/かそけき風の/そよぎもなく。/小鳥は森で黙すのみ。/待てよかし、やがては/汝にも憩い来らん。」

    「不滅」
    ゲーテとベッティーナのお話。
    ■ベッティーナ(26)はかつてゲーテ(62)が懸想したことのある女の娘。彼女は母から聞いた思い出話に影響され、ゲーテに対して一方的な親近感を抱いている。彼女は若い詩人と結婚したてなのだが、ゲーテと書簡を交わすだけに飽き足らず、ゲーテの元をちょくちょく訪れてはゲーテの周りを意味ありげにウロチョロしたり、その膝の上に乗っかってきたり、衆目の前でゲーテの妻クリスティアーネ(46)をあしざまに罵ったり、まさに好き放題に――無邪気に、といえないこともないが――ふるまっている。ゲーテは彼女にコケティッシュな魅力があるのを認めてはいる。しかしその度を越えた付きまとい方は目に余るものがあり、いよいよ彼女との絶縁も考慮に入れはじめている。一方でこの危険人物を自分の監視下に置いておく方が安全かとも考えている。やがてゲーテは他界するが、その後ベッティーナはゲーテとやりとりした書簡を整理――加筆・削除(!)――し、”ゲーテの書簡集”として世に出す。こうしてゲーテは、本人も知らないゲーテとして「不滅」となった。
    ■全ての人間に死は訪れるが、芸術家と政治家のごく一部の者のみがある条件のもと「不滅」になることができる。「人間は自分の人生を終わらせることはできる。しかし、自分の不滅を終わらせることはできません。不滅の船にいったん乗せられたが最後、もう決して降りられない」。「わたし(ヘミングウェイ)は(銃による自殺で)死んで、甲板に横になっているんだが、ぐるり回りを見ると、四人の妻がうずくまって、わたしについて知っていることを書いているし、その彼女らのうしろには息子がいて、これもまた書いているし、・・・わたしの友人たちすべてがそこにいて、わたしに関して聞きつけることのできたありとあらゆる陰口、中傷を語りちらしていたし、彼らのうしろには、百人ものジャーナリストが・・・アメリカのあらゆる大学では、教授どもの軍団が・・・」。

    「戦い」
    アニェスとローラとの戦い、ローラとベルナールとの闘い、また、イメージ、イマゴロジー、イマゴローグたちのお話。
    ■ローラは結婚、妊娠、流産を経験し、悲しみを隠すため(あるいは悲しみをアピールするため)黒メガネを常用する。これは昔の姉の習慣の盗用であった。
    ■ポール、アニェス、ローラ、三人それぞれの自分の身体についての考え方の違い。「女の方が、肉体的な気がかりのことを言い合って過ごす時間がずっと多い。女は身体のことを呑気に忘れるということを知らない。それは最初の出血の衝撃から始まる。突如として身体がはっきり存在し、まるで小さな工場をひとりで切り回す責任を負った技師のように、身体と向き合うことになる。毎月タンポンを携帯し、錠剤を飲み、ブラジャーをぴったり合わせ、産む用意をしておかなければならない。アニェスは羨ましい思いで年取った男たちを見ていた。彼らは……。それにひきかえ、女の身体は役にたたなくなればなるほど、身体になってゆく。重く、そしてかさばって。解体の運命にある古い手工業の工場にそれは似ているが、その工場にたいして、ひとりの女の自我が最後まで管理人としてとどまっていなければならないのだ。」「ローラにとって、身体はそもそもの最初から、先験的に、いつでも、そして完全に、本質的に、性的なものだった。誰かを愛するということは、彼女にとって、こういうことを意味していた。その男のところに身体を運んでゆくこと、彼の前に身体を置くこと、外面においても内面においてもあるがままの身体を置くこと」。「アニェスにとって、身体は性的なものではなかった。稀な瞬間、興奮が非現実的な、人工的な光を身体の上に投げかけ、その光で身体が美しくそして欲望に訴えかけるものになった時だけ、性的になるに過ぎなかった。それだからこそ、ほとんど誰も気づかなかったものの、アニェスは肉体的な愛に取りつかれ、肉体的な愛に結びつけられていたのだが、それというのもそういう愛がなかったとしたら、身体のみじめさにとって非常口がまるでなくなり、すべてが救いようもなくなってしまうからだった。セックスしながらも彼女は目を開き続け、そして近くに鏡があれば、自分をじっと見守っていた。彼女の身体はそんな時光に溢れているように見えるのだった。」
    ■自我の独創性を確固たるものとする手段の二つ。つまり足し算か引き算かということ。ローラは足し算をするひとである。彼女はあるとき猫を飼い始めた。そしてそれを自我の独創性に付け加えた。次に彼女は自我の一部となった猫を喧伝しようとする。それを良く言って他者にも押し付けよう、自我を押し広げようとする行為に及ぶのだ。しかし、そうすることによって他者がそれを受け入れてしまうと、自我の独創性が均されてしまい、没個性という矛盾した結果に逢着してしまう。そこで、自我の独創性も、猫も両方強調することができる方法をとることになる。それがすなわち、とりわけ大きな声(音)で傍若無人に主張することである(冷たいシャワーに対する好尚をかまびすしく主張するサウナの女、エンジンの音をがなりたてて通行人を脅すバイク乗りの男)。あなたはシューベルトが好きでシューマンが嫌い。相手はその逆。でもあなたはその相手へのプレゼントとして、当然シューベルトのレコードを贈るだろう。ローラは相手の事情など考えずにアニェスにピアノを贈った(アニェスの家ではピアノは無用の長物となっていた)。だからローラがベルナールと愛し合うようになったと知ったとき、ローラが自分たちから遠ざかるだろうとアニェスは少々ほっとした。
    ■8歳上のローラと付き合うようになった同僚のベルナールをポールは羨ましく思う。「年上の女は男の人生の中のアメジストだ」。
    ■現代のジャーナリストが持つ第一の権利(力)は、質問を取材相手に答えさせるということだ。その質問をうとましく思う者たちは、嘘や別の質問の答えを使って本来の質問をかわそうとする。が、そんな禁じ手を使わなければならないことによっても明らかなように、力関係でより上位にあるのは、質問に答えさせる力を持つジャーナリストの方だ。
    ■かつて世界は現実とイデオロギーに支配されていた。現在はイマゴロジーだけに支配されている。それはイメージであり、戦略であり、とっつきやすいものであり、満足できるものであり、強大な力である。イデオロギーは歴史、戦争を生みだしたが、イマゴロジーが何を生み出すかはわからない。それは、きまぐれで簡単に変えられるイメージであるのだから。
    ■ポールはイマゴローグたちによって番組を降ろされるハメになるが、事情を知らない彼はクマとの議論の中でイマゴローグたちを弁護するハメになる。つまり“自分の墓堀人どもの才気ある同盟者”になってしまう。一方ベルナールは見知らぬ人物から「完全ロバ」への昇進を告げられる。
    ■「完全ロバ」になったベルナールは動顚して無口になる。一方ローラは、ベルナールがもう自分を愛してくれなくなったと不安になり、家できまぐれにベルナールを襲った猫に触発され、ついに言ってはいけないことを彼に言う。すなわち「結婚してくれ」と。ローラは強く彼を愛していた。だからこそ、彼を理解していないことに全く気付いていなかったのだ。
    ■ヤロミルは「絶対に現代的である」ために、大好きだった現代美術、またこの言葉を考え出した当人のランボーでさえ否定しなければならなかった。これは友人たちにとって痛ましい出来事になった。しかし「絶対に現代的である」ということはどういうことか。それは「現代的」の中身を問わないこと、それについて疑問を持たずに「現代」に仕えることである。ポールにとってそれは、娘ブリジットに同化することであり、自分自身の墓堀人になるということでもある。
    ■ローラはベルナールに求婚したことをクマにうちあけ、クマはそれをみんなに言いふらした。ベルナールは型破りで気まぐれなローラに魅かれてはいたが、そこに結婚の可能性は、ない。何をやっても振り向かなくなったベルナールにローラは業を煮やし、ベルナールにセックスで挑みかかる。ベルナールもそれを受けて立つ。
    ■ミラン・クンデラと行き違いになったアヴェナリウス教授は、路上でレプラ患者のための募金活動をする女と出会う。
    ■ローラは病院でバルビタールの処方を受け、相談相手の気持ちもものかは、アニェスに自殺をほのめかす。アニェスは自殺を断念さそうとするがローラはどこ吹く風。が、ひょんなことから気分が変わり、ローラはレプラ患者のためのボランティアになろうと決心する。その時ローラは両腕をゆっくり前に突き出す仕草をする。
    ■ゲーテの死後、マルクス、リストなど著名人のもとを渡り歩いていたベッティーナがその金遣いの荒さを非難された時、両腕をゆっくり前に突き出す仕草をする。これは、大きく、悠遠で、高尚で、不滅なものに関わりたいという欲望の仕草である。
    ■ポールの膝の上にブリジットが座る。それを見てローラがもう片方の膝の上に座る。ゲーテの膝にはベッティーナが座っていた。
    ■ローラは、自分がベルナールを追ってマルティニック島に行こうとするのをポールに止めさせようとする。が、ポールは自分の女占い師、娘のブリジットに相談してローラを放っておくことにする。ローラは島から電話をかけてきて、狂言自殺で姉夫婦をひっかきまわす。ローラは何事もなかったように帰ってきて、夫婦の間に居座る。

    「ホモ・センチメンタリスト」
    キリスト教以降のヨーロッパ人のレゾン・デートルは、思考ではなくて感情であり、とりわけ、”自分はこういう風な人間になりたい、という誘惑的なイメージ”の実現である、というお話。
    ■ベッティーナ事件において、参考人たるリルケもロマン・ロランもベッティーナを擁護している。しかしその理由はベッティーナが女性でなんとなく好ましいからというものである。
    ■ヨーロッパ文明は古くは理性に基づく(立法のユダヤ教、厳格)一面もあったが、現在は感情に基づいている(愛と主観のキリスト教、情状酌量)。現代のホモ・センチメンタリストは感情をひとつの価値とみなす。よって感情をひけらかす誘惑に陥る。
    ■われ思うゆえにわれあり、というが、自我の根拠は思考ではなく、もっとも基本的な感情であるところの”痛み”である。
    ■『白痴』のムイシュキン公爵がナスターシャに「あなたは苦しんでこられたんですねえ」という。これは女の魂を手に取り愛撫するようなものだ。
    ■アニェスの突然の死の一週間後、ポールとローラは自然にセックスする。
    ■音楽は感情に直に訴えかける。ヨーロッパ音楽の千年の歴史は奇跡である。マーラー以降、音楽において感情は胡散臭いものになった。
    ■アニェスの死後、家にローラとクラシック音楽がずかずかと上がり込み、ブリジットはロックとともに姿を消した。
    ■ベッティーナをチロルの山岳民衆の擁護に駆り立てたのは、チロルの山岳民衆の戦いに熱中したベッティーナという蠱惑的なイメージである。彼女を駆り立ててゲーテを愛させたものは、ゲーテを恋する子供のベッティーナという誘惑的なイメージである。二十歳で共産党に入党して銃を担いでゲリラになる青年は、革命家としての自分自身のイメージに魅惑されたのである。

    「偶然」
    アニェスがスイスでの単身赴任の話に飛びつき、アヴェナリウス教授はパリの町に路上駐車している車のタイヤをナイフで裂いてまわり、自殺志願の女の子が深夜、路上にうずくまるお話。
    ■アニェスが単身スイスに、父との思い出の場所に戻ってきてから二週間がたった。
    ■高速道路は普通の道と区別される。なぜならそれは、ある点と他の点を結び付ける単なる線にすぎないからだ。美しさににおいても異なる二つの観念を持っている。高速道路――ポールの考え方――ある場所に行くと美しい観光名所がある。道――父の考え方――美しさは連続し、変化し続ける。
    ■バーで、アヴェナリウス教授とミラン・クンデラが葡萄酒をかたむけながら会話を弾ませている。――ベルナールを「完全ロバ」に昇進させたのはアヴェナリウス教授だった。しかも教授は、ベルナール・ベルトランとその父ベルトラン・ベルトランをごっちゃにして考えていた。/アヴェナリウス教授は、レプラ患者のために募金を思いついたローラにメトロで偶然会ったあと、彼女とセックスしていた。しかもアヴェナリウス教授は以前から彼女に気があって、「完全ロバ」の計画はそもそもベルナールへの嫉妬からであった。/アヴェナリウス教授は武装して、パリの街を夜中にランニングしながら、留めてある車のタイヤを切り裂いてまわっている。4本あるタイヤのどれを選ぶかは彼なりの法則があって、それが逮捕されないポイントなのだという。/ミラン・クンデラは深夜の犯罪にこれから繰り出すことをアヴェナリウス教授から誘われたが、酔っていることを口実に断った。一方アヴェナリウス教授も酔っているのに、わざわざタイヤを切り裂くために自分のメルセデスを飛ばしていった。
    ■「……アニェスはこういう言葉を思い出した。『女はいつでも夫よりも子供を愛するものよ』。十二歳か十三歳だった時、アニェスは、母が彼女にそういうのを聞いたのだった。この言葉の意味は、われわれがしばし考察の時間をさかなければ明らかにならない。われわれがBよりAを愛するというのは、愛の二つの水準を比較することではなく、Bは愛されていない、ということを意味する。なぜならば、われわれがだれかを愛しているならば、その者と誰かとを比較することなどできないからである。愛されることは比較を絶している。
    ……幼いアニェスには、もちろんそんな分析をすることはできなかった。母はたしかにそれを考えに入れていた。母は心の秘密を打ち明けたい欲求は感じていたけれど、しかし同時にまた、十分に理解されないようにしたいとも思っていた。ところが、すべてを把握することはできないにしても、母のその考察が、父にとって不利なものであることを子どもは見抜いた。彼女の愛する父にとって不利なもの! だから、彼女は偏愛の対象であるのをいささかもうれしいと感じなかったし、愛する者が損害を加えられるのに辛い思いをした。
    その言葉は彼女の記憶に刻み付けられた。あるひとをより多く愛し、他のひとをそれほど愛さないということが、具体的にどんなことを意味するのか、アニェスは想像してみようとしたものだった。ベッドで、毛布にくるまって、目の前にこういう場面を思い浮かべてみた。父は立って、二人の娘の手を取っている。正面には銃殺隊が一列に並び、「構え! 撃て!」という命令を待つばかり。母は敵の将軍に特赦を嘆願しに行ったが、将軍は三人の受刑者のうち二人を免除する権利を彼女にあたえた。それで母は指揮官が発射する命令を出すほんの直前に駆けつけ、父の手から娘たちをもぎとり、そしてただもう脅えきった焦りで心をいっぱいにして、二人を連れてゆく。母にひっぱられながら、アニェスは父のほうを振り返る。しつこく、強情に振り返るので、首筋に痙攣を感じるほどだ。父が悲しそうに娘たちのあとを見守りつづけ、いささかたりと抗議しない姿が彼女には見える。……
    ときとして、彼女は敵の将軍が母にひとりだけ受刑者を救う権利をあたえたらと、想像してみることがあった。母が救うのはローラだろうということを、彼女は一瞬たりとも疑わなかった。自分だけが父と並んで、兵士たちの銃の前にいるところを彼女は想像した。彼女は父の手を握りしめていた。その瞬間、アニェスは母や妹のことはまったく気にかけなかったし、二人のほうをみようともいしなかった、二人が急いで遠ざかってゆき、どちらもふりかえらないことを知っていたから! アニェスはちいさなベッドで毛布にくるまっていたが、熱い涙が目に浮かび、そして言いしれない幸福に満たされるのを感じていた、なぜならば父と手をつないでいたからであり、父と二人だったからであり、これから一緒に死ぬことになるからだった。」
    ■アニェスは十七歳の頃、泊まりにいった両親の友人宅のベッドを月経の血で汚した。「なぜ彼女は恥ずかしかったのか? 女は誰でもすべて月経周期があるではないか? アニェスが女性の器官を発明したのか? 彼女にその責任があるのか? もちろん、そうではない。……もしアニェスが、たとえばインクをひっくりかえして、泊めてくれた家のテーブルクロスや絨毯を台無しにしてしまったとしても、気まずく不愉快ではあったろうが、しかし恥ずかしがったりはしなかったろう。羞恥というものは、われわれが犯したかもしれぬ過失を根拠としているのではなく、自分で選んだわけではないわれわれの姿にたいして味わう屈辱と、その屈辱がいたるところにはっきり見えているという耐えがたい感覚とを、根拠にしているのである。
    ■アヴェナリウス教授が、路上に座り込んで自殺しようとした娘について語る。「死は、彼女の望んだ死のことだが、消滅ではなく、拒絶と言う方がふさわしかった。自己自身にたいする拒絶、彼女の生活のどんな一日にも、彼女がそれまで口にしたどんな言葉にも、彼女は満足できなかった。自分自身を途方もない重荷のように背負って人生を通りぬけていたわけだが、その重荷を嫌いながら、厄介払いすることができなかったのさ。だからこそ彼女は自分自身を拒絶したい、皺くちゃになった紙を投げ捨てるように、腐った林檎を投げ捨てるように、自分自身を拒絶して投げ捨てたいと望んでいた。まるで投げるほうと投げられるほうが二人の異なる人物であるかのように、彼女は自分自身を拒絶して投げ捨てたいと望んでいた。……彼女にとって、世界は徐々にものを言わなくなり、そしてもう彼女の世界ではなくなっていった。彼女は自分自身と自分の苦悩のなかに、すっかり閉じこもってしまった。せめて、他のひとびとの苦悩を見ることで、自分をその幽閉状態からひきはなすことくらいできたのでは? いや、それはできない。なぜならば、他のひとびとの苦悩は、彼女がもう失ってしまった世界、もはや彼女のものではない世界で生じることだからさ。火星という惑星が苦しみそのものでしかないとしても、火星の石さえも苦痛で呻いているとしても、それでわれわれは心を動かされたりはしないさ。火星はわれわれの世界には属してないからね。世界から離れてしまった人間は、世界の苦痛に無感覚なんだ。彼女をまあほんの一瞬だけど、苦悩からひきはなした出来事といえば、ただ犬の病気と死だけだった。隣の女はこう言って憤慨していた。あの娘は他人にはなんの思いやりもないくせに、自分の犬のこととなると泣くのよとね。彼女が犬のことで泣いたのは、その犬が彼女の世界の一部だったからだし、隣の女は全然そうではなかったからさ。犬は彼女の声に答えたが、ひとびとは答えようとしなかったからだよ」。
    ■アニェスは運転中、路上に座る自殺志願者の女をよけようとして事故を起こす。病院に運ばれるが彼女はもう余命いくばくもなかった。。
    ■アヴェナリウス教授は、実際はタイヤを選ぶ法則など守っておらず、しかもナイフを路上で手にしたまま車を物色するものだからすぐに女に見つかって大騒ぎとなり、警察を呼ばれてあえなく逮捕されてしまった。しかし運よくそれを見守る群衆の中から弁護士が現れ、アヴェナリウス教授に協力を申し出る。が、留めてあった弁護士の車のタイヤはすでに引き裂かれていた。
    ■ポールにスイスの病院から電話がある。アニェスが交通事故を起こして瀕死の状態であると。しかし彼の車のタイヤは引き裂かれていて使えず、ブリジットの車に同乗してスイスへ直行する。
    ■アニェスの死を覚悟していたポールだったが、到着したときはすでに息を引き取っていて、願っていた最後のキスもかなわなかった。

    「文字盤」
    ルーベンスの性の遍歴と人生の天象図についてのお話
    ■「きみはきみの人生の天象図から逃れられないのだ。それはたとえば、あなたの人生の半ばにおいて、それまでの人生と関係なく、よく言われるように、ゼロから再出発して、『新しい人生』を確立しようと望んだりするのは幻想的だと言おうとしているのだ。あなたの人生は、いつも同じ資材、同じ煉瓦、同じ問題で建造され続けるだろうし、あなたが最初のうち『新しい人生』だと思うかもしれないものも、まもなく既存の体験の単なる変奏と見えるようになるだろう。」
    ■「ルーベンス(あのルーベンスではない)は、絵画を結局は諦めることになったのは、単なる才能や根気の欠如よりも、たぶん、もっと深い理由からだったのだと考えた。ヨーロッパ絵画の文字盤では、針は深夜の十二時を指していたのである。」
    ■「アリストテレスはエピソードを好まない。彼によれば、あらゆる出来事のうち、最悪のものはエピソード的な出来事である。先行するものの必然的な帰結ではなく、またいかなる結果もつくりださないのであるからして、エピソードは物語という因果関係の連鎖の外にあることになる」。「われわれはだからアリストテレスの定義を次のように補うことができる。すなわち、どの出来事にしてもこの上なく無意味なものであっても、後になって他のさまざまな出来事の原因となりそれと同時にひとつの物語に、ひとつの冒険に変形する可能性を秘めている以上、いかなるエピオソードも、永遠にエピソードのままであることを先験的に余儀なくされているわけではない、と。エピソードは地雷のようなものである。大多数は決して爆発しないが、しかしある日、まことにささやかなものが、あなたにとって致命的になるような日がやってくる。……もしわれわれの人生が古代の神々と同じく永遠のものであったら、エピソードの観念はその意味を失ってしまうだろう、なぜならば無限にあっては、どんな出来事だって、このうえなく 些細なものでさえ、ある日ある結果の原因になるだろうし、そして物語に成長することになるだろうから。」
    ■ルーベンスは、年に数回逢うだけのパリの愛人、リュート弾きから敬遠されだしたことが気になりだし、はっきり話をつけようとリュート弾きの家(彼女の夫の家)に電話をかける。しかし夫の妻だと名乗って電話に出たのは別人。彼女によるとリュート弾きは交通事故で亡くなったとのことだった。

    「祝宴」
    冒頭に出てきたプールサイドで、アヴェナリウス教授とミラン・クンデラとポールが葡萄酒で祝杯をあげる。
    ■アヴェナリウス教授はあのとき婦女暴行罪で逮捕されたが、ポールに弁護されて証拠不十分で釈放されていた。
    ■プールサイドにはローラも現れるが、彼女はアヴェナリウス教授に対して思わせぶりな仕草を見せる。
    ■ポールとローラが再婚していてうまくやっているようだ(彼の会話にアニェスはまったく登場しない)。しかし家にはブリジットがロックといっしょに戻ってきていて、女同士の衝突にポールがうんざりしている。「女というのはひとたび闘うとなると、とまらなくなるものですからね……戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」。
    ■幸福そうなポールは酔っぱらってプールサイドを後にする。アヴェナリウス教授とミラン・クンデラもそこで別れを告げた。
     ――おしまい

  • クンデラの語り方は普通の手法や感覚ではありませんね。一見すると、バラバラの短い断章が訥々と語られながら何本もの糸を紡いでいくようです。同一場面のアプローチを微妙に変えながら、読者の短期記憶を何度もリハーサルすることにより中期記憶へと移行させていくのですが、この手法とタイミングが絶妙です。そうやっていくつもの糸を織りなすうちに、見事な絵のような織物があらわれるような高揚感が味わえます。多分こういったところを、音楽で表現される方もいるはずで、多彩な作品なのでしょう♪

    「存在の耐えられない軽さ」に比べると、その独特の手法はさらに進化しています。時空を超えて、一見すると脈絡のないゲーテを取り巻く話、そこに同時代のベートーベン、ナポレオン、はたまた時代の異なるヘミングウェイといった歴史上の人物が、違和感なく縦横無尽に動き回りながら、著者の哲学・思弁が織り込まれていきます。

    「火星という惑星が苦しみそのものでしかないとしても、火星の石さえも苦痛で呻いているとしても、それでわれわれは心を動かされたりはしないさ、火星はわれわれの世界には属していないからね。世界から離れてしまった人間は、世界の苦痛に無感覚なんだ」

    「人間がただ自分自身の魂と戦うだけでよかった最後の平和な時代、ジョイスとプルーストの時代は過ぎ去りました。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホの小説においては、怪物は外側から来るのであり、それは<歴史>と呼ばれています。……それは非個人的なもの、統御できないもの、計りしれないもの、理解できないものであり――そして誰もそこから逃れられないのです」(「セルバンテスの貶められた遺産」と題する講演記録)

    ここで言う「最後の平和な時代」というのが、近代に焦点を当てたものなのか、どこを起点にしたものなのか、いまひとつ定かではないのですが、このあたりをみても、クンデラがいかに小説戦略として現代世界の「実存の探求」をしているか、ということがわかります。
    自ずと、不滅(不死)と愛というテーマはヒントになるのでしょうが、いずれにしても形容しがたい作品です。
    別の作品も読んでみたいと思わせる魅力に溢れていますし、ゲーテ「ファウスト」のテーマ、愛と不滅に呼応して、クンデラ独自の哲学・思弁を織り込んだ、思索に富む現代的な作品に仕上がっていると思います。

  •  500ページ以上に書き記されているのは、一本の軸を基本としながらも、複雑に入り組んだ構成をしている物語である。主人公はアニェスという女性なのだが、作品中にクンデラ自身が登場したり、唐突にゲーテやヘミングウェイのエピソードを挟んだりと一筋縄ではいかない。しかし、それらのエピソードが物語の最終局面に向かい収束していく様子は見事で、思わず唸ってしまう。訳者あとがきにもあったように、これは変奏曲なのだ。オーケストラの演奏のように、それぞれのエピソードが重なり合い、大きな響きを創りだしている。
     そういった手法もすごいが、文章中で随所に散りばめられた引用や言葉にも胸を突かれる。

    「つまり、仕草のほうが個人そのものよりも個性的なのだ」(p5)

    「十九世紀の作家たちが結婚で小説をしめくくるのを好んだのは、愛の物語を結婚の倦怠から守るためではなかった。そうではなく、それを性交から守るためでだった」(p333)

    複雑な物語を退屈させずに読ませる、という点でこれらの言葉たちはその役を充分に果たしているのだろう。それもまたクンデラの意図するところかもしれない。

  • いつ読み終わったのか、、

    傑作

    存在の耐えられない軽さよりも良い

    こんな小説あるのか、と

  • 3回、4回、5回と繰り返し読むのにふさわしい傑作。
    クンデラ氏の最高地点ではないか???

  • 村上春樹が好きな人は、きっと好きだと思う。

  • ミラン・クンデラの集大成

  • とりあえず一読。

    安易に整理をつけようとすると、作者から嗤われそう。
    もう何周か読んできちんと書きたい。

  • まさに自由奔放
    時間は真っ直ぐ進まなく、現実/虚構の区別も曖昧。
    けれども、それぞれの「エピソード」が、複数の主題と結びついていき、壮大な人生の小説となる。

    ■「不滅」「顔」「イメージ」
    2020年代現在、当時よりもより一層、(一般市民の)私たちにとって身近に潜むテーマなのではないか。
    私たちは片手一つに収まる電脳世界の中で、ほぼ四六時中イメージの生成に勤しんでいるし、さらにそれを不滅の世界にいとも簡単に残せてしまう。
    そして、あまりにも多い顔たち……。

    ■アニュスが意図もせず、死によって他者の中にあるイメージを強く刺戟したことを考えると、
    きっと私たちは不滅にならざるを得ないのだと思う。殊に現在……。

    ■私たちは定められた主題に沿って、生きている。喜劇的な存在である。
    主題と関係がないエピソードは積み重なっていくが、これは謂わば地雷みたいなもので、何かの折に強く私の気持ちを揺さぶる可能性がある。

    ■記憶は映画的ではなく、写真的である。

  • 最初のうちは面白く読んでいて、付箋なんかもつけたりしたのだけれど、半分も読み進まないうちに何を読まされているのかわからなくなる。
    今は誰の話を、なんの話を、いつの話を読んでいるのか?
    物語の大半は理解できないうちに零れ落ちてしまったけれど、なんとか少しでも掬い取れたらいいのだが。

    ふと見かけた見知らぬ女性の、軽やかにひるがえる手の動きを見て心を惹かれた私は、その女性にアニェスと名付けて、彼女の家族とその関係性について思いを馳せる(妄想する)。

    アニェスの母は、家族や友人たちに囲まれて生きることに喜びを感じる人だったが、アニェスの父や彼女は、人と離れて生きることに安心を覚えるタイプだった。

    ”彼女が求めていたのは、彼らがときどき便りをよこして、身辺に厄介なことはなにも起っていないと請け合ってくれることだけだった。それはまさしく言いあらわしにくく、説明しにくいことだった。彼らに会いたいとも一緒に暮らしたいとも望んでいないのに、彼らが元気でいるかどうか知りたいという彼女の欲求は。”

    序盤に出てくるこの文章、「わかるわ~」と思った。
    アニェスが夫や娘に対して、一緒に暮らしたいと思わないけれど、元気かどうかは知りたいと思うこと。
    でも、私がいつでも同居できる状態での別居を求めているのに対して、アニェスは最後まで同居を望まない。
    望まないのに別れることができなかった不幸。不幸?
    アニェスは別に不幸ではなかったな。幸せでもなかったかもしれないけれど。

    そして、姉の生活に容赦なく入り込んできては振り回す妹のローラ。
    彼女のエキセントリックなほどのかまってちゃん言動は、読んでいるだけでしんどい。苦手だ。

    不滅。
    不老不死とはまた違う。
    体は死んでも思いは残るとか、作品が残るとか、思想が残るとか、生きてきた証が残れば、その人の存在は不滅なのかもしれない。
    偉人だけではなく、今ならSNS上に、永遠に顔や姿が、発言が消えることなく残されてしまう。
    この作品が発表されたときはアルバムの写真の中だったけれど。

    ”あたしが子どものころ、誰かの写真を撮りたいと思うときには、かならずその人に承諾を求めたものだったわ。(中略)そのうち、いつか、誰もなにも頼まなくなった。カメラの権利はあらゆる権利の上のほうへと高められて、そして、その日からすべてが変わってしまったのよ、完全にすべてが”

    ”ジャーナリストの力は質問をする権利にもとづくのではなく、答えを強要する権利にもとづくのだ”

    30年前の作品とは思えないほど、今の社会にも当てはまる。
    というより、30年前よりも、今だ。

    アニェスに関する私の妄想部分はまだしも、ゲーテと彼の恋人たちの話や、ゲーテとヘミングウェイの対話、ルーベンスの恋愛事情と、どんどん話は難解に、構造は複雑に、そこにまたアニェスやローラやポール(アニェスの夫)の人生も絡み合って、もう何が何やら。

    作者のミラン・クンデラはチェコの作家なのだけど、フランスの作家の小説を読んでいる気がしてしょうがなかった。
    多分それは、思想のど真ん中に恋愛や性愛や宗教の愛が動かしようもなく存在しているからなんだろうと思う。
    苦手なのだ、そういう作品。
    だからそういうものに囚われまいとするアニェスのパートが好きなのかもしれない。

    最後のほうに出てくる「リュートひき」は、てっきりローラだと思ったんだけど、アニェスだった。
    言われてみれば、アニェス以外の誰でもないとわかるのだけど、サングラスに騙されたよね。
    やれやれ。

    ”彼は死に対する戦闘と、生にたいする闘いのことを語る……「闘い」という単語が、短い演説のあいだに五度繰りかえされ、我が昔の祖国プラハを私に思いおこさせてくれる、赤旗、ポスター、幸福のための闘い、正義のための闘い、未来のための闘い、平和のための闘い。万人による万人の破滅にまで至る平和のための闘いと、チェコの民衆の智慧はそう付けくわえるのを忘れなかったけれど。”

    これもまた多分に現在。
    チェコではなくウクライナで。
    万人による万人の破滅にまで至る平和のための闘い。
    経験者の語る、これほどに深く真実をえぐるような言葉があるだろうか。
    だがこの作品のテーマは〈不滅〉なんだな。
    ああ、とてつもなく理解が遠い。

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著者プロフィール

1929年、チェコ生まれ。「プラハの春」以降、国内で発禁となり、75年フランスに亡命。主な著書に『冗談』『笑いと忘却の書』『不滅』他。

「2020年 『邂逅 クンデラ文学・芸術論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ミラン・クンデラの作品

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