ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087605358

作品紹介・あらすじ

1923年、6月のある水曜日。第一次世界大戦の影響が残るロンドンでクラリッサ・ダロウェイは、自宅で開くパーティのため、花を買いに街に出る。瑞々しい生命力に溢れるロンドンを歩きながら、ダロウェイ夫人の意識は青春時代と現在を自在に行き来し、心に無数に降りそそぐ印象を記す。あらゆる過去の一日が充満した一日を「意識の流れ」の手法で、生、死、「時」を描いたモダニズム小説の代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 物語を読むとはどういうことなのかよくわからなくなってくる。3回読んでもよくわからないし、読めば読むほどよくわからなくなってくる気さえする。しかし再読すると細部は明瞭になってくる。細部の美しさを、より美しいと感じられるようになる気がする。ダロウェイ夫人という小説には細部しかないのかもしれない。というか本来、どんな小説にも細部しかないのかもしれない。全体としてくくってしまい、わかったような気になっているような読み方はきっと健全ではない。部分は部分でしかなく、意味をこじ付けるべきではない。意味へと収斂されない出来事は捉えどころがないが、つまり何かしら本当のことというのは得手してそういうものなのかもしれない。嘘くさく感じてしまう要素を排除しようとしたら捉えどころのないものが残るのかもしれない。
    この小説の細部の連なりからは目に見えないものが立ち上がってくる。一人ひとりの人物たちの意識の中に、それぞれの関係性の中に、何かがありありと息づいているのを感じる。
    それを一言で言い表せる言葉は存在しない、細部の連なりによってしか表現できないような感覚が、生きること、そして死ぬことそのものの存在を自分が今まで感じたことのないような感じ方で感じさせてくれた。

  •  モダニズム、フェミニズム+同性愛、etc...の代表作ということだけどどこがフェミニズムで同性愛的なのかはあまりつかめなかった。
     若い時はお友達を心深くワクワクさせ、執着させるものだから、特に現代は同性愛と特別視しなくても良い時代になったからかもしれない。

    それにしても、これは長い、すごい長い。
    主人公たちの頭の中が饒舌でぐるぐる、ぐるぐる巡り巡って自問自答でこんなに長いのに、朝から深夜、パーティーが終わるまでのたった1日の思考と過ぎゆく時間のことなのだった。情景も感情も描写も少ない最近の小説にはない長さであった。
     物語の形式も語り手がコロコロ変わり、これは!?きっと最後まで読まないとなにがなんだかわかんないんだろうなーと読み進めた。
     みんながみんな誰かの本性を暴こうとし、自分を正当化しようとしている。主人公が愛した女性も男性も皆、主人公クラリッサを俗物と見下す。しかし、クラリッサは自らの老いと何もなさず、持たず、何もなしていないことを自覚している。人は見かけによらないのだ。誰とも理解しあえない、それが事実であり真実であり、厳しい現実で人間の生命、人生ってとこなのかな。周りからの評価は良くないリチャードがちゃんと言葉で愛を伝えられたらいいのに、と願ったわたし。たぶん、それは一緒に生きてきた二人の真実だから。

     最後のピーターの感情はこの物語の意味をちゃんと物語ってる。

     すらすら読めない点で☆3つ。

  • ・「アブサロム」に関連して。

    ・話の筋は福永武彦氏の「風土」に似ている。というより、もちろん、こちらが先だろう。「風土」と共通している点は、中年(あるいは本書の場合、もう老年といってもいい年齢なのかもしれないけれど)の男女が登場人物の中心で、彼らは青年時代、恋仲であったが、女性の方が別の男性を選んで(もしくは結果的に)結婚し、選ばれなかった男は独身または結婚生活に破綻が生じていて、生活の経済的な側面でも、かつての恋人に水をあけられている…という点である。

    ・だが、このように、それぞれの人生の決定的な分岐点となった失恋と結婚の過程を描くのがこの小説の主眼ではない。物語世界の中での現在進行形で出来事が続いていくのではなく、様々な人物たちが入れ替わり立ちかわり過去の様々な時点を振り返ることによって、幕間を入れることなく別の人物・時代に話が広がっていく。

    ・技巧面で、地の文で内面の独白が多用されている。会話なのかそうでないのか、訳し分けるのが大変とあとがきにあった。通りすがりの主要でない人物の内的思考が突然数行展開される、などは面白いと思う。

    ・クラリッサもピーターも、互いを親友同士だと感じ、親友というものは、ずっと実際には会っていなくても、何年にも渡って影響を及ぼし続ける(「お互いの中に生きる」)ものなのだという箇所は、美しいし、実際にそういう関係にある人があればいいなと思う。

    ・クラリッサは、今この瞬間、眼前にあるものすべてを、ありのままに愛おしく感じている。そのように生きているということは、過去に拘泥したり、現実に対する不満に囚われすぎずおおらかに生きている姿勢にも取れるが、今が素晴らしいもので、たとえこの瞬間に死んでしまっても良いのではないか、死にすら身を委ねよう、という生への執着のなさにもつながりかねない。
     セプティマスの死に接した時、彼女は一瞬その感覚(「今死ねば、この上なく幸福だろう」)に思い至るが、彼女は、幸福な日々の単調な繰り返しの中にも、激しく歓喜の瞬間があることを言い(そしてそれは過去の瞬間と繋がった場合?)、自ら暗い考えを打ち消す。
     このところ、もう少し詳しく読み込むべきかもしれないけど、、、

    ・それからクラリッサの「どこにでも自分がある」趣旨の発言。これも面白かった。物語中盤と最終場面にあった。場所と、しばしば時間とを超越して「自分」がいる、その一部が所々にいる。その感覚はおそらく、ピーターとかの友人たちの介在があって成り立っているのではないか。要するに自分を構成するものは色々な場所、時間、そして(例え長い間会わなくても)人とのつながり。それがパーティーを開く理由でもある。

    ・ピーターは、ダロウェイ夫人との失恋後インドで暮らしていたが、うまくいっておらず、周囲からも失敗者として認識されている。だが、人生では失敗しても、人物としては誰もが一目置いているようだ。ピーターはどちらかというと感情的、芸術家気質か。リチャードは、実際家で妙なひねくれがない感じ。ピーターに割かれているページ数が圧倒的に多い。

  • 1日なのに30年。

  • 1923年6月13日
    えと、おはようございます。
    今日から「ダロウェイ夫人」を読み始め。おおよそ同時期に出た「ユリシーズ」と同じく6月のある一日(それがタイトル)を精緻に書き込んだ小説。ただし、「ユリシーズ」が大戦前の一日なのに対し、こっちは大戦後…そこも読みどころの一つ。
    どれほど人生をながめ、つくりあげ、自分のまわりに築いてはとり壊し、一瞬一瞬また新たに創造しなおしているのかを。
    (p13)
    後半の「一瞬一瞬…」はこれまたほぼ同時期のプルーストも似たようなこと言っていたような。細胞レベルまで降りると自己同一性などあり得ない…とか。そういう感覚がこの大戦後のヨーロッパの共通感覚としてあるのだろう。
    ナイフのように物事のなかに切りこんでいくかと思うと、外からただ傍観していることもある。こうしてタクシーをながめていると、自分が外に、岸から遠く離れてひとりぼっちで沖にいるという、そんな感じにたえず襲われる。
    (p20)
    後の文の方になんか共感してこの部分を引用してみたけど、こうしてみると、前の文ってこの小説(あるいはウルフの作品全体?)の書き方にこそ当てはまるのではないかなあ。ダロウェイ夫人の意識に入りきったと思いきや、かなり遠くから見ているところもある。
    まあ、今回はここまで…
    (6月20日という説もある。)
    (2012 11/21)

    ダロウェイ夫人だろう…
    昨夜から今朝にかけての「ダロウェイ夫人」からまとめ。
    まずは夫人の帰宅時の有名?な部分から。
    退きさがる尼僧のように、あるいは塔を探検する子どものように、彼女は階段をのぼり、窓辺に立ち止まり、それからバスルームにやってきた。
    (p60)
    もう最初の2つの比喩の対比だけでゾクゾクなんですが(笑)、この一見正反対に見えるような2つが実は根底で繋がっている、というのがポイント。
    わたしに欠けているのは浸透してゆくなにか中心的なもの。
    (p61)
    これも非常にウルフ的ですが、前にここだけチラ読みした時に自分もそうだなあと感じたところ。
    ここで、ちょっと前のロンドンの描写から思ったこと。セプティマス夫妻のところで、あるいは他で、町の他の人々の意識の流れに入り込み、そこからセプティマス夫妻などの主要登場人物を読み手にわからせる、という手法が面白かった…
    さて、この小説の構想時はセプティマスではなくダロウェイ夫人自身を自殺か死なせるつもりだった、という。それが残っているのかはともかく、夫人が何か(死)を見つめているのは確か。p62のところなどは一面そういう例ではないだろうか。また、p75の共感の部分も印象的だけど、それも感じる…こういうのが寄り集まって、ダロウェイ夫人像ってのが出来上がる…のだろう…
    だろう…
    (2012 11/22)

    塔と脱出
    「ダロウェイ夫人」は昨日お休みで今朝やっと100ページ超え。今回は昔の恋人ピーターとの再会から、ピーターのその後。再会の場面ではお互いともなんかの軍勢の比喩で意識が描かれていた。そしてピーターが出ていく時に、クラリッサ(ダロウェイ夫人)の塔のイメージの再確認と、それと対比させるようなピーターの子供のような脱出イメージ…それは街で出会った女性の追跡劇まで気分が続く…
    その中で、ピーターはふとクラリッサの死を想像してしまう。ここにも、もともとはクラリッサを自殺させる構想の名残?が…
    あと、ピーターが思う、ほとんどが想像上のイメージで人は生きているのではないか、というところ。
     誰もが自分自身をつくりだし、女をつくりだし、素晴らしい楽しみやそれ以上のなにかを 創造しているわけだ。奇妙だが、それは事実なんだ。そしてこうした想像の産物はけっして他人と共有なんかできないーしょせん、それは砕け散る。
    (p101)
    ピーターだけでなく、これから展開されるセプティマスの幻想や、クラリッサの価値観もそうだろう。砕け散るのがこの作品の主題。波みたいなものだ。人が背負いこんでいるこうしたもろもろのものは・・・
    (2012 11/24)

    列車のなかで眠りこけることについて
    タイトルに書いたほど大した内容ではないのですが・・・
    「ダロウェイ夫人」今日は169ページまで。例の6月13日のちょうど半分、正午のビックベンの鐘が鳴り響いたところだけど、文量はまだ半分以上残っている。今月中に読み終えようと思っていたけど、無理か?
     列車のなかで眠りこけている人が列車が揺れるごとにぶつかってくるのに似て、彼女のことが何度もよみがえってくるのだ。
    (p138ー139)
    この辺りずっとピーターが昔のクラリッサやサリー(クラリッサの当時の同性愛相手でもある)などとの想い出が続くのだが、その中のこの一節。列車で寝ている人がぶつかってくること、その頻度、その寝ている人がその度に半ば寝ぼけてみる意識の流れ、そしてぶつかってこられた人もそれが奇縁でその度何かを思い出す、のだとしたら。そしてこういうリズムがこの人間社会または自然全体である程度似ていたとすれば、などと空想はこういう文を前にして広がる。
    この後は比重はセプティマスに移っていく。彼は感じやすいことで悩んでいるわけではなく、何も感じられなくなって悩んでいるという。大戦で友人?のエヴァンスが死んだ時も何も感じなかったというし、妻にも何の愛情も感じられないまま結婚したという。先述のピーターとは反対だが、先のリズムは似ている、のか?
    この小説、裏返したら「夜の果てへの旅」(「へ」つけてみました)になるのか?
    (2012 11/25)

    ブラドショーの問題
    今朝の「ダロウェイ夫人」はセプティマス夫妻が精神科医のブラドショーのところへ行く場面。ここはウルフ自身の体験も含めて、ブラドショーらの「均衡」「改宗」という精神を批判している。一番の被害者とされるブラドショー夫人のところ、またフーコーを先駆けているような狂気の隔離など…でも、それだけでいいのかな、という気もする。ブラドショーの考え方を批判している…のは確かだけど、それで終わりにできない、と自分は今思う。文学やってる人と精神医学やってる人が(例えそれが同一人物だとしても)別々の多数見解で納得してしまってはならないと思う。均衡は確かに重要だけど、それは唯一決まりきった均衡状態ではない、というような気がする…
    一つ気になったのは、レイツィア(イタリア人の妻の方)が「ブラドショーはいい人じゃない」と思っているところ。それも最初の記述は誰がそれを思っているかぼかした上で…レクツィアはセプティマスの自殺衝動?に困り果てていたはずではなかったか…
    あとは13時半の時報とともにプルードンの昼食会(といっても、呼ばれたのは二人だけで、なんか別の動機があるみたい)に話は移る。で、ここで気になったのは時刻がビックベンなりナントカ商会なりの時計で示されているところ。あたかも時刻などは単なる決まりごとでしかありませんよ、これ読んでいる未来の読者の世界にはそんな決まりごとなどないかもしれませんね…と言っているような気さえする。

    恋愛と宗教
    実際、まさにこれこそが至高の神秘なのだーこちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつの部屋がある、ということが。ほんとうに宗教はその謎を解いたのかしら? あるいは恋愛が?
    (p228)
    今日はここまで「ダロウェイ夫人」を読んだ。午前中来訪したピーター、そしてここで登場する娘エリザベスの家庭教師であるキルマン。この二人を恋愛側と宗教側に配置したクラリッサの意識。一方のクラリッサの「部屋」は個人と表現してもよい。確かウルフの作品に「部屋」がついたものなかったでしたっけ。
    やっと本全体の半分くらい。
    (2012 11/26)

    喧騒の自覚
    えと、おはようございます。
    この喧騒には自覚がない。人の運命や宿命にたいする認識もない。
    (p246)
    「ダロウェイ夫人」より…まあ、それはそうだろう…喧騒に自覚があったら、怖い…
    人間の忘れっぽさは心を傷つけ、忘恩は心をむしばむかもしれない。しかし、年々歳々絶えることなく流れ出すこの喧騒の声はいっさいをうけとる
    (p246)
    この「ダロウェイ夫人」の本当の主人公…というより、登場する様々な人々の裏側(というか人々を図とすれば地(その逆もまた真)というか)はこうした街の喧騒だったりするのかも。こう考えれば前に書いた時計と時刻の謎も少しわかる。時計の鐘も喧騒の一つなのだ。またこの文章の後に出てくる印象的な雲と光などの自然界もまた、その一部なのかも。
    ウルフ自身はこうした喧騒に身を任せたのかな。

    浜辺の貝殻
    えと、今日の帰りの「ダロウェイ夫人」は、セプティマスの自殺…違った見方すれば追いつめられたうえでの事故死…
    まずはそこに残されたレイツィアの意識から。
    そして海は貝殻に虚ろな響きをひびかせながら、浜辺に横たえられたわたしになにごとかつぶやいてる。わたしの肉体は誰かの墓に撒かれた花のように浜辺一面にばらまかれている、そうわたしは感じる。
    (p267)
    一面にばらまかれている、というのはこの小説の一つのテーマ。少しあとのページで若きクラリッサが同じようなことを考えている…
    さて、先のセプティマスの自殺の場面から、次は彼を運ぶ救急車のサイレンが聞こえてくる中のピーターの意識から。
    まるで自分があの感情の奔流によってどこかとても高い屋根のうえに吸いあげられ、肉体以外の部分だけが、貝殻の散らばった白い浜辺のように、裸のままとり残されたかのようだ。
    (p270)
    どうでしょう?さっきのレイツィアの意識の文と結構似てますよね。少なくとも使用単語の選択に関しては。浜辺とか貝殻とか。意識は個人を越えて、各々の根っこに入り込んでいくものなのか…
    (2012 11/27)

    世俗小説としての側面
    えと、おはようございます。
    「ダロウェイ夫人」もまもなく300ページ。ここでこの小説の世俗小説としての側面を…なんて、たいした内容ではないから期待しないで(誰もしてないけど…)。
    っていうか、この1923年って、90年近く前だけど、今の自分が想像するのに無理がない世界だよね。車もあるし鉄道もあるし電灯もある…これがも少し前(例えばユリシーズの1902年やゾラやプルーストの(作品の)時代)だと、車はそんなに一般的でなく馬車。プルーストには初めて自動車に乗るシーンがありますが…まあ言ってみれば、現時点での文化が出揃った感じ。あと、第一次世界大戦後というのもその心的共有感?に一役かっているのかも。世界的視野とそれから戦争への無力感。自分達の力ではどうにもできなくなった社会・政治の動き…
    物語的には、これからクラリッサのパーティーが始まるところ。毎度の場面転換の巧さと、それから自己の海を泳ぐさまの比喩、それから夕暮れのロンドンを水没した街とした比喩。
    今月中に本文は読めると思うけど、詳しい解説は微妙なところ。

    窓の外には
    えと、「ダロウェイ夫人」の本体部分は読み終わりました。あとは充実した解説だけ。今回はほとんど解説の先回り読みはしてないので、何が書いてあるのか、本当に楽しみ。
    前の世俗的ないろいろなものに飛行機も付け加えといて下さい。それも何かの宣伝で飛ぶという…
    死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき…
    (p329)
    中心云々というのは最初の方でクラリッサが何か言ってたなあ。この小説は死がテーマ…というよりそれしか書いてないとも…シェイクスピアの「死を恐れるな」という言葉とともに。でも、クラリッサがこの日本物の死に直面するのは、このパーティー内で話題になったセプティマスの自殺が最初。
    彼女は窓辺へ歩いていった。
    ばかばかしい考えではあるけれど、あそこにはわたしの一部がある。
    (p331)
    いろんなところに自分という存在がある、というのがこの小説のもう一つのテーマなんだけど…窓辺か…セプティマスも窓辺から…
    確か最初の構想ではダロウェイ夫人自身が死ぬ役割なはずでしたよね。それをセプティマスという副登場人物に置き換えたわけだけど。こうしてみると、この部分以降クラリッサが出てこないこともあり、本当にクラリッサはこの日を生き延びたのか、謎といえば謎に…
    そして小説の最後もこんな謎の言葉に…
    そこに彼女がいたのだった。
    (p348)
    (2012 11/28)

    そこに彼女はいたのか
    えと、おはようございます。
    ということで、「ダロウェイ夫人」の解説も全部読み…終わってない…文庫版あとがきが残っている…
    ま、それはともかく、瞬間瞬間をその中に身を投じて生きようという、この小説のもう一つの側面(それを代表するのがクラリッサでありピーターである)が、19世紀末に大きく現れたキリスト教世界観からの脱却の潮流とつながっている、というのはまず押さえておこう。そいえば、セプティマスが大戦を思い出すように、クラリッサやピーターは1890年代の思い出に浸る…たぶん、先の19世紀末の潮流を決定づけたのがダーウィンだったんだろうなあ。
    ところで、訳者丹治氏は小説最後の文を文字通り?受け取って、ピーターの前にクラリッサが現れたとしている。まあ、ウルフ自身の序文でも最初は死ぬ予定だったけど…と書いているし、丹治氏はクラリッサが向こう側の建物にいるおばあさんの姿に生きようというメッセージを受け取った、としているのも魅力的だし…でも、そうではない可能性も(ウルフの構想はともかく)味わえるのではないか。自殺した姿、あるいはピーターが感じとったクラリッサのオーラだった…などなど。
    ウルフの序文で、真実と虚構が複雑な絡まり方をしている云々とあった通り、小説内の真実と虚構もまた絡まりあっているのだろう…って、考えるのはどうか。
    (2012 11/29)

  • この読みにくさ、泉鏡花にちょっと似てる。
    でも翻訳のせいかさらに(百倍くらい)読みにくい。
    泉鏡花は大好きだし、この小説も嫌いではない。
    けっこうな長編でストーリーらしいストーリーも特になく集中して読むのは難しそう。
    最初と最後だけ読んで間の部分は気が向いた時にちょこちょこ読もうかな。

  • 一度目に読んだ時には、途中で挫折してしまった。
    しばらくして、二度目に読んだ時には、とても素晴らしい小説だと感じながら最後まで読み終えることができた。
    読み進めるためには、少し慣れが必要に思う。慣れないと、言葉が滑るばかりで頭に入ってこない。けれどもいったんうまく読み方を調整できれば、言葉がきらきらと輝き始めるから不思議だ。

  • 灯台へ、が、良かったので、ウルフ二作目。

  • 3.69/408
    『モダニズム小説の傑作
    現在と過去を自在に行き来し、青春時代を回想する「意識の流れ」の文体で、クラリッサ・ダロウェイの1923年6月、第一次大戦の傷跡残るロンドンのある一日を描く。モダニズムの代表作。』(「集英社」サイトより▽)
    https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-760535-8

    原書名:『Mrs Dalloway』
    著者:ヴァージニア・ウルフ (Virginia Woolf)
    訳者丹治 愛
    出版社 ‏: ‎集英社
    文庫 : ‎416ページ

    メモ:
    ・松岡正剛の千夜千冊 1710夜
    ・英語で書かれた小説ベスト100(The Guardian)「the 100 best novels written in english」
    ・世界文学ベスト100冊(Norwegian Book Clubs)
    ・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」
    ・オールタイムベスト100英語小説(Time Magazine)「Time Magazine's All-Time 100 Novels」

  • 「意識の流れ」という小説技法が使われているらしい。
    語り手がどんどん代わるから、(え、誰?)ってなるけど、人が考えていることがすべて見えるのはおもしろい。

    一文一文が長いのも、意図的なの?
    「意識の流れ」について知りたいなあ。

    傍から見たらただの喧嘩だったり、聖人君子のようだったりしても、人は見かけによらない。
    人ってほんといろんなこと考えてるんだよな〜って、改めて意識させられた。

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著者プロフィール

1882年―1941年、イキリスのロンドンに生まれる。父レズリーは高名な批評家で、子ども時代から文化的な環境のもとで育つ。兄や兄の友人たちを含む「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれる文化集団の一員として青春を過ごし、グループのひとり、レナード・ウルフと結婚。30代なかばで作家デビューし、レナードと出版社「ホガース・プレス」を立ち上げ、「意識の流れ」の手法を使った作品を次々と発表していく。代表作に『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『波』など、短篇集に『月曜日か火曜日』『憑かれた家』、評論に『自分ひとりの部屋』などがある。

「2022年 『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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