- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087717273
作品紹介・あらすじ
「誰の心にも淀みはある。でも、それが人ってもんでね」
江戸、千駄木町の一角は心町(うらまち)と呼ばれ、そこには「心淋し川(うらさびしがわ)」と呼ばれる小さく淀んだ川が流れていた。川のどん詰まりには古びた長屋が建ち並び、そこに暮らす人々もまた、人生という川の流れに行き詰まり、もがいていた。
青物卸の大隅屋六兵衛は、一つの長屋に不美人な妾を四人も囲っている。その一人、一番年嵩で先行きに不安を覚えていたおりきは、六兵衛が持ち込んだ張方をながめているうち、悪戯心から小刀で仏像を彫りだして……(「閨仏」)。
裏長屋で飯屋を営む与吾蔵は、仕入れ帰りに立ち寄る根津権現で、小さな唄声を聞く。かつて、荒れた日々を過ごしていた与吾蔵が手酷く捨ててしまった女がよく口にしていた、珍しい唄だった。唄声の主は小さな女の子供。思わず声をかけた与吾蔵だったが――(「はじめましょ」)ほか全六話。
生きる喜びと生きる哀しみが織りなす、著者渾身の時代小説。
【著者略歴】
西條奈加(さいじょう・なか)
1964年北海道生まれ。2005年『金春屋ゴメス』で第17回日本ファンタジーノべル大賞を受賞し、デビュー。2012年『涅槃の雪』で第18回中山義秀文学賞、2015年『まるまるの毬』で第36回吉川英治文学新人賞を受賞。近著に『亥子ころころ』『せき越えぬ』『わかれ縁』などがある。
感想・レビュー・書評
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あなたは、自分が暮らす場所にどのようなイメージを持っているでしょうか?
21世紀を生きる私たちは自由に世界を旅することができます。また、その気にさえなれば、そんな世界のあらゆる場所に居を構えることだってできます。そもそも長いようで短い人生、たった一度きりの人生、世界のどこに住んでも構わないのに同じ場所にずっと住み続ける方がもったいないとも言えます。
しかし、現実には生まれて死ぬまでずっと同じ場所から動いたことがないという方、進学のために途中で中抜けした期間はあっても、基本的にはずっと同じ場所で人生を送っているという方は多いと思います。入国制限が厳しい国もあるので世界の全ての場所で自由にというのは言い過ぎかもしれませんが、少なくともこの国の中ではそんな制限もなく私たちは自由に居を構えることができます。そんな自由があるにも関わらず同じ場所を選び続ける人がいる、まあ同じ場所に住み続ける自由もあるとすると、そもそも他人がそんなことを言っても仕方ないのかもしれません。
今の私たちの時代は、そんな自由がこの国では当たり前です。しかし、歴史を遡る、江戸時代へと遡るとまた違った事情も見えてきます。今よりはそもそも移動制限があったこの国の中では、『家』というものが今よりも大きな位置を占めていました。『近所の娘は次々と身売りされ』たという今の時代には考えられないことも当たり前に行われていたその時代。そんな時代には、好む好まないに関わらず、決められた場所に暮らすしかない、そんな人生もやむを得ない人たちが当たり前にいたようです。『家』を出て行きたくても自由に出ることが叶わない。『この家を出ることが、いまのちほにとっては、たったひとつのよすがだった』、そんな風に思う人の存在。しかし、そんな中でもそれでも人はたくましく生きていました。
さて、ここに、江戸時代の『長屋』を舞台にした作品があります。さまざまな境遇の人々が暮らす『心町』の『長屋』を描くこの作品。出て行くことを『よすが』に思う者がいれば、好んで越してくる者もいるという人々の暮らしを見るこの作品。そしてそれは、そんな『心町』を流れる「心淋し川」の淀みに、人がこの世を生きていくことの意味を問う物語です。
『やっぱり人ってのは死に際になると、生国に帰りたいと願うものなのかねえ』と、生まれた『霞ヶ浦を見てえ』と言いながら亡くなった『昭三じいさんの葬式から帰った母の きんが』話すのを聞いて『あたしはここを出たら、二度と戻りたくなぞない』と思うのは主人公のちほ。そんな ちほは、『川沿いの狭い町にも、この家にも、ちほは心底嫌気がさしてい』ました。ちほの姉の『ていもとんだ貧乏くじを引いた』と話す母親は、嫁いだ鮨売りが『博奕好き』だったことを愚痴り、それを聞いて『うっせえな!いい加減、だまらねえか!』と父親が怒鳴りつけます。『酒が抜けず仕事に出られぬ日も多』い父親。結局、『母とちほの針仕事で家計を支えているのは、姉の家とまるで同じだ』と、ちほは思います。『姉に続いて』、『この家を出ることが』、『たったひとつのよすが』と思うちほ。そんな ちほが『長屋を出』ると、『差配(さはい)の茂十(もじゅう)と行き合います。『穏やかで愛想がいい五十半ばの男』という茂十と、目の前にある『小さな川』の流れの元について話をする ちほ。そして、『今日は雨になりそうだから、早めに戻りなよ』と茂十は ちほを送り出しました。そんなちほは、『吉原からすらも目の敵にされるという色街』である『岡場所』のある『宮永町』の『志野屋』へと向かいます。『岡場所の男衆の印半纏や旦那衆の羽織なぞをもっぱら仕立てている』という店に仕立物を届けるちほは、『三十路を大きく超えた手代』に仕上げについて嫌味を言われます。『母の手指の才を継いで』おらず、『何年やっても針仕事は好きになれない』というちほ。そんな ちほは、帰りがけに『あのう、今日は…』と言いかけます。『意味ありげな視線を向け』ながら『上絵師なら、まだ来ちゃいないよ』と言う手代に『頬が熱くなる』ちほは、『そ、そうですか…それじゃ、またよろしくお願いします』と言って、店を後にしました。『あとふた月半 ー 夏が終わればあの人が、うらぶれた町からあたしを連れ出してくれる』、そんな風に『考えるだけで、背中に翼が生えそうな気がする』ちほ。そして、『四半時ほど経って、待ち人は現れ』ました…とつづく、表題作〈心淋し川〉。『心町』の人々の暮らし中に自身も一気に入り込んでいくことのできる好編でした。
“生きる喜びと生きる哀しみが織りなす、著者渾身の時代小説”と内容紹介にうたわれるこの作品。2021年に第164回直木賞を受賞しています。読書&レビューの日々を送る さてさてとしては、直木賞受賞作品と聞けば、当然に関心を抱くはずなのですが、実のところ今まで”時代小説”を読んだことがなく、事実上スルーしてしまい、受賞のこと自体すっかり忘れてしまっていました。ところが、同じ2021年の第164回芥川賞を受賞した宇佐見りんさんの作品を読むにあたり当時のニュースを色々と見る中にこの作品のことを思い出しました。女性作家さんの作品に限定して読書をしている私ですがその範囲内で読書の幅を広げたいという思いは常々あり、今回思い切ってこの作品を手にしました。そもそも読みもしないで感覚的に”時代小説”を避けてきたわけですが、その冒頭を読んで、”えっ?”という思いが押し寄せました。
『その川は止まったまま、流れることがない。たぶん溜め込んだ塵芥が、重過ぎるためだ。十九の ちほには、そう思えた』。
何の根拠もなしに、”時代小説”とは江戸時代の読みづらい文章がひたすら続くものと思っていた私には青天の霹靂を思う世界がそこに広がっていました。”これなら、読める!” そして、読後★5つをメモした私は、どうして今まで勝手な理解で”時代小説”を避けていたのだろうという思いに包まれました。ということで、このレビューは、”時代小説”初挑戦の さてさてがすっかりその作品世界にハマってしまった、そんなレビューです。
さて、そんな作品でまずは二つの視点を取り上げたいと思います。一つめは、この時代を感じさせる表現の数々です。江戸時代というと平均寿命は32〜44歳だったとされています。現在の男性81.47歳、女性87.57歳と比べると半分以下。ということで、そんな時代の年齢感を表す表現です。
・『わずか八歳の子供に過ぎぬのに、ひどく利発で、そのぶん鋭い』
→ これは、現代の世の中でも違和感ない表現だと思います。
・『十五歳で元服し、翌年から南町奉行所に入り、父の下で見習いを務めていた』。
→ 『元服』とは、主に男子の成人を言われる表現です。当時は奉行所も実質世襲だったようで、15歳からそんな父親の弟子になって後を継ぐ準備に入っていったようです。
・『二十歳を過ぎれば年増と呼ばれる』。
→ 『年増』という言い方は、現在なら30歳半ば〜40歳前後の方へのマイナス表現になる?と思いますが…。
ということで、子供の幼さは今と大差ないのに、寿命が短い分、上の年代が下方へ押し下げられる。つむり、私たちの人生の各段階が圧縮されている、それが江戸時代なのかな?と思いました。もう一つ、とても興味深い記述を見つけました。それは、『母親を待つあいだ、ひとりでしりとりをするのが常であった』という七歳の ゆかが登場する場面です。そう、この時代にも行われていた『しりとり』が登場します。『毎日いではじまる違う言葉から、ゆかはこの遊びをはじめる』という『い』から始まる言葉、あなたならそこにどんな言葉を思い浮かべるでしょうか?この作品の ゆかが上げるのはこんな言葉たちです。
『犬、鼬(いたち)、壱、池、石、泉、頂き、井桁、今、十六夜…』。
今の世でも当たり前に登場するものもあれば『鼬』や『井桁』、そして『十六夜』は出なさそうです。一方で今の世にしか通用しない言葉も当然あることを考えると、時代を超えての『しりとり』はお互いのクレームが凄いことになりそう、そんな風にも思いました。
次に二つめは、さらっと記される洒落た表現の数々です。こちらも幾つかご紹介しましょう。
・『どうして耳には目蓋のように、塞ぐものがないのだろう』。
→ 母親の愚痴ばかり聞かされる ちほは、そんな愚痴を『毎日毎日きかされるこっちはたまらない』という中にこんなことを思います。
・『若い頃にはいちいち傷ついてもいたが、いまは馬の耳が受ける風よりも他愛ない』。
→ 幼い頃から『おかめ』と言われ続けた りきがそんな言葉を意に介さなくなった今を、”馬耳東風”をくだいて表現します。
・『あけすけな口調で語られて、夕日なぞ出ていないのに頰が染まるようだ』。
→ ちほに男がいることを見抜いた姉の ていが、巧みに ちほに白状させようと迫る中に、ついに陥落してしまった ちほの表情の変化をこんな風に表現します。
私はこの作品が西條さんの一作目となるため、他の作品での西條さんの作風を全く存じ上げませんが、美しい表現を出すぞ、出すぞ、という感じが全くない中に、極めてさらっと何ごともなかったかのように気の利いた表現を織り交ぜていくこの文体、読んでいてとても小気味よく感じました。
そんなこの作品は六つの短編が連作短編を構成しており、その核となるのが書名にもなっている「心淋し川(うらさびしがわ)」の流れる『心町(うらまち)』です。『小さな川が流れていて、その両脇に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっている』というその町は、『裏町だったのだろうが、誰かが裏を心と洒落たのかもしれない』とも言われる小さな町です。物語は、各短編ごとにそんな『長屋』に暮らす人々に順に光を当てながら進んでいきます。各短編の内容を簡単にご紹介しましょう。
・〈心淋し川〉: 十九歳の ちほは『愚痴』ばかりの母親と、『酒』に入浸る父親に辟易し『家を出る』ことを『よすが』としていました。そんな ちほは元吉という『上絵師』に恋焦がれていますが、元吉の気持ちが今一つ掴めません。
・〈閨仏〉: 『六兵衛旦那の、ろくでなし長屋』と呼ばれる『長屋』に四人の妾の一人として囲われる りきが主人公。若い つやとばかり床を共にする六兵衛が持ってきた風呂敷包みを開けた りきは中味の『男根を模した、張形』に驚きます。
・〈はじめましょ〉: 『先代の稲次』から譲り受けた『四文屋』で、板場を守る与吾蔵が主人公。そんな与吾蔵は、豆腐を仕入れに行く途中で、歌詞に記憶がある『はじめましょ』と始まる歌を歌う おるいという少女と出会います。
・〈冬虫夏草〉: 『母さん、何べん言ったらわかるんだ!』という声に『井戸端に集まっていた女房たち』が顔を顰めます。『お吉さんも気の毒に』と言われる吉には、『歩くことはおろか立つことさえできない』息子がいました。
・〈明けぬ里〉: 『この穀潰しが!あたしが稼いだ金まで、みいんなすっちまって』、『またてめえが、稼ぎにいけばいい…男に媚売って…根津遊廓の売女…』と激しく罵り合う夫婦。そんな妻の ようは葛葉と呼ばれた過去を思い出します。
・〈灰の男〉: 『楡爺、今日のおつとめは終わりかい?』と『心町に至る坂道を下』る男に声をかけるのは差配の茂十。今日も何の反応を示さない男を見る茂十は、南町奉行所で『商品の価格』を調査する『諸色掛り』だった時代を振り返ります。
六つの物語はそれぞれに味わいを異にします。そんな六つの物語を繋ぐように全ての短編に登場するのが、六編目〈灰の男〉で主人公を務める茂十です。なんとも”良いおじさん”を各話で演じていく茂十。そんな茂十に光が当たる六編目〈灰の木〉は、最終話ということで皆さんのご期待そのままにオールスターキャストで綴られます。これには、思わず気分が高揚します。これから読まれる方には是非ご期待ください。
そして、この物語は、上記の通り『心町』の『長屋』に暮らす人々に順に光が当たっていく物語です。ふと考えると、似たような物語を読んできたことに気付きました。そうです。現代を舞台にした”古い木造アパート”を舞台にした物語群に似た味わいです。”真綿荘”を舞台にした島本理生さん「真綿荘の住人たち」、”スロウハイツ”を舞台にした辻村深月さん「スロウハイツの神様」、そして”小暮荘”を舞台にした 三浦しをんさん「小暮荘物語」。そんな物語を江戸の『長屋』に移したような感覚をこの作品に感じました。一つの『長屋』にもさまざまな人の暮らしがあり、それぞれに人間ドラマがあります。この作品は、舞台が江戸時代です。結婚や離婚の概念、〈明けぬ里〉で描かれる『吉原さながらに大門や総門を構え、茶屋や妓楼がずらりと建ち並び、見返り柳や楓番所もある』という『岡場所』の世界を描く物語は、江戸時代ならではの雰囲気感を見せてもくれます。『南町奉行』という表現には、時代劇の”大岡越前”の世界観も浮かび上がりはします。しかし、読めば読むほどに私の中に浮かび上がったのは、結局のところ、時代が変わっても人がいればそこにドラマが生まれるということ、そして、そのドラマは時代による舞台背景こそ違え、今の私たちが作り上げていく日々の生活と変わらないのではないか、ということでした。夫と妻がいれば喧嘩が起こり、嫁と姑が集えば諍いが起こり、そして素敵な人と知り合えばそこに恋が生まれる、それは時代が変わっても同じこと。今回初めて”時代小説”を読んで、今まで思ってきた違和感を感じるどころか、そこに親近感を抱いた私、それは、この物語の違和感のなさが生むものなのだと思いました。そして、人間ドラマはとても面白い、人間の喜怒哀楽はいつだって面白い、改めてそう感じました。
『心川と名だけは洒落たどぶ川の両岸に、貧乏長屋ばかりがひしゃげたようにうずくまっている』という『心町』の『長屋』に暮らす人々の生き様に光を当てていくこの作品。そこには、そんな町にそれぞれの思いを抱きながらも日々の暮らしを生きていく、不平と不満に苛まれながらも、淡々と毎日を送る人々の暮らしがありました。『誰の心にも淀みはあ』り、『事々を流しちまった方がよほど楽なのに、こんなふうに物寂しく溜め込んじまう』『人』という生き物。それは、『雨水とともにあらゆる塵芥を溜め込んで、まったりと淀んでいる』「心淋し川」の流れと同じようなものなのかもしれません。
時代が変わっても、人の喜怒哀楽の感情は何も変わらないと感じたこの作品。『心町』の『長屋』に生き生きと暮らす人々の息づかいを物語に感じさせるこの作品。
すっと心に沁み込んでくるような物語の中に、作者である西條さんの優しい眼差しを感じた素晴らしい作品だと思いました。 -
2020年下期直木賞受賞作品
最近、感性を磨くためにと言ったら少し大げさだが、女性作家の作品を読むようになった。つーことで直木賞受賞作品ということもあり西條奈加さんを初読み。
川がタイトルの作品を読むのはいつ以来だろうと、何故か思う。そうだ。宮本輝の川三部作(泥の河・蛍川・道頓堀川)以来だ。特に「蛍川」は、1977年に芥川賞を受賞しているらしい。学生時代に夢中で読んだ記憶はあるが中身はきれいさっぱり忘れた(笑
余談はさておき。
本作の予備知識ゼロで最初読み始めたので、あれ?舞台が同じな単なる短編集かなと思ったが、差配のおじさんがちらほら登場してきたので連作であることに途中から気づく。
最後の「灰の男」は驚きの展開で納得、大満足。さすが直木賞!これが連作の醍醐味ですな。
江戸時代の庶民の息遣いが聞こえて来そうな作品よかった。
日本史好きとしては江戸時代のいつの設定なのか気になるところだが一切説明がない。これも読書に想像力を掻き立てるために著者が意図したものなんだろうな。
物語の舞台は、いわゆる「谷根千」と呼ばれている台東区の谷中、文京区の根津、千駄木エリア。東京の散策スポットのようなので機会があれば面影探しに行ってみようかな。
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今は文京区、千駄木の一角、心町。心淋し川と呼ばれる小さな川が流れていた。この川に沿う古びた長屋に暮らす人達の物語。大名屋敷から流れ出るその川が淀む様に、ここの住民達もこの長屋に流れ着くほど人生に行き詰まった淀みの中にいた。
千駄木に友人がお店を出していて、一年に一度くらいは訪ねている。(ちょっと少ないよね。これから頻繁に行きます。)千駄木から根津に抜ける路地はへび道と呼ばれる。へびのごとくクネクネと曲がっているから。この蛇行は、元は川なんだろうなと思いつつ幾たびか散策。やはり昔は藍染川という小川だったそうで、今でも地下を流れているらしい。
といっても、この小説の舞台は、この川でなく、千駄木駅の西側の大名屋敷後の公園あたりだろうかと推測したりする。根津神社、白山権現と聞き覚えのある地名に一層引き込まれていきました。
長屋で縫い物で生計を立てる娘、不美人ばかり妾に囲む男、根津神社で知り合った女の子に捨てた女を思い出す男、息子を溺愛しその愛情の方向性をも見失う母親、親の借金の為身を売る女性。淀みを抱えた住人達は、生きる哀しみの中わずかな喜びに日々を暮らす。そんな彼らに世話役の差配が寄り添う。
最後の短編「灰の男」は、この差配の人生を語ります。彼を長い間、淀みの中に住まわせた者との哀しいけれど、再び人生を流そうとする最終章に相応しい物語となっています。
千駄木を俯瞰しながらストーリーを追うことができて楽しい時間でした。-
おびのりさん
こんばんは。いつも「いいね」有難うございます。
私もこの本、読んだことがあります。千駄木という地名は聞いたことがありますが、“...おびのりさん
こんばんは。いつも「いいね」有難うございます。
私もこの本、読んだことがあります。千駄木という地名は聞いたことがありますが、“心町”、“心淋し川”というのは架空の土地だろうなと思っていました。でも、おびのりさんのレビューを読むと、どうも昔実際にあったような所をモデルにしてるようですね。今の風景と照らし合わせながら読まれたのですね。
東京には5回くらいしか行ったことがありません。「坂の多い街だな」という印象があり、この本を読んでもそのことを思い出しました。2022/08/04 -
Macomi55さん、こんばんは。
いつも いいねありがとうございます。
心町等は架空でしょうが、千駄木駅の裏手に公園となっているところが...Macomi55さん、こんばんは。
いつも いいねありがとうございます。
心町等は架空でしょうが、千駄木駅の裏手に公園となっているところがあります。今まで、反対側なので立ち寄らなかったのですが、次は見てこようと思っています。
根津神社は、なかなか立派な神社でツツジが見事でしたよ。
少し知っていると、小説も楽しくなりますよね。
素敵な小説でした。2022/08/05
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江戸の千駄木町の“心町(うらまち)”と呼ばれる町……町というよりも実は大名屋敷の一角が陥没して出来た、一角。“心淋し川(うらさびしかわ)”というドブ川のような川が流れ、夏になると蒸し暑さと臭気があり、川底と同様、心の中に掃き溜めのような過去を持ち、脛に傷を持つ者ばかりが肩寄せあって暮らす町。その町から抜け出ることを夢見ながら負の連鎖が続き、“吹き溜まり”から抜け出せない運命の者たち。例えば、博打に溺れた親の借金の方に遊郭に売られた娘が身請けしてくれた男と所帯を持ったが、その男もまた父親と同様博打好きで、結局同じ商売から足を洗えない娘など。あと一歩の所で“幸せ”を掴みそうになりながら、最終的には心町の人たちの人情の中で生きるのも悪くないと、それなりの幸せを見つけて生きていく人たちの心温まる、味わい深い話。臭いドブ川が流れているはずなのに、“心淋し川(うらさびしかわ)”“心町(うらまち)”という響きと共に心象風景の美しい小説だった。
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直木賞をもらった作品ですね。図書館で借りられるのがいつになるか分からないですねえ。読んでみたいです。西條奈加はいいですね。私のレビューにも何...直木賞をもらった作品ですね。図書館で借りられるのがいつになるか分からないですねえ。読んでみたいです。西條奈加はいいですね。私のレビューにも何冊かあげています。悲しい気持ちで終わらなくて、どういう形にしろ、温かな気持ちになるのがいいです。2021/12/04
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居心地の良い一冊。
全ての言葉が滑らかに柔らかに心にスッと沁み込んでくる感覚。
そして言葉に含まれた温もり、人の温もりが心に沁み込んでくるこの物語に居心地の良さを感じた。
特に人とは…人たるものを表現する数々の言葉がしばし心を居心地良くそこに留め置く時間が良かった。
心淋し。
誰もが抱える何かしらの淀み、巧く一掃できない不器用さ、懸命さ。
それを持ち得るから人なんだよね、と愛おしく寄り添いたくなる。
どの話も微風が吹いていくような終いが良い。
それは心の淀みを流していく風なのか…思いを馳せたくなる時間もまた心地良し。 -
生きなおすことはできない
淀んでいると知りながらも
このまま生きるしかない
というある意味諦念と
淀んでいるといっても
川は川
少しずつながれて進んでいく
というほのかな明るさ
不思議な縁でつながっている人
お互いに助け合いながら
不運なことも いつか乗り越えられる日が来る
じっと耐えて そしていつかは
と思える温かさがあります -
「心淋し川」 西條奈加(著)
2020年 9/10 第1刷 (株)集英社
2021年 2/28 読了
情と事情だけを持ち寄って
思い遣りだけで結びついている江戸の寂れた町屋で繰り広げられる人間模様は
慈しみに溢れている。
現代に生きるぼくらは忘れてしまったのか?
この物語に涙するぼくらは忘れてはなさそうだ。
第164回 直木賞受賞作品
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大好きな須賀敦子さんの本を読んだときと似た気持ちになりました。
須賀敦子さんはエッセイだし、舞台がミラノだったりするのに。
なんでかな?
そしてそれは「心淋しい」という言葉に近い気がします。
『心淋し川』の舞台は千駄木町など、東京ではありますが
今は無き東京。
それが須賀敦子さんの半世紀前のミラノと共通します。
著者二人とも50歳を軽く超えていますが
登場人物は若い人達で
貧乏だったりいろんな問題をかかえていながら
一生懸命生きている。
登場人物を見る著者の目が温かい。
愛を感じます。
どちらも街の空気中の水分の多さを感じる。
あと、表現が綺麗なんだと思う。
須賀敦子さんについては、同じ北イタリアの夫をもつ
ヤマザキマリさんが「汚いところも見ていたはずだが
あえて綺麗に仕上げている」ようなことを言っていました。
この『心淋し川』では、知らない単語は古い広辞苑で
だいたいわかりました。
(この前に読んだZ世代宇佐見りんさんによる芥川賞受賞作品『推し、燃ゆ』ではスマホで調べるしかなかった)
岡場所、閨事、新造、忘八…
言葉の選び方が上手すぎ。
そして、須賀敦子さんの『コルシア書店の仲間たち』あとがき。
ここには書きませんが、年齢を重ねてきた人だからこその
味わい深い言葉に、毎回目頭が熱くなります。
一方この『心淋し川』では
〈忘れたくても、忘れ得ぬ思いが、人にはある。
悲嘆も無念も悔恨も、時のふるいにかけられて、
ただひとつの物思いだけが残される。
虚に等しく、死に近いものー
その名を寂寥という〉
これが西條奈加さんの言いたかったことではないでしょうか。
直木賞受賞おめでとうございます。
読んで良かったです。 -
長屋の店子のそれぞれのお話。
ほとんど時代ものは読まない私でも
読みやすかった。
心温まるばかりでもなく、バランスも良かった。
西條奈加さんの本、他にも読んでみたいと思った。
著者プロフィール
西條奈加の作品






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こちらこそ、いつもありがとうございます。
そうなんです。時代小説初めて読みました。”挑戦”という感じで意気込んだのですが、そんなことは不要でした。そこにあるのは、私たちの日常と基本的には同じに、さまざまなことに喜怒哀楽の日常を送る人たちの日々の営みでした。
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時代小説には本書のような名もなき庶民の喜怒哀楽を扱ったものと、歴史を題材に創作した小説と、二つありますが、これは前者ですね。
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今回、初めて時代小説を読んでみました。「源氏物語」を読んで、あれと、現代の小説の真ん中くらい、ただし現代語訳までは不要に読めるもの、勝手にそんなことをイメージしていたので今まで手を出せずじまいでした。全く違いましたね。
おっしゃる通り名もなき市民の喜怒哀楽という言葉通りの作品でした。連続して「烏金」も読んでいますが、やはり同じ感じ。もちろん現代社会とは暮らしのさまざまな部分が違うので同列には考えられませんが、いずれにしてもとても興味深い世界だと思いました。時代考証等大変なんだろうなと思いますが、おかげで歴史の教科者でも読めなかったことを読めている気がします。
勝手な認識で手を出していない分野もどんどん読んでいこうという気になった、そんな一冊でした。ありがとうございます。