フィネガンズ・ウェイク 抄訳

  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (680ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087733983

作品紹介・あらすじ

昼の書である『ユリシーズ』に対して夜の夢の書。バラッド『フィネガンの通夜』のリズムに誘われて居酒屋の亭主H・C・イアウィッカーが登場する。ダブリン郊外に店を持つ妻アナ、双子の息子シェムとショーン、娘イシーの一家が織りなす愛情と葛藤の物語、そこから見えてくる全人類の神話と歴史。リフィの流れに人類再生の願望をのせて進む壮大な作品。本書は、原作の約二分の一を訳出、選び出した断章ごとに解説を付して、全体像がわかるようにした。

感想・レビュー・書評

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  • しばらく会っても話してもいない人が夢に出てきて、不思議だと感じたことがないだろうか。そんな時、よくよく考えてみると、昼の間にまったく別の意味で同じ音の言葉を口にしていたのを思い出すことがある。夢の中では、言葉は意味を離れ、音だけが独り歩きしている。この現実と切り離された言語の世界をラカンは「象徴界」と呼んでいる。人は夢を通して「象徴界」に入っているわけだ。

    常に横滑りして、一つとして同じところにとどまらず、とらえどころのない「夢」の世界。夢を見ているのは確かに自分のはずなのに、夢の中では自分さえ自分ではなくなり、確かな現実感は失われてしまっている。この失われた世界をラカンは「現実界」と呼ぶが、「現実界」は、自我によって歪められ、抑圧されている。そこで、夢や言い間違い、冗談や身体的失調として、無意識の方へ帰ってくるという。「無意識は言語によって構造化されている」とラカンは言う。ならば、その逆に構造化された言語によって「夢」の世界を描くことができるのではないか。

    朝のマーテロ塔から寝床の中のモリーの長い独白に至る一日を描いた『ユリシーズ』が「昼の物語」だとしたら、『フィネガンズ・ウェイク』は「夜の物語」、言い換えれば「夢の物語」である。たしかに『ユリシーズ』でも、文体模倣を初めとする様々な言語実験が駆使されてはいたが、まだ物語らしい骨格は備えていた。それにひきかえ『フィネガンズ・ウェイク』は、英語の中に数十種の言語を織り交ぜ、地口や二語を混合して作った混成語を多用した語り口調が採用されている。それだけでも判りづらいのに、登場人物の呼び名はおろか属性さえ常に移り変わる。まさに夢の中である。

    ベケットは、『フィネガンズ・ウェイク』におけるジョイスの文章について、「何か<について>書いたものではなく、<何かそれ自体>なのだ」(<>内の原文は斜体)と書いているそうだが、さすがにうまいことをいうものだ。セザンヌの描いた林檎の絵を見て「これは林檎を描いた絵だ」というほどばかなことはあるまい。だが、文学に関していえば、何について書かれたものかが問題にされることが多いのも事実。「何」を描くかではなく、「どう」描くかがジョイスにとっての問題だった。

    何を描くにせよ主題はすでに神話や聖書をはじめ、文学、芸術からラジオやミシンに至るまで意識に上った何もかもを無意識に送り込む自分というシステムの中に無尽蔵にある。それをまるごととらえようとするなら、広大な無意識の世界を旅するよりほかはない。『フィネガンズ・ウェイク』は、その野望の実現のためになされた壮挙である。とはいえ、たとえ夢であっても、フィネガンの見たものは何か知りたく思うのが人間である。

    すでに完訳はあるものの、柳瀬尚紀訳『フィネガンズ・ウェイク』を読むのは、夜の移動遊園地で狂ったように回り続ける回転木馬に乗せられたようなもので、めくるめく感動は味わえるものの、よほど体力に自信がないと長時間乗り続けているのは不可能である。全体を四部に分け、それをさらに章立てし、各章の約半分を脚注、解説付きで抄訳した宮田訳は、一般読者の体力に合わせてくれているところがうれしい。一つの語が複数の意味を持たされ、増幅し続けるイメージを、それなりに意味が通じるように訳すのは骨の折れる作業であったろう。表意文字である漢字を駆使し、ルビで音を表し、脚注で他の意味や連想される歴史的事実、人物を解説するという方法は入門書とするに相応しい。

    物語とも小説とも言えない断片の寄せ集めのような『フィネガンズ・ウェイク』だが、一応ダブリン郊外でパブを営むハンフリー・チムデン・イアウィッカー(HCE)と、その妻、双子の男の子と妹の家族の物語という体裁をとっている。HCEには、かつてフェニックス公園で性的犯罪を犯した過去があり、それが周囲に責められているという罪の意識につながる。双子のシェムとショーンは、互いに反発しつつ妹イシーに近親相姦的愛情を抱いている。HCEの罪の意識は原罪に、双子は『ユリシーズ』のスティーヴンとマリガンをはじめ、カインとアベル、ナポレオンとウェリントン、アイルランドとイングランドのように様々な対立を表し、妹との恋愛感情はトリスタンとイゾルデ、アベラールとエロイーズなど罪意識の絡む様々な愛の物語に響き合う。

    「フィネガンズ・ウェイク」という題名は、フィネガンという煉瓦職人が梯子から落ちて死に、その通夜でウィスキーをかけられて甦るという同名のバラッドによるが、アイルランドの伝説の英雄フィン・マックール(フィン・アゲイン)ともかけられている。HCEはダブリンの町を覆うように横たわって眠るフィン・マックールに擬せられ、妻であるアナはその傍を流れ、生命を象徴するリフィ川に擬せられている。横たわるフィンの見る夢として始まった物語は逸脱を繰り返しながらも、神の時代、英雄の時代、人間の時代とそれらが反復・循環(リコルソ)する移行期に分けられるというヴィーコの歴史観をなぞるように進んでゆく。

    『ユリシーズ』の終わりがあの有名な句読点なしのモリーの長い独白であったのと呼応するように、『フィネガンズ・ウェイク』の終わりはHCEの妻、アナ・リヴィア・プルーラベル(ALP)の夫に宛てた手紙とそれに続くモノローグで終わる。ライト・モチーフとしてジョルダーノ・ブルーノの思想である二元論を超えた対立と合一の理念を響かせるこの作品を象徴するように、罪や対立の横溢する物語の末尾はそれらをすべて赦す夜明けを待つ希望の声で結ばれる。頭字が小文字のriverrunで始まった物語は末尾のtheで終わる。頭が尻尾を呑みこむウロボロスの蛇のような円環構造は、これが終わりではなく繰り返しであること、つまり循環・反復する人間の歴史を表している。

    と、まあ、このようなことが分かったのは、とりあえず抄訳にせよ読み通すことができたからで、この抄訳が『フィネガンズ・ウェイク』に躓いていた読者にとっての福音であることは論をまたない。キリスト教文化圏でもなければ、ダブリンに住んでいるわけでもない日本人が『フィネガンズ・ウェイク』を読み通すには、適切な注釈書は不可欠だろう。訳者による全訳が待たれる所以である。柳瀬訳を読み通すことができずに悔しい思いをしていた同好の士にお勧めしたい。

  • ダブリン、アイルランドなどを舞台とした作品です。

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