新訳 チェーホフ短篇集

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087734706

作品紹介・あらすじ

人生って素晴らしい!-珠玉の短篇13と、エッセイとして楽しめる充実した解説を収録。

感想・レビュー・書評

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  • ロシア文学って“誤解を受けやすい”と思う。その思潮や言動が必ずしも日本人が美徳と考えているものと一致せず、この本は特に、他の露人文豪の作品を並べて見ても、日本人からすると不可解なものが多いように思える。
    したがって、自分の感性に合う・合わないだけでこの作品群を評価してしまうのは早合点であり、もっと人間本来の真性に照らして“深く”読むべき。

    そうなると分量としては少ないこの短編集の作品を読み終えるのは私にとって意外と時間がかかった。有り体に言うと「この作品、何が言いたいの?」と感じて終わる作品もいくつかあり、1つ読み終えました、ハイ次、とは中々ならず、熟考のためしばらく本を置くというのも1回や2回ではなかった。
    そうなったらどうすればいいだろう?そのためのテキストを翻訳者の沼野さんはちゃんと考えて、各作品には「講義ノート」とでも言うべき解説文を付けてくれている。

    沼野さんの解説で特に私が興味を引いたのは「せつない」に付けられた『ロシアの「トスカ」』について。
    その前に「せつない」の筋に簡単に触れると-
    辻ぞり(冬のロシアのいわば“タクシー”)の老御者イオーナは客待ち中に雪が体に積もるのも気にしない。そしてごくたまに来る客を乗せても、心ここにあらずといった様子。しかしイオーナはふと客の方を振り返り、唇を動かして何か言おうとしてるのか?そうとも見える。しかし言葉は出て来ない。そんなこんなで誰かに何かを話そうとするがいっこうに成就しない。それは聞いてもらえないというのもあるが、それよりも、イオーナは話したいのだけど、話すための何かが揃わないと話が喉でつかえてしまい、そのまま飲み込んでしまう、そんな感じ。実は彼は息子を不慮の病気で失ってしまっていた…(これはほんの導入部なので筋の全開はしてません。安心してください。)

    沼野さんはトスカについて、ロシア語以外の言語への翻訳が困難な独自の語彙を持つと書いている。そして詩人リルケが、自分の中にある最も言い表したい感情がロシア語で言うトスカであり、母語のドイツ語ではその感情のあやが言い表せないと煩悶する様が詳細に引用されている。
    つまりトスカとは「ペーソス」ではなく、また「心痛」や「憂鬱」も一面しか表していない。
    私が「せつない」を読んで、沼野さんの説明も読んで感じた「トスカ」とは、本来の精神状態では真円の状態であるものが、言葉では言い表せない何か“欠けるもの”が(ごく一部でも)存在し、そのために他人からは真円、つまり普通に見える感情が真円たりえないために心の内部の整合性が取れず、精神的バランスを崩してしまうものと解釈してみた。
    そうなると、一般的にはイオーナは誰にでも息子の死を話すことで同情をしてもらえることになるのだが、心に欠けたものがあるために、心が同情を本能的に拒絶し、そのため口から言葉が出なくなるということになる。
    それは、他人からすると「同情得られたら楽になるよ」というつもりかもしれないが、イオーナからしたらわかってるかのような態度を取ってほしくない、大切なものを安っぽい言葉で汚してほしくないという感情に結び付き、これは日本でも震災での被災者が安直に「ケアしましょう」と言われるのをものすごく不快に思うのと同じ感情で、人間の共通する心理として理解できる。
    ただ、日本語ではそういう感情を的確に言う単語がないが、ロシア語だとそれは「トスカ」になるということだと理解した。

    そうなると沼野さんは解説で『「せつない」は元々日本では「ふさぎの虫」と翻訳されていて原題のニュアンスがこれでは伝わらない』と書いてはいるが、私の『「トスカ」=心の中が何か理由不明で欠けている』説に立つと、「ふさぎの虫」(=気分がふさぐことを虫のせいであるとしていう語(大辞林))という邦題も言い得て妙、と言える。

    以上のようにロシア文学の意義を正確に移すのがいかに難しいか!それを沼野さんは「キモい」「なごみ系のルックス」「ナンパ」という言葉すら翻訳で用いて、チェーホフの生きた息吹そのままをわたしたちの現代感覚で読めるように配慮している。
    異論や批判もあるだろうが(私も正直少し違和感はある)、トータルでは私はこれもアリだと思う。この翻訳が合うか合わないかは時代が証明してくれるから、今結論は出さずに数年後に見てみればよい。ダメならば数年後には先人の訳が残りこの訳は淘汰されることになる。

  • 好き、とかそういう言葉じゃない感じで、
    私の中に残るんです、チェーホフ。
    ロシア語に「トスカ」というのがあるのだとかで、
    それは哀愁とか切ないとか、
    日本語にはなかなか置き換えづらいものだそうで、
    私はその「トスカ」というやつをいつも自分なりに感じていて、
    チェーホフを読むとその「トスカ」をしんしんと感じます。

    胸に深く残ったのは、
    「いたずら」「ワーニカ」「ねむい」
    でした。
    特に、「いたずら」は、
    もう私の中で忘れられない短篇になりました。

  • 初めてのチェーホフだったけど、沼野さんの細かな解説がありがたく、とても楽しく読めた。

    チェーホフに限らず、ロシア文学には小さく、弱く、愚かな人によりそう優しさがあり、そのへんが好きな理由かなと思った。

    ドストエフスキーとかと比べると登場人物がとても素直で、本心を語っている感じがよくわかる。(ドスト氏の登場人物は喋ってる内容が本心なのか嘘なのか判別しづらいと思う)

  • これすごい、一冊の本として情報量もまとめ方にも専門家ならではの手腕を感じる。こんなものが手軽に読めてしまうのはお得である!何気に初チェーホフ、面白い!!!短編面白い!!!もっともっと読みたいしカーヴァーと比べたりしたい。

  •  13篇の作品のそれぞれに、翻訳者によるとっても丁寧な解説が加えられています。チェーホフの作品を読むのは初めてでしたが、この解説のお陰ですんなり作品の世界に入っていくことができました。

     残酷だったり、皮肉たっぷりだったり、冷笑的だったり、いずれの物語も真っ直ぐではなく捩くれていて、かなり暗くて危ないです。物語の背景となる自然や人々の暮らし振りの描写からして暗い。この暗さはロシアの風土と歴史と社会制度に根差したもののような気がします(因みにチャイコフスキーやショスタコーヴィチなどのロシアの作曲家の音楽も根が暗いですね。何だか似ていると思います)。

     「この短篇はユーモア雑誌に掲載された」などと解説にあるけど、こういった作品を「ユーモア小説」なんて言ってよいのでしょうか? ロシアのユーモアは日本人のユーモアとは相当程度違うものだと思いました。

     個人的には「中二階のある家」、「牡蠣」、「ロスチャイルドのバイオリン」がよかったです。これらの作品でチェーホフは、人間をちょっと斜めから眺めているようでいて、実はその身も蓋もない本質をズバリと言い当てている気がします。

  • 大学のゼミでこの本からとった「いたずら」の一編を読んだ時からすごく気になっていた。そして思ったとおりはまった。
    訳者による気合いのはいった解説(もはや「ロシア文学講義」である)が短編ごとに挿入されるのは、ちょっと野暮ったくはある。けどそのおかげで童話「おおきなかぶ」の謎の「一本足」くん(とても笑える)にも出会えたし、リルケの「トスカ」という言葉をめぐる切実な手紙も素敵だし、なによりチェーホフの逸話はどれも面白いので良しとする。

    なかでも自分的に大ヒットは「牡蠣」だ。絶賛。大拍手。
    解説にもあるけれど、ピュアな想像力を前に「わ!うれしい!」となっちゃうこと請け合いなのだ。
    あと女の人にまつわる話はぜんぶいい。

    チェーホフの特徴としてあげられている、
    ・呼びかけが届かない
    ・子供の話がとにかく残酷
    の2点が気になる。

    とりわけ「ワーニカ」における呼びかけの断絶は圧倒的だ。
    子供がじいちゃんにはじめて手紙を出すが、そもそも宛名がきちんと書かれていない……という滑稽な話のなかに人間関係の根源的といってもいいような不条理を感じてしまう。それがなにしろ「生きるか死ぬか」がかかっている重大なメッセージなのにもかかわらず。
    「ねむい」では子守の娘と泣きじゃくる赤ん坊……もちろん赤ん坊に「言葉」というメッセージを送るわけにはいかない。そう考えるとやはり、あの結末しか考えられない?

    「言葉」が届かない状況で小説に何ができるか…というのはすごく今日性のある話というか、いや、小説が小説である限りつきまとうのかな…とか。

    短編は普段あまり読まないけれど、「短編すごい!」と思える本だった。
    長篇に劣るものとしての短編ではなく、この短さでしか伝えられないものがあるのだと思い知った。

  • 2011年1月17日読み始め 2011年1月18日読了。
    まさに選りすぐりの短篇集。収録されている短編はどれもこれも面白かったです!チェーホフの短篇集としても十分に面白い上に、訳者の解説が1篇1篇についてるご丁寧さ。一粒で二度美味しいです。
    なんの解説もなくても面白いのですが、当時のチェーホフの心情や状態、ロシアという国の背景なども説明してくれてるので、作品をより深く楽しむことができます。
    チェーホフを一度も読んだことのない人にとっては、最高の入門書になるのではないでしょうか?新訳なので、かつて読んだ方にももちろんおすすめ。
    訳者の沼野さんには第二弾をお願いしたいです!

  • 『かわいい』
    盲目的な愛情。長編でも良さそうな内容をテンポよく短編に落とし込む。盲目が引き起こすもの、それは己の失念である。この残酷な生を皮肉に描くのがチェーホフの嫌なところであろう。(褒め言葉

    『ジーノチカ』
    男が子供の頃に家庭教師と兄貴の恋仲の秘密を握り、卑劣な嫌がらせをしたことを回想する。この少年は勿論女性が持つ艶麗さのようなものを知らない年齢であろう。そんな女性が己に向けた初の真剣な眼差しが憎しみの眼差しであったということは、彼を傷つけるどころか、むしろ虜にしてしまったのではないか。初めはいたずら心から密会の吹聴など企んだのだろうが、やがて向けられる憎悪の視線、一種その妖艶とも言える眼差しに気付かぬ惚れ込みをしてしまったとも思えた。愛と憎しみの表裏一体のようなものを捉えていて面白かった。

    『いたずら』
    この本を購入した理由が、梶井基次郎の『雪後』を読んで、この短編が仄めかされている場面があり、とても魅力的だと思ったからで、
    案の定当たりだった。その最もな理由は、今この物語が出回ってるのは改訂版の方であり、あまり出回らない初版の方も同時に載せてくれている恐らく日本唯一の本であることと、なんといっても初版の方が数倍も好みであったからだ。低俗なことを言うと、こと恋愛においてはハッピーエンドが最も好ましい。『秒速5センチメートル』を観たときもものすごく引きずったのを覚えている。語り手が過去の失恋をしみじみと語る形式は、語り手は時間が経っているお陰で「しみじみ」できるかもしれないが、こと現在進行で読んでいる読者からするとしみじみなんかできないのだ。二人男女のキャラクターが好みであったら、ただただ成就を祈るばかりの祈祷者になってしまうのである。ましてや落ちとして「今のあいつには夫がいて」みたいなのは胸がとても苦しくなる(改訂版はそんな感じ)。閑話休題して、この短編の何処までも読むに耐えないような初々しさがとても可愛らしい。恐らく年上の男が年下の女を揶揄い、弄んでいるようで、しかし最後はバシッと望み通りのオチをつける。文学的とか御託云々は抜きにして幸せになってほしい、それだけである。恋愛なんて、劇場の二人以外からしてみれば馬鹿っぽいものなのだ。馬鹿っぽいやり取りで、馬鹿っぽいオチ、それで私は構わない。
    追記しておくと、かといって改訂版が嫌いかと言われればそんなこと全くなく、むしろ大好きなのだ。抒情的であり、時間の経過が流麗に行われていく美しさと、寂しさ。若い頃の気取った過ちのようなものが未熟な果実のように苦い。『雪後』の注釈では改訂版の方を記してあったので、実をいうと今回読むときも二人は結ばれないことはわかりきっていて、覚悟して読んだのだ。しかし別の世界線とも呼べる、初版での結末はハッピーエンドなのを知ると「もうこっちで良いじゃん!」という気になってしまったのだ。

    『中二階のある家』
    主人公の境遇や性格は『それから』の代助に近いものを感じた。代助の舞台は西洋化と都会化が加速し、めくるめくような労働が強いられる世界であった。この作品でも、ロシアでは農奴解放やら女性解放やらで急進的な変化が起こっていた。このような社会が生んだ恩恵もあるであろうが、このような時代はとても狂気的な振る舞いも伴うというのも事実である。そして、その世界にすっぽりと埋没できるものもいれば、反骨心と恐怖心そして安寧と穏健を求める冀求心から、断固微動だにせぬ、ただ考える仏像のように行動しない者もいる。そして、後者は圧倒的弱者であり、はぐれ者、疎外されるべき邪魔者なのだ。これらはどの国でも同じらしい。そして、求める者は理解してくれる数少ない者からの愛情。狂った世の中の片隅でこのような作品が生まれ、現在の我々にまで語りかけてくれていることには感謝しなければならない。そして常に弱者であることを認めながらも反骨する気持ちを少しだけでも学べると良い。

    『ワーニカ』
    作品だけ読んでも、ワーニカという少年の、不遇な運命、子供ゆえの無力さや憐れみを痛いほど感じることができる。ワーニカ本人はおじいちゃんやオリガというお嬢さんにこの上ない信頼、詰まるところ愛されているという自負がある様に見受けられるが恐らくそんな愛というものは当の大人らにはないのだろう。手紙を書いて助けを乞うたところで無視されるのがオチなのだろう。しかしワーニカ本人は甘い希望を持って手紙が届く夢を見る。チェーホフは「甘い」という表現を用いた。普通なら「明るい」や「前向きな」にしがちであると思うが、チェーホフの視線はどんな境遇の子供にも冷たく冷笑的だ。
    私が本文のみで得た感想は前述した通りだが、この本はもっと奥ゆかしい残酷さがあると解説を読めばわかる。そもそも手紙は届きすらしないのだ。ロシアの手紙の風習や子供の手紙の描き方を知らない日本人にはそこまで読み取れないが、解説はそこを示してくれている。チェーホフはどこまでも意地悪だ。

    『牡蠣』
    飢餓に苦しむ親子が街ゆく人に食べ物を乞おうと雑踏に立っている。子供が、親父の洒落たコートがボロボロになればなるほど親父が好きでたまらなくなるという描写がある。童心が父親をこの様な目線で見つめるのは本当に恐ろしいことだ。もちろんここで言う「好き」とは頼れる背中の安心感の様な本来子供が親へ向ける情愛ではなく、大人が弱った姿を晒せば同情され、食べ物をくれる事を願っているからだろう。子供にとって未知だった「牡蠣」というものをゲテモノ料理と想像しながらも、陰険な富裕層に牡蠣を食わせてとせがみ、目を閉じながら食物を貪っては牡蠣の殻ごと噛み砕いてしまう様は滑稽にすら思えてくる。まるで読み手の我々までが作中に出てくる、あくどく、醜悪な連中の持つ貴族意識を己にも芽生えたかの様な感覚に陥る。チェーホフが用意したメガネを通して作品を読まされている気分だ。

    『おでこの白い子犬』
    飢餓に苦しみながらも子育てをする母狼、母の苦労を知らない小狼、己の境遇の悲惨さに気がつかない子犬。幼心に経験する絶望が必ずしも本人が絶望させているとは限らない。寓意的な作品とも感じた。

    『役人の死』
    滑稽かつ風刺的な喜劇のようだった。上に気を使いすぎて逆に迷惑をかけている感じは日本的に感じたが、ロシアでも同じなのか。上下関係を重んじることに頭がいっぱいで、相手とのコミュニケーションで一番大切な、相手の立場に立って考えるという事を失念し、どんどん悪循環にはまり最終的には死にまで直結する。ブラックジョークのような印象。私も笑えた。しかし笑えない現実の現状がこうであるという事で、初めて成立するブラックユーモアなので、やはり時代の悪どさが感じられるとも取れる。

    『せつない』
    一週間前に息子を亡くした辻橇(馬車のソリ版的なやつ)が馬と一緒に、雪が降る雑踏の中をじっと動かず客待ちをする。胸臆で膨張する悲しみを誰かに話し、共有して楽になりたいが、客は話をきちんと聞いてくれない。どうしようもなく膨れ上がり押し潰されそうな程の孤独な喪失感に耐えきれず、最終的に馬に感情を吐露する。
    逼迫して踏ん切りのつかない思いは、どうしようもなく他者との悲しみの共有を冀求する。しかし、たとえ人の多い雑踏に紛れていても、その気持ちが他人に気が付かれることはない。悲しみはどれほど大きくとも簡単に隠すことができてしまう。それでも一人で抱え切るには辛すぎる思いはやり場をなくし、言葉の通じぬ馬へと向けられる。本当の一人ぼっちとは、森の中に一人でいることでなく、大勢の中で誰にも気持ちを寄せられないことだと思う。人間というのはどれだけ増えようと、なんの役にも立たず、人同士の繋がりなんて当てにならない。しかし冷たく見える人間は、きっと何か同じようなことを隠して生きているのだと思う。みんな不幸なことから自分の身を守るのに精一杯で、他人に気など回せないのだと思う。くだらないジョークや悪ふざけの仮面の下には何かしらの感情があるのだろう。あると信じたい。尾崎豊の『愛の消えた街』を彷彿した。

    『ねむい』
    読後、暫く口を開いたまま呆然としてしまった。なんと惨憺たる話であるか。『牡蠣』や『ワーニカ』でつくづく感じているが、チェーホフの不条理は純然で救いがない。真っ新で穢れた世の中を一切知らず、不条理や絶望がどのようなものかがまるで分からない子供が社会の粗悪な制裁を加えさせられる。『牡蠣』では親父の服がボロボロになるほど幸せを感じる少年、この作品では寝ることも許されなずに馬車馬のように働く子守娘の少女が朝になり雇い主らに命令されて休む暇がない事を眠くならなくて幸せと感じる。子供は自身の境遇を絶望と感じるどころか、幸福のようなものを見つけてしまう。この本来讃えられるべき前向きな姿勢の怖さは今までで感じたことがない。傷つくこともできないことが読んでいてこんなに酷たらしいことなのかと感じた。睡眠不足で朧げな中、全然寝付かない赤ん坊を悪びれることなく殺して、逃げるどころかやっと寝れると思いその場で寝始める。間違った社会の犠牲は無垢な存在が引き受けなければならない。殺しの遂行があまりに突発的で感情の起伏がないのが実に不気味であった。少女の動機は理不尽な扱いでなく、ただ眠かったから。子供が悪を疑問なく受け入れてしまっている異常性は読んでて何も言えなくなる。夢うつつの中、幻覚となった自身の悲惨な過去が目の前に広がる。抑制された感情の形は幻覚となって目の前に現れても、それを現実で口にすることはしない。せめて泣いたり、「助けて」と囁いてくれさえできればまだマシなのに。聖像の前での殺害は、神の存在が実に馬鹿らしく、くだらないものに思えてくる。可憐な存在を守ることもできず、ただ黙って見ている聖像は神聖さなど微塵もなく、ただの鉄の塊の塵芥に過ぎない。この作品で一番マヌケで滑稽なのはこの聖像である。

    『ロスチャイルドのバイオリン』
    訳者の解説があまりに良かったので、私が感想など書くのは憚られるが、個人的な感想をこれまでのように記します。
    うだつが上がらず、それでいて金に五月蝿く、伴侶に優しくしたこともない棺桶屋の老人の話である。貧乏であることが、人へ寄り添う気持ちを忘れさせている印象があった。金になる身分の高い人間の桶作りは真面目に行い、子供のやつは「ちっぽけな仕事は嫌だ」と悪態をついて適当にする。そんな生活の中で突如病になった妻は、幸せそうな顔をする。そしてやがて自分も病気になり、死ぬ間際に同じ気持ちになる。貧乏の中での生活には、飲食、税、嫉妬や憤怒が付き纏い、死はそれを解放してくれるものだと悟り、永遠の眠りのへの恍惚が生まれる。そして皮肉なことに、大切なことに気が付けるのはその瞬間だけである。バイオリンや妻への愛は生きている内は金への欲に虐げられていたが、自分の行いの過ちに気がついた時にはもう時間が残されていない。妻が死んで、間違った人生を回想するときでさえ、お金に関する後悔ばかりであるところがまた痛々しかった。彼が死ぬ間際に弾いたバイオリンの旋律が、かつて彼が差別意識を持っていたユダヤ人の男に踏襲され、涙を流し合えたことがせめてもの救いだろう。お金に汚された心も、音楽に感動を覚えることができるのは意外であった。弱いものに寄り添う音楽がこの作品の中で一番純粋で、善であると私は思った。この哀れな棺桶屋の気持ちは身体を捨てて旋律になり、冷たい街の人々の心を癒し続けることで、彼の凄惨な人生は報われるのであろう。

    『奥さんは子犬を連れて』
    正直、冒頭から中間あたりまでにかけては通俗な不倫小説であまり面白味を感じることができなかった。しかし後半の実生活と内面の秘密に関する描写を読んで、私はストンと腑に落ちるような納得をしてしまい、彼らの軽薄にも思える逢引きをそっと見守る傍観者にさせられてしまった。この二人は裕福な暮らしをしている。私の解釈では、チェーホフはこの身分の人間にも不条理な世界の犠牲となっていることを示したかったのではないか。不条理は決して貧しい人々の固有のものではない。人は総じて不条理に晒される危険をはらんでいる。そしてそれにより抑圧された存在は社会の規範や道徳を超えた所で秘密をつくり、心の拠り所にする。この作品の場合、それが逢引きであった。主人公の嘗ての女癖の悪さは、一時的な快楽を求めた卑しい行為に過ぎず、彼に惚れていた女達は実生活の延長で彼を見ていた。それは彼から言わせればまやかしにすぎない。しかしアンナと出会ってからの彼の逢引きは、秘密のベールの下にある本来の生活で、誠実な自分でいられる。それはアンナの彼の愛し方がいつもの女達とは違って内面の秘密を持って彼を愛したからであると思う。そうした中で行われる逢引きは、彼らの中で「不倫」という言葉は不適切であり、「誠実」な生活なのである。お互いが不条理な生活の渦中で彼らが出会い、初めて知った愛の形をただ不遜で陰険な行為と一蹴することは果たして正しいのか。道徳や規範の中に不条理が跳梁している以上、彼らの「誠実」に耳を貸すことは本当に恥ずべき行為なのか。色々考えざるをえない。現に、解説でも記されているように、この小説には現実的な結末は描かれておらず、彼らのこれからは我々の想像次第なのである。

  • ロシア文学に詳しい方からのオススメ✨
    まさか、自分がチェーホフを読むとは思ってもいなかった!
    これが解説付きで、とてもわかりやすい。
    チェーホフの短篇の感想としては、芥川龍之介の作品を思い出した。
    登場人物の誰にも感情移入出来ず、傍観者として「こんな話があったとさ」と聞かされている感じ。
    傍観者だからこそ、残酷な話も悲劇もなんだか、クスッと笑ってしまう。
    そんな魅力のある作家チェーホフなんだな。
    ロシア文学って深い。

  • チェーホフ、思ったより読みやすい。「中二階のある家 ある画家の話」「せつない」がお気に入り。

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著者プロフィール

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904)
1860年、南ロシアの町タガンローグで雑貨商の三男として生まれる。
1879年にモスクワ大学医学部に入学し、勉学のかたわら一家を養うためにユーモア小説を書く。
1888年に中篇小説『曠野』を書いたころから本格的な文学作品を書きはじめる。
1890年にサハリン島の流刑地の実情を調査し、その見聞を『サハリン島』にまとめる。『犬を連れた奥さん』『六号室』など短篇・中篇の名手であるが、1890年代末以降、スタニスラフスキー率いるモスクワ芸術座と繋がりをもち、『かもめ』『桜の園』など演劇界に革新をもたらした四大劇を発表する。持病の結核のため1904年、44歳の若さで亡くなるが、人間の無気力、矛盾、俗物性などを描き出す彼の作品はいまも世界じゅうで読まれ上演されている。

「2020年 『[新訳] 桜の園』 で使われていた紹介文から引用しています。」

アントン・チェーホフの作品

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