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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784087735116
作品紹介・あらすじ
欧州最後の独裁国家ベラルーシ。その内実を、小説の力で暴く。
群集事故によって昏睡状態に陥った高校生ツィスク。老いた祖母だけがその回復を信じ、病室で永遠のような時を過ごす一方、隣の大国に依存していた国家は、民が慕ったはずの大統領の手によって、少しずつ病んでいく。
10年後の2009年、奇跡的に目覚めたツィスクが見たものは、ひとりの大統領にすべてを掌握された祖国、そして理不尽な状況に疑問をもつことも許されぬ人々の姿だった。
時間制限付きのWi-Fi。嘘を吐く国営放送。生活の困窮による、女性の愛人ビジネス。荒唐無稽な大統領令と「理不尽ゲーム」。ジャーナリストの不審死。5年ごとの大統領選では、現職が異常な高得票率で再選される……。
緊迫の続く、現在のベラルーシの姿へとつながる物語。
“この小説が文学賞を受賞したとき、たくさんの賞賛とともに、批判の声もあがりました。
「そんなはずはない」というものでした" ――作者
【著者プロフィール】
サーシャ・フィリペンコ
1984年、ベラルーシのミンスク生まれ。サンクトペテルブルグ大学で文学を学ぶ。テレビ局でジャーナリストや脚本家として活動し、2014年に『理不尽ゲーム』で長編デビュー。本書は複数の文学賞にノミネートされ、「ルースカヤ・プレミヤ」(ロシア国外に在住するロシア語作家に与えられる賞)を受賞した。
現在も執筆を続けており、ノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチからも高く評価されている。
【訳者プロフィール】
奈倉有里 (なぐら・ゆり)
1982年東京生まれ。東京大学大学院卒。博士(文学)。訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(以上新潮クレスト・ブックス)、ボリス・アクーニン『トルコ捨駒スパイ事件』(岩波書店)、『ポケットマスターピース10 ドストエフスキー』(分担訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ)、『ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック』(分担訳、新潮社)など多数。
感想・レビュー・書評
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2月に始まったロシアのウクライナ侵略は、さながら鬼畜のような非道さで世界中を失意と混乱に陥れている。その水面下では、隣国ベラルーシも長く不穏な状態で、まさに同じ穴のムジナのようだったことがわかって驚く。
たとえば……
2015年、『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』などのベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、ノーベル文学賞を受賞した。表現の自由を認めないルカシェンコ独裁政権の下、ペンで抗う彼女の身は危険にさらされ、国外避難を余儀なくされているようだ。
また2020年、大統領選挙を巡って現政権が大規模な不正を行ったとされた。その抗議デモに参加した数十万人の国民を、ルカシェンコ政権は不当に逮捕・投獄・蹂躙している。当時、そのニュースに唖然としたものだったが、この本を読んでいるうちに、その記憶が生々しく蘇った。
さらにその2年後、ロシアによるウクライナ侵略に対して、ベラルーシは従順に、熱烈に応援する。そういえばルカシェンコ氏はプーチン氏と兄弟分らしいが……どうみても太鼓持ちにしか見みえない。
そんなベラルーシの新進気鋭の作家、サーシャ・フィリペンコ(1984~)の気迫に満ちたリアリズム作品に唸った。驚き、楽しく、一気に読んだ。
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芸術専門学校に通う落ちこぼれ学生フランチェスク・ルーキチ。ある日、大規模フェスに集まった若者たちの群集事故に巻き込まれてしまう。一命はとりとめるものの昏睡状態に陥ったルーキチの周りでは……。
……多くの理不尽な事実が山のように盛り込まれている。そのほとんどが実際にあった事件や事故をベースにしているらしい。そのためだろうか、虚構の小説ではありながら、ジャーナリズム的色彩の濃い仕上がりになっている。ゆえに小難しい言葉や文学作法といったものはなく、誰もがやさしく楽しめる。時系列に沿って、素直に一気に読ませるのが魅力的だ。
これを読んでいると、悲しいかな、大国ロシアににらまれながら、西欧諸国と軒を連ねる中欧(東欧)の国は、なにもウクライナだけではないことがよくわかる。兄弟関係の絆とよしみ、それによる悲哀と卑下、激しい嫌悪、善悪や理性で一刀両断にはできないもどかしさ、あらためて世界の広さと狭さと複雑さに感じ入る。
「……兄さん国家にとって俺らは人じゃない、近隣諸国との間に積んだ堆肥の山みたいなもんだ。だいじなのは、俺らが欧州連合に加盟しないこと、兄さん国家の国境に間違っても西側の軍が接しないようにすること」
2012年に本作は発刊されたが、その原題は『かつての息子』! これはいいタイトルだと思う。91年のソ連崩壊後、投げ出された旧ソ連の国々たち、ロシアとベラルーシの歴史的関係をにおわせながら、ソ連から独立していったかつての息子たちはどうなったのか? 果たして昏睡のままなのか? 意味深長で余韻のあるタイトルは、できればそのまま使ってほしかったなぁ。
ところがこの作品、驚いたことに当のベラルーシでは発禁処分になっていて、本屋にも図書館にもならんではいないというから驚いた。デモや集会、言論や芸術といった、表現の自由の灯が届かない暗闇には、心底、泣けてくる。日本ではごく当たり前のような灯でも、考えてみれば、かつての言論弾圧と大戦をへて、先達が必死で勝ち取り、護ってきたものだった――それが日本国憲法21条――そんな歴史も思いおこさせる。
暗闇のような国にありながら、フィリペンコは自ら火を熾し、その灯下に書く! サスペンスのようにぐいぐい読ませる。20代の作品らしい描写の粗さはあるけれど、それを補って余りある作品だ♪(2022.6.17)
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「なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」――スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ベラルーシという国を知らないまま読み始めて、独裁国家の恐ろしさ、絶望感を読書を通じて体感する。主人公のフランツィスクが群衆事故で昏睡状態に陥ってから10年、奇跡的に目覚めた世界は変わらないまま独裁政権だけが強くなり、社会を支配している。
「理不尽ゲーム」とは、グループで一人ずつ理不尽な話をしていくだけのシンプルなゲーム。ルールは実際にあったことを話すこと。冗談の種でしかないような理不尽な話がすべて事実であるという恐るべき状況がこのゲームによって知らされる。
フランツィスクが群衆事故に巻き込まれたことは悲劇だが、その後昏睡状態から独裁国家に目覚めたことも悲劇だったのでは…?と思えたが、解説まで含めて最後まで読むと昏睡状態に込められた作者の比喩から違う見方もできるのではと気づく。特にフランツィスクの命を最後まで諦めなかった祖母の存在と言葉が重要だ。
「望みはずっとないけれど、いちばんすごい奇跡はいつも、望みがないときに起きるんだよ。望みがないときに起きるのが、奇跡なんだ…。」
望みがないとき、閉塞感と不自由と理不尽が蔓延るとき、それでも諦めないでいられることはできるのだろうか。なぜと問い続け、考え続けることはできるだろうか。
どこか遠い国の話ではなく、いつどこでこんな世界になるかは分からない。
息が苦しくなるような話ではあるけれど、多くの人に読まれてほしい一冊だった。 -
奈倉有里の解説を読むべき。この人の解説はいつも素晴らしい。
もちろんフィリペンコの本作はよくぞ書いてくれたと握手を求めたいほどのできだ。
ルカシェンコの恐怖政治はウクライナ戦争をきっかけに知ったが、理不尽大統領トランプも尻を捲って逃げ出すほどのメチャクチャぶり。実際の出来事を書き込みながらフィクションとして仕上げたことは驚嘆としか言いようがない。ベラルーシの人々の心に強く働きかけたことと思う。彼の勇気を賞賛する。
普通の、当たり前の考えの人を苦しめる政治家が跋扈する世の中は正常ではない。あんた気は確かかと叫びたい。あんた! ルカシェンコ、プーチン、トランプ、ナタニエフ…… -
「赤い十字」に続いて、フィリペンコのデビュー作である本書を読む。
ベラルーシの現実に暗澹たる気持ちになる。
ルカシェンコ大統領の強権による虐殺、統制管理の残虐さは、同じ地球に生きていて申し訳ないと思うほど。
ツィスクの昏睡は民主主義のメタファーだ。ツィスクの目覚めを信じて語り続け励まし続ける祖母の最後の手紙で泣けた。肉親としての愛と、ベラルーシへの愛。
奈倉有里さんの訳もすばらしい。訳者後書きもまた。(これを読めばベラルーシの現状もこの本の読み方も全てわかる)
本屋大賞の「同志少女よ敵を撃て」のおかげで、ウクライナ侵攻の現状や歴史に、関心が移ってきた。奈倉有里さんと逢坂冬馬さんが姉弟だということにも驚きだが、多くの日本人がこの悲惨な戦争に関心を寄せることに貢献してくれた二人に感謝しかない。 -
ここ最近、面白い小説しか読んでいないのだが、その中でも『理不尽ゲーム』は、ずば抜けて良かった。
東はロシア、南はウクライナと接する国、ベラルーシ。ヨーロッパ最後の独裁国家で、自由を手に入れるのは、たやすいことではない。もはや公正な選挙は行われない。抵抗すれば理不尽な武力で押さえつけられる。民主化を求めるデモと弾圧の歴史が、何度も繰り返されてきた。最終的に、国民は、理不尽なことに目をつぶって生きていくか、自由な思想・発言を求めて国外へ去るかのどちらかを選ぶことになる。
一九九九年にミンスクの地下鉄駅で起きた悲劇的な事故で、フランツィスクは昏睡状態となった。脳死状態であり、治る見込みはない、と、医師は匙を投げた。それでも祖母は懸命に世話をし続けた。「望みはずっとないけれど、いちばんすごい奇跡はいつも、望みがないときに起きるんだよ。望みがないときに起きるのが、奇跡なんだ......」。
フランツィスクが十年後に目覚めた時、ベラルーシはまだ昏睡状態にあった。二十六歳になった彼は、周りの景色を見て驚く。十年前から体制は変わっていない。町の人々の顔からは笑顔が消えている。不穏な空気を察し、理不尽な話を聞くにつれ、国家のもつ偉大すぎる権力の理由を徐々に理解していく。
彼が失った十年を取り戻すように嬉々として遊びはじめた頃、ベラルーシもまた目覚めかける。だが、一度は目覚めたかのように見えたベラルーシは再び昏睡状態に陥り、フランツィスクは・・・。
実際にあった事故や事件をベースに、ベラルーシの内情を描く、社会派小説。
「知らない」「わからない」ことを、読まない理由にしてはいたら、こんな素晴らしい小説には出会えなかった。ベラルーシや独裁国家について、知らなくてもわからなくてもいいから、読むのは大事だな、と思った。
あとがきを読んで、もう一度、最初から読み直したくなった。
p177
この国の産業の大半は欧州連合の経済制裁の対象だからこそ、女はほとんど唯一残された商売道具なんだ。(中略)ほんとうさ、ここから四十キロほど郊外へ行ったところにあるどっかの傾いた会社なんかより、あの女のおっぱいのほうがよっぽど多額の資金を国にもたらせる。
p204
フランツィスクは窓の外をにらみ、自分の命にもほかのどんな人の命にも、いかなる重みもありはしないのだと悟る。命だろうとなんだろうとあらゆるものごとが、政治がからんだ瞬間にすべての価値を失ってしまう。控除の対象になる事務用消耗品費のように。 -
独裁者に支配されるベラルーシで実際に起きていることが、昏睡状態の孫に語り掛けるばあちゃんや友人の話で割と淡々と描かれます。抵抗しては潰されることを繰り返すようで、閉塞感と絶望感を覚えました。一度狂った独裁者を産んでしまった国は、国民を丸ごと理不尽な渦に巻き込んでしまうことをロシアやベラルーシから感じました。
一方、孫の回復を諦めないばあちゃんの本当の愛情にも胸が締め付けられるようで、手紙のシーンは涙なしには読めません。
訳者の言うように、読み終えたらまた読み直したくなりました。すごい価値のある一冊です。 -
独裁政権の恐ろしさ。
ベラルーシというどこか遠い国の話のようで(実際に場所や歴史など調べながら読んだ)、主人公の現代的な語りがどこにでもいるような10代の男の子で、地続きの恐怖を感じた。
以前読んだルーマニアの話(『モノクロの街の夜明け』)も独裁政権下で市民はどれほどの苦痛を強いられるのかが書かれていたが、本当に恐ろしい。
権力を集中させないこと、あきらめないこと。
今のアメリカの人にも広く読んでほしい。 -
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世に無理ゲーという言葉がある。無理ゲーム=クリアするのが困難なゲームを指す俗語で、転じて解決が困難な状況や課題も指すようになった。
クソゲー(ム)とは、バグが多かったりつまらなすぎたり、完成度が低いゲームを指す。無理ゲーほど拡大して使われてはいないようである。
では、理不尽ゲー(ム)とは?
ベラルーシで流行っている遊びであり、同時に、本書の主人公が陥った状況でもある。
主人公、フランツィスク(ツィスク)は、16歳。音楽学校に通っている。
この年頃の少年らしく、若干反抗的で若干世の中をなめている。実のところ、学校は退学になりかかっているのだが、ツィスクは深く悩んではいない。
彼の住むベラルーシは抑圧的な独裁者の支配下にあり、人々の多くは不自由で貧しい暮らしを送っている。
ある日、ツィスクはフェスに出かける。なかなか来ないガールフレンドを待っていると、折からの雨がきっかけで将棋倒しが起こる。ツィスクはこれに巻き込まれ、昏睡状態に陥る。病院の医師によれば、快復の見込みはほぼないという。
そう、全体の1/6ほどで、もう主人公は存在しているが存在していない状態になってしまうのだ。
ツィスクには厳しかったが同時に一番かわいがってもいてくれた祖母は、医者の言うことを信じない。あの手、この手でツィスクの眼を覚まさせようとする。
母親はこれより冷淡で、半ばあきらめかけている。シングルだった母は新しい恋人を見つけ(実はそれはツィスクの主治医なのだが)、彼との未来の方が大事なのだ。
ガールフレンドも見舞いに来るが、意識のないツィスクに何を話してよいのかわからない。そしてツィスクの親友は、あろうことか彼女と付き合うことになってしまう。
ツィスクを巡るあれこれの中に、ベラルーシの日々も織り込まれる。
ドイツとベラルーシはポーランドを挟んでいるが、それなりに行き来があるようだ。特に、(チェルノブイリと思われる)原発事故の後、子供たちの健康を案じ、広く欧州へ療養旅行をさせる動きがあった。1990年代、事故の周辺諸国の子供たちの多くが、ホームステイ型の旅行に出かけた。ベラルーシからドイツに行った子供も多く、その際には、費用をドイツ人側が出す例も多かった。受け入れ先の家庭はある種、「ドイツのパパとママ」となり、気の毒な子供の庇護者となった。
ツィスクにもそんなドイツのパパとママがいて、ベラルーシよりもドイツに来た方が高度な医療が受けられるのではないか、費用はこちらが持つから、と申し出てくれる。けれども祖母は頑として譲らない。ベラルーシで孫の目覚めを待ち続けるのだ。
・・・そして、ツィスクは、快復の見込みはないと言われていた少年は、ついに目覚める。10年も経ってから。
長い年月が経ってしまえば、変わってしまったことも多い。親友は結婚しているし、母は何と再婚して子供もいる。そして祖母は・・・。
けれども、ある意味、それより残酷なのは、国が相変わらず独裁政権下にあり、まるで国全体が昏睡していたのと変わらないような状況であることだ。
若者たちは「理不尽ゲーム」に興じる。文字通り、怪談か何かのように、1人1つずつ理不尽な話をするというもの。みんなが理不尽と認めたらOK。但し、話は実話でなければならない。世の中、理不尽な話ばかりなのだ。
例えばこんな話。大統領の命令でサッカーの試合に駆り出される官僚たち。どうしても参加しなくてはならない、同時に大統領のチームに勝ってはならない。高血圧で運動を止められている老人も出席した。年金をもらえなくなるのが怖かったのだ。でも極度の緊張でその場で倒れて死んでしまう。
あるいはドイツ人の企業家が作ったソーセージ工場の話。おいしいし混ぜ物もない。けれど、国営工場の工場長は焦った。これではうちの製品を誰も買わなくなる。彼は一計を案じた。ドイツ人の工場を追い出すため、理不尽な理由を見つけたのだ。曰く、この工場の製品は国の規格を上回っている。それすなわち、「規格外」、つまりは違反だ。工場は閉鎖され、ドイツ企業家は多額の損失を抱え、母国に帰っていった。
理不尽は国民すべてに降りかかる。
大統領は圧倒的な支持率を誇ると言われる陰で、対立候補が襲われ、デモに参加した人々は逮捕される。
本書に描かれた挿話は、出版当初、「いくらなんでもそこまでのことはないだろう」といわれながらも、実際、かなりの部分、真実のようである。
物語の終盤で、ツィスクは別の悲劇に襲われそうになる。
だが、著者は救いを残す。
多分、そこには未来への希望がある。どんな理不尽にまみれても、人は、明日を夢見ることができるのだ。
ツィスクの祖母も言っていた。
「いちばんすごい奇跡はいつも、望みがないときに起きるんだよ」
ツィスクがこの理不尽ゲームに勝つ日は来るのだろうか。 -
読みながら息が詰まる程の閉塞感。最後の訳者あとがきを読んで、冒頭の作者の言葉を読み返し、東京オリンピックでの出来事を思い出す。かの地の実状を描き出し、読み手の心に突き刺さる。文学の力を見せつけられる一冊だった。すごい。
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確か新聞で知った本書。なんとなく気にはなっていたものの購入には至っていなかった。
しかし、2021夏の東京オリンピックで陸上の女性選手が強制的に帰国させられそうになって保護を求めて、ポーランドに亡命する、と言うニュースを見ていたところ、同時に報じられていた2020年の不正選挙とその後のデモのこと。
あれ?ベラルーシ、、、そういう本をどこかで見かけなかったっけ?
そうして購入し読んでみることに。
この本が執筆されたのは2012年のこと。作者のメッセージや訳者解説にもあるように、その当時はこんなことが現代のヨーロッパであるわけがない、と批判されたと言う。しかし、2020年に大統領選の不正、デモが報じられると、ここに書かれていることは、本当に今起こっていることなのだ、と周囲も知ることになる。本書は、小説の体を取り、一人の少年が不幸な事故に巻き込まれて昏睡状態に陥り、10年の時を経て目覚める、という設定は設けつつも、そうした事故なども実際の事故をモチーフにしていたり、半分ノンフィクションのようなものなのだ。
そのことには驚かされるし、独裁国家の中のことと言うのは、当然ながら、なかなか外部の人間には見聞きすることが難しく実態が分からないものなので、一国民の生きている世界はこういうものなのか、と思うと、暗い気持ちになってしまう。
フランツィスクの祖母の「いちばんすごい奇跡はいつも、望みがないときに起きるんだよ」と言う言葉には、胸を打たれるが、でも「奇跡」が起こらないと、
いつ反体制とされて投獄されるかもしれない、理不尽なことには気づかない振りで生きて行かなくてはいけない世の中が、変わることがないと言うことでもあり、その状況は、想像しただけで苦しい。
こういう国に生まれなくて良かったと、つい思ってしまう自分がいたのだが、でも、日本でも知らぬ間に多くの国民が反対している法律が制定されてしまったり、官僚の人事権を握って、都合の悪いものはポジションを奪われたり、、そういうことが起こっている。まるで他人事、ではないのだよな、と思わされる。 -
ちょっと前の作品だけど、ベラルーシという国の今が描かれている。10年間昏睡状態で目が覚めた時、ほとんど世界は変わっておらず、むしろ独裁具合は悪化していた。話はちょっとズレるけど、ばあちゃんめっちゃいい人
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2024.9.13
作中に出てくる理不尽ゲームのルールは、実際にあったことを話すということ。昏睡から覚めた主人公の見た世界はディストピアではなく、現実の社会だということに恐ろしさを感じました。 -
奈倉有里さんの文学キョーダイ!の流れで遭遇。
始まりと蘇生後と訳者解説でそれぞれ別のステージに移行した。こんこも東欧歴史を認識したい。 -
ベラルーシがどんな国なのか、よく知っている日本人はあまりいないと思うので、最後の独裁者(とは思えないけど)と呼ばれるルカシェンコが牛耳るこの国に暮らすことがどんなに絶望的か感じられるだけでも良い本だった。
小説としての出来はどうかな…と思わなくもないが、ラストは良かった。
奈倉さんの訳は読みやすい。が、おばあちゃんの喋りはあれで良かったのか。主人公は「ばあちゃん」と読んでいる。口調は庶民的に訳してあるが、孫をチェリストにするために必死になる、科学アカデミーに勤務するおばあちゃんということは、もっとハイソな話し方なんじゃないだろうか?
孫は音楽高校に通っているし、親友も医者だし、娘も(大統領派の権力のある)医者と結婚したし、この一家がそもそもハイクラスなのではないか。だとしたらあの話し方は、「ばあちゃん」呼ばわりも、ちょっとしっくりこない。
ベラルーシでは庶民でも、高学歴でなくても科学アカデミーに勤務できるんですよ、幼いころからチェロを習い、音楽高校に通えるんですよっていう社会なら、あれでいいと思うけど。だったらリアルディストピアにはならないもんね。 -
半年ほど前、ジャーナリストの金平さんが、ルカシェンコにインタビューをしにベラルーシへ行った時の映像を思い出した。街角で市民に問いかけると、何の問題もないと言っていた人も居たが、泣きなから訴えていた女性もいた。何を訴えていたのか具体的な内容は忘れたが、かなり怯えていたことが印象に残っている。この本にも、大統領選挙の結果を聞きに広場に集まっただけで、暴行を受け捕まってしまう場面があった。
訳者の奈倉さんは言う「この本の世界と私たちの目の前にある社会には、継ぎ目などない」と。「もはや他人事ではありえないのだ」 -
オビに全て(時間制限付きのWiFi、嘘を吐く国営放送等)が書いてあるんだよね…。だからそれ以上の驚きはないというか…。
いや、十分驚くことではあるんだけど。
この国で生まれていたら、大変なんて言葉では済まされないが、大変だったと思う。
真実を知らなければ不幸と感じることもないだろうが、皆、どこかおかしい、なぜ自分たちはこんなに管理されているのだろうと違和感を持っているはず。
途中出てくる「理不尽ゲーム」は、本当にあった理不尽な話を順番にしていって、最後までネタが尽きなかった人の勝ち。
皆出るわ出るわ。どれもこれもびっくりするくらい理不尽な話。
皆、世の中のことに関心は持っているし、「これは理不尽」と感じている。
しかし、国に逆らうことはできないでいる。
終始、圧迫感があった。 -
群衆事故に巻き込まれて、十年間を昏睡状態で過ごしたツィスク。目を覚ませば、硬直し息の詰まるような社会が彼を迎える。疑問を持つことは憚られ、自分の命の価値さえ心許ない。
半径数メートルの世界で暮らす考えなしの高校生の物語で始まったのに、少しずつ、旧ソ連を引き摺り、ロシアの顔色を窺い、不正選挙がまかり通るベラルーシという国をツィスクの視線で見つめ、閉塞感に息苦しくなっていく。
ジャーナリズムも世界の暗い部分を私たちの前に晒すけれど、文学も(たぶん音楽や映画やアートも)同じことができる。
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