本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (312ページ) / ISBN・EAN: 9784087740707
感想・レビュー・書評
-
続いて下巻。下巻では宰相として、チンギス・ハンをそしてその息子のオゴディを支えた姿を描く。
皇帝に迎合するのではなく、遊牧民であるモンゴル人の気質を踏まえて、民の為になる施策になるよう、手綱を引っ張る。ただのイエスマンじゃダメなんだよね。
まあ、ビジネスの世界での参謀にも通じるね。
この時代のモンゴル帝国ってすごいんだよな、ヨーロッパまでも版図に収めているわけだから。
カラコルムにも行ってみたいなと思ったけど、結局、内モンゴルにも行ってないな。行く機会はあるのだろうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
モンゴル帝国の宰相になった契丹人の物語。
彼のおかげで、戦闘民族のモンゴルが元朝をうちたてることができるほどの文化度を身につけられた。 -
発売当初から読みたい本だった。
18年後にようやく実現できた。
読まなくても、間違いのない本である確信を持っていた。
その確信は正しかった。
陳瞬臣だもんね。
司馬遼太郎と同じく、手抜きはない。
モンゴル帝国といえば、12世紀末から突如現れて14世紀中頃まで荒らし回った騎馬民族くらいの知識しかないだろう。
日本としては、1274年と1281年の元の襲来でえらい迷惑をこうむったとしか記憶されていないだろう。
遼(契丹)⇒金⇒モンゴル帝国と変遷する中で、契丹人として金に生まれた耶律楚材という官僚の一生を描いている。
知らないですよね、そんな人物。
草原を走り回る野蛮人(?)が文明人の中国(ここでは女真人の金なのだが)を滅ぼし、帝国として国の形を作る際に、主に儒教と仏教によって制度作りに貢献した人物である。
中国での評価がものすごく高いそうだ。
作者は丁寧な史料分析を元に、彼の人物像を描いているが、小説というより、歴史に近い感じを受ける。
無味乾燥な史料より、小説という形をとったほうが、人物が生き生き描ける。
だからといって、人物像を想像で補いすぎると、却って嘘くさくなる。
この辺、小説の匂いを最小限にとどめて記述した筆者のバランス感覚には、好感が持てる。
・・・・・・
それにしても、モンゴル人は残忍だったんですね。
これを読んだ後は、大相撲のモンゴル力士を見る目が変わってきますよ。(^o^)丿 -
契丹人・耶律楚材は、 自分の生まれる前には故国である遼が女真族の金王朝に滅ぼされ、今また、一家眷属をあげて仕えていた金王朝が、今度はモンゴル軍によって滅亡させられるという廻り合わせの中に生きた人物である。彼自身は若くしてチンギス・ハンに仕え、モンゴル陣営に属していたが故に、金滅亡時の大いなる混乱と悲惨のただ中に置かれることはなかったが、金王朝に仕え続けた二人の兄や母らは、金領内に留まり続けたので、彼ら身内の安否が常に気遣われる状態が長く続いた。大陸全体が千変万化の渦を巻くような時代に生まれ合わせた耶律楚材のような人物の、生涯にわたって強いられたであろう緊張に満ちた政治生活は、コップの中の嵐どころか漣(さざなみ)さえも満足に経験していない私には、なかなか想像し得ない世界である。
『耶律楚材 下 無絃の曲』では、チンギス・ハンが死去して三男のオゴディが即位するあたりから、話が語りおこされている。チンギス・ハンが割りと呆気なく鬼籍に入るので、(あらら…)という感じになるのだが、耶律楚材の活躍は、大ハン時代もさることながら、二代目のオゴディの時代に最盛期を迎えるので、これは致し方ないかなという気がする。
チンギス・ハンには母を同じくする子息が四人いる。ボルテ皇后から生まれた、ジュチ、チャガタイ、オゴディ、トゥルイがその四人であるわけだが、長男のジュチはチンギス・ハンの西夏攻撃の最中に亡くなり、チンギス・ハンが健康面での衰えを見せ始めた頃から、残ったチャガタイ、オゴディ、トゥルイのいずれが大ハンの築いた帝国を受け継ぐのかという継嗣問題が持ち上がり始めた。
長幼の序とか長子相続というものに感覚的に慣れている我々日本人からすれば、長男のジュチが亡くなったのであれば次はチャガタイという風に、相続権を上から順送りに移行させるのが自然なように思えるが、モンゴル人の相続に関する考え方は少し違う。彼らは逆に末子相続であることが多いのである。兄たちが新しい領地を得、どんどん独立していく過程で、親が徐々に年老いていく。そして、親への世話が必要になった頃には末っ子が家に残っているので、必然的にその末っ子が親の領地を引き継ぎながら家を宰領していくことになるのだ。若く、体力もある一番下の子供によって老父母の面倒を見るほうが、何かと都合が良いということもあったのだろう。明文化されているわけでもなく、必ず末子が相続しなければならないというものでもないのだが、慣習としてそうなっているのである。
その末子相続が一般的であるモンゴルの文化の中で、チンギス・ハンは、そのハンの位を三男のオゴディに与えることに決めていた。長男のジュチが存命だった頃から、ジュチとチャガタイが犬猿の仲であり、二人のいさかいをオゴディがよく仲裁している光景を目撃していたのが、その理由である。チンギス・ハンは、急激に膨張したモンゴル帝国を運営できるのは、調停能力に優れたオゴディだと考えており、その方針は耶律楚材にも伝えられていた。
が、しかし、どれほど偉大な大ハンの意思や遺言であっても、族長会議であるクリルタイの承認を経ずして、その実現を図ることは出来ないという暗黙の了解がモンゴルにはある。それに加えて、チンギス・ハンの死後、後継者を決める為のクリルタイが開かれるまでに、二年の歳月を要しているのだが、その間の暫定的リーダーとして四男のトゥルイが選出されていることも問題を少々複雑にした。トゥルイは監国(かんごく:臨時の統治者)という立場で、大ハン亡き後のモンゴル帝国を切り盛りし、治安の悪化していた金領の燕京を回復させるという実績を積んでいたのである。ただチンギス・ハンが、トゥルイを正式な後継者として望まなかったのは、彼が少なからず激情家であり、無類の大酒呑みであるという不安要素があったからだ。
当然ながら、オゴディを後継者にという大ハンの意思を尊重する人々と、実績を積み始めたトゥルイをこそ後継者にというトゥルイ派の人々との間で確執が生じだす。それは、事態が悪化すれば、折角築かれたモンゴル帝国が早くも分裂し、世の中がまた戦乱の巷と化すことを意味する。楚材は、諸王朝のめまぐるしい興亡によって、不安定な社会が恒常化するのを避けるべく、トゥルイにハン位を諦めるように説得を開始するのであった。
楚材はトゥルイに説く。暫定的に領有している父祖の地、モンゴル草原をオゴディに献上されたし、と。そしてその自己犠牲を、次の代、次の次の代まで皆に覚えておいて貰うのだ、と。帝国の分裂という危機を乗り越えるために、今回はオゴディをハンにしなければならない。しかしながら、次の代、次の次の代となった時、オゴディ家からハンにふさわしい人物が輩出されるとは限らない。その時には、トゥルイの、ハン位を辞退したという自己犠牲が後々のクリルタイにおいて語り継がれ、それが計り知れない恩恵となって将来のトゥルイ家に及ぶのだ―――楚材は、そう力説したのである。彼のこの根回しにより、クリルタイが開かれた時には、チンギス・ハンの後継者はオゴディであると正式に承認されるに至る。
オゴディ擁立に寄与したことによって、耶律楚材は名実ともにモンゴル帝国の重鎮となっていく。彼は、様々な法制・税制を整備し、儀式の進め方を考案し、学問を奨励した。そして、多分に実利主義の気味の強い遊牧騎馬民族の性質の抜けきらないモンゴル人に対し、賂(まいない)の弊害を訴え、戦の際には屠城(とじょう:皆殺し)を禁じたのである。ちなみに、当時のモンゴル帝国では、税は必要な時に必要な分だけ人民から徴収すればよいという、きわめて大雑把な考え方しかなかったので、楚材は基本の税を糸だてで納めさせる「糸納科差法(しのうかさほう)」という税制を実施し、その実施年から「丙申歳(へいしんさい:一二三六年)の税制」と呼ばれる。この税率はきわめて軽く、人民の生活を圧迫することが無かったようである。また、楚材の提案で行われた「戊戌(ぼじゅつ:一二三八年)の選試」では、モンゴル軍との戦いで戦争俘虜となった知識人にも受験資格が与えられ、有能な人物の登用に役立っている。
こうして、モンゴル帝国の安定した運営が、耶律楚材の奮闘によって図られていったわけではあるが、歳月を経るうちに、帝国内に色目人(しきもくじん)官僚が台頭してくるようになり、楚材の発言権は次第に奪われていった。主に西域人で構成される色目人官僚は、商才や財務に長けた人物が多く、后妃らの財産を増やしたり、人頭税をかけて税収を増やしたりと、モンゴルの支配者層を大いに喜ばす。アブドゥル・ラフマーンやヤラワチ(マフムード・イェルワジ)らが、その急先鋒である。反対に楚材は閑職へと追いやられ、本意ではない晩年を過ごすのであった。
一二四四年、楚材は五十五歳でこの世を去る。楚材の死後、彼が在任中に私腹を肥やしていたと讒訴(ざんそ)する者があり、耶律家の財産が調べられたことがあった。しかし、耶律家には琴や阮咸(げんかん)などの楽器が約十面と書画、巻物数十巻が遺されていたのみであったという―――。
この『耶律楚材』の上下巻を読んで抱いた印象は、楚材自身が、なかなかスポットライトの当たりにくい人物であるために、どうしても彼についての説明が必要となり、それだけ、この作品が歴史小説というよりは伝記に近くなったようだ、ということである。よって、途中、少々退屈に思える箇所も無いではない。彼が誕生してから死去するまでの事績が丁寧に、しかしあまり大きな起伏が無く淡々と記してあり、耶律楚材という歴史上の人物を知れる良品ではあるものの、優等生的な感じがあるのはどうしても否めないのだ。ただ、この印象は、耶律楚材が文官であるために、戦続きの初期モンゴル帝国の中では、その功績が目立ちにくく、また中華世界のように三寸の舌をふるって敵国と政治的に渡り合うというような機会が、モンゴル社会においてはさほど得られなかったであろうことが原因とも云える。
あまり知られていない歴史区分や王朝、歴史上の人物が現代において精彩を放つには、物語としてよく練られなくてはならないのだろうと思う。今回の陳舜臣氏の『耶律楚材』が練り上げ不足ということではなく、耶律楚材が肉厚なキャラクターになるためには、もっと多くの人の手によって、様々な耶律楚材像が練られなくてはならないのである。小説になったり演劇になったり、時には漫画になったりしながら、たっぷりと時を重ね、色々な人間によって、違った観点からも語り継がれていく。そうすることで、平面的だった楚材像が少しずつ立体的になり、時には独特の彩色も施されて、キャラクターとして成立するのだろうと思うのだ。そうなれば、最早、耶律楚材とはこういう人で、こんな性格をしていて、こんな思想を持っていて…という解説は必要最小限にとどめることが出来、彼の登場する物語は、もっと大きなうねりを盛り込むことが可能となるのではないか。無論そこに、脚色とか虚構といった色付けが入り込んでくることは防ぎようが無いのだけれども。しかし私としては、色んな作家が耶律楚材をテーマとした作品を生み出せば、この人物周辺はもっと面白くなる気がするのである。
陳舜臣氏は、舞台となる国や王朝、または主要登場人物が、その当時の国際情勢や世界との関わりの中で、どう運営され、生きていったかという点に着目することが多い。一国の歴史や状況だけを追うのではなく、よりグローバルな視点から、その国の歴史を捉えなおすのである。この『耶律楚材』も、モンゴル帝国を中心として、契丹人の西遼、女真人の金、漢人の宋、そしてモンゴル軍が攻め込んで行った西域国家やヨーロッパ世界が複雑に絡み合っていたことを再認識させてくれる作品なのだ。それだけに、二巻分という決して多くはない紙数に、種々の要素を詰め込みすぎて、一つ一つの要素が薄くなってしまっているのが、かえすがえすも残念なのだが、楚材を取り巻く種々相から、ある一時期の彼の動向や苦悩を切り取って作品化することで、面白いものが出来るのではないかなと考えたりもしている。
今なら、耶律楚材の帝国運営にかける情熱や、恤民(じゅつみん)の姿勢、何よりも清貧に生きたその生き様が、現代日本の政治家との比較により、一層際立つかもしれない。死後に財産を調査したら、いくばくかの楽器と書画と書物しか残っていなかったという、清清しい政治家が現代日本に一体いくたり居るであろうか。
平成二十二年九月二十一日 読了 -
削除
著者プロフィール
陳舜臣の作品
本棚登録 :
感想 :
