- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087742459
感想・レビュー・書評
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武満の笑った時の顔が好きだ。
彼の世界を探求したいことの説明には、
それだけで十分に事足りる。
○
あらゆる存在をつらぬいてひとつの空間、リルケが世界内部空間と呼んだ不可視の空間があり、樹は、その存在を人間に予感させる唯一のものである
ただ最近はねぇ、僕は音楽を書くときに、全部ということはないけれど、非常に個人的に発想して、個人から個人へということで、ほとんどパーソナルなギフトとして書く。
自分のおじいちゃんが死んだから、そのための悲しみの歌をうたおうと思った。
基本的に芸術家ってシャイネスを持ってない人ってつまんないと思いますけどね。でもあのシャイネスはすごい厳しさだと思うんですよ。
音が肉体にならずに観念の所有となるのは、音楽の衰弱ではないだろうか
私はまず音を構築するという観念を捨てたい。
作曲するということは、われわれをとりまく世界を貫いている(音の河)に、いかに意味づけするか、ということだと気付いた。
音楽は本来数理的な秩序の上に立つものだ。作曲家が数の錬金術をきたえあげることで、普遍的な全き美をめざすことに誤りはない。が、音楽に限らず、ぼくたちの仕事は、精神において触れえた事物を再提示することにある。芸術は創造精神の具体化に他ならない。音楽作品は音を媒介として、精神によって捉えられた事実なのであり、その意味で、作品はまったく具体的である。
音楽になる前というか、発生の状態を大事にしているかということですね。ぼくたちが一番忘れているのは、音が発生してくる状態ね。ことばだってそうですよ。やはりすぐれた詩は、ことばというものになるときの状態を続けていくという感じですね。
喚起的にぼくに働きかけてくる現実が、まず、ひとつの言葉の状態として、ぼくの内部に漠然とながら、確かな重さをもって現れてきます。その漠然とした言葉の状態をやや詳しく説明すると、その言葉はブキッシュな、つまり指示的な機能としての言葉ではなく、もっと多義的な曖昧さを残した、より言葉の発生の起源に近い状態にあるといえます。
二つの条件さえ満たしていれば、造形美術品や音楽作品を詩と呼んでなんら差支えない。一つの条件とは、まず第一に、その素材をそれが本来あるべきところのもの、光り輝く、あるいは不透明な素材、に戻し、かくして効用の世界を否定すること。第二に、素材がイメージに変質し、かくして、コミュニケーションの独特な形態になること
パスが、『イメージ』の同義語として、沈黙を上げているのは興味深い。即ち、沈黙は人間の極限的な昂揚が、周囲のあらゆるものを崩壊させた後に残った詩的源泉と考えられ、詩は『沈黙と言いよどみのなかで、発話不能のなかで生まれるが、必然的に、全体的現実としての言語の回復を希求する』
人の内部に波紋、振動を起こす言葉・音楽について語っているが、この恐らくはっきりと感知しがたい波紋や変化のおかげで、詩は、音楽は、人を時の中にのめりこませ、瞬間に対する注意力を明敏にする
日常的時間を詩的時間に変えていくことは創造力に富んだ詩人の仕事
詩は原体験と後続する行為や体験の総体との橋渡しであり、後者は、詩が聖化する最初に体験づけられてはじめて、統一と意味を獲得する。歴史的時間は流れることをやめ、継続、つまり他と同じような瞬間の前や後に来る瞬間ではなくなり、何か別のものの兆しに変わる。詩は、時の流れに特権的な瞬間を分かつ線を描く
藝術は現実との沸騰的な交渉ののちに生まれるものだ
音楽は単なる耳の喜びであるばかりではなく、変幻するイメージとなり、また詩的な暗喩ともなる。
よく問い、よく応える、節度あるまれびとであり心やさしいもてないて
完成度というものはつまらないものだ。
日本人は藝術とかそういうものに完成度を要求する。それはいちばんいけないことじゃないか。
とにかくダイナミックなものがあるのが、やぶれかぶれに見えてもじつは本当の藝術なのではないか。
完成度という言葉は、日本語で非常に詩的な言葉なんです。
スタティックは、ただ現実から逃れてきれいなものをつくろうと思っている。三十歳くらいで完成度のあるものをつくろうとすれば、それは現実から逃れることだと思います。スタティックなものしかない。 -
戦後幼少時より独学で作曲を学び取り、やがてストラヴィンスキーに作品を賞賛され、そして20世紀の音楽界に大きな足跡を残していった巨人、武満徹。様々な方達からのインタビューから一体どういう人物だったのかを伺い知る事の出来る一冊。
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斉藤さんのおかげで すきになっちゃったのさ、苦手な武満徹
顔が怖いんだもん。。←おひおひおひおひ