五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後

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  • 集英社
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  • / ISBN・EAN: 9784087815979

作品紹介・あらすじ

日中戦争の最中、旧満州(現・中国東北部)に存在した最高学府「満州建国大学」。「五族協和」の実践をめざし若者たちが夢見たものとは。彼らが生き抜いた戦後とは。第13回開高健ノンフィクション賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    1938年の日中戦争の最中、関東軍が支配していた満州国に「満州建国大学」が建校された。大学の特徴はなんと「言論の自由」。戦時下でありながら、日本、朝鮮、中国、モンゴル、ロシアから若者たちが集められ、資本主義、社会主義、民主主義、共産主義、帝国主義といったあらゆる分野を分け隔てなく学び、学内では日本政府の批判が許されていた。すべては「五族協和」、すなわち五つの民族が共に手を取り合いながら、新しい国を作っていくために……。

    本書は、日本初の国際大学とも考えられている「満州建国大学」を紐解いていく書である。前半は文献をもとに設立の経緯と大学の理念を、後半は実際の卒業生へのインタビューをもとに当時の生活を解き明かしていくという構成になっている。

    設立の経緯と理念に関しては、当時の書物によりはっきりとした記述が残っている。端的に言えば、「戦争後の世界において、国を一から作れるだけの人材の育成を目指した」というものである。

    石原莞爾が1937年春頃、満州国の首都・新京に新設される最高学府の東京創設事務所を訪れ、次のような意見を述べたとされている。
    ①建国精神、民族協和を中心とすること
    ②日本の既成の大学の真似をしないこと
    ③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
    ④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること
    ⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること
    当時、満州事変を主導した石原が脳裏に思い描いていたものは、目先の満州や中国との戦争などではなく、やがて到来するだろうアメリカとの「最終戦争」を勝ち抜けるだけの強固な東亜連盟の結成だった。ゆえに彼は満州国に新設される最高学府にこそ、その核となるべく人材育成の機能をなんとしても付与したいと考えていたのだ。

    以上が経緯と理念だが、一方で実際の学校生活となると、あまり詳細に語られていない。それは日本の敗戦によって、統治中の満州国に関する文献のほとんどが棄てられてしまったからだ。そのため筆者は卒業生へのインタビューによって当時の生活を解明しようと試みるのだが、これも難航している。それは取材対象者のほとんどが85歳以上の超高齢者であり、証言が食い違ったり勘違いしたりしている部分が多かったからだ。本書は公表されている資料などをもとに複数の建国大学出身者に確認を取り、裏が取れたものだけを文章にしている。それゆえこの本には載せられなかったインタビューも相当にあるとのことだ。そこにも貴重な証言が埋もれているに違いないが、こればかりは仕方のないことであり、本当に惜しい気持ちでいっぱいだ。

    本書の終盤で、京都大学人文科学研究所教授の山室信一は次のように述べている。
    「それがようやく今になって、いくつかの証言が得られるようになってきました。今、メディアが必死になってかつての戦争経験者にマイクを向けていますが、あれは理にかなっているんです。人は亡くなる前に何かを残そうとする。自らの生きた証をこのまま歴史の闇に葬ってしまいたくないと。彼らは今、必死に残したがっているんです」

    今、「満州国の情報の希少性」が、世間一般にも当事者たちにも再認識されてきている。このままではあと10年もすれば、当時の学校生活を知る者はいなくなってしまう。歴史の闇に葬り去られる前に、何とか情報を残してほしい、そう強く思った。

    ――――――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 満州建国大学
    満州建国大学は、満州国が当時国是として掲げていた「五族協和」の実践を理念としていた。満州国には当時、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族などの民族がモザイクのように入り交じって暮らしていた。日本政府は満州国建国の早い時期から、総人口のわずか2%にすぎない日本人が圧倒的多数の異民族を支配することは極めて困難だと判断し、結果、国の実権は事実上すべて握りながらも、「五つの民族が共に手を取り合いながら、新しい国を作り上げよう」という「五族協和」のスローガンを意図的かつ戦略的に国内外へと掲げたのである。

    五族協和を実践するためには、異なる生活習慣や歴史認識の違いだけでなく、互いの内面下にある感情さえをも正しく理解する必要があるとして、建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由を認めていた。その特権は彼らのなかに独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論のなかで、日本政府に対する激しい非難が連日起こった。

    石原莞爾が1937年春頃、満州国の首都・新京に新設される最高学府の東京創設事務所を訪れ、次のような意見を述べたとされている。
    ①建国精神、民族協和を中心とすること
    ②日本の既成の大学の真似をしないこと
    ③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
    ④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること
    ⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること

    当時、満州事変を主導した石原が脳裏に思い描いていたものは、目先の満州や中国との戦争などではなく、やがて到来するだろうアメリカとの「最終戦争」を勝ち抜けるだけの強固な東亜連盟の結成だった。ゆえに彼は満州国に新設される最高学府にこそ、その核となるべく人材育成の機能をなんとしても付与したいと考えていたのだ。


    2 日本人卒業生
    戦後、西日本新聞に入り、ケネディ米大統領の暗殺時にはワシントン支局長を務めた先川祐次(一期生)は当時の塾生活を次のように振り返っている。
    「実質的指導者だった作田荘一副総長の教えは 『人の生涯は信念と思想、行動を一貫して働くものである』ということでした。大学ではこの教えを実践するため、塾生活にも一切の規則がなく、指導教官も学生の相談には応じるものの、干渉はしない。すべてが塾生たちの自律に委ねられていました」

    日本が降伏した後、一期生の百々和は敗戦に伴う投降を行ったが、それがうまくいかなかった。
    当時、中国大陸における日本軍の投降先は蒋介石系の国民党軍に限定されていた。ところが、山西省を掌握している国民党軍はその頃、太原やその周辺で中国共産党軍との激しい戦闘に明け暮れていた。国民党軍の司令官は日本軍から来る投降兵を「捕虜」としてではなく、自軍の「兵士」として組み入れることができないかと思いつく。これにより、百々をはじめとする約一万人もの日本兵が敗戦後も「鉄道修理工作隊」などとして中国大陸に留まることになってしまった。俗に言う「山西省旧日本軍残留問題」である。
    彼等は中国に残された日本人を祖国に返すためのしんがりとして戦いを続けるが、一年以上経ち、多くの日本人が日本へと帰還し終えると、「同胞を祖国に帰すための戦い」という大義名分は通用しなくなった。

    百々は戦場でどんなに悲惨な光景を目にしたとしても、それらの「論理」を素直に受け入れることがどうしてもできなかった。百々にとって、論理や倫理というものは唯一、人が人であり続けるための根幹とも言えるべきもののはずだった。それが状況によって解釈が入れ替わり、あらゆる行為が許容されてしまうのだとすれば、人は進むべき道を見失い、やがて根底から崩れ去ってしまう。
    百々は中国から帰還する直前の裁判において、弁明も釈明もしなかった。百々は語る。「私はそれを潔さと考えていたから。(中略)あの頃の日本人にとっては『潔さ』とは『美しさ』とそれほど変わらない意味だった。そして『美しく』あることは、『生きる』ことよりも、遥かに尊いことだった」


    3 中国人卒業生
    建国大学で学んだ学生たちは戦後、その大学が有していた特殊性を理由に自国で激しく迫害され、弾圧された。あるものは逮捕され、あるものは拷問を受け、あるものは過酷な強制労働を強いられた。

    現在中国に在住している建国大学OBへのインタビューは、当局の取り締まりにより幾度となくキャンセルされた。戦争や内戦を幾度も繰り返してきた中国政府はたぶん、「記録したものだけが記憶される」という言葉の真意をほかのどの国の政府よりも知り抜いている。記録されなければ記憶されない。その一方で、一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができる。共産党を脅かすものは些細なものでも許さない。そのきっかけはもちろん、建国大学で保証されていた「言論の自由」なのだ。


    4 韓国
    中国やモンゴルでは、建国大学に通っていた非日系の学生たちの多くが戦後、「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府などから厳しい糾弾や弾圧を受けていた。しかし、韓国では優れた頭脳を有する建国大学の出身者たちを積極的に登用し、いち早く国の基礎を築こうとしたといわれている。彼らは優れた語学力や国際感覚を身につけていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからである。1970年代や80年代には政府や軍、警察、大学、主要銀行などにおける多くの主要ポストを建国大学出身者が握っていた。

    「若いということは、実に価値のあることなんですよ」。新制三期生の姜英勲は言う。

    「満州国は日本政府が提造した紛れもない傀儡国家でしたが、建国大学で学んだ学生たちは真剣にそこで五族協和の実現を目指そうとしていた。みんな若くて、本当に取っ組み合いながら真剣に議論をした。日本人学生たちはいかに日本が満州をリードして五族協和を成功させるのかについて熱くなっていたような気がします。中国人学生は、満州はもともと中国のものなのに、なぜ日本が中心となって満州国を作るのか、という批判が常に先に立っていました。その点、朝鮮人学生たちは最も純真な意味で、五族協和を目指していたと言えるのかもしれません。それでも、簡単に『和解できる』という点だけをとっても、若さはやはり素晴らしいものだ」


    5 建国大学の意義
    京都大学人文科学研究所教授の山室信一は言う。
    「私たちはもっと正しくかつての 『日本』の姿を知る必要があるのではないかということです。日本や日本人はどうしても自国の近代史を 『日本列島の近代史』として捉えがちです。1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。それらが一体となって構成されていたのが近代の日本の姿だったのに、日本人は戦後、日本列島だけの 『日本列島史』に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代の日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな 『日本』という特殊な国の歴史のなかで、台湾朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけでもあります」
    「日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちは長年沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。もっと当事者たちの声が聞かれていたら、満州国への認識なんかも変わったのではないかなと私は今思っています。もっとバランスの取れた歴史認識ができたんじゃないかと。それがようやく今になって、いくつかの証言が得られるようになってきました。今、メディアが必死になってかつての戦争経験者にマイクを向けていますが、あれは理にかなっているんです。人は亡くなる前に何かを残そうとする。自らの生きた証をこのまま歴史の闇に葬ってしまいたくないと。彼らは今、必死に残したがっているんです」

  • 「五族協和」を実践すべく、日本・中国・モンゴル・朝鮮・ロシアの各民族から選抜された人達が集った建国大学の学生達が生き抜いた戦後を綴った書籍(2015/12/20発行)。

    本書は、建国大学の学生達が太平洋戦争後に歩んだ壮絶なドキュメントです。 彼等が生き抜いてきた戦後は、苦難と云うだけでは余りに生易いと感じるほど壮絶なもので、文字通り”戦後を生き抜いた建大生の史記”であり、その話には圧倒されます。
    特に元中国人建大生の漢詩には、胸を締め付けられる程のすざましさを感じました。 戦後70年経った今も続く元中国人建大生の苦闘には、只々、驚くばかりです。

  • 夏は戦争番組の季節。今年もノモンハン、ヨーロッパで戦った日系人部隊、戦争に駆り出された民間船など10本近く見たかもしれない。そんな中、たまたまTLで見かけたこの本は、満州の手がかりくらいの軽い気持ちで手に取ったのだが、冒頭から大きなショックを受けた。それは「五族協和」を実践するための大学が満州に存在していたということ。「五族協和」このインチキくさい言葉は日本がアジア侵略のための単なるスローガン、口当たりのいい言葉で、その理念の実現に取り組むことなんてやってるわけないと思ってたからだ。その建国大学の学生は半数が日本以外の民族で、生活空間も互いに混ざり合うよう構成され言論の自由が保障されていたという。力で抑えるよりもこちらの方が現実的と日本が率先してそんな仕組みを作るなんて、ちょっと想像できなかった。
    国のリーダーたるべきだった建国大学生は戦後、多くが苦難にあう。第二次大戦後のアジアはどの国でも大きな政治的変革があって、そこでは自由な思想は危険分子となってしまう、特に日本が作った満州の建国大卒なんて最悪だろう。この本では5カ国10数人の建国大学卒業生が登場するが、韓国の首相を務めた姜英勲以外は国の要職には就いていない。インタビューを読んで写真を見れば、この人たちが優れた知性とまっすぐな心と相当な忍耐力を持ってる事がわかる。どんなに優れてても自分ではどうしようもない事が人生には存在する、そこで終わりだと絶望しなかった事がこの人たちが80、90になっても凛々しく見える理由だろう。
    私が特に心を打たれたのは中国に残され、共産党と戦わされた百々さんの言葉「歌や詩や哲学というものは、実際の社会ではあまり役に立たないかもしれないが、人が人生で絶望しそうになったとき、人を悲しみの淵から救い出し、目の前の道を示してくれる。」
    台湾の李さんと辻政信の話も興味深い。NHKのノモンハンの番組で初めて知った辻政信、ちょっと調べて見るとろくなこと書いてなくて私の中ではインパールの牟田口廉也に続く陸軍のワルというイメージが出来かかっていたのだが、李さんの話を聞くと、ネットの情報程度でまた簡単に決めつけてはいけないのかもと思う。
    最後、日本で学びたいという22歳のダナと、建国大学卒業生スミルノフの、日本を敬愛し、思慕する場面で泣いてしまった。今の日本は彼らの憧れと尊敬に値する国になっているだろうか、私たちはそんな国を作ってきたのだろうか。

  • 毎年、『開高健ノンフィクション賞』はチェックし、今年の1冊がこの本でした。
    歴史の時間に一度は耳にしたことがある「満州国」。恥ずかしながら、自分も傀儡国家くらいの知識しかなかったのですが、実はそこに東アジアの国々から優秀な学生が集められ、大学が設立されていたことは知りませんでした。
     この大学の驚くべきところは、学内での「言論の自由」が認められていた点にあり、それぞれの出身国では禁書となっている本も自由に読むことができ、当時では考えられない国家に対する批判も認められていたということ。そんな中で学生生活を送った建国大学生も、当時の時代の波に呑まれることとなり、戦後は、高い能力を持ちながらも、数奇で過酷な運命を辿っていくことに…。
     この満州建国大学は国策大学であったにせよ、現代から見ても国際化の進んだ大学であったと思います。その大学の研究をICUという日本で最も国際化が進んでいると個人的に思っている研究者が研究をしていたことに、運命めいたものを感じざるを得ませんでした。
    この本で取り上げられている卒業生の多くが平均寿命を超えていることを考えると、あと5年遅ければこの本はこの世に出なかったと思う貴重な1冊だと思います。

    ~以下メモ~
    (P70)人の生涯は信念と思想、行動を一貫して働くものである。
    (P101)企業で直接役立つようなことは、給料をもらってからやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ。
    (P171)記録されなければ記憶されない、その一方で、一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができる。
    (P326)「衝突を恐れるな」とある建国大学出身者は言った。「知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ」

  • 戦前の満州新京(長春)には、五族協和の理想を宣伝・実践するために作られた国際大学があった。各地のエリートが集められたその大学寮では毎夜、大学内だけに通用する「言論の自由」を得て、喧嘩のような議論が行われる。しかし、日本の敗戦のあとに卒業生たちはバラバラになる。彼らは或いはアカと言われ、或いは親日スパイと疑われ、厳しい戦後を過ごす。2010年から取材を始めて80ー90歳の最後の生き残りの声を拾っている。非常に貴重な記録があるのではないかと思って読み始めた。

    貴重どころではなかった。私は「新たな日本の近現代史」を発見したのかもしれない。

    満州建国の本質は植民地である。建国大学の本質は日本帝国主義の未熟で未完成な教育機関にすぎない。それを認めてもなお、そこで学んだ日本民族、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族の若者の理想のぶつかり合いが、見事な「友情」と「見識」を産んだのを、この本で私はまざまざと見せつけられた。

    戦後、再び大学に入学して大学講師になった百々和(ももかず)91歳は、遺言を残すかのようにこう言った。

    「建国大学は徹底した『教養主義』でね」と百々は学生に語りかけるような口調で私に言った。「在学時には私も『こんな知識が社会に役に立つもんか』といぶかしく思っていたが、実際に鉄砲玉が飛び交う戦場や大陸の冷たい監獄にぶち込まれていた時に、私の精神を何度も救ってくれたのは紛れもなく、あのとき大学で身につけた教養だった。」(101p)
    「あの大学では毎晩、異民族の連中と『座談会』を開いていただろう。議論に参加するには知識や理論構成力だけでなく、何よりも勇気が必要なんだよ。自分の意見が常に正しいなんてあり得ない。時に論破され、過ちを激しく責められる。発言者はその度に自らの非を認め、改めなければならないんだ。そして、議論で何かが決まったら、その決定には絶対に従う。建国大学が当時、学生に求めていたことは、『時代のリーダーたれ』ということだった。それでは、『リーダーとは何か』と尋ねられれば、私は今もこう答えると思う。それは『いざという時には責任をとる』ということだ。リーダーに求められる資質とは、ただそれだけのことなんだよ。いざという時には、責任をとる。それは易しいように見えて実は難しく、とても勇気のいる行為なんだ。何かあった時に必ず自ら責任をとること。建大生はその点においては、徹底的にたたきこまれていた」(104p)

    映画監督森崎東の兄の森崎湊の自決や、台湾の怪物李水清の世の中を観る眼力、抗日運動を組織した楊増志、韓国首相にまでなった姜英勲、『藤森日記』を遺した藤森孝一、彼らの人生を知ると、教養が彼らを死にいたらしめ生かしたのだとつくづく感じるし、70年経ってもなお一気に燃え上がる友情は、あの寮生活で育まれたのだと知るのである。

    京大教授の山室信一は、日本人は近代史を日本列島史だと思っている、という。しかし、満州、朝鮮、台湾に生きていた人たちも日本の近代史を生きていたのである。私を含めて、日本人はまだまだ『発掘すべき近代史』を持っている。

    私はこれまで、朝鮮や台湾を旅して来た。やはり数度は中国、特に満州だった処にいかねばならない。
    2016年2月2日読了

  • 戦前、満州に設立され「五族協和」を目指した満州建国大学。五族とは、大学に在籍した日本、中国、朝鮮、ロシア、モンゴルを指すのか、あるいは、当時満州に暮らした、朝鮮族、満州族、漢民族、モンゴル族、そして、大和民族を指すのか、ロシアがあるか否かで思想が変わると思う。満州国の標榜する五族には、ロシアは含まれない。なぜ、大学にはロシア人がいて、どうして本著ではこの五族で満州属が無いのか、疑問としても語られないのは残念だ。

    戦後中国の戸籍においても、朝鮮族、満族、蒙古族は、漢民族と区別して記される。満族と漢民族が異なるからこそ、傀儡政権と呼ばれた溥儀が存在する。満州や新京は今の長春辺り。清王朝発足の地であり、民族も領土も中華民国とは異なる。これらを一括りに中国とすると、歴史が曇る。

    しかし、敗戦に際して日本軍は多くの文献を焼き捨ててしまった。だから、これら大学は記録ではなく、記憶として語られるのみ。著者は生存する当時の学生を訪ねて記憶を探る。特に学内で意外性のある事実は語られない。寧ろ戦後彼ら学生の微妙な立ち位置から受けた苦労が惨い。

    関東軍が山海関から東に常駐する軍隊というのは、勉強が足りなかったか、忘れていたか。また、山口淑子、李香蘭が本著に登場し、頭の中で、他の本と関連付いたのは、感動だった。証人が生きた最期のタイミング、著者は良い仕事をしてくれた。



  • 感想は後に。

  • 安彦良和の「虹色のトロツキー」を読んで、建国大学の存在を知りました。
    かつて満州国の最高学府として設立された同校では、五族協和を目指すべく、日本、満州、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生が机を並べていたそう。驚くのは、学内では言論の自由が保障されていたということ! 夜になれば、それぞれの立場から熱い議論を交わし、取っ組み合いをし、それでも朝が来ればまた共に学ぶ、そんな環境だったといいます。
    若きスーパーエリートとして満州国を導いていくはずだった彼等が、傀儡政権崩壊後にどのような運命を辿ったのか……
    新聞社の記者である筆者は、高齢の卒業生を訪ね歩き、彼等の人生を丹念に辿っていきます。
    最近、わたしはあまりにも日本近代史について知らないことが多すぎると反省しています。つい数世代前のことなのに……

  • 全く知らなかった満州建国大学,その存在理念とその後の学生たちの人生に深く感動した.三浦氏の丁寧で誠実な取材に,この本を世に出したことに感謝する.たくさんの人に読まれるべき本ではないかと思った.

  • 五色とは、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアのことで、本書はその5つの民族=五族の協和をめざし建てられた「建国大学」で学んだ人々へのインタビュー記録である。ぼくはこの本が出た頃から気になっていたが、なかなか買って読もうという気になれなかった。しかし、だんだん読みたい気持ちが募り、つい先日名古屋で会議の合間をぬって近くの本屋で求め、すぐさま読み始めた。著者の三浦さんの文章は人をぐいぐい引きつける。臨場感がある。読んでいて目頭が熱くなることが何度もあった。建国大学は、満州国の建てた大学であったことから、批判こそされ、宮沢恵理子さんの大著『建国大学と民族協和』がでるまで、これをまともに評価するものはほとんどいなかった。そして、今回三浦さんが取材していなければ、卒業生の生の声を聞くこともかなわなかったかも知れない。実際、三浦さんが話の裏を取っているうちに鬼籍に入られた人が何人もいたほどだ。事実を重んじる三浦さんからすれば、このままでは出せないとまで思わせた本だったのである。建国大学の五族協和は満州国と同じく、現実には理想とは違ったものであったが、実際にその理想をめざす人々は日本にも他の民族にも多くいた。そこでは言論の自由が認められ、中国や朝鮮の人々は日本の政策を堂々と批判することもできたのだそうだ。本書で三浦さんが取り上げている人々の発言を読んでいて、建国大学で学んだ人々がいかに自分たちの祖国を愛し、「潔い」生涯を送ったかがわかる。この中で戦後韓国の大統領にもなった金載珍が語ったことばは印象深い。それは弱小民族であった朝鮮民族にとって、ソ連や欧州などの影響を考えた場合、やはり日本とともに五族協和をめざすしかなかったということばである。日本が本当の意味で五族の協和を実行していれば、戦後アジアにおいてもっと尊敬されたのにと思う。

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