聖なるズー

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  • 集英社
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レビュー : 113
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087816839

作品紹介・あらすじ

2019年 第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作

犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。
性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、
人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。
そして、戸惑いつつ、希望のかけらを見出していく──。

【選考委員、驚愕!】
・「秘境」ともいうべき動物との性愛を通じて、暴力なきコミュニケーションの可能性を追い求めようとする著者の真摯な熱情には脱帽せざるをえなかった。――姜尚中氏
・この作品を読み始めたとき、私はまず「おぞましさ」で逃げ出したくなる思いだった。しかし読み進めるにしたがって、その反応こそがダイバーシティの対極にある「偏見、差別」であることに気づいた。――田中優子氏
・ドイツの「ズー」=動物性愛者たちに出会い、驚き、惑いながらも、次第に癒やされていく過程を描いたノンフィクションは、衝撃でもあり、また禁忌を破壊するひとつの文学でもある。――藤沢周氏
・人によっては「#Me Too」の「先」の世界の感性があると受け取るのではないか。この作品を世間がどのように受容するのか、楽しみである。――茂木健一郎氏
・多くのファクトに翻弄された。こんな読書体験は久しぶりだ。――森達也氏
(選評より・五十音順)

【目次】
プロローグ
第一章 人間と動物のアンモラル
第二章 ズーたちの日々
第三章 動物からの誘い
第四章 禁じられた欲望
第五章 わかち合われる秘密
第六章 ロマンティックなズーたち
エピローグ
あとがき


【著者プロフィール】濱野ちひろ はまの・ちひろ
ノンフィクションライター。1977年、広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。
インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院修士課程修了。現在、同大学大学院博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。

感想・レビュー・書評

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  • ズーファイル(動物性愛者)についてのノンフィクション。新たなものの考え方、見方を教えてもらった。
    この本を読むと、ズーフィリア(動物性愛)なんて異常だ、病気だという概念は覆されるだろう。

    とはいえ、生理的に理解できない人も多いと思うけど。

    本書タイトルの「ズー」はズーファイルの略称で、ズーファイルたちが自らを称する際に用いる。
    セックスの話がセンセーショナルだから、そこに限って取り上げられがちだが、ズーの本題の本質は動物と世界との関係性と言っていい。

    ・ズーは対等性にこだわる。
    動物に対し、性的な行為のためのトレーニングをズーはしない。なぜなら、それは動物を道具扱いするということだから。
    だから、心通わせあい、お互いが求めるときに、そういった行為に自然となる。
    ズーはビースティ(獣姦愛好者)やズー・サディストとは異なり動物を決して傷つけたりしない。

    ・ズーフィリアはペドフィリア(小児性愛)と同一視されることが多い。しかし、成熟した動物たちには性的な欲望とその実行力がある。一方、幼い児童は性的な目覚めがない。全く違う。

    ・ズーのセクシュアリティ観には、「パートナーの性のケア」という側面がある。
    つまり、動物の生を、性の側面も含めてまるごと受け止めるており、動物を「人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望ももついきもの」として捉えている。
    対して、動物保護団体は動物を「保護すべき対象、力なく自立できない生き物、子供のような存在」と考える。
    …どっちが正しいかって結構微妙。

    ・ズーたちは、人間の代替として動物を必要としているのではない。動物たちにこそ癒され、ケアされている。

    全体を読むと、著者自身の性暴力被害の経験と相まって、性とは何か?を深く読者に考えさせる内容になっている。
    ズーの女性が言う。
    「セックスは誰とであっても、素晴らしい経験になり得る。でもそれは、セックス以外の部分がうまくいっていることが前提よ」

    世の中の全ての性暴力がなくなるといい、と思う。

  • 軽々しく口に出来ないセクシャリティの話の中に、聞いたことも無い「ズーフィリア(動物性愛者)」という人々がいるという事をこの本の存在で知りました。
    いわゆる「獣姦」という言葉の持つ禍々しさと全く相容れない、動物の意思と幸せを価値観の最上位に置いた人々の姿が描かれています。
    筆者の濱野さんは夫からの長年のDVにより、性的なもの、情愛に関するものに本能的に距離を置いています。「愛」「Love」という言葉で表される、拒否を表明しにくい強引さすら伴う人間の性の営みに疑問を抱き、そんな時にズーフィリア(以後ズーと表記)という存在を知り研究にのめりこんでいきます。
    果たして動物が意思を表明出来るのか?多分に主観の入り込むテーマですが、このズーフィリアという存在を世の中が認めるか認めないかは、全てここに関わって来ます。
    動物にも意思が有り、性欲が有り、それを満たしてあげることが動物にとって幸せな事。幸せの為に動物の性を満たしてあげる。動物が誘ってこない限りそういう関係にならない。
    そういうズーの人々が沢山出てきます。
    濱野さんはインタビューだけでなく、彼らと数日から数週間寝食を共にして理解を深めていき、次第にズーの人々がパートナーとなる動物や、それ以外の動物へ向ける気配りに溢れた優しい視線に癒されていきます。
    ある意味彼女はDVで愛や性という部分に関しての視点が非常にシビアになっているはずです。にもかかわらず、ズーの人々と交流していく中で、動物とズーの関係性を幸せなパートナーシップであると認めるに至った事はとても大きい事だと思います。
    興味本位で読まれる可能性の非常に高い本だし、僕も実際興味を惹かれて読んだことには間違いありません。
    しかしこれは「情」「愛」「性」について考えるきっかけとなる本です。セクシャルマイノリティの生活を垣間見るだけの本ではありません。
    言葉を話すことが出来ないパートナーとコンタクトを取る為、ズーの人々は常にパートナーの姿を追い、何を求めているのかイマジネーションを膨らませます。
    人間同士である以上、言葉でのコミュニケーションが主になり、その裏側にある本当の感情は分からない可能性が有ります。いわゆる「嘘」がそこには含まれます。
    犬と暮らした人は特に感じると思うのですが、なんでこんなに飼い主の事が好きなんだろうと不思議に感じます。無条件で好意を全開にしてくる彼らとの関係性はある意味完結しています。人間が意図的に関係性を絶つか、犬の命が果てるかしかありません。

    「愛」と「性」は非常に密接な関係にありますが、「性」は欲求であり本来「愛」と便宜上定義する感情とは別の物です。相手の欲求を満たしてあげたいという事を純粋に遂行出来るのは、動物のように欲求をストレートに表せる相手にだけなのかもしれません。
    ズーとは、相手との密接かつ嘘の介在しない関係の中で、対等にお互いへの「情」を与えあえる究極の共生関係ではないかという気がします。
    実際に動物と性的な接触を行うという事が自分の中ではあり得ないですが、あの純粋に自分を見つめてくる瞳の中に、人間では得られない愛おしさと庇護欲を掻き立てられる事は体験しています。なので、動物が自分を求めた事に対して応じてあげたいと思う感情を不自然だとも思わない自分がいます。

    社会的にタブーとされる部分と、真摯に向き合ったこの本の意義はとても大きいです。
    センセーショナルな内容ではありますが、その中身は温かく光に満ち溢れています。

  • 家族同然で飼っていたペットが、気づかないだけで実は自分にセックスを求めつづけていたとしたら?そしてある日それを知った時に自分はそれを「正しく」対応できるだろうか?
    この本を読んだ後では、もうこれまでと同じ視点では動物と接せられないかもしれない。動物も人と同じく尊重される命であり、性があり、性欲がある。今まで自分は動物をペットとしてしか見てなかったんだなあ。
    猫を飼うならペットショップよりも保護猫であるべきと思っていたけど、結局「保護する」という行為も人間のエゴであり、果たして猫がそれを望んでいるかって難しい問題だ。動物の尊厳と権利。
    でも人間のエゴを断罪して「聖なる」レベルまで倫理的であることが正義になるのも違う気がする。だって動物たちは必ずしもお互いを尊重しながらセックスしているわけではないだろうし、エゴであることの方が自然であるようにも思う。
    きっとバランスの問題だ。エゴと思いやりのバランス。

  • 自分にとっては物凄く衝撃的な本だった。読んでる間、自分の価値観が思い切りひっくり返されていく感覚。
    ズーファイル(動物性愛者)の人々と生活をともにしながら彼らと向き合い、動物性愛とは、セックスとは、愛とは、そして人間とは何かを見つめ直す著者のノンフィクション。
    ズーは愛の対象が動物であるだけで、その愛し方はむしろ人間同士のそれより高潔、純真に見える。あらゆる逆境を超えその愛を貫かんとするズーの勇気に感動さえする。

    例えば将来生まれるであろう自分の子が先天的にズーであった場合、自分はどうすれば良いだろうか。わからないが、その可能性があるということを知るだけでも心の準備ができる。だからもっと沢山の本を読み、沢山の世界を知っておきたい。あらゆる可能性を受け入れる準備のために。

  • 読む前とは世界がまったく違って感じられるようだ。しかし、それはすでに私が知っていたはずの世界でもある。

    ズーとは、動物性愛者の自称である。いわゆるアブノーマルなイメージの”獣姦”ではなく、異性愛者や同性愛者の多くが異性/同性と特別な絆を育み、コミュニケーションをし、そのなかでときにセックスするように、ズーのひとびとは特別な動物のパートナーを愛し、関係を築いて、ときには互いの意志のもと、性行動をおこなう(すくなくとも彼ら自身の認識では)、または実現していないにしても、そういった動物との関係性を欲望する。

    愛した動物にセクシュアリティを感じて一瞬どきりとした経験があるのを、本書を読んで思い出した。
    私たちはふだん飼い犬に性があることすら無視しがちだ。あるいは人間のものとの間に太い線を引いて完全に区分けし、本能という名前でくくり、あたかも単純な条件反射か、機械仕掛けかなにかのように扱うこともある。しかし、同じ動物として、まして不完全であれコミュニケーションをおこなえる間がらであるのに、私たちのセクシュアリティとかれらの”性本能”が、そんなにきれいにわけられるものだろうか。
    そっと蓋をしているだけで、すぐ隣にある世界だ。

    追記メモ:ズーフィリアをクィアの射程内で考えること
    https://www.jstor.org/stable/23254843

  • めちゃくちゃ面白かった。
    帯にセンセーショナルな「動物との性愛!」などの言葉が並ぶのでドぎつい内容を想像してしまうけど、なんてことない人間ではない動物をパートナーとして生きていくことを決断した人達の人生に真摯に寄り添って書かれた本。
    著者があまりに壮絶な性暴力経験を過去に追っていて、愛やセックスについて今一度考えなおす作業が合間合間に入る。
    あくまでパートナーと時間を過ごして生活をする中で、食事をしたり散歩をしたり、運動をしたりコミュニケーションを取ったりなどのひとつに、当然性衝動は入るわけで、パートナーの人生全てに寄り添おうと思ったとき、そこだけ見えないふりをするのは変だろうという考え方。言われりゃ当たり前なんだけど、相手が物言わぬ動物だからこそ理解を得るのが難しい。そこらへんはしっかり向き合って書かれているから読むのが早い。

    パートナーのパーソナリティを徹底的に理解して寄り添うってあんまり考えたことなかったのでなんかわが身を振り返ってめちゃくちゃ考えてしまった。
    相手が何も言葉を発してなくても触ってほしいと感じているところ、してほしいと思っていることを察してあげれているのか?相手をセックス・トイのように自分の快楽のために利用していないか?いやーーー、自分が満足することに熱中してるとき、ある。反省。そういった意味でも良い機会を頂きました。

  • なかなかに言葉にするのが難しい。
    読み始める時も読んでいる時もそして読み終わったすぐも、しばらく時間の経った今も、自分の中で全く消化できていない。

    動物との性愛。
    頭ではわかる。昔から日本ではよくある話だ。誰もが知っている妻が鶴だったり、夫が犬だったり。小さい時から親しんできた物語の中では全く違和感もなく受け入れられてきたと言うのに、なぜだろう。
    動物との愛。ならわかる。うちにも長い間白い小さな犬がいたから。いつも一緒にいるその犬は当然のように家族であり、幼い私にとってはかけがえのない姉妹のようなものだった。
    でも、そこに性の入る隙間はあるのだろうか。
    自分とは違う「種」の生き物に「性」を伴う愛を感じられるのだろうか。
    違和感の塊を抱えながら読み始めた。

    動物と共に暮らす中で相手と心を通じ合い、意志を尊重し、そしてセックスをする。
    けれど、そこに本当の意味での意志の疎通はあるのか。
    動物が発情しヒトに対してなんらかの行動をとることはあるだろう。けれど、それを受け入れる、あるいは逆にヒトの発情を相手に受け入れさせることに、無理はないのか。

    どうしてもそこに違和感を感じざるを得なかった。セックスはなくてもいいんじゃないか。
    現にズーの中にはパートナーと性的関係を持たずにいる人もいる。物理的に不可能な場合もあるし、必要と感じない場合もあるだろう。ならば、その関係と、私たちが「家族同様」に暮らしている動物との関係とどこが違うというのか。

    誰が誰を愛し、誰をパートナーとして選び、誰と性的関係を持ちたいと思ったとして、それを理解や共感はできなくてもお互いの合意のあるものであればその関係を否定しない、というスタンスでいるつもりだけれど、まだ、このズーと呼ばれる人たちと動物との愛は受け入れられないでいる。

    動物がそばにいてくれること、共に過ごすことで救われたり癒されたりするのはわかる。そこに性的関係が必要なのか。
    あぁ、でも動物の種を超えた交配はどうなのか。ライオンとトラ、ヒョウとチーター、ロバとシマウマ。その交配と同じじゃないのか。うーん、わからない。

    いろんなことを考えている。考えているけれど、まだまったく理解も消化もできていない。
    ただ、「愛することって何なんだ」という問いだけが深く心に刺さっている。

  • ドイツの動物性愛のグループ「ZETA」のメンバーに直接取材した「獣姦嗜好」とは異なる「動物性愛者」の姿に迫るノンフィクション。
    プロローグでいきなり自身のDV・性的虐待についての語りがあって、最初ちょっと苦手なタイプのノンフィクション(あまり著者が前面に出てくるノンフィクションは苦手)かもと思ったが、読み進むうちにこの本・著者に関してはそれで良かったと思うように。
    登場する「ZETA」に所属するズーフィリアたちは、自分たちの性的指向に対して真面目であり高潔ささえ感じさせるものがある。しかし、それゆえに何処か胡散臭さも感じる。彼らが意図的なのか無意識的なのかはともかく何処かに欺瞞があるのではないか疑いを持つのは自分が下卑た人間だからか。
    ただ、著者自身が書いているように、「ZETA」がズーフィリアのすべてを代表する訳ではなく、彼らとは考えを異にする人たちも多い。この本の中にも「ZETA」から嘘つき呼ばわりされているエドガーという人物が登場するが、時間的制約でキチンと取材できずに終わっているのが残念。そういう意味で、この本はズーフィリアのすべてについて語るものではなく、その極一部にスポットを当てただけのものに過ぎない。しかし「ZETA」の人たちの主張は綺麗事かもしれないが、著者の感じるセクシャリティの在り方に対する疑問やそこに潜む暴力性に対する回答とまでは行かないにしても、それまでとは異なる新しい側面を提示したとはいえるのではないだろうか。
    結論のあるものではないが、起点とはなる一冊、

  • 動物性愛者「ズー」。今のところドイツにだけ存在する「ズー」達の団体「ゼータ」。そのメンバー達と著者濱野さんの交流を中心につづられたドキュメント。

    自分の知らない世界はまだたくさんあるんだな、と改めて思った。「獣姦・動物虐待」と「動物性愛」との違いさえ知らなかったので、なかなかに衝撃的なテーマ。
    ただ読み進めていくうちに、そんなに特殊なことでもないのかも、と思い始めたのも事実。動物好きの究極形態、それを実行してる人々、という感じ。とはいえ、個人的には共感も実感もできないけど。
    また、衛生上はどうなの?という事が気になって仕方なかった。人間同士の性行為でさえ、病気になったりすることもあるのに、、、そこは大丈夫なの?と。

    以下、気になったことを箇条書きで。
    ・著書の中でも指摘されていたけど、やはりアクティブ・パートの人の内容が薄い。パッシブ・パートの人の内容と比べると、全く少ない。そこら辺をもう少し突き詰めないと「動物性愛」に対しての見方を決められないな、と感じた。
    ・「動物は嘘をつかない・裏切らない」だから、パートナーとして存在し、癒されている、という締めの部分。なるほど納得。
    ただ自分は、、、嘘もつくし裏切るかもしれないけど、だから人間は面白いし、そういう不安があったとしても一緒にいたいと思える人と出会えるのが楽しいと思う。これもまた価値観の違いだな。
    ・パートナーである動物と「対等」であることを重要とする「ズー」。自分以外の他者と全く対等になることなど不可能だと私は思うのだが、「対等」あろうとする姿勢は、とても好感が持てた。ペットを「子ども視」する今の風潮よりは、ずっと健全な気がする。
    ・小児性愛との違い。「性欲」を持たないであろう「小児」を性の対象にするペドフィリアとは根本的に違うという説明は、とても分かりやすくてよかった。

    愛のカタチは様々なんだな。

  • プロローグを読んだ時、これはなかなかの「小説」だぞ、と思った。
    しかし、しばらくしてから京大大学院という固有名詞が出てきて、はて、と裏表紙の著者の経歴や、奥付を読んだ。
    これって、ノンフィクション?!
    著者の過去、配偶者から受けた暴力についての記述は読むのが辛い。
    一方、本書の主題である動物性愛、ズーファイル(本書では「ズー」と表される)は、そういうものがあることは知っている、という程度でほぼ知識がない。
    この二つの性にまつわる話はどうつながるのか?

    イメージしていたのは、馬や犬に対し、人間の男が挿入する、というもの。
    いわゆる暴力、虐待のイメージで、「異常性愛」にカテゴライズされるのでは、と考えていた。
    気持ちが悪い、とか、ありえない、とかではなく、理解できないもの、ごくごく一部のもの、という認識だった。

    本書によると、ズーは、もちろん、そういう人もいるにはいるのだが、必ずしも性行為が伴うものではなく、動物の側から誘い、人間が同意してはじまるものと考えている人が多数派のようだ。
    小型犬を家族、なかでも「子供」として扱うことと何が違うのか、という筆者からの問いかけには言葉を失った。
    性衝動は、動物達の側にもある。
    それをないものとすることは、動物を自分の「モノ」としているのではないか。

    対等な立場で関係を育むことは良い。
    虐待もあってはならない。
    だが、動物は人間と同じだろうか?どこまで守り、どこで線引きをすべきだろうか?
    愛はスペクトラム、連続した濃淡があることは間違いない。
    ではどこからが異常か?どこでどんな規制をすべきか?

    私にはわからない。
    愛の広さや難しさを考えさせられた。

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著者プロフィール

濱野 ちひろ (はまの ちひろ)
ノンフィクションライター。1977年、広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。2018年、京都大学大学院修士課程修了。現在、同大学大学院博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。2019年『聖なるズー』にて第17回開高健ノンフィクション賞受賞。

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