◆ネタバレがありますので未読の方はご注意ください
※読後に気になったことをバーーっと書き出したメモであり全然まとまっていない。
なんだかわからないが胸にズシンときてしまった。感動したというのとは違う。深く突き刺さったというかんじ。それは決して嫌な痛みではないが、快感という訳でもない。
「シュウジ」と「ちせ」。ふたりの高校生の純粋でまっすぐな恋の物語(愛の物語ではない)。その「想い」の部分は圧倒的な純粋さで迫ってくる。このような異常な状況に置かれても、果たして恋人のことを全面的に受け入れていけるだろうか?
ただの女子高生が「最終兵器」となってしまい、最終戦争に巻き込まれ地球の滅亡を目の当たりにしていくというとんでもなく一大事な設定はカフカの「変身」的唐突さだが、それが「恋」という思春期の少女の一大事とまったく並列に語られていくところがすごすぎる。「地球はもうダメです」という事実が交換日記につづられているというのもすごい。
ちせは途中から自分が敵を殲滅すること、人を殺すことをあまりにもあっさりと口にするようになる。誰がのHPに書いてあったように人格が崩壊している? ちせの機械の部分が生体の部分を食い荒らしたということからも、完全なマン=マシーンではなく、人間から機械へと変わっていってしまっているということか。マン=マシーンの負の身体性、機械に浸食される身体をここまで強烈に描いた作品も少ないだろう。それは浸食される身体がただの恋する女の子であり、さらに自らが兵器=殺人の道具となることを半ば受け入れていることにより、その哀しみと痛みは増幅される。
その意味では自分が以前より考えていた異形の者の哀しみとは少し質が違う。異形であるが故に周りから疎外される哀しみではなく、異形になっていくことを半ば受け入れつつもそれが恋人を苦しめることになってしまうという哀しみである。「クラスメイトに戻ろう」。
バトロイド美少女というアニメ的おなじみキャラクターの存在意義をここまで膨らませたのはすごい。この作品はそういうキャラクター的視点で語られるものではない。その意味ではコナミがゲーム化したというのはちょっと理解に苦しむ。
逃げ出したふたりが漁港で過ごす夢のような14日間、その中で「壊れていく」ちせが切ない。
戦争の緊迫感が伝わってこないのは、シュウジたちの日常の感覚なんだろう。作者はインタビューで「シュウジの視点に立って、リアリティーとして必要のないものは省いていった。連載当初、担当編集者とつい、戦争の全体状況とかちせのテクノロジーは、といった話に入ってしまった時は、第1巻の最初のページに書いた「ぼくたちは、恋していく」、ここに立ち返ろうと話した。すべてを把握する「神の視点」はこの作品にそぐわないし、自分に合わない。」と言っている。
戦争の悲惨さが描ききれているかといえばそんなことはないだろう。ただアケミがシュウジへの思いを告白し、血を吐いて死んでいくシーンは胸を詰まらせる。「もう女の子の体じゃないから」と拒否するアケミの体を見て「キレイだ!興奮する!」と叫ぶシュウジ。
人殺しとしての兵器であるちせ。それを許したシュウジ。だが本当にそれでいいのか? ちせ自身が兵器となってしまったからそこには許しがあったが、これが兵器を操縦する人間だとしたら? 戦争で人を殺すのは許されることなのか? それでは第二次大戦で戦った人たちはすべて死ぬまで許されないのか?
「あたしひとりが我慢すればいいことだから」といったようなちせのセリフは、街を消し去り大量殺戮を繰り返し、死の平野を見続けてきた少女が発するには、兵器としての彼女の孤独や悲しさといったありていの言葉を越えてあまりにも重く感じられる。
物語の最後でシュウジは地平線まで続く死者を見る。それはちせが戦いの中で見てきた風景であり、読者の前にも初めてさらされる。兵器としての彼女の苦しみ・哀しみ(という言葉でさえ陳腐になってしまう)がシュウジにもわかり、彼は死んでいった人たちに「ごめんなさい」と嗚咽する。ちせがいつも「ごめんなさい」とあやまってばかりいたことと呼応するのか? この「ごめんなさい」は彼がちせを「選んで」しまったことに対してなのか?
思い出の展望台でシュウジとちせ(だったもの?)が結ばれるシーンとラストの「船」が地球を離れていくところに違和感を感じてしまった。両方とも一番肝心なシーンのはず。自分はこの作品に100%(どころか肝心なシーンがダメだったのでかなり低め?)はシンクロできなかったのだろう。
兵器であることを越えてお互いを大切にし合おうというふたりの(とくにシュウジの)想いは、「たとえ他のものを犠牲にしても!」というかなりギリギリ感のあるものであり、そのギリギリ感が読んでいて息苦しくなるほどの切迫感となった。それなのに前述の2ヵ所のシーンにはそのギリギリ感、切迫感がなく、ふたりだけの世界で完結してしまっているように思える。
展望台のシーンでは、最初ちせがシュウジのことを覚えていない。ちせはもう完全に兵器になってしまったのだろうかと思ったが、体を重ねるうちにだんだんと思い出してきて、最後は昔の調子に戻ってしまう。このあたりがなんとなくありがちな感じがして違和感の原因のひとつでもある。
「最終兵器として殺戮を繰り返す彼女」という異常な物語設定から、人間の倫理観を揺さぶるようなラストになるのだろうか? と思っていたため拍子抜けしてしまったのかもしれない。漁港での14日間のときだったろうか、シュウジの「俺がおまえを殺すから」というようなセリフがあったが、そういうギリギリ感があると思っていたのだ。
最後にちせが声だけとなってシュウジに語りかけるのはよかったんだけどな。あのまま映像イメージは出さないほうがよかったのでは?
でもやはり最後にちせが「船」となって宇宙に飛び立つというのはちょっとやりすぎというか…。マン=マシーンと化したちせを取り戻す意味でも最後はゆっくりと滅亡に向かっていく地球の上、夏の北海道の自然の中で終わったほうがよかったなあ。
恋は盲目である。二人の恋を純粋にまっすぐに感じられた人はあのラストを受け入れられるのだろう。作者は人生の中である一時だけこんな物語を受け入れられるときがある。何年か経って違うと思ったら誰かに譲ってくれというようなことをあとがきで書いていた。それが高校生というか思春期という時期なのかもしれない。そもそも恋とはそういうものなのではないか。シュウジが最終兵器であるちせを受け入れるということは、すでにこの世界よりも彼女を選んだということだ。それであればあのラストもなんら不自然ではない。
肝心なところでシンクロできなかったからといって、この作品が悪いというわけではない。そういう点を差っぴいても胸にかなり深く突き刺さるものがあったのは事実だ。少なくともラストシーンが俺の感覚に合うものだったなら、俺にとっての大傑作になっていたかもしれない。そう思うととても残念なのである。
札幌空襲で墜落したちせをシュウジが見つけたところで見開きタイトルが入るのがかっこいい。これがやりたかったんだろうな。
余談だが、キャラクターがしょっちゅう2頭身になるのはどうしても受け付けない(笑)。20020820
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BSマンガ夜話で「最終兵器彼女」がお題となっていた。
掲示板の書き込みを見ると10代はそのまま受け取っている。まさにある時期だけ受け入れられる作品。
CGの意識的使い方。
自覚的演出。確信犯的。
岡田斗司夫による母と子の絶対的な関係との読みはなるほど。
でも誰も殺人兵器ということに言及しない。
ちせは自分の戦争における役割を自覚しているし、途中からはそれを肯定?している(少なくとも否定していない)。彼女が戦うことで街がいくつも消え、恐らく数万ではきかない人間が死んでいる。でも最終兵器、最終戦争というあまりの非日常性がそれを麻痺させてしまっている。
これが最終兵器ではなく、自分の行為を半ば自覚している連続殺人犯のストーリーだったらどうなのだろう。10代の読者は同じようなピュアなラブストーリーと受けとめられるだろうか。
ちせが「あたしが出てかないと(戦わないと)しょうがないでしょうが」と言って微笑むシーンを指していしかわじゅんだか夏目房之助だかが、「菩薩と不動明王が一緒になったような」ということを言っていて、ああなるほど、そういうことかと思った。
善と悪の一体化、負の聖性、鬼子母神みたいな観点で捉えるとなんとなく見えてくるような気がする。そこを追及すれば人間の倫理観みたいなところに入っていくはずで、やはりそれをねぐってしまったのであれば、最終戦争、最終兵器は恋愛をよりドラマチックでピュアに盛り上げるための引き立て要素に過ぎない。そのためにヒロインに数万の人間を殺させるというのは、いくら確信犯的に恋愛マンガを描いているといってもやはり合点がいかない。
シュウジがちせを選ぶのであれば、そこには通常の倫理観を覆すような「痛み」が伴わないとこの物語設定のうえでは正当性を持ちえない。例えばシュウジも自覚的に人を殺してしまうとか? 20021107