私と人形の関わりはソフビ製の安価な玩具人形から精々40cmのキャストドールを買って撮影して遊ぶ程度。
高尚な美術としての世界もある事は知って居たが、お値段の桁数が違い過ぎてとても手が出せる世界では無い。
こうした書籍が存在する事で庶民にも美術としての人形を写真として鑑賞出来る事は助かる。
クローズドアイ=寝姿が多く、それは美しいが、永遠に目覚める事は無いと言うのがもの悲しく、それらは幼子である。
素人の私には耽美的に見えるが、ダークな世界程には一見は見えず、ほぼ常識的に見える表現とは思えるが、所謂少女ヌード写真の様な表現も散見し、やはり薄っすらと根底にある退廃的な雰囲気も感じ取れる。
背筋が凍り付く程美しいのだが、温かい体温を感じない冷たさ、これは押井守のアニメーション映画「天使のたまご」を始めて見た時の感覚に近い。
こうした文化、芸術を単純に「小市民的」と切り捨ててイケナイ事は重々承知の上だが、絵画のパブロ・ピカソ、アニメーション映画のユーリー・ノルシュテイン、或いは人形アニメーション映画の川本喜八郎の、一見難解、或いは不条理でも人間の血の通った作品を知るとやはり疑問符も正直な所出て来る。
球体関節人形=着せ替え人形は、彫刻や塑像や他の人形とは異なり所有者=鑑賞者によるポージング、更に衣装、ウィッグの着せ替えも受け入れるのが本筋なので、可能ならばそうやって鑑賞すべきと思うし、それを行わないなら、ロボットの様な球体関節は痛々しいだけで無意味だ。
これはどの様な芸術(文学、音楽、演劇、美術・・・)にも言える事だが、「作家と鑑賞者の共同作業で作品は完成する。」と言う事である。
そうした鑑賞方法を多くの人々が享受出来る様にするには、複製と量産により価格を下げる事である。
それは作品に一品性、一回性を失わせる事になり、最終的には美術品から単なる工業製品になってしまったのが玩具としての人形とも言える。
玩具の美術としての水準を高める努力は必要に思う。
しかし、程度の差はあれ、そうしないと高尚な球体関節人形は本来の鑑賞をされず、限られた富裕層の所蔵品になってしまう。
19世紀のビスクドールは量産品だった。しかし、乗用車、人形、カメラが富裕層の玩具であると言う本質は今日に至っても変わっていない様に思える。
人形芸術を大衆と共に歩む血の通った物に出来るのかどうかは、今後の作家の創作活動と鑑賞者である大衆の行動に委ねられていると思う。