どん底 部落差別自作自演事件

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  • 小学館
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  • Amazon.co.jp ・本 (398ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784093798327

作品紹介・あらすじ

おぞましい言葉に満ちたハガキ44通。「犯人」は「自分」だった。複雑に歪んだ「現代の部落差別」の構造を抉る事件ノンフィクション。

感想・レビュー・書評

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  • 人間の悪意を固めて砂の城をつくったらこうなるのだろう。しかし人の心は理論整然とはいかない。曲がりくねりうねり乱され後戻りする。自分の心理を明快に語れる人はいるのだろうか。

  • ・この本を読んで、様々な感想を持った。

    ・ひとつは、「部落差別」というのが平成も25年を過ぎようとしているこの時代にまだ根強く残っていることに驚いた。
    それと同時に、この問題について自分がどれだけ関心が薄く、殆ど知識を持っていないということを思い知らされた。

    p.75「そもそも出自を告白しなければと、結婚を申し込むときに悩まなければならないこと自体、ムラの外にある者には考えられない特異な感情の経験である。
    が、たまたまそこに生まれ、あたかもそこに生まれたことが罪であるかのようなまなざしをうけて、世間が作りだしたそのまなざしによって罪人の告白のように出自を語らなければならないという不条理は、耐えがたい苦痛であるだろう。
    まして、出自を隠して生きることを選んだ、もしくは選ばされたとしたら、生涯にわたって背信の苦痛はつづくだろう。」

    p.128「明治四年に太政官布告(解放令)によって賤民身分が廃止されてはいたが、新政府は部落民にたいしてなんの補償の手だても打たなかった。
    私有財産制が導入されるなかで、資本家が部落民の伝統産業であった革産業に進出しはじめ、そのためにどこの部落も経済的に痩せ衰えていった。
    貧しさは貧しさを呼び、蜂の巣のように小さな家々が密集する不衛生な貧民窟は伝染病の温床となって、「あそこに行ったら病気を移される」「あそこには恐ろしい人たちが住んでいる」といったまなざしを、いままで以上にうけることになった。
     最下層の者には圧迫と屈辱を加え、彼らを支配してきたかつての者たちには補償をあたえる。
    解放令と華族令の、この差異はなぜか。
    明治二十三年には国会が開設され、衆議院のほかに貴族院が生まれている。
    全国で約五七〇人にすぎない華族が、貴族院議員の半数を占めることになった。
    これひとつとっても華族令の発布は、国会開設にそなえて、部落民や労農民にたいする支配層の砦を築くことを目的のひとつとしたものではなかったか。」

    p.133「一般的に言って、部落外の人が抱く被差別部落への忌諱感とやらは、「あそこの通りの向こうには恐ろしい幽霊が出るから近づくな」といったたぐいの話によく似ている。
    幽霊なんてだれも見ていないのに、いかにも見てきたように「あそこは恐ろしいところだぞ」と人に伝える。
    それを聞いた人は、せっかく仲間にいれてもらっているいまのコミュニティから締め出されるのを恐れて、その話をもっともらしくほかの人に伝える。
    噂が噂を呼んで「真実めいた世界」ができあがり、「あそこに住んでいる人たちは、自分たちとは違う。少なくとも自分たちの<血>は、あそこに住んでいる人たちのように汚れていない」といった優生幻想をもつにいたる。」

    p.135「病気に罹ったり死んだりした牛馬をもらいうけた穢多は、皮を?ぎ、皮をなめす。
    それで武具や太鼓をつくり、藩に納めていた。
    肉食をタブーとする仏教などの影響から、このような仕事に就くものは不浄の輩、穢れとされ、さげすまれてきたのだが、藩はその代り課役や納税を免除する特権をあたえていた。
    明治新政府になってその特権は失われたものの、牛馬についてはなお慣例がつづいていたので、農民たちは、穢多を自分たちと同じ身分にするのなら牛馬をめぐるもろもろの権利を自分たちによこせ、さもなくば穢多を得た身分にもどせ、と言いだしたのだ。
    どちらにしても穢多や非人と呼ばれてきた者たちが自分たちと同じ身分にされたことが、耐え難い屈辱だったのだ。」
    →こういったことが、「平民」による一揆が起こるきっかけとなった。

    p.137「私見だが、部落差別というのは近代になって生じた問題であり、「解放令」の発布によって生まれたものと考えられる。
    それ以前は厳然として身分制度があったわけだから、差別はあっても、それを問題にすることなどできようはずもなかった。
    同じ身分になったがために差別意識が露骨にあらわれ、賤民身分であったものが暴れまわる(注:被差別者が傍若無人な振る舞いをするようになったということ)ものだから、よけいに胡散臭がられ忌み嫌われるようになった。
    同じ身分の者が同じ身分の者を差別するという奇妙なよじれに遭遇した部落民は、町の「平民」から拒否されると「同じ平民じゃないか。どうして拒否するのだ」と怒りをつのらせて、さらに暴れる。
    これが部落差別が「問題」化した最初の姿であろう。」

    p.142「「平民」に組みいれられたというだけで、家を焼かれ、親きょうだいを殺され、蹂躙されてきた人びとにしてみれば、天皇の発した「解放令」に背いて自分たちを嘲笑う「旧平民」こそ逆賊なのであって、部落民への差別発言、差別行為は詔勅の精神に反している、差別撤廃をめざして徹底糾弾をおこなうのは天皇のご意思にかなっている、というのが水平社のゆるぎない自信になっていた。
    すなわち、明治天皇こそ「解放の父」だったのだ。」

    p.146「「そんなに差別をうけるのがいやなら、部落から出ていけばいいではないか、そしてどこか大きな都会に住んで、そこに溶け込んだらいいではないか」という話をよく聞く。
    そのようにして部落を離れていった人たちも現実に大勢いるし、貧しくて教育もうけられなかったために部落に残る人たちも現実にいる。
    そしてその人たちが、できることなら故郷に住みつづけたいと願ったいることも現実としてあるのだ。
    このような自然な願いを顧みることもせずに「部落を出ていけばいい」という人は「虚ろな人びと」の部類から逃れられていない。
    なぜなら彼らは差別を温床する立場から、このようなことを言っているにすぎないのだ。
     ついでに言っておくと、同和対策事業特別措置法によって、多くの部落の住環境が整備されたことについて、部落外の人びとから「逆差別」なる不満の声が出てきた。
    「彼らだけがいい思いをして、自分たちは置いてけぼりを食わされている。逆差別じゃないか」というわけだ。
    福岡のある部落に林立している市営住宅はこの法律で建てられたもので、七二平方メートルの広さで家賃は二万円ほどという。
    それをタクシーの運転手は「あの人たちだけが、いい思いして」と恨みがましげに言ったものだが、その住宅ができたころにはたしかに部落の人々は優先的に入居したが、いまはだれでも入居できる。
    彼らと同じ場祖に住みたくないという理由で、そこに住もうとしない人がいるだけなのだ。
     この法律はたしかに一部に利権化をあおり、京都、大阪、奈良などで私腹を肥やす者たちが出て問題化したが、それだけをことさらにとりあげて「そうれ見たことか」と言うわけにはいかない。
    部落以外の地域は行政によってさまざまな改善行がおこなわれてきたが、部落はずっとあとまわしにされ、入り組んだ路地には救急車も消防車もはいれず、下水道も整備されなかった。
    県や市の担当者が視察に来ても、住民はお茶の一杯ぐらい出してやりたいと思うのに、そのお茶もなく、彼らがいったいどんなものを出したらよろこんでくれるのかとはかりかねて、ちらりちらりと軒下から顔だけ出してみる。
    そして相手にふり返られたとたんドキッとして、家のなかに隠れてしまう。
     そんなふるまいが外から来た人には奇妙に感じられ、やっぱりここはなんだか変な人たちが住んでいるところだなと思われてしまう。
    こうした村の住環境をよその地域と同等程度にひきあげて、法律によって生まれた奨学金制度をつかって上の学校に子供たちを行かせる。
    条件をそろえたうえで、部落差別の解消に向かおうとするのが、行政の当然の責任というものだったろう。」

    ・しかし、この差別ハガキ事件の犯人の行ったことは許されるものではない。
    「差別されている」という自分の立場を逆手に取った悪質なものである。
    巻末に収められた44枚のハガキを見て、彼は一体どんな気持ちでこれらのハガキを作成したのかと思い、得体の知れなさ、不気味さすら感じさせられた。

    p.337「「山岡一郎さんは、今回の行為の動機について、臨時職員の立場を継続させたかった、差別をうけていれば嘱託の雇用継続が解放されにくくなると思った、と供述しています。
    これは部落問題を煽ってみずからの利益を求めようとする行為であり、まぎれもなくエセ同和行為であります。
    ましてや研修会に招聘され、講師謝金を受領していることを考えれば、悪質極まりないある種の詐欺行為であると同時に、社会的に存在する部落への差別的予断と偏見を悪用した、かつ、それを助長拡大する差別行為であると断じなければなりません」」

    p.360「山岡一郎という人格が引き起こした犯罪の本質とは、ささいな過失から悪事にいたってしまったというような幼稚なレベルではない。
    彼ははじめからつよい確信をもって計画を始動したのである。
    そして彼は自分の悪事を悪事として認識することのできない、「自分だからこそ許される」といった「選ばれた自己」意識によって悪事を美しい悲劇として正当化できる稀にみる性質の持ち主なのだ。
     彼は並外れてつよい意志の力をもち、自分のつくりあげた虚構を真実として思い込むタイプの人間である。
    そして、それを紛うことなき真実としてたくさんの人に語り、彼らを自己の利益のために動かすことができるのだった。
    なぜそれができたかというと、笹倉弁護士の例を見るまでもなく、「いい人」として多くの人に見られてきたからだ。
    でも、それは彼自身が「いい人」に見られようと人並み以上に度量を重ねた結果、いだかされた幻想にすぎない。
     おそらく彼の皮膚の下には、部落に生まれたことへのはげしい「怒り」が隠れているだろう。
    解放運動の恩恵に浴してムラに住みながら、心は外にあり、部落と部落民を彼は蔑視してきた。
    彼は自分が部落民でありながら、意識は部落民ではなく、しかしそうかといって外に出ていく勇気もない。
    善良な子羊みたいな顔をしながら、地獄の鬼のような情熱をもって侮蔑の言葉を書きつづけ、最後は中毒患者のようになって、自己と部落の消滅を示唆する「死」という文字をひときわ大きく書いたのだ。」

  • ノンフィクション
    社会

  • 月刊『部落解放』で高山文彦が連載していた「新破戒」が終わったのはいつやったかなとバックナンバーの目次を調べたら、連載終了は昨春で、そろそろ本になってないかと図書館の蔵書検索をしてみたら、「新破戒」はなかったけど、この本を見つけて借りてきた。

    サブタイトルにある「部落差別自作自演事件」は、福岡の被差別部落で実際にあった事件。2003年から2009年にかけて、山岡一郎(仮名)のもとへ、あるいは勤務先や上司へと差別ハガキが送られてきた。巻末には、その全44通の内容が掲載されている。「部落の人を辞めさせてください」とか「部落にクソあれ、あんたに不幸あれ」など、書かれた内容はひどい。

    何より驚くのは、この差別ハガキを書いて送り続けたのは、当の山岡(仮名)本人だったということ。「すなわち彼が差別した部落民とは自分自身なのであり、読むに堪えないおぞましい言葉の数々を自分自身に向かって吐きつづけたのだ」(p.6)という事件だった。

    著者は「事件の一部始終を可能な限り詳細に描き出し、後世への記録としたい」(p.11)という。差別事件の「被害者」がみずから加害をおこなっていた、という事件をどう考えたらいいのか。読んだ後味はわるい。この山岡(仮名)という人が、何を思い、何を考えてこんなことをしたのか、私には分からない。

    自身が部落の出であることを知らず、部落に対して差別的な言動をおこなう例はあるという。しかし、山岡(仮名)は自分が部落出身だと認識し、そして地元の部落解放同盟の役員でもあり、それでいて、ひどい差別ハガキを書いている。いうならば確信犯としての差別者なのだ。

    事件の犯人として逮捕されるまで、山岡(仮名)は「被害者」として、時には妻を伴い、集会や講演の場で涙ながらに差別への怒りや苦しみを訴えていた。地元の部落解放同盟は犯人をあげて糾弾するべくキャンペーンを張り、町はハガキが来るたびに対策会議や啓発活動に追われた。ついには県議会でもとりあげられ、県知事や県警本部長が徹底究明を約束する答弁をおこない、県警本部が派遣した特捜班によって山岡(仮名)が逮捕されたのである。

    「第二の狭山にしたらいかんけん、われわれも慎重に操作をしてきたとですよ。ばってん、どこをたどっても、最後は山岡に行き着いてしまうとです」(p.273)と捜査員は語ったという。

    糾弾について、この本では、福岡連隊爆破陰謀事件をでっちあげられて投獄生活を送った松本治一郎を、その陰謀をはかった特高刑事が許しを請いたいと訪ねてきたときのエピソードが出てくる。松本はかつての特高刑事に対し、「君もずいぶん苦しんできただろう。言っておくが、われわれが闘ってきたのは、君個人ではない。君の背後にあるものと闘ってきたのだ」(p.130)と語りかけた。

    この治一郎の話をひきあいに出して、組坂繁之(部落解放同盟の執行委員長)は、縁戚の組坂幸喜に対して「糾弾とはな、個人攻撃をすることではない。個人を差別に走らせるものがなんなのか、つねに視野にとらえておかんといかんのさ」(p.131)と説いている。

    では、自作自演の差別事件を起こした山岡(仮名)は、なにゆえに差別に走ったのか。

    山岡(仮名)は役場の嘱託職員で、契約は1年ごとの更新だった。来年度はクビになるのではと不安に襲われていたといい、差別ハガキを出せば「行政は同和問題に取り組んでおり、被害者となれば解雇をしにくくなり、継続してもらえると思いました」(p.300)と裁判で述べている。

    裁判ののち、山岡(仮名)本人に対する糾弾学習会がひらかれた模様を終章は伝える。喪服姿であらわれた山岡(仮名)は詫びを言って土下座をしたというが、結局のところ、事件の「原因」や「背景」、「今後の行動」については何も具体的な話をしなかった。

    "裸になって"自身の真相を語ることもない山岡(仮名)に対し、ムラの人たちの代表的な考えは、「あげなハガキをいっぱい出しとって、ムラを出ていこうともせん。…(略)… ムラのみんなを裏切ってきたくせに、解放運動で勝ちとった住宅にずっとおろうとする根性が、私には理解できんとです」(p.358)というものだった。

    糾弾会にも出席した著者は、こう書いている。
    ▼山岡一郎は結局、一度も自分のなかに存在する部落差別の意識を認めることはなかった。差別ハガキのターゲットとした佐藤春之にたいしてさえ、「差別意識をもってしたのではない」と言い張った。思考力や想像力を深化させていけない幼児性や自己愛のつよさがここには感じられるけれど、それにしても彼は、部落民が部落民を差別する、それも支部長にまでなろうとした男が差別ハガキを44通も書きつづける、という離れ技をまるで楽しむように軽々とやってのけた点で、きわめて冷静な犯罪者であった。そして最後の最後まで「差別意識はない」と言い張る点で─彼はほんとうにそのように思っているようだった─、非情で冷酷な差別者だった。(p.395)

    この事件を追ってきた著者は、山岡(仮名)を指導し支えてきた部落解放同盟の指導者層は「なんらかのかたちで山岡一郎の犯罪の温床となってしまった自分たちの取り組みについて弁明をすべきであったろう」(p.395)と指摘する。

    とはいえ、著者は、安易に同盟批判をするわけではない。山岡(仮名)に向けられるべき感情の矛先が、被差別部落や解放運動に向けられることをおそれるとはっきり書いている。

    とりわけ著者は、「騙されていることに気づかぬまま彼のことを何年も熱心にささえ、部落差別の根絶のために駆けずりまわった組坂幸喜をはじめとする人びとがいたことを、私は深く心に記憶したい」(p.396)と書き、むしろこの人たちを書きとどめておきたいと思ったから、この事件に取り組んだのかもしれないと記している。

    ▼彼らは他者の痛みを自分の痛みとして、山岡の家族の問題をもふくめて心配し、できるかぎりの手を打った。同胞の苦しみや悲惨に手をさしのべ、身の危険を思ったら即座にもちまわりでパトロールにあたった遠方をふくむムラの人たちのあたたかい心は、この憂鬱な事件の渦中にあって、たったひとつの光であった。…(略)…
     ただごとではない情熱と犠牲とをはらいながら今年創立90周年を迎えるこの運動は、近年、山岡事件をふくむさまざまな不祥事を起こしてはきたが、それのみをもって指弾されるべきちゃちな歴史ではない。人間の尊厳と可能性と限界を濃密に物語る、じつに人間くさい大衆団体の推移は、日本近代の歴史の波をまともにかぶりつづけ、慟哭、熱狂してきた大切な日本人の記録なのである。(pp.396-397)

    読後感はけっしてよくない本だけれど、それでも読んでよかったと思う。高山が解放運動の詳しい歴史を書いたという『水平記』という分厚い本を、この本を読んだあとに図書館で借りてきた。

    『どん底』のカバー装画は、ヒエロニムス・ボスの「乾草車」のうち"地獄"が使われている(同じヒエロニムス・ボスの「快楽の園」のうちの"地獄"が『巣窟の祭典』のカバー装画に使われている)。

    (12/10了)

  • 2013/7/8購入
    2013/8/4読了

  • 部落差別自作自演事件を追ったノンフィクション。権利を利用するが、筋は全く通さない、そんな犯人。本当に腹立つ。

    犯人を信じて、支えて来た組坂幸喜さんが大道塾WARSに出ていた方だと知ってビックリ。

  • 差別ハガキが同和地区のある男性に送られてきた。男性は差別への怒りを訴え講演会に引っ張りだこになり自作の歌さえもうたうのだが結局はハガキをだしたのは男性本人と判明した。周りの善意と同情と運動の歴史を踏みにじって、ちっぽけなエゴを満足させようとした男性のパーソナリティがなんとも不気味だ。すべてが発覚したあとも男性は未だに同じ場所に住んでいるという。なんとも後味の悪い読後感だが構成が上手く発端から発覚その後と一気に読んでしまった。良書。

  • こういう人ともし出会ったら、全力で関わり合わないように逃げるしかないですね。
    関わり合わないわけにはいかない状況になってしまった解放同盟等の方々には同情の念しかありません。

  • 状況がすっかり分った状態で この事件の詳細が語られてゆく。
    結果が分っているだけに、読み進む事が非常に辛くなる。
    この男は、同和問題以前に「ただ そういう人だった」と言うことのような気がする。
    何処にでも、こういった人物は居るのだ。

  • 差別自作自演事件のルポだが、本質は犯人の人間性に帰着するという論調もあるが、人間が根源的に持つ差別意識を問う重たい一冊。

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著者プロフィール

1958年、宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。2000年、『火花―北条民雄の生涯』(飛鳥新社、2000年)で、第22回講談社ノンフィクション賞、第31回大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞。著書に『水平記―松本治一郎と部落解放運動の100年』(新潮社、2005年)、『父を葬(おく)る』(幻戯書房、2009年)、『どん底―部落差別自作自演事件』(小学館、2012年)、『宿命の子―笹川一族の神話』(小学館、2014年)、『ふたり―皇后美智子と石牟礼道子』(講談社、2015年)など。

「2016年 『生き抜け、その日のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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