- Amazon.co.jp ・本 (315ページ)
- / ISBN・EAN: 9784093865913
作品紹介・あらすじ
『神様のカルテ』著者、新たなステージへ!
「少しばかり不思議な話を書きました。
木と森と、空と大地と、ヒトの心の物語です」
--夏川草介
第一話 寄り道【主な舞台 青森県弘前市、嶽温泉、岩木山】
第二話 七色【主な舞台 京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車】
第三話 始まりの木【主な舞台 長野県松本市、伊那谷】
第四話 同行二人【主な舞台 高知県宿毛市】
第五話 灯火【主な舞台 東京都文京区】
藤崎千佳は、東京にある国立東々大学の学生である。所属は文学部で、専攻は民俗学。指導教官である古屋神寺郎は、足が悪いことをものともせず日本国中にフィールドワークへ出かける、偏屈で優秀な民俗学者だ。古屋は北から南へ練り歩くフィールドワークを通して、“現代日本人の失ったもの”を藤崎に問いかけてゆく。学問と旅をめぐる、不思議な冒険が、始まる。
“旅の準備をしたまえ”
【編集担当からのおすすめ情報】
シリーズ330万部のベストセラー『神様のカルテ』著者、最新作!
カバーイラストは、
『むぎわらぼうし』『ルリユールおじさん』で知られる
絵本作家・いせひでこさんにお寄せいただきます。
感想・レビュー・書評
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長野の片田舎の医師でありベストセラー作家の新しい分野は、民俗学であった。本書は、巨木信仰を素材に、「民俗学って、なにをやっているんですか?」とのよくある質問に真面目に答えた「教養小説」である。
あんまり突っ込みどころはない。むしろあまりにも、民俗学のイロハを書いているようにも見える。読む前は、私の齧った民俗学について、あの懐かしい講師との論争の内容を書こうと思ったのだけど、本書では全然そこまで深掘りはされていなかった。でも、ちょっとメモ置きしたい事柄もあるので、以下、「私の周辺の身近な民俗学」について四方山話をする。退屈ならスルーしてください。
例えば、昨年8月1日に訪れた美作市の林野神社の欅の大木は、樹齢6百年、胴回り5.2mである。何百年もかけて生え揃った青々とした苔とまとい、あさのあつこを始めとする美作市民の祖先の生活をずっと見守ってきたのかもしれない。何の奇跡なくとも拝みたくなる。
例えば、日本最大の弥生墳丘墓を眼前に見下ろす位置にある日差山の大岩は明らかに磐座(いわくら)であり、古代はいうに及ばす、もしかしたら縄文・弥生時代からの信仰の対象だったかもしれない。
古屋准教授に言われるまでもなく、日本人に根付く巨木、巨岩信仰は、我々の居住空間の至る所にある。問題は、その信仰が薄皮を剥がす様に毎日細くなっていき、今や一本の細い糸になっているということなのだろう。
今年の3月に、私の携帯に連絡が入った。「K神社清掃当番について4月某日にM公民館で話し合いをするので、集ってください」
K神社とは、村の鎮守ではない。私の住んでいる「村」には、長年行われていた「(我が◯◯姓の)氏神を祀る行事」というのがある。村の麓から登ってゆき、ちょっと見には気が付かない石段の小路を50メートルほど上れば、小山の中腹に巨木がある。根元に石の祠がある。祀る主体は、私と姓を同じにする人たちである。この数十年間、ひとグループ4世帯で半年交代で月一度の草取りなどの掃除と春夏秋冬に幟旗を立てて祠に御供えをする等の祭を行ってきた。大したものは御供えしない。けれども、海のもの山のもの、米とお酒を御供えすることは決まっていた。後でわかるけど、それは日本全国に共通する古代神社の御供えの原型であった。
公民館に集ったのは、ひとグループから1人〜2人、全員で12人だった。正直1人をのぞいて初めて会う人たちばかりなのだ(以下全員同じ姓なので名前で区別する)。もはや同姓と言っても、親戚でもなければ、村の区割りさえ離れているから日頃の付き合いも一切ない。昔は付き合いあったのかも知れないけど、今は隣人との付き合いさえほとんどないのが現代なのである。歩いていける公民館に集まったのは、全員50代から70代と思える足腰のしっかりした男性10人女性2人という構成である。
70代と思える男性が口火を切った。
A「今回集まってもらった経緯は大概聞いていると思うが、K神社の祀りを今後も続けるかどうかということじゃ。わしのところは月一回の掃除も祭りもなんとかこなしておるが、他のグループでは1人で全部やっているところもある。次の世代にはもう無理という声も聞こえる。ならば少し話し合おうということじゃ。わしの提案は、規模を縮小して続けようという意見じゃ。今のグループを合体して半分の規模にして、祭りは正月だけにするという案じゃ」
実は、私の父親が癌で死ぬ前にこの祭りのことを話していた。いわば遺言の一つのようなものだった。全部で八グループあるから、半年交代で4年に一度回ってくる。これまで2度回ってきた。1度目は、91歳と80歳の男性と私と兄嫁が、山の中だから草茫茫の参道や額ほどの境内に入り一生懸命草を抜いていった。参道境内が綺麗になると、下から運んできた太い竹の心棒2本に40-50年前に新調した幟旗をはためかせ、その間にしめ縄を繋げる。スーパーから買ってきたイカの燻製、ピーナッツ、カップ酒、お米を御供えする。2度目は、91歳は亡くなっていて連絡も取れない。80歳の家族はとても出れる状況ではなくその息子もなんか死んだ目をしていた。前回出てこなかったもうひと家族は、私の同級生の家だった。彼と2人でなんとか草取りと祭りの真似事をしてやり過ごした。この祭りが所謂、民俗学でいう「氏神祀り」として貴重な行事だということがわかっていたので私は不満に思うこともなくなんとか勤めを果たした気持ちになっていたのである。ところがAさんの説明を聞いて、私は2つ驚いた。一つは私の聞いていたのは祭り直前の草取りだったのだけど、それは月一度の草取りだったのである。そうだよな。2-3ヶ月ほっておいたから草取りはものすごく大変だった。山中なので、一年ほっておけばすぐ草木に埋まってしまうことは明らかだった。それを二ヶ月に一度の掃除にしようという案である。寧ろ大変申し訳なかったという気持ちがむくむくと湧いた。もう一つは、我が姓名のご先祖さまは、なんと、かの江戸城をつくった太田道灌の弟が1代目だというのである。Aさんが独自に調べたらしい。Aさんによれば、5代目が総社市に移って農民になっている。18世紀に9代目で我が村に移り、K神社はその頃に建てられたのだろうとのことである。
そのことを今年法事で集まった時に、経過報告として親戚に伝えた。「我が氏族は水呑百姓出身じゃなかったのか!」と驚いてくれると思いきや、何の感慨も持たなかったようだ(^ ^)。「いやいや、先祖を何代か辿れば全員藤原氏に辿り着くんだから」と突っ込まれたりもした。
閑話休題。
A「‥‥そういうわけで、由緒あるこの祭りを絶やすのは忍びないと思うんじゃ。一つの案はこのままの体制で続ける。一つは私の縮小案。もう一つは、神社終いをして全部止めるという案があるけど、二つ目を推したい」
私自身は少し興奮したのだけど、参加者の反応は冷たかった。
C「私のところは、もう無理だと思う」
D「今日は連絡があったから来たけど、神社の祭りのことも今日初めて聞いたようなことで、続けるもなんも、止める案があるのならばそれに賛成したいのだが」
E「いまのところ、私が動けるからなんとかやれるけど、もう次の世代には無理だと思う」
ことが身近な問題だから、「声の大きな人」の意見に流されない。「神社終い」に話がまとまりかけたところで、数人が「ここに来ていない人の声も聞くべきでは」と持ちかけた。そこで全員アンケートを取ることで、次の会まで持ち越しとなった。
次の会になった。アンケート結果は圧倒的多数で神社終いだった。あと私を含めて縮小案が6人ほど。Aさんは粘った。「仕事は圧倒的に少なくなるんだから、もう一度考えてみては?」と10分ぐらい演説をして、まだ止まりそうにない。「もう決着はついたのに‥‥」と参加者のうんざりとした顔が痛々しい。私は思わず「Aさん、そうじゃないんです。みんなの不安は今現在の仕事の量だけじゃないんです。この後の世代に継承していけるかどうかなんです。今止めなければ、次の世代は止めることさえ出来なくなる」と説得しなければならなかった。
結局、私の一言でAさんはなにも言わなくなった。その後の段取りは60代のBさんが進めていった。
図らずも、「これからは民俗学の出番です」ということに理解を示している私が、最初の墓掘り役になってしまった。
最終章で住職は古刹の桜の大木を倒そうという東京都に対して「亡びるね」と言った(←この言葉自体は夏目漱石「三四郎」の広田先生の言葉です)。
「昔から大事にしてきた木を切るってことは、大きなはずの心の世界を小さく削っていく作業さ」
それはそのまま、私を含むこの村の小さなコミュニティにも言うべきことなのである。
「私に、どうせよというのか!」
私には言うべき言葉が見つからない。ただ項垂れるしかない。
みんみんさんのレビューで本書を知りました。ありがとうございました。
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偏屈で片足が不自由な古屋准教授と院生の藤崎が民俗学を通して幅広く学んで行く内容。
50冊以上の参考文献が並んでいるように、学問としての深みはあるようだが、哲学的な問答が多く、こちらに理解力が無いせいか頭の上を通りすぎて行くのが申し訳ない。
二人の噛み合っているような無いようなやり取りの面白さや、色々な人々、大木を通して成長して行く藤崎の姿に力付けられる。 -
「藤崎、旅の準備をしたまえ」
作品紹介に〜『神様のカルテ』著者、新たなステージへ!〜とありました
夏川草介さん初読が新たなステージからでいいんでしょうか?
いいんです!だって面白かったんですもの
はい、もうこれはヤバいです
ヤバい本です
だってこんなん読んだらどうしたって民俗学に興味もっちゃうじゃないですか!
興味津々じゃないですか!
でもさ、そもそも民俗学ってどういう学問なのよってとこですよ
そこをまずクリアにしないことには先に進めないわけです
で、冒頭のセリフです
これは民俗学の准教授古屋神寺郎(名前が素晴らしい)が研究室の院生で弟子の藤崎千佳にフィールドワークに出かけるときにかける決まり文句なんですが
つまりは民俗学って旅する学問ってことなんじゃないでしょうか?
かくいう私、独身時代の趣味は旅行でそれこそ日本全国を旅してたんです(飛行機嫌いで偏食なので海外一切興味なし)
それこそ行ったことないのは沖縄だけっていう(飛行機不可のため)
そして旅の一番の楽しみは古屋先生と同じく早朝の散歩だったんですよ
なんてことない生活道路を歩いたり市井の中に紛れたりってのがなんだかとても好きだったんですよね
京都のラジオ体操、長崎のミサ、下呂の山道、男鹿の海岸、仙台の住宅地、別府の市営温泉、広島の路面電車、弘前のりんご園、高山の朝市、高知の清流、尾道の坂道、氷見の港、熊本の商店街、香川のうどん屋、会津の城趾
あれこれもうわいすでに民俗学者なんじゃなかろうか?(ただの散歩好きです)
知らんかったもう民俗学者なってたんやな(だからただの旅行好きの散歩好きだって)
「ひまわりめろんの出番だとは思わんかね」
はい、思いませんねはいはい
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2023/07/26
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今ごろ気がつきました。
私も朝の散歩好きでした。今はすっかり怠惰。
その散歩、民俗学と言えば民俗学です。でも入り口とば口という感じ。
香川...今ごろ気がつきました。
私も朝の散歩好きでした。今はすっかり怠惰。
その散歩、民俗学と言えば民俗学です。でも入り口とば口という感じ。
香川の朝うどんや、各地の朝市冷やかしていたら、朝メシ食べれなくなりますよ。2023/08/03 -
ですよね!
やっぱわい民俗学者だったんだ(学者とは言ってない)
朝散歩は民俗学者の基本ですね(だから学者とは言ってない)
あと、ワタクシ朝...ですよね!
やっぱわい民俗学者だったんだ(学者とは言ってない)
朝散歩は民俗学者の基本ですね(だから学者とは言ってない)
あと、ワタクシ朝からがっつり行ける派なのでなんの心配もいりません
朝食バイキングとか得意種目です2023/08/03
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「これからは民俗学の出番です」
偏屈助教授と助手の大学院生の神様を探す旅です♪
短編5つ…旅で出会う荘厳な巨木たち。
民俗学には詳しくないし、ましてや柳田國男の
「遠野物語」は知っているけど読んだ事はない。
「神様のカルテ」の著書が膨大な資料をもとに収筆した今作は、夏川さんらしい美しい風景を感じる素敵な作品でした。
「神様も仏様も信じるかどうかじゃない。
感じるかどうかだよ。神も仏もそこらじゅうにいるんだよ。風が流れたときは阿弥陀様が通り過ぎたときだ。小鳥が鳴いたときは、観音様が声をかけてくれたときだ。そんな風に目に見えないこと、理屈の通らない不思議なことは世の中にたくさんあってな。
そういう不思議を感じることができると、人間がいかに小さくて無力な存在かってことがわかってくるんだ。だから昔の日本人ってのは、謙虚で、我慢強くて、美しいと言われていたんだ」
いつか遠野物語を読んでみたい…
難しいらしいから京極さんのでいいか( ̄▽ ̄)笑
〝藤崎、旅の準備をしたまえ“
二人の旅の続きが楽しみです。
ぜひ第二弾を期待したい\(//∇//)
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2023/06/04
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こんにちは。
「これからは民俗学の出番です」
うーむ、そうなんだ‥‥。
遠い遠い昔、民俗学の講師と調査合宿でドブロクを飲みながら、
「常民...こんにちは。
「これからは民俗学の出番です」
うーむ、そうなんだ‥‥。
遠い遠い昔、民俗学の講師と調査合宿でドブロクを飲みながら、
「常民(民俗学での民衆)を知ることで、日本人の課題がわかるかも」と私が言うと、先生は
「君は甘いな」と言われ
「柳田国男には限界がある」と私が言うと
「君に柳田の何がわかるのか」
とグダグダ討論したことを思い出しました。
出番かどうか、ちょっと読んでみようかな。2023/06/08 -
kumaさんこんにちは♪
その講師とkumaさんの会話みたいなやりとりがまさに作中に出てきますよ笑
一円にもならない学問?
柳田國男はエリー...kumaさんこんにちは♪
その講師とkumaさんの会話みたいなやりとりがまさに作中に出てきますよ笑
一円にもならない学問?
柳田國男はエリートの道を捨てて民俗学に進んだ方みたいですね。
ぜひ読んでみてください。そしてkumaさんのレビューが読んでみたいです_φ(・_・
2023/06/08
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夏川草介さんは、風景、自然の描写が素敵です。
始まりの木
2020.09発行。字の大きさは…小(字が薄くて読むのが大変でした)。
寄り道、七色、始まりの木、同行二人、灯火の短編5話。
【読後】
此度、夏川草介さんは、不思議な物語を書いています。この不思議な物語を読むのに4日かかりました。少し読んでは目が疲れ、少し読んでは読み返しと、あまり読んだ事がない物語で、そして心に感じることが多くありました。また、少ししたら、もう一度読んでみたい本です。
【物語】
東京都心にある国立東々大学大学院一年生、文学部で民俗学を専攻する藤崎千佳は、風変わりな准教授・古屋神寺郎と日常生活の中にある神を求めて旅をして行く物語です。
千佳が民俗学を専攻する事となったのは、柳田國男の遠野物語に感銘を受けたことと、偏屈な民俗学者・古屋神寺郎の魅力に取りつかれたことです。
日本には、神は木に、岩にとそこらじゅうに居るが、その神を信じるかどうかじゃない。感じるかどうかだよ。近代化の波が、その神を切り倒し、壊し、破壊していきます。
「寄り道」では、舞台は青森県。亡くなった奥様の実家・嶽温泉から、茜色に染められた、広大な白神山地の眺望が広がっています。千佳は「すっごーい、綺麗ですね」この言葉以上のものは出て来ません。
「七色」では、舞台は京都市岩倉。美しい紅葉のトンネルを走る叡山電車のなかで1年前に亡くなった青年に会います。この不思議な物語を読み、この世には神がいるものなのかと、私は、思いました。
「始まりの木」では、舞台は長野県伊那谷。日本人にとって神とは、ただ土地の人々のそばに寄り添い、見守るだけの存在だ。500年間守り続けてきた氏神の御神木である伊那谷の大柊のように。
「同行二人」では、舞台は高知県宿毛市。神は人の心を照らす灯台だ。もとより灯台が船の航路を決めてくれるわけではないし、晴れた昼間の航海なら灯台に頼ることもない。しかし海が荒れ、船が傷ついた夜には、そのささやかな灯が、休むべき港の在り処を教えてくれる。
「灯火」では、舞台は東京都文京区。昔から大事にしている木を切ることは、大きなはずの心の世界を小さく削っていく作業さ。いくら東京が大きくなっても、心の方がこう狭くなっちゃあ、風通しも悪くて、息が詰まろうてものだろう。
【装画】
いせひでこ……「大きな木」を表裏の表紙へ
【初出】
第1話 寄り道 STORY BOX 2010年11月号(青森特別号)
第2話 七色 STORY BOX 2011年03月号
第3話 始まりの木 STORY BOX 2013年07月号、08月号
第4話 同行二人 STORY BOX 2018年06月号、07月号
第5話 灯火 書き下ろし
【豆知識】
「民俗学(みんぞくがく)」は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。←Wikipedia
2021.05.08読了 -
穏やかな気分を誘う一冊。
ゆったり流れる自然、その自然の息吹、営み、行く先々での不思議な時間がゆったりした穏やかな気分を誘う。
そして偏屈な民俗学者 古屋先生の言葉が深く心に、隅々まで流れ込んでくる感覚が心地良い。
日本人の根底に流れているもの、そしてそれが時と共に喪われつつあること、そしてどうあるべきか、フィールドワークを通じて問いかけ、諭され、思わずハッとし、スッと背筋ものびる。
"これからは民俗学の出番です"この言葉、原点へといざなう感じで素敵。
自然の流れ、古きものを大切に。何よりも感じる心を大切に。 -
国立東々大学で、民俗学を専攻する院生・藤崎千佳。
偏屈な毒舌家・古谷神寺郎准教授のお供で、全国を旅していく。
民俗学者なので、各地を旅して、古き良き日本に触れながら、ちょっと不思議な経験をしたりする、連作短編集。
時おり入る、医療の場面が、やはりよかった。
松本では『神様のカルテ』との絡みもあり、うれしい。 -
民俗学の准教授古屋と教え子千佳が各地を訪ね歩き、日本人が失ってきたものを問う。
古屋の独特の皮肉な言い回しや強い個性を際立たせる描き方は余り得意ではないのだけれど、古屋から発せられる言葉は胸に響いた。
日本人が持っていた世界観、今忘れられようとしている大切なことを考えさせられた。
「日本人は自然のことごとくに神を見いだし、人々の生活に寄り添っていた。
日本の神は大陸の神に見られるような戒律も儀式もない。教会もモスクも持たない。それゆえ、都市化とともにその憑代である巨岩や巨木を失えば、神々はその名残さえ残さずに消滅してゆく」
「神を心を照す灯台だった」の例えに納得。
「灯台は一言も語らないが、人は灯台の光を頼りに自ら道を決める。灯台の光(神)を失った日本人は、どこへ向かうのか」と。
「神さまがいると感じることは、世の中には見えないものもあると感じること。そういう感じ方が、自分の生きている世界に対する畏敬や畏怖や感謝の念に繋がる」
「信じるかどうかではなく、感じるかどうかが、この国の神様の独特の在り方なんだ」
などなど、心に留めておきたい言葉がたくさんある。
青森県嶽温泉、京都の鞍馬、長野県伊那谷、 高知県宿毛市、訪ねてみたい。 -
まるで森の中へと引き込まれそうな感じがするなぁと思って手にした本。
民俗学の有能だがちょっと偏屈な准教授と大学院生である千佳とのかけあい漫才のようなやりとりが、堅い学問を柔らかくする。
二人が巡るフィールドワーク、理屈の通らない不思議な出来事を「神」と名付けるのか…そこには、木にまつわる不思議があった。
奥深い。
夏川さんが民俗学を知る入門書のような作品を書いた事でわたしも民俗学を知ることができました。
都会でもなく田...
夏川さんが民俗学を知る入門書のような作品を書いた事でわたしも民俗学を知ることができました。
都会でもなく田舎でもない、尾張平野に生まれ育ったので巨木や巨岩などなく森さえ身近にありません。
村での会合の話は今の時代を表してますね。
またまた勉強になりました(^ ^)
数年前近畿の大阪や京都の「平野」を旅した時に感じたのは、この辺りは濃密に「地蔵尊」の祭が残って...
数年前近畿の大阪や京都の「平野」を旅した時に感じたのは、この辺りは濃密に「地蔵尊」の祭が残っているなあということでした。お地蔵さんは全国至る所にありますが、御供えを絶やさず、年一度の地蔵尊の祭りの時には、子供を絡めてちゃんと「催し」をしているところは近畿以外ではあまり感じません。河内地方や宇治辺りでは、その名残をよく感じました。ここの民俗は「生きて」いました。みんみんさんのところではどうでしょうか。民俗学は、こういう行事に注目する学問です。こういうコミュニティのあり方に希望を見出そうという学問です。どういう希望があるのか、ということをはっきりとは言わない学問でもあります。
思えば、氏神の祠も、私よりももっと前の世代から木登りで遊ぶような子供は絶えていなくなり、あそこの大木に我が◯◯氏族の氏神さまが居ることはほとんど伝えられてこなかったのです。だから大人になって、30数世帯で「守れ」と言われても、「めんどくさいなあ」ということになるのです。もっと小さい頃から楽しい思い出があれば、自然と守ろうという気になったかもしれない。K神社は、もう何十年も前から「死に体」だったのだと、書きながら思いました。