著者自らが北京の駅近くの陳情村に通い、何人かの陳情者と交流をしている。著者自身が仕事として請け負ったために通ったと文中で度々触れているが、逆にそのあたりが淡々と妙に入れ込むことなく、見たこと、聞いたことを淡々を描いていてよかった。
地元で理不尽な現実に振り回され、最後の可能性を求めて北京に陳情に来るが、それでもどうしようもなく、ひくにひけなくなってしまっている人々の姿は非常に痛々しくもある一方、ここのストーリーがある種似通っており、またあまりに数が多いため、国際世論に訴えることもなんだか難しくなってきてしまっているとのこと。中国人を見ていて不思議なのは、こういった不運な境遇の人たちをみてあまり憐憫の思いを抱く人が多くないことがあげられる。そういった市民レベルからのなんとかすべきといううねりが、社会の自浄作用になると思っているので、その辺りに関してはとても残念である。陳情村に長くいると頭がおかしくなってしまう人が多くいるらしい・・との表記もあったが、理不尽さの前にどうしようもない現実、そして陳情をすることが地元でマイナスになってしまうために、退路を絶っていることから、こうなってしまうのだろうか。フィリピンなんかで垣間見た貧困層とはちょっと違う印象を持つ。
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陳情研究で知られる社会科学院の于建嶸教授に話を聞く機会があった。(中略)于教授は、陳情村について、「制度の問題だ」と話す。元来、裁判所がきちんと機能していれば、そこで処理できる問題が、次から次へと中央の陳情局に流れ込んでくる。しかし、陳情局に調整能力はなく、そもそもそれだけの数もさばけるわけもないため、問題は蓄積し、沈殿していく。(中略)于教授が提示した資料には、六〇年代初め、すでに処理しきれなくなった陳情について、逮捕などの手段で統制するように指示する政府通達が記されていた。
こうした状況の中、陳情制度の改善や改革が打ち出されているが、それよりもまず、法制度を整えることが先決だというのが、于教授の主張だった。(中略)いっそのこと、陳情局をなくしてしまえばよいのではと、以前、バイ姐にも話した話をすると、「毛沢東の作った制度だから」
と、于教授は苦笑した。実際、毛沢東が発案した制度を廃して、責任をとれるだけの人物は、今の中国にはいないだろう。毛沢東はそれだけ、「神」のような存在だった。そうしてエンドレスの陳情は続く。
「陳情村には、本当に『退路』はないんでしょうか」
聞くと、「ない」と、于教授は即答した。
理由の一つは、「これほど不当な目に遭って、屈してなるものか」というメンツの問題。もう一つは、中央に陳情することで、地方政府にプレッシャーを与えられ、政府を動かせるという自尊心の問題。それから移動の自由の問題もあるという。中国は今でこそ、出稼ぎ労働などで移動が自由になったように見えるが、出稼ぎはあくまで「臨時」の移動にすぎない。農民は戸籍のある土地にしばられており、戸籍を別の土地に移すことは非常に難しい。日本のように問題が起きた土地を離れ、別の土地で新しい生活を始めるということは、簡単なことではなかった。「それに、もう一つの問題は」と、于教授は続ける。中央に陳情すると騒ぎ立てることで、できれば面倒事を避けたい地方政府が、数万元(数十万円)の金を握らせ、解決を図ろうとするケースも最近は増えている。政府の役人にとって、陳情者に騒ぎ立てられれば自分のキャリアの前途に関わる。脅す、殴る、逮捕するといった「ムチ」に対し、「金を流す」という「アメ」も、陳情をやめさせる手段の一つだ。ただ、政府が金で解決したつもりでいても、陳情者は全く納得しておらず、また、陳情を繰り返す。それを見た他の者も、例えば離婚騒動などの小さな案件でも騒ぎ立てれば金になると、さらに陳情の数が増える。
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五輪を通じて、北京の町には近代建築群が誕生し、新しい地下鉄も開通した。開催期間中は、学生ボランティアたちの笑顔が、中国のイメージアップに貢献した。しかしその一方で、街の美観と安全のため、出稼ぎ労働者は北京を去り、外力北京への人の流入は厳しく規制された。地域を指定されたデモも申請許可は下りず、「チベット独立」のスローガンを掲げた外国人が、あっという間に高速されたことが海外で報じられた。ネットはあいかわらず、一部のサイトがアクセス禁止の状態で、掲示板の書き込みは削除されたり、禁止されたりしていた。IOCは中国を開催国として選出するにあたり、「言論の自由」や「人権保障」の向上を取り決めていたはずだったが、それは何一つ守られていないと、西欧を中心とする海外メディアは中国とIOCを責めた。しかしそれでも北京五輪は、「大成功」のうちに終わり、国内ではその様子が華々しく伝えられた。