東北ルネサンス―日本を開くための七つの対話 (小学館文庫)

制作 : 赤坂 憲雄 
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  • Amazon.co.jp ・本 (377ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784094081961

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  • ・おお、東は東、西は西
     両者はついに相逢うことがないだろう。
     しかし、両者が相逢うときには、
     もはや、東もない、西もない。
     国境もない、種族もない、生まれの別もない。
     たとい二人が地の涯てから来たとしても。
     二人の勇者が、面と面、相対して立っているのだから。
     (ラドヤード・キプリング「東西詩」)

    ・イタリアなんかいつなくなってもいい、自分の住んでいるこの都市さえちゃんとしていれば大丈夫。我々の町があって、町でとれる食べ物で顔なじみと楽しく生きていく。それさえできれば国なんかどうでもいい。そういうことをよくイタリアの人は言うんですね。
     都市国家というのがまずあって、その連合が国家である。都市そして国家、この順番が大事なのです。けして国家そして都市ではないのです。
     同じ大学生の頃に宮沢賢治を読んでいましたが、賢治の考え方に似たような感覚があると気づきました。たとえば花巻農学校では、土壌学の教科書は東京でつくられたものは使わない。
     なぜなら花巻には花巻の土壌があり、その土壌で我々は仕事をするのだから、教科書はここ花巻で書かれたものでなきゃならない。学者が東京で書いた教科書なんかは役に立たないというので、賢治はいつも自分でガリ版を切って生徒に土壌学を教えていたというのと、どこかで通い合うような気がするんです。
     つまり、自分がいま生きているここ、この場所がなにより大切であるとする思想は、イタリア都市国家の思想と兄弟であると思ったのです。

    ・子供の頃、援農といいまして、割り当てられて、農家に住み込みで田んぼを手伝いました。いまでも一番きついと思ったのは、そして農家の人って偉いなと思ったのは田の草取りでした。田の雑草を泥のなかへ埋めていく仕事なんですけれども、稲の葉がチクチクと体をさす上に、一日中、中腰の作業ですからたいへんな難業です。
     問題はそのときの水田の水のぬるみ方です。「ぬるこい」という方言が一番ぴったりくる。ところが、霞が関には水田はありません。したがって田の草取りもない。当然、田の草取りの時期の水田の泥の温度を表わす「ぬるこい」という表現などあるはずがない。そこで都会の寸法で言葉を決めていくと、地方で使う大事な言葉が全部落ちていくんです。
     近代国家を成立させるための言語の統一は必要悪として認めるとしても、一方でその土地にしかない表現を抹消してしまってはいけない。


    ・一軒の民家に入っていったら、薪ストーブの周りにおばあちゃんが十人ぐらい並んでいました。講演なんてものにはならないですよね。しどろもどろでとんんでもない講演でした。そのとき、じゃあ聞き書きをしてくれと言われたんです。
    でも、話を聞くって、実は話すよりもたいへんなことなんですよね。僕はまだ若くて観念的で何も知りませんから、「大蔵村に河童の話はありませんか」と聞いたんです。
    「そんなものあるわけねぇじゃねぇか」って、東北のばあちゃんたちは本当に冷たいですよね、そういうときは。まるでサービス精神というものがありません。
     もうばかにしたように眺められて、また僕は情けなくなって、それでどうしようもないから「お開きにしましょう」となった瞬間に、一人のばあちゃんが突然話しはじめたんです。「おらは河童を見たことがある」と言い出したんですよ。
     あの凍りついたような不思議な場の雰囲気は忘れられませんね。夕方、裏の畑に出てみると、畔のところに河童が立っていた、キュウリを口にくわえて、パンツ一丁で自分の方をじっと見ていたと言うんです。ほかのばあちゃんたちも茫然として、何を言い出すんだという顔をして見ているわけですよ。でも、そのばあちゃん、本当に真剣なんです。これをいま話していいのかどうかわかんないけれども、もう始めてしまった、といった顔して緊張しきっているんですよ。
     それで、ああすごいなと思った次の瞬間、そのばあちゃんが言ったのは、「あれは隣のあんちゃんだった」という言葉でした。(笑)いえ、話の落ちではないんですよ。そのおばあちゃんにとって、自分が見たものが河童であるということと隣のあんちゃんだということは両立しているんですよ。
     でも、語りの世界ってそういうものなんですね。そして、そういう生々しいリアルな話というのは、それ以降、僕は聞いたことがないんです。つまり鉛筆を持ったり、テープなんて回すと絶対出て来ないんですね。不思議な人に出会ったとか、河童を見たとか、けっして出てこないんですよ。
     ですから、たとえば同じ目線でそこに座ることができて、空気みたいな存在になれたときに、そういう話って出てくるのかもしれないと思いますね。『遠野物語』は岩手県の遠野にいまも生きているし、実は山形県の大蔵村にもいまだって生きているんだ、僕はそれを信じていますね。


    ・ですから、宗教とか哲学、文学、芸術といろいろ言うけれども、そういうものを非常に深いところで生み出す力になっているのは、まさに風土だという気がしました。砂漠的風土に対して日本列島の風土を対照させると、そこに生きている人間たちの物の考え方の基本というものが自然な形で理解されてくる。
     我々は千年、二千年、三千年・・・・。五千年あるいは縄文時代以降といってもいい、そういう太古の昔から、天井の彼方に唯一の抽象的、絶対的な価値、超越神とか絶対神、一神といったものを考える必要がないままに生活してきた。
     地上に、ありとあらゆるものがある、いろいろな価値あるものが存在している、そういう感覚のなかで生きてきたということであって、こういう多神教といのはまことにありがたい宗教ではないか。多神教的な生き方というのは、まことに貴重なありがたい我々の財産ではないかちうことを、イスラエルに行くことによって私は再認識しました。
     では、そういう多神教的なものを日本列島のなかで、いま、一番濃厚に残しているのはどこか。それは東北だろうという気がします。東北の自然の奥深さというのは、北上台地なり奥羽山脈のなかに入ってみればよくわかることであります。

  • [ 内容 ]
    縄文の時代へと遡る源流。
    伝説、信仰、地名、方言から、民謡、演歌、宮沢賢治、吉里吉里国に至るまで、さまざまなモチーフを駆使して掘り起こされる東北の歴史と文化の基層。
    そこから立ち現われてくるのは、中央から“辺境”を眺めた時とは全く違う、新たなる日本の姿。
    “東北学”の提唱者と七賢人のユニークな対論を通して、「日本人とは何者か?」を改めて問い直す、東北からの日本再発見。

    [ 目次 ]
    第1章 東北の可能性(五木寛之×赤坂憲雄)
    第2章 縄文の記憶を求めて(中沢新一×赤坂憲雄)
    第3章 精神史の古層へ(谷川健一×赤坂憲雄)
    第4章 蝦夷とはだれか(高橋克彦×赤坂憲雄)
    第5章 はじまりの東北(高橋富雄×赤坂憲雄)
    第6章 ふたたび吉里吉里へ(井上ひさし×赤坂憲雄)
    第7章 生と死の風景から(山折哲雄×赤坂憲雄)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 『こども東北学』のあと、『「東北」再生』を読み、この『東北ルネサンス』を借りてきて読んでみた。

    山内明美が『こども東北学』で、「まん中じゃないところにも目を向けてみよう」「ほんとうに、まん中なんてあるのかな」という問いを含んだものが"東北学"だと書いていたが、編者の赤坂憲雄はその"東北学"を提唱してきた人である。

    "中央"からは、北の果ての辺境と言われ、蝦夷(えみし)が住む場所と言われてきた東北から、"日本"を眺めなおしてみる。収められている7つの対談は、どれもえらいおもしろかった。ぼんやりと「日本」はこんなもんやと思っていたのが、まるで違って見えてくるのだった。

    掘り出しモノも好きな私は、三内丸山遺跡(と、その隣にあるという青森県美)へ行ってみたいなーと前々から思っている。この三内丸山の発見は、東北人の精神史に大きな影響を与えただろうと赤坂は言う。
    ▼それ[三内丸山遺跡の発掘]によって、東北に生きる人たちが自分たちの歴史をヤマト王権によって征服されて以降の千数百年ではなく、縄文を抱いたはるか一万年の時間のなかで語ることができるようになった。(p.175)

    ただ、それも、佐賀で吉野ヶ里が発掘されたときには全国の考古学者がすぐに殺到したものの、三内丸山にはなかなか考古学者が来なかった、という。「東北のはずれの青森のそんな土地に、そんな巨大な遺跡が埋もれているはずがない、吉野ヶ里より大きな柱があるはずがない、そういう思い込みがあって、抵抗というか、非常に出足が鈍かったと聞いた」(p.180)と赤坂は語る。

    そんなふうに"東北"は見られていたのだ、という話を読みながら、自分はいったいどう見ているのか、それ以前に東北は福島に2度行ったことがあるきり、私にはまだ地図で見る遠いところなのだった。

    井上ひさしは、イタリアの都市国家の考え方と、宮澤賢治の考え方に似通うものを感じとる。
    ▼イタリアなんかいつなくなってもいい、自分の住んでいるこの都市[まち]さえちゃんとしていれば大丈夫。我々の町があって、町でとれる食べ物で顔なじみと楽しく生きていく。それさえできれば国なんかどうでもいい。そういうことをよくイタリアの人は言うんですね。
     …(略)…たとえば花巻農学校では、土壌学の教科書は東京でつくられたものは使わない。
     なぜなら花巻には花巻の土壌があり、その土壌で我々は仕事をするのだから、教科書はここ花巻で書かれたものでなきゃいけない。学者が東京で書いた教科書なんかは役に立たないというので、賢治はいつも自分でガリ版を切って生徒に土壌学を教えていたというのと、どこかで通い合うような気がするんです。(pp.284-285)

    三内丸山と並んで、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』のことが、いくつかの対談で出てきた。私も前に読んだことがあるが、このバードの紀行を下敷きにした高橋克彦の「ジャーニー・ボーイ」という小説があるらしい。イザベラ・バードといえば、やはりその紀行を参照した中島京子の小説『イトウの恋』があるよなーと思いながら、その高橋小説も読んでみたいと思った。

    ちょうど夕刊に(赤坂のあとに東北文化研究センター長となった)入間田宣夫さんの「東北から風を起こそう」という話が出ていた。

    中央の上から目線で歴史や文化を語ってはいけない、地域から日本の姿を見直す必要があると入間田さんは語る。たとえば奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされた戦いを、以前は奥州征伐と呼んでいたが、これは辺境の逆賊を征伐するという中央側の見方で、史料的にも「奥州合戦」が正しい、今後歴史教科書も書き換えられていくだろうと。

    「東北地方は自然が厳しく、暮らしが貧しく文化も遅れていたからこそ、我慢強い性格が培われた」という見方は、まさに東京的見方、明治以降の知識人が創造したものだと。三陸海岸は、江戸時代に海を通じて長崎に物産を出し、さらに長崎を通じて世界と交易があった。情報や交易も活発で、民度は高く、三陸海岸で一揆が頻発したのは、貧しいからではなく、人々の問題意識が高かったからこそ、権力に反撥したのだと。

    世界中にある《東北》=まん中じゃないところ、について考える"東北学"。東北から見直した地域の姿、歴史や文化を、もっと知りたいと思った。

    (1/31了)

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