虹いくたび (新潮文庫)

  • 新潮社 (1963年7月12日発売)
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感想 : 21
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  • 本 ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001173

感想・レビュー・書評

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  •  美しい情景が脳裏に浮かび冬の箱根や京都を旅してみたくなりました。日本語が美しくて、70年でここまで変わった要因はなんだろう?とか、花街言葉はかわいいけどややこしいなとか、東京から京都まで《銀河》で10時間。ボオイも乗ってるらしい。とか、余計な事も考えつつ時間をかけて読み進めました。

     「夕霞んで」という表現が出て来たんだけど、もちろん使った事なくて、なんとなく分かるような分からないような、、、。

    三姉妹に共感する事は出来なかった。時代が変わり、女性の置かれてる立場や意識が変わったからなんだろうな。
      
     

  • (以下コピペ)
    建築家水原のそれぞれ母の違う三人の娘、自殺した母の悲劇と戦争に恋人を奪われた心の傷(いた)みのために次々と年下の美少年を愛する姉百子、京都の芸者の子である妹若子、全く性格の違う姉や妹をはらはらと見守る優しい麻子。大徳寺、都踊、四条から桂離宮――雅(みやび)やかな京風俗を背景に、琵琶の湖面に浮かんだ虹のはかなさ美しさにも似た三姉妹の愛と生命(いのち)の哀しみを詩情豊かに描く名作。
    (コピペ以上)

    とあらすじにあるので三姉妹に平等にスポットが当たるかと思いきや、
    三女・若子はちょっと絡んでくる程度。
    前半のメインはイイコチャンの次女・麻子。
    後半は魔的な長女・百子がメインになる。
    思い付きでつらつら書く川端の「構成力不足」に居心地が悪い「あらすじ作成者」がつい三姉妹ものと見做してしまったんだろう。

    彼女らの歪みの元凶は、まあ、父・水原常男なわけだが、この人、自分のヤリチン具合を、誇りもしなければ(まあそれはいいんだけど)悪びれもしない。
    ただフラットに自殺した女や、死んだ妻や、生きているメカケや、同居している娘ふたり、と接する。
    それをメカケも娘らも罵ったりせず、女たちは自らに刻まれた歪みで言動もおかしくなっていくわけだ。

    次女・麻子は対して面白みがある人物ではない。
    川端がよく描いた、理想的な娘タイプ。
    面白いのは、長女・百子だ。
    この人、竹宮少年という大学生を篭絡しているのだが、その手つきや眼つきがどうにも、川端の「少年」の清野少年を思い出させるのだ。
    百子は自分を男性化し、竹宮少年を女性化して扱っている、という記述があったと思うが、これってひょっとしたら、川端が百子に自分を仮託して、かつての自分の願望をねちねち書き込んでいるだけなんじゃ?
    「少年」の連載は1948年開始、本作の連載は1950年開始。
    やっぱり。
    「少年」で堂々と少年愛傾向(「私」ー清野少年)をカミングアウトした後だからこそ、本作で願望充足的変奏曲(百子ー竹宮少年)を奏でようとしているのだろう。
    wikipediaでは独立記事として立項されていないし、自伝作品としてカウントされてはいないけれど、部分的に自分埋め込みをしてほくそ笑んでいる、川端の顔が見える。
    また百子、戦死した恋人に、おっぱいで銀のお椀(「乳椀」!)をとられた、という仰天挿話があるのだが、ここに何かしら象徴的意味を見出そうとするのも愚かだろう。
    ただ50代のオッサンが面白そうだなと思ったアイデアかもしれないし、酒の席で聞いたことを盛り込んだだけかもしれない。
    その恋人・敬太による心無い言葉「がっかりした。君は女でない」も、川端のサディズム的・願望充足的・記述かもしれない、が、彼が鹿児島から特攻して死んだという挿話は、川端が1945年、鹿屋航空基地で一か月取材をしたという経験に拠るものだろう。
    この人、とことん自分の経験を作品に埋め込まなければ、書けなかった人なのではないか。

    で、以上すべてのあれやこれやを、まるで鳥籠に入れたかのように、あるいは箱庭を作っているかのように、書いている作者の眼。
    太宰治が、犬や鳥を飼うのがそんなに偉いことなのかと罵倒しているが、その記述が想定しているであろう例の写真の、ちょっと尋常ではない「冷たい眼」で、本作も書かれていると思った。
    たとえ百子がどれだけ魔的に活躍しようと、籠の外から神たる作者がサディスティックに登場人物の動き(の小ささ)を愉しんでいる、とでもいうような。

    などと考えるきっかけになってくれた作品。
    決して代表作ではないし、構成にもやや難があるし、深みや鋭さに欠けるかもしれないが、
    そういう気づきを促してくれた点、後の魔的の萌芽が芽吹き始めていることや、関東ー関西の行き来、「古都」への発展前、などなど、読んで得るものが多かった。

    解説は北条誠、田中慎弥。

    映画版では大筋は同じだが、後半は「いい話」に改変されているみたい。
    さもありなん。

  • 川端の鹿屋における「海軍報道班員」経験が下敷きになっていると
    考えられえる小説ということで読む。
    鹿屋を訪ねたときのお供でもある。

    久しぶり、おそらく20年ぶりくらいの川端ワールド。
    あいかわらず美しくて不気味。
    なんか露悪的というか変態的というか・・・
    そういう部分が必ずあるんだよね、川端。

    建築家の父をもつ美しい三姉妹は、それぞれ母親が違う。
    長女は特攻兵として恋人が戦死して以後、少年愛に走り・・・
    次女は優しい娘として心を砕き・・・
    三女は一人芸妓の母の元、ひっそりと生きて・・・

    ところが、運命のいたずらで・・・
    という小説。
    結末の終わり方がいい。

    川端が愛した「美しい日本」らしく
    舞台は箱根や京都。

  •  1950(昭和25)年から翌年にかけて雑誌に連載された、川端が50ー51歳の頃の作品。『千羽鶴』『山の音』などと同時期のものである。
     私は遙か昔、高校生の頃に川端康成の小説を結構読んでおり、当時もずらっと書店に並んでいた新潮文庫の川端康成を、どんどん買って読んだのだった。
     しかし、川端作品はどうも私にはピンとこないような気がしていたのだが、最近未読だったものをまた読んでみるようになり、今回、本作を読み通して、なるほど、これは優れた作品だと初めて納得がいった。
     比較作品論的に読んでみるとただちに気づくのだが、この小説には登場人物の容貌などの「描写」がほとんど無いのである。文章はかなりの省略が施されていて、いつも川端作品を読むとイメージされる「もの凄くか細い線の、はかなく危うい感じ」は、このようなところから来ている。
     バルザック以来のフランス近代文学やドイツ近代文学における「描写」の在り方と比べると、川端文学は凄まじいほどの「欠落」によって特徴づけられている。
     容貌の描写も、ときどきはおおよその年齢も省略されているために、読者にとってこれらの登場人物は影絵のようにほのかだ。
     こうした「省略」はもちろん、日本文学において特色ある短歌や俳句などの作法とも通じている。最小限の言葉の布置による技芸の呈示なのだが、悪く言えば、何故そんなに少ない言葉で用が足りるかというと、「いちいち細かいこと言わなくても、ほら、わかるでしょ? こういうふうに感じるでしょ?」という、「我々」の生活・感覚・思考の共通性(同一性)を前提としているからである。似たような感じ方で、似たような生活の文脈の中で、モノを見る。この前提が無ければ、あまりにも少ない言葉数では意味が伝わらないはずだ。
     つまり、古来日本人たちは日本に住む同胞「我々」を同一性においてのみ捉えており、差異なき文化を生きてきた(あるいはそう直感した)のだろう。他民族が絶え間なく混交して織りなされるアメリカ文化とはほぼ正反対だ。
     このような同一性文化は、やはり危うい側面があり、いつかは「他者」(外部の者とは限らないだろう)と齟齬をきたして破綻するのではないか、という危惧を持たざるを得ない。
     そんな危うさが、川端の小説そのものによって体現されているような気がする。
     危ういけれども、確かに美しい。そのはかなさゆえに強く、そして常に「死」と接触しつつある。
     本作では三人姉妹のうち波乱に満ちた百子の遍歴の部分がなかなか面白いし、切り詰められた文章がときおり思いがけなく鋭いひらめきを放つのが素晴らしい。高度に美しい文学である。そのような点が理解されて、ノーベル文学賞に結び付いたのだろう、と、初めて心から納得した。

  • 傑作以外の川端もある‥‥と。

  • 二度目の読了。戦後の京都の描写が度々出てきて、それがとても美しい。京都の街並みについてもっと知っていれば尚美しく感じれるだろう。戦後が舞台であり、貴族と呼ばれる連中の家が宿屋になっていたり、退廃をだどる街並みの描写は太宰治の『斜陽』を彷彿とさせた。この時代では津々浦々こういう光景があったのであろう。そんな美しい京都の街並みにも西洋化されたようなものが見え始め日本の風景が乱れてきている哀愁には今の日本とも共通する点だと感じた。
    『雪国』を読んだときにも感じたのだが、川端康成の官能的な描写は身体でなく精神に絡みつくようなエロティシズムに思える。今回でいえば、水原(父)が麻子と風呂に入るところで、娘の裸体を美しく思ったり、百子の恋人の啓太が戦争に行く前に形見として百子の乳房の型の碗を作るシーンなどである。後者に至ってはマニアックじみていて特殊な扇情を感じるが、それだけでなく、時間がいかに経過しても拭われることのない、むしろ色濃くなる出来事として描かれている。長年共に娘と暮らすことにより裸体を見て美しいと感じ、戦争故に会えなくなるからこの碗が拠り所となる。性的なこれらの行為のようなものを刹那的でなく永続的に効果を与えるような描写がとても好きになった。『雪国』の中でも自分の指を見て女の肉体を思い出す場面がある。過去にした行為が水泡のように浮かび上がって情欲としてはじけるようなこのシーンは印象的であった。

    この物語のテーマは家族、血縁の複雑さのようなものだと思う。それぞれの三姉妹が同じ父を持ちながら異なる母から生まれている。それ故の苦悩や嫉妬や葛藤や逃走や反骨の様なものを幼心を通し、出会いや死別を巡りながら描かれている。しかしこの核心の様なものについてはあまり触れられない。これは純文学故なのかもしれない。だから結局彼女らの心の蟠りはどうなったのかは分からないが、最後まで読むと間違いなく成長というような、あるいは前進のようなものを感じ取ることができる。三姉妹の考えが異なる中で、異なったままで、踏ん切りをつけ向き合っていく儚さの中に含まれる強さのようなものがとても燦然としていて素敵だった。

  • 2006. たぶん11月頃 
    これはなかなか設定が面白いです。是非今の時代に流行らせたいです。てか誰かこれでギャルゲーを作って欲しいです。それで麻子萌えか百子萌えか若子萌えか議論を白熱させたいです。おそらく裏ルートで竹宮少年も攻略可能。そんな話を誰かとしたいです。

  • 虹いくたび

    著者:川端康成
    発行:1963年7月10日
    新潮文庫
    初出:「婦人公論」1950年3月号~1951年4月号
    (2024.11.19読了)

    先週読んだ「美しさと哀しみと」と一括りにできるような、同類っぽい小説だった。この2冊は、偶然、ブックオフで見つけてまとめて買ったのにすぎないのだが。

    この小説は、多くの人が自殺をした、する、という話である。簡単に自殺を登場人物にさせてしまう。今の時代に読むと、とても違和感があるが、川端康成がガス管を加えて自殺した、という衝撃的なニュースを聞いたのは僕が中学生の時だった。小説が書かれたのが、終戦からまだ5年、朝鮮半島でまた新たな戦争が行われている時。死はごく身近なものだったのだろう。死ぬも生き残るも、紙一重。そう思うと、小説の途中で百子が思いにふける自殺と生の紙一重感に関すテーマも見えてきそう。

    希望と絶望。何度も繰り返すものかもしれない。虹が見えた、でも、それは消えていく。とはいえ、また虹が見えれば希望を抱きたくもなる。病気が治る、いやまだ治らない。薬が回ってくる、切れれば現実に引き戻される。その繰り返しが人生か・・・虹いくたび、タイトルには記憶があるが、若い頃には読んでなかった川端作品だと思う。

    水原麻子という若い娘が主人公。父親は水原常男という建築家で、それなりに裕福。姉の麻子は腹違い。もう一人、腹違いの妹・若子が京都にいるが、まだ会っていない。

    百子の母親は、常男と結婚したかったができなかったので自殺した。常男が結婚したのは麻子の母親だったが、彼女もすでに死んでいる。若子の母親は京都にいるが、若子を産む前にも別の子を生んでいた。

    百子は奔放に生きている。麻子はどちらかというと真面目。父親の常も建築家らしく自由を好む。百子は、今、若い男の子を相手にしている。少年である。以前は西という少年、今は竹宮少年。箱根へ出かけてモーター・ボートで遊んだりしている。麻子は京都の妹を探しに現地へ行ったりしている。百子は同性愛者でもある。そして、竹宮少年も同性愛的な面をもち、百子がそこから脱却させて自分が満足しようとしている面が。二人の関係は、それぞれの同性愛の変形にすぎない、とも百子は考える。

    百子には、以前、啓太という恋人がいた。航空兵であり、特攻隊員として死んだ。生前、百子の乳房を象って盃を作った啓太。それで別れの酒を飲むつもりだという。啓太の死後、百子は青酸カリを飲んで死のうとした。工場に動員されていて、当時は敵が上陸した時にそなえ、女子たちには青酸カリが配られていた。いつでも死ねるように。それを飲んだ。しかし、死ねなかった。母親(麻子の母)が、首から提げた袋に入っている錠剤を砂糖に取り替えていたためだった。

    百子は、竹宮少年をふった。竹宮は別れたくないといった。あんたを殺して自分も死ぬといいはり、一旦は首に手をかけたが殺せなかった。そして、百子が妊娠を告げると、「僕の子供じゃないや。僕が子供じゃないか」といって逃げ出していった。その後、竹宮少年は自殺した。

    啓太の父親は京都に住む。常男に茶室の設計を頼み、それが完成した。啓太には夏二という弟がいて、東京の大学に通う。麻子と接近中でもあり、百子の心の内は複雑だった。夏二は啓太に似ていて、思い出される。

    啓太の父親、百子の父親、二人が心配し、医師と謀って百子の子を堕胎させる。

    百子の母親は、結婚できないから、麻子の母親と常男が結婚するから、自殺した。しかし、麻子の母親が砂糖とすり替えてくれたお陰で、自分は自殺に失敗して生きながらえた。竹宮は自殺した、自分は間一髪殺されなかった、しかし子は死んだ。

    最後は、若子にも出会う。

    *************

    水原常男:建築家
    麻子:
    百子:麻子の姉、少年数人を相手、同性愛?
    若子:京都にいる妹、
    *百子の母は自殺

    すみ子:死んだ妻、麻子の母?
    菊枝:京都の女、若子の母親
    有子:菊枝の子、若子の姉、芸妓


    竹宮:百子が相手する少年
    西:百子が相手していた少年
    夏木啓太:百子の昔の恋人、航空兵、「乳腕」を作る、沖縄で戦死
    青木夏二:啓太の弟、京都で再会、父親が茶室を常男に発注


    大谷:汽車で乗り合わせた
    チイ子:その赤児

  • 京都の嵯峨野や嵐山、渡月橋などの風流な情景が表されていて優しい表現が多かった。
    宮ちゃんと百子の物語、『僕を捨てるの?』

    百子が相手に任せてしまう性格だと青木の父が指摘する所などが頭に残っている。

  • 舞台が、ちょうど私がよく知っている景色から始まっている。なんだか自分自身も旅をしているような不思議な気分のまま読み終えた。湖国の虹は一度見たら一生忘れられない。そして、百子は自ら虹の橋を渡って行った者たちの呪縛から解き放たれる日が果たして来るのだろうか?

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著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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