- 本 ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101001234
感想・レビュー・書評
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平易な言葉選びと感情を排した情景描写から、立ち昇る日本の雅、小都市の静けさは『古都』に通ずる良作品。
本作など特にそうだが、個人的に川端康成が作品や小編に付ける名前に非常に興味がある。
直接的な関連が見受けられないパターンが多いが、そこへの理解が川端作品を読み解く鍵になっている気がする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
耽美的作品。真似できない表現が随所にみられ、幼児が橋から落ちて運よく無事だったシーンは、思わず文字を拾いなおした。本著に収められた「千羽鶴」と「波千鳥」は最初別作品かと思ったが違っていて、一つの物語としてつながっていく。変わったタイトルの付け方だが、解説をみて、書き連ねたものとわかった。最後も満腹感なく中途で終わった感があったが、続稿があって全集にあるらしい。読みたい。2021.4.14
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父子、母娘、因果応報。
太田夫人を抱いていたときが、菊治が菊治であった時だったのかも…と読み終えて、しばらく物語を反芻していて思い当たりました。菊治だけでなく、太田夫人も文子もまた、欲に身を任せてしまったその時だけが自分でいられた時。全編に渡り誰もが惑い、躊躇し、懺悔している。菊治がゆき子と結びきれないでいたのは、その行為を経ることで、太田夫人や文子のように、ゆき子を失ってしまうのではという恐怖のためではなかったのか。
艶めかしいお話でした。川端康成の小説からは、匂いがします。 -
近年現代の流行作家の面白さ巧みさに興味があった中で
ふと文豪と呼ばれる川端作品を手に取り
その作品の魅力を一気に読み終えた
力量の高さはどこにあるのか
言葉の選び方 表現の深さを今更私ごときが言うべきではないが
やはり素晴らしい
作品名「千羽鶴」は女性の持っていた風呂敷に描かれた模様
ただそれだけなのに終始その描写が忘れられず
作品名になったことにも納得する
胸に痣のあるその痣に毛が生えている栗本ちかこの描写が
本当に巧みで
私のまわりにもいるどこかの誰かのようで
気味悪い実感が
読後にもぬぐえない
川端康成を読み返そう -
志野の茶碗という一貫したアナロジーが作品全体を貫く。
菊治の父親の浮気相手であった太田夫人と一夜を共にしてしまったことがトリガーになり、太田夫人の一人娘の文子には終始、母に対してほとんどモノマニアックな固執をさせることになった。それはまた、菊治も同じだった。太田夫人や文子に対するわだかまりが、ゆき子と作品の最後まで「夫婦になりきれないでい」させさえする[p264]。
たった一度のことが、ここまで長く尾を引くなどというのはあまりにも大袈裟で非現実的であり、小説的な創作として恣意的でもあり、時代の違いも感じる。ここまで極端ではなくても、誰にでもこういったことは少なからずあるので、ある程度の年齢層は共感するであろう。
おそらく、川端康成はこうした極端で大袈裟で、病的に通底したものがないと人物造形ができなかったのではないか。あるいはそうでないなら書くべきだとも思わなかったか。しかし、そうしたモチーフに比べて描写はうっか読み落とすぐらい簡潔である。例えば、冒頭でちか子が胸をはだけてあざから出ていた毛をハサミで切っていたが、菊治と彼の父親来たのをわかっていて隠さなかったのは、父とちか子がそういう関係であることを示している。それに触れるのはたった2センテンスである(「父に驚いたのではなく、菊治を見て驚いたようである。女中が玄関へ出て取りついだから、ちか子は菊治の父が来たとは知っていたはずだ。」[p10])。不親切ではあるが、すべてを説明しない必要十分な簡潔な描写が川端康成の文体であろうし、日本的な"間"でもあろうか。 -
今まで読んだ川端の中で、最も位置づけにくく、ミステリアスな存在感を持つ作品だと感じた。
まず、作品の成立過程は、「山の音」と並行して書かれていること。この小説自体、どこが本当の終わりかハッキリしない。断続的に発表され、普通は最初に発表された5章を「千羽鶴」と呼び、次の3章を「波千鳥」(続千羽鶴)と呼び、いちおう最初の5章とは別にされたりしている。さらにそれよりあとにも2章ほど、同じ登場人物の話が発表されているようだが、物語の展開が別物になっているのでいちおうこのあたりで切っておくということらしく、要するに物語のあとさきがハッキリしない作品だ。
川端の作品について、一章ずつ発表されて、それぞれの章で完結するみたいな指摘はよくなされるが、それにしても千羽鶴のあとさきのハッキリしなさ加減は他の作品と比べても独特のものがあると思う。なので僕は、この作品はある程度川端のほかの作品を読んだあとに読むべき作品と感じる。そこで川端のこの作品の創作方法とか距離感とかを考えることによって川端という作家へのさらなる理解を試みるにはいい本ではないか。
古風な内容を扱いながら、手法的には他に例のないスタイルと言えるかもしれない。ひょっとしたら川端はこの作品でそういう実験的な形式を試みたのかもしれない。それが可能だったのが、この小説に対する動機の力強さがあれば、最後はなんとか整うはずだ、と思ったかもしれない、と想像してみたくなる。
最初の「千羽鶴」5章で作品としては鮮やかな印象を残して終わっていて、やはり川端文学の名作の一つだと思わされるが、そのあとに続く章がその形式を壊し、それがますます深く考えさせるものとなっている。 -
川端の作品を読むといつも彼の文学的技法の多才さもさることながら、彼の芸術家としての感性の鋭さに感動する。例えば「雪国」では、冒頭のシーンに見られる様に彼の鋭敏な「視覚」によって小説全体が彩られている。この「千羽鶴」の場合その感覚は「触覚」にも及ぶ。死んだ愛人の肉感的官能を志摩茶碗の手触りに投影させるなど、川端の様な感性を持ってこそ表現できる描写だと思う。
著者プロフィール
川端康成の作品





