村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

  • 新潮社 (1998年12月25日発売)
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本 ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784101001456

感想・レビュー・書評

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  • 本書のオリジナルは平成8年発行のもの。平成8年は、1996年なので、もう30年近く前のことだ。
    今は既に亡くなられている、河合隼雄先生に村上春樹が会いに行き、色々と話をするという建てつけの対談集だ。
    河合隼雄先生の、「人生の達人」感と、村上春樹がふと洩らす、創作の方法論や悩みが興味深い。かなり、「深い」対談だと感じた。読み物としても、面白い。

  • 30年?くらい前の対談集
    阪神淡路大震災や湾岸戦争
    サリン事件のころ...
    対談集なので読むのは易いけど
    後から自分なりに考えることが多く
    感想をまとめるのは難しい

    ブックオフにて購入

  • Amazonのおすすめで出てきて、購入しました。
    村上春樹を読みたいな〜と思っていて、
    さらに河合隼雄も読みたいなと思っていたので、
    レコメンド機能、ナイスタイミングでした。

    結果、とても楽しめました。
    対談形式+コメントがついていて、
    会話の流れで出てきたワードや意味について
    補足してくれています。

    誰しもが病いを抱えていて、
    それは社会も同じ。
    癒す方法は。

    個人的に面白かったのは、
    「源氏物語」についてお二人が話していた場面です。

    とても面白いのですが、
    一回読んだだけでは自分の中では消化しきれていない箇所もあるので、折を見て再読しようと思います。

  • いわばふたりとも完璧に「上がった」人。「もはやもがく必要がない」。親しみやすそうと思わせながら存分に権威を享受している。
    と、皮肉な目線も持ってしまうが、結構示唆的な対談。
    というか春樹論はかなりこれがベースになる。
    「春樹自身による春樹認識」として。

    源氏物語、漱石、大江健三郎、村上龍、と日本文学の流れを着実に意識している。
    アフォリズム、デタッチメント、コミットメント、と自身を細分化するなんて、暗中模索の作家では不可能で、かなり意識的に描き続けてきた作家だ(それが石原千秋いわく自己神話化)。
    「ねじまき鳥クロニクル」は受け入れられるの時間がかかる、というアーティスト的な言い方をしているが、自身で深めていくのに時間がかかる、自分はこのテーマを続けていくという表面でもあるだろう。
    小説のよさは、対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいは個人的営為)だ、という。まさにそのとおりとひざを打つ。

  • 個人と社会、死などのテーマの談義として、あるいはねじまき鳥クロニクルの一つの解説として非常に面白く読める。
    村上作品の初期はデタッチメント、ねじまき鳥からコミットメントに変遷した理由が分かったような気がする。村上春樹が好きな人は是非読んでほしい。

  • 暴力、そして『ねじまき鳥クロニクル』の副読本
     ユングとか河合隼雄とかの怪しさはいったん脇に置いておきます。
     村上春樹の無意識的・形而上的な創作技法が多少なりともつまびらかにされてをり、それは氏には珍しく赤裸々に開陳されたものだと思ふのです。
     特にこの対談のメインとなってくるのは、暴力についてです。それは氏が『ねじまき鳥クロニクル』を書き終へたばかりといふのもあるし、それが氏にとって体から出てきた(頭で考へただけではない)物語だからです。
     同じく暴力を扱った作家として、村上龍と大江健三郎の名前もすこしだけ出てきます。

     河合隼雄の心療経験の話が面白く、それがうまく村上春樹と噛み合ってゐます。河合が接した患者の心療経験から導き出される普遍的らしい真理に、こちらもなんとなく惹かれてしまひさうになる。

     もちろん眉に唾をつける話もあるわけです。
     たとへば河合さんは、日本の私小説は世界に受け入れられないと書いてるわけですが、それは違ふと思ふ。なんとなれば、最後の方で河合さんは自分から矛盾したことを言ってゐるわけですから。《あと、ぼくの場合は、一人の人間のことに必死になっていたら、世界のことを考えざるをえなくなってくるんですね。結局、深く病んでいる人は世界の病いを病んでいるんですね。》

     なにより村上氏の政治的スタンス(むしろそれは暴力にたいするスタンス)は、ほかの文学者とは乖離した価値観がありました。反核宣言も、だれも痛みを引き受けてゐない。とかれは言ってゐる。
     要するにそこには、他者の痛みを自分のものとして一旦捉へる、さうして納得できてはじめて行動できる。といふ態度です。

     現在の村上氏ののらりくらりとした対談の状況(それはたとへば川上未映子氏との対談ですが)をみれば、☆5にする価値はあるのではないか。とさう思ひました。

  • 心理学者の方は、確固とした強い心を持っているのではないかと思っていたけれども、映画の登場人物に感情移入して批評なんてできない、と言っていたのが印象的だった。
    二人とも全ての事象の本質を決めつけずに、様々な角度からものを考えていくスタイルが似ており、村上春樹の鋭い提案?を、河合隼雄が優しく包み込み、すーっと滑らかに結論づけていくようなイメージだった。

  • 数週間前に近所の本屋で衝動買いした文庫本。
    薄くて字が大きくて、対談本なので、今日の往復の電車でアレっと言う間に読了。。。

    臨床心理学者(であり文筆家であり文化庁長官もやった)河合隼雄さんと、小説家の村上春樹さんの対談本です。

    すっごく読みやすかったです。
    村上春樹さんのファン(特に「ねじまき鳥クロニクル」。いっぱい言及されています)、あるいは河合隼雄さんのホンをとりあえず試してみたくて、村上春樹さんのことが割と好きなヒト。
    には、おすすめです。

    僕の買った興味は後者で、
    「河合隼雄さんというヒトのホンを読んでみよう。コレは入り易そうだ」
    というものでした。
    で、僕にとっては、うーん、まあまあ・・・という本でした。

    対談の中身が、まあ、要するに村上春樹さんの仕事、っていうかんじなんですよ。
    河合隼雄さんが聞き手に回っている、というせいなのか、出版サイドの狙いなのか、ふたりの関係がそういう会話内容で楽しく成立しているのか、そこのところは分かりませんが。
    つまり、率直な印象は、「村上春樹さんヨイショ本」になってるんですね。
    村上春樹さんが村上春樹的な人生論や価値観を、村下春樹さんの著作に関連しながら述べます。
    それに河合隼雄さんが、相槌を打って同意しながら補足したり、解説したりするんですが、ほぼ、賛同して賞賛する。でもって、ふたりでもって、<世間の、あるいは日本の、一般社会の常識の旧弊さ、分かっていない部分>の、悪口を言うんですね(笑)。なんとなくそう読めちゃう。あんまり上品じゃないですね。

    河合隼雄さんの発言だけを抽出して読んでいけば、ナカナカ面白いところもあるんですよ。
    なんだけど、正直、前に読んだ『父親の力 母親の力』とかなりカブるんですよね。『父親の力 母親の力』の方が、ソレだったら面白かったですね。

    村上春樹さんのファンのヒトには割とタマラナイ本だと思います。

    僕も昔は好きだったんですけどね。今になってみると、あまりに巨大な存在になってしまったゆえか分かりませんが、ある種の非常にひねくれたカタチのマッチョイズムみたいなものもあるし、やっぱり、すぐに「アメリカでは」とか言うんですよね(笑)。そこのあたり、正直、ワカラナイ。分からないというか、面白いと思わないんですよね。
    翻訳家としては今でも大好きだし、文章とかうまいなあと思うし。
    ただなんだか、まあだからアレだけ孤高的な作家活動ができるんだろうけど、「この人、自分大好きなんだろうなあ」ってたまに白けて、笑えちゃうんですよね・・・。まあそのへんは。

    ただ、言ってることは、至極もっともだと思ったり、そういう考え方が基本であってほしいなあ、ということも多いんですよ。
    良い意味での個人主義であり、オウム事件や阪神大震災の頃の本なんで、今一度政治や社会に向き合わなくてはならないのでは、という意識だったり。
    ただそこに深い思索が必要だよね、行動主義だけではイヤだよね、という言葉であったり。

    閑話休題。
    それはそれとして、本筋と関係なく、「へー」と思って、かつ納得したのは、村上春樹さんが、初期の「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」のことを、デタッチメント、まあ世の中から切り離れたい的な感覚の作品だ、とおっしゃっていたこと。「羊をめぐる冒険」から、どうコミット、まあ世の中や社会と向き合えるか、関われるか、というつもりで書いた、と。

    で、僕は、再読していませんが、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」がいちばん好きなんですよね(笑)。村上春樹さんの小説の中で。
    それはすごくなんだか納得したのは、ただタンに自分の好みなんですが、

    「あー、なるほど、僕は村上春樹さんが、世の中とか社会から離れようとする身振りにすごく共感した、あるいはするンだけど。
    村上春樹さんが世の中とか社会に向き合って関わっていこうとする様子、あるいはこう関わるべき、こう関わりたい、という想いに、なんとなく共感できないのかなあ」

    というコトでした。
    良いとか悪いとかではなく。
    そのあたりはすごく納得で。さすが作者さん(笑)。

    まあ、本としては、正直、テーマも曖昧というか(笑)。
    題名が正直だと思うんですが、村上春樹さんと河合隼雄さんという巨匠ふたりの共演にしては、おふたりの「タレント本」でしかないっていうか。

    「ルパンvs.ホームズ」よりか、「831」とか「パスカヴィル家の犬」の方が面白いし。
    「座頭市と用心棒」よりか、「座頭市」と「用心棒」の方が面白いし。

    もともとは岩波書店から出てるんで。
    まあ岩波さんとしては、「コレはまあ、売れるための本」という認識だったのでは・・・と意地悪くちょっと思ってしまいました(笑)

    でもすっごく読みやすいですよ。
    村上春樹さんのファン(特に「ねじまき鳥クロニクル」僕は読んでないんですが・・・)、あるいは河合隼雄さんのホンをとりあえず試してみたくて、村上春樹さんのことが割と好きなヒト。には、超・おすすめです!

  • 【自己治癒的な作業】

    1995年11月に、村上春樹さんが京都にいる河合隼雄さんのところへ行き、対談されたときのお話。
    書きおこしに加えて、それぞれのコメントの追記があり、より話の内容への理解を深められる形になっていました。
    阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年。

    そして村上春樹さんは、
    1994年に『ねじまき鳥クロニクル』の第1部、第2部を出し、
    1995年にはアメリカから帰国後に、8月第3部を出されたところでした。

    この作品を取り巻く思考が、河合先生とのお話の中で続けられていて、
    とても興味深く、
    私は昔に一度読んだのですが、
    まったくの無知でしたので、
    この対談を踏まえ、
    再読したいと思います。


    ・コミットメントとデタッチメント
    村上春樹さんが、小説を書く際に考えられている概念。
    小説的、外部的、という言葉で説明されていたけれど、
    内側にある自分ー個人として どう社会と外部と関わるか
    河合隼雄先生が言われていた、「自分の全所在をコミットさせること」を学ぶ。

    プロとして仕事をする、ということなのか、
    人生として何をするか、という話なのかな、なんて勝手に考えながら。

    自分は一人しかいない、
    人生は一度、
    その事実に向き合うことでもあるように感じました。

    対談では、社会的な出来事にも触れられ、この言葉は引き続きこの対談のキーワードとなっていました。


    ・非言語
    河合先生が推進されていた箱庭療法に関心を寄せる村上春樹さん。
    イメージを使った心理療法ですが、先生は、言語かだけが治療ではないことが強調されていました。
    視覚思考や、言語化されるプロセスを経ない、ある種潜在意識下の心理に焦点を当てているという点、
    先日読んだ、『#第1感』の本や『#ビジュアルシンカー』の本とも通ずる部分があり、
    私自身も興味深く読みました。

    村上春樹さんは、小説を書くことにこの心理療法に似たような部分があり、自己治療的な行為だと話されています。
    自分でもうまく言えないこと、説明できないことを物語に置き換えていく、と。
    Spontaneous な物語でなくてはいけない、なぜなら、「予期せぬものに対して、さっと素早く対処する際のスタイルの中に、小説的な意味が含まれている」、と。
    意識的な言語化のプロセスは、ある種思考を完結化するプロセスでもあるので、
    その中で失われてしまう情報がある、
    小説は、言語で成り立つけれども、現実世界にとらわれないイメージ、を生み出すための想像性があるので、
    そこには非言語の思考を伝える可能性があるのだなーと感じました。

    そして、「部分的には読者も癒すもにでなくてはならない」とも。
    読者からのプラス・マイナスのフィードバックも、自己治癒の一部であり、それを「手応え」として話されていました。

    ・社会の矛盾を抱える自己
    河合先生曰く、
    60年代の反体制への抵抗、
    本質的に体制に組み込まれている反体制に、コミットすることがいかに空しいか。
    そして今(1995年当時)、反抗するものがない時代。
    オウム真理教の存在、阪神淡路大震災とボランティア、

    アメリカに在住されていた村上春樹さんにとって、湾岸戦争は個人的にも衝撃的出来事だったようです。
    「日本の戦後的な価値観が、世界でほとんど汎用性を持たない」、という印象的な言葉もありました。
    社会の中の矛盾とどう付き合っていくか、自分がどう社会とかかわるか、
    矛盾の存在に対して、統合性は必要ない、バランスをどうするか、とでお二人が一致していて、
    既存のものへの対抗ではなく、異なる次元を生む、というある種の解決策。昇華、というのか。
    自分なりのスタイル、「生き方そのものという作品」を新しく作るというコミットメント、として話されていました。


    ・井戸掘り
    『ねじまき鳥クロニクル』は井戸が一つの舞台となっていますが、
    その井戸掘りについて、とても興味深い対談がなされています。

    井戸掘りも、治癒であると。
    村上春樹さんがマラソンなどで身体を鍛えていることと、
    それが文章にも表れる、とうことに触れられていましたが、
    身体を伴う作業という点では、修行にも似ているように感じる。

    作品のテーマにもなっている、夫婦、結婚について、
    一側面を強調すると、
    苦しむため、井戸堀りするために結婚する、と解釈される河合先生。
    現代、結婚とは、協力するだけじゃなくて、理解したい、そのために必要なプロセス。
    相手に自分の欠落を埋めてもらうのではないこと。
    自分の欠落を苦しいながらも認識すること、明らめる、直視する内的な経験があるということ。
    男女関係が、井戸堀の治癒に移行していく必要性。

    その前提の考え方は、
    誰もが持っている欠落、皆ある程度病んでいる、と村上春樹さんが話しています。
    人間は自分が死ぬことを知って生きる特殊な動物であり、これもある意味病んでいると言える。

    一人の人間のことに必死になっていたら、世界のことをかんがえざるをえなくなってくる、ということは河合先生が話されていましたが、
    一人の人間は世界の縮図でもあるような、
    生きた人間と深くかかわることが自分と向き合うことになるような、
    そしてそれが社会、世界と向き合うことになるような…。

    ・壁抜け
    小説を書くにとどまらず、芸術行為一般について、治癒的な作用を話されていました。
    「壁抜け」も、村上春樹さんの小説の中で用いられている言葉ですが、
    みんなに通じる表現で、掘り下げる、超えることについての表現として、思考されていました。

    村上春樹さんは小説で言葉にしているものでも、どういう意味なのか、
    「作者にも分からないことがいっぱい入っている」、「小説が自分自身より先を行っている感じがする」、と言っていて、
    この対談そのものも、その言語化されていない思考を模索し明らめていくような作業が続いているといった一面を感じました。

    より速いスピード、より多い情報量、より楽な方向を目指す現代社会に対して、
    小説を書くことが、その一般的風潮と逆な個人的作業であること。

    フィクションとノンフィクションについても、
    河合先生が、
    実際おもしろい偶然がたくさんある、偶然待ちの商売をしている、とユーモア交えて話されていましたが、
    理性では理解できない部分が現実にあること、時々忘れているかもなーと思ったり。意識的に消している部分もあるのかも。


    平和の時代に書く暴力性、本能的なもの、
    そして
    テクノロジーの時代に書く死、
    そうして創造された作品だと思うと、とても深いですね。

    「苦痛のない正しさは意味のない正しさ」
    人生の意義の深め方、ともいえるのでしょうか。

    村上春樹さんが、日本に戻る必要性を感じ、
    何か暴力的なことを予見していた当時。

    その後30年をどう過ごされ、どのように今解釈をされているのかも気になりますね。
    とても興味深い対談でした。

  • 『ねじまき鳥クロニクル』を書き上げた村上春樹が
    心理学者の河合隼雄と対談したもの

    とても観念的な内容なのでじっくり読まないと理解できない
    さらにお互いが補足したいことをフットノートに上下段に加えているので
    とても読みづらいというか 
    読みたいのだけど対談内容を集中して読みたいのにそちらも気になる

    『ねじまき鳥クロニクル』について書かれてあるところが多く
    再読したくなってしまった
    2巻で完結とするか3巻で完結とするか読者に委ねている

    前書きが村上春樹
    後書きが河合隼雄

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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