風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101004020

作品紹介・あらすじ

風のように去ってゆく時の流れの裡に、人間の実体を捉えた『風立ちぬ』は、生きることよりは死ぬことの意味を問い、同時に死を越えて生きることの意味をも問うている。バッハの遁走曲に思いついたという『美しい村』は、軽井沢でひとり暮しをしながら物語を構想中の若い小説家の見聞と、彼が出会った少女の面影を、音楽的に構成した傑作。ともに、堀辰雄の中期を代表する作品である。

感想・レビュー・書評

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  • 初めての堀辰雄。
    少し読んでみて、なんだか翻訳本を読んでいるかのような印象を受ける。
    少し検索するとフランス文学との融合という文言を見付け、納得。
    作中にも、フランスの文学作品の名が幾つも登場する。

    本作の一文が長いのが気になったが、慣れてくれば、風景描写がとても美しい。
    美しいと思った箇所に付箋紙を立てていたらキリがなくなった程。
    小説というよりも、長い詩を読んでいるかのような印象を受けた。


    『美しい村』
    冒頭に"ファウスト第二部"が引用されていたり、作中では感動を交響曲に例えていたり、読んでいると音楽が流れだす作品だ。
    本編前も序章ではなく"序曲"であるし、背表紙にもある通り"音楽的に構成されている"。

    ここはK村(軽井沢村)。
    傷心の主人公(私)は、過去の恋愛事件を小説にしようとK村へやって来る。
    けれども初夏のK村の心地好さに、自分は何故あんなにも苦しんでいたのだろうとさえ思えてくる。

    そこで1人の少女に心惹かれるのだが、彼女との初めての出会いのシーンも美しい。
    主人公は、
    「一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何だか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた」
    「やっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せすぎな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た」
    そして、
    「私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった」
    と、夏の訪れを知る。

    少女への恋心と、軽井沢の美しい自然から、いつしか主人公の過去の恋愛の痛みも癒えてゆく。

    さて、印象的に幾度も出てくるサナトリウム。
    次の『風立ちぬ』では富士見高原療養所繋が中心的な舞台となる。


    『風立ちぬ』
    ジブリの「風立ちぬ」は映画館で観たが、本書はその題材となったもの。

    「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩から引用されている。
    "生きめやも"は、"生きなければならぬ"。

    美しくて繊細なストーリーだった。
    「こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ」
    との一文が印象深かった。
    この物語は、その、人々が行き止まりだと信じている先の物語だ。

    結核を患っている節子はその命の短さを予感しているが、その純粋で一途な様は儚くも美しい。
    主人公(私)は節子に寄り添い、共にサナトリウムで過ごす。
    そんな二人は、死を意識すればこそ、替えがたい愛しい日々を重ねてゆく。
    「……その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、ーーそう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれどもーー我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ」
    健康な私自身の胸にも響く言葉だった。
    さらに、こう続く。
    「そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していた」
    ささやかな日常こそが幸福だと確信できるのは、そこに本当の愛が存在するからだ。

    節子が弱っていく様は痛々しいけれど、堀辰雄は美しく昇華しているように感じた。
    それでも普段は"彼女"と書かれる"私目線の節子"が、"病人"という三人称で書かれる部分が出てきて、読者である私も、節子の死が近いことを意識する。

    節子の隣に居る主人公の複雑な思いが、丁寧に、幾度も表現を変えて描かれる。
    二人きりで高原で過ごせる幸せのひととき。
    けれどその暮らしは、節子の病がもたらした限りあるひとときであり、先に待っているのは節子の死。
    「私達のいくぶん死の味のする生の幸福は……」
    「私は彼女と心臓の鼓動さえ共にした」
    「……こうして病人と共に愉しむように味わっている生の快楽」
    「おれ達がこうしてお互いに与えあっているこの幸福」
    「あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動」
    まだまだ沢山の思いが、作中に溢れている。

    その後、主人公は1人K村を訪れ、節子との思い出に浸る。
    外国人らに"幸福の谷"と呼ばれているらしき場所も、彼には"死のかげの谷"と言った方が似合いそうだと思える。
    けれど冬という季節が見せる景色、節子との思い出、ドイツ人の神父からの言葉などから、
    彼の心に変化が現れる。
    節子の思い出が寄り添ってくるのを待っていた彼が、
    リルケのレクイエムを口ずさむ。
    「帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢できたら、
    死者達の間に死んでお出。死者にもたんと仕事はある。
    けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
    屢々遠くのものが私に助力をしてくれるようにーー私の裡で。」
    きっと彼が彼女の亡霊を手放し死を受け止め、此岸と彼岸にラインを引いた瞬間だ。

    "風立ちぬ、いざ生きめやも"。

    • 傍らに珈琲を。さん
      yyさん、こんばんは~☆

      まぁ!
      なんだかシンクロしているようで私も盛り上がり 笑
      お互いに初めての堀辰雄ですし♪

      「羽ばたき」を知らな...
      yyさん、こんばんは~☆

      まぁ!
      なんだかシンクロしているようで私も盛り上がり 笑
      お互いに初めての堀辰雄ですし♪

      「羽ばたき」を知らなかったので、ちょこっと検索しました。
      ファンタジーなんでしょうか。
      美しい表現が沢山並んでいるんだろうなぁ。。。楽しみですね♪
      2023/11/01
    • 本郷 無花果さん
      こんばんは。
      文学者的なレビューで惚れ惚れ致します。
      本作品も名作ですよね。
      節子がとても可愛らしいし、二人の仲睦まじさも微笑ましい。
      故に...
      こんばんは。
      文学者的なレビューで惚れ惚れ致します。
      本作品も名作ですよね。
      節子がとても可愛らしいし、二人の仲睦まじさも微笑ましい。
      故に、死が二人を別つその時を想像すると、とてもとても…。
      節子と同じ病に苦しんだ著者だからこそ、人の命の儚さ、愛しい人を遺して逝く、そこはかとない気持ち、愛する人を見送る事になるであろう悲しさと寂しさがヒタヒタと感じます。
      そして貴方様もお感じになった風景描写の素晴らしさ。著者が療養と執筆で度々訪れた地への愛着心が窺えますよね。
      この作品も勿論ですが、『聖家族』や『燃ゆる頬』も私は好きです。
      また孰、個人的に堀辰雄ブームがやって来る気が今から致します(笑)
      2023/11/02
    • 傍らに珈琲を。さん
      本郷 無花果さん、こんばんは!
      いつも素敵なコメントを有難う御座います。

      節子が可愛らしいんですよね。。。いじらしいというか。
      楚々として...
      本郷 無花果さん、こんばんは!
      いつも素敵なコメントを有難う御座います。

      節子が可愛らしいんですよね。。。いじらしいというか。
      楚々として、可憐。
      で、仰有る通り堀辰雄も結核を患ったようですね。
      この頃って、タバコの吸い殻が山積み、排ガスがもくもく…みたいなイメージなんですよね。
      結核の患者も多かったと思うのです。

      やっぱりどうしてもジブリの「風立ちぬ」を思い出してしまって。
      あの作品中の療養所がまさに富士見高原療養所だと思うし、ヒロインの奈穂子の可憐さが節子にめっちゃ重なってしまって、
      よく出来た作品だな~さすが宮崎駿さんだな~なんて、
      ジブリ作品の凄さまで改めて実感してしまいました。

      堀辰雄も、婚約者を結核で早くに亡くすという経験をしてるようですね。
      ああ、どうりで…と納得。
      作中の節子に寄り添う内面描写は、介護や身内の死を経験した者にしか書けないような、
      その心情そのもののように感じましたもの。

      堀辰雄ブーム、来ちゃいそうですか?笑
      私もまたいつか、別の作品も読んでみたいです♪
      2023/11/02
  • 軽井沢を舞台とした風景描写に定評のある、サナトリウム文学ともされる二つの中編作品です。

    『美しい村』で主人公が親しくなる少女と『風立ちぬ』の婚約者のモデルは同一人物とのことで、宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』は、本書の二作品を連続した話としてとらえて、エピソードを追加して物語の一部に組み込んだものとして受け取れそうです。

    『美しい村』は少女との出会い、『風立ちぬ』はサナトリウムへの転地と婚約者である節子の病状の変化が作品中の重要なトピックとしてありますが、その点を除けば両作品ともに出来事は少なく、その大半は舞台となる高原を対象とした風景描写と語り手の心理描写で埋められており、基本的には技巧を凝らして作り込まれた詩的な小説作品として味わうべきなのでしょう。

    ただし、「私」が看病をする婚約者である重病の節子と仲睦まじく愛し合う日々を美しく描く『風立ちぬ』の終盤、小説家である「私」が最愛の人に起こる不幸をも題材として物語を構想し、仕事に心を奪われ節子にも勘付かれてしまうあたりに、創作者としての業の深さが窺えます。その点において、アニメ『風立ちぬ』において何よりも飛行機づくりを優先した二郎の姿と重なって見えました。

    作中の「風立ちぬ、いざ生きめやも」というポール・ヴァレリーの詩句の訳については、反語である説と強い意志の表明とする説の二通りの解釈があるようです。

  • 両作品とも自然の描写が素晴らしい。
    静かに淡々と時が流れる。
    人の気持ちも自然を通して語られる。
    美しい村は少し難しいと感じた。
    風立ちぬは流れるように読み進められた。
    他の作品も読んでみたくなった。

  • 近代日本の小説家である堀辰雄(1904-1953)の代表的な中編2篇。いづれも堀の実体験に基づく。則ち、「美しい村」は1933年6月に訪れた軽井沢での矢野綾子(のちの婚約者)との出会いが、「風立ちぬ」は同じく綾子との出会いから婚約そして肺を患った綾子とともに1935年7月に八ヶ岳の富士見高原療養所へ入所したことが、作品の背景となっている。

    「美しい村」(1934年)
    特にはっきりした筋があるわけではない、とりとめのない幻像の連写のようですらある。光と色彩と芳しさを帯びながら静かな音楽のように流れていく詩的な描写が、自然と季節の描写が、そこに映し出されるような心象の描写が、息苦しくなるように美しい。黄色い麦藁帽子をかぶった向日葵の少女との出会いと交際の場面は、恋の始まる予感のように読む者の胸をときめかせる。この小説を音楽的に構成しようとした堀からすれば、少女との出会いを描くこの「夏」の章は云わば"転調"となろうか。少女の横にいる彼の少女へ向かう心の動きのひとつひとつが目に浮かぶよう。堀は同時代の西欧文学を熱心に研究していたようで、この作品の流れるような息の長い文体にプルーストの影響が窺われるという。

    「風立ちぬ」(1938年)
    死に直面し死そのものを想って生そのものを生き直すとはどういうことか。それを誠実に遂行することは可能なのか。感傷や、欺瞞や、エゴイズムが、入り込んだりはしないか。ましてそれが、愛する者に忍び寄る死の影である場合、そこで想われているのはどこまで純粋に「死そのもの」であるか。「美しい村」と同様に、主人公の「私」は堀自身であり、「私」はいま(この物語の中で)起きていることをもとに小説の構想を練っている。則ち、この物語の進行が「私」の小説の主題の深化の過程をたどっていくことにもなるのであり、この作品は云わばメタフィクショナルな構造になっている。「私」は、いま自分の目の前で起きている人生の一局面を、ときに自分が構想している物語と混同してしまっていないか。小説に何かそれらしい結末をつけるように、恋人が迎えようとしている死を適当な物語で包んで遣り過ごそうとしてしまっているのではないか。しかし、人生とは、そもそも物語のように何か出来合いの結末でまとめられるものなのか。このメタフィクションという構成のうちに、先に述べた死と生への「誠実さ」の問題に対する、自己の内なる欺瞞を剔抉せずには済ませられない徹底さという意味での、堀自身のまさに誠実な態度が表れているように思う。明るく朗らかな恋愛小説である「美しい村」に対して、「風立ちぬ」には生を捉え直そうとする切実な厳しさが感じられる。

    ところで収録の2作品にはいづれも、余分なものを全て取り除いてしまった美しさ、といったものがあるように思う。三島由紀夫が云う「小説からアクテュアリティーを完全に排除し、古典主義に近づこうとした」とはそういうことか。堀辰雄の他の作品にも通じるのかどうか、未読ゆえにわからない。

    「それらの夏の日々、一面の薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊に覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……」

    「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことはいまのおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分かるだろう?」

    「そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでもいたかのように見えた。そして突然、そんな死に瀕した娘の影像が思いがけない烈しさで私を打った。私はあたかも夢から覚めたかのように何んともかとも言いようのない恐怖と羞恥とに襲われた。そうしてそういう夢想を自分から振り払おうとでもするのように、私は腰かけていた橅の裸根から荒々しく立ち上がった」

    「――だが、この明かりの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明かりと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかもしれないのだ……」

  • 文章がうまいか美しいかは個々の主観と好みの問題なので当否は別にします。で、私見ですが、堀文学の特徴は人物心情や物語の展開を情景で描写するという比喩表現の緻密さにあります。特に今回読んだ「風立ちぬ」や「菜穂子」「楡の家」などの短篇に顕著です。
    で、描き込まれる風景は八ヶ岳、軽井沢、山の麓、林、村といった自然です。天候と四季の変化、そこから生み出される風景の移ろいに人物心情を表現して物語が進むという構成です。


    例えば「風立ちぬ」に連なる一連の短篇でいうと、
    <雨の降り出し、激しい雨、梅雨、葉の滴>=物語の始まり。苦悩。孤独。不安の兆し。
    <新緑、葉の輝き、澄んだ空>=病状の回復。待ち人来る。
    <秋らしい澄んだ日、穏やかに風に揺れる木々>=幸福な時間、平穏。
    <陽の光で顔が照らされる、硝子に反射した陽の光>=回想、思索の時間。
    <雪雲、冬枯れた森、雪の降り始め、肌をしめつける寒さ、吹雪>=病状の悪化。憔悴。死期の兆し。
    など大まかにざっくり言うとこんな感じです。


    心情を情景で表現するのはどの作家も大なり小なり小説でやっていることで珍しいことではありません。ただ、情景を描き込み過ぎてダラダラ文章を続けてしまうと物語のリズムや流れを損なうので、この手法はベタだけど簡単なようで案外難しい。逆に描きこみが足らなかったり表現がありきたりだと作品が陳腐になります。
    そこらへんはやっぱ堀辰雄の作品は凄い。物語のリズムを損なうことなく人物心情とストーリーの展開を情景描写で表現しつつきれいにまとめて小説を作っている。細かな情景描写が人物たちの心情や心の機微を表現して小説を美しい作品にしています。

  • まず「風立ちぬ」を読む。

    重い病を患って死に向かう最愛の人「節子」と過ごす主人公の日々の心象が、美しい高原の四季と織り合わされたような物語。

    「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ。」

    二人は迫る死の影にも絶望することなく、ある完全な幸福感を一日一日噛みしめるように生きている。それは死の手前にある生ではなく、死を越えてある生の物語。

    私達をとりまく風景には私達の心象が反映されているし、心象というものも、とりまく風景の反映を受けている。心に思い描くものと目の前に広がるものの間には、思っている程の境界線がないのかもしれない。堀辰雄の文章を読んでいると、心象と具象が独特の織られ方をしていて、ふとそんな気持ちになった。

    宮崎駿監督の「風立ちぬ」の、あの夢の世界の表現や、なぜ震災の後にこの物語が選ばれたのか。そんなことも腑に落ちた。

  • タイトルしか知らない本を読むシリーズ。(笑)日本語の美しさを再発見。

  •  切なくて綺麗で、アホな感想ですけど蛍みたいな話に感じました。

     「ずっと後になって今の生活を思い出せば、どれだけ美しいだろう」
     この言葉が好きすぎて、さも自分の言葉のように誰かに言いいます。

     ジブリ版の「風立ちぬ」も好きやったんですけど、ジブリ版は物語すぎてちょっと違うなと思いました。
     ジブリ批判ではなく、ただの好みですごめんなさい。宮崎駿さんサイコー!

  • あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめ(和傘)で おむかえ うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。北原白秋『あめふり』 1925

    慾はなく、決して瞋(いか)らず、いつも静かに笑っている。あらゆることを自分を勘定に入れずに。寒さの夏はおろおろ歩き。誉められもせず苦にもされず。宮沢賢治『雨ニモマケズ』1934

    自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ。堀辰雄ほり・たつお『風立ちぬ』1936

  • 「私たちの今の生活ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって…」サナトリウムにいる病床の節子が言うのだ。なんとピュアな、とても幸せで切ない言葉。ハイカラ、軽井沢、サナトリウム、恋と死。堀辰雄の描く、儚く切ない世界観は、晩年病床にあった堀自身の生への執着を投影している。この美しさはなかなか書けない。透き通るような世界、軽井沢にこんな素敵な時代と場所があったのかと思うほど魅力的だ。いや、自分にもこんなピュアな時代はあったろうか。映画化しても演じられそうな現代女優が思いつかない。それくらいピュアな恋愛小説。当然ながら悲しい結末へ。すっかり汚れちまった自分に涙が出てくる。 

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著者プロフィール

東京生まれ。第一高等学校時代、生涯親交の深かった神西清(ロシア文学者・小説家)と出会う。このころ、ツルゲーネフやハウプトマンの小説や戯曲、ショーペンハウアー、ニーチェなどの哲学書に接する。1923年、19歳のころに荻原朔太郎『青猫』を耽読し、大きな影響を受ける。同時期に室生犀星を知り、犀星の紹介で師・芥川龍之介と出会う。以後、軽井沢にいた芥川を訪ね、芥川の死後も度々軽井沢へ赴く。
1925年、東京帝国大学へ入学。田端にいた萩原朔太郎を訪問。翌年に中野重治、窪川鶴次郎らと雑誌『驢馬』を創刊。同誌に堀はアポリネールやコクトーの詩を訳して掲載し、自作の小品を発表。1927年に芥川が自殺し、翌年には自身も肋膜炎を患い、生死の境をさまよう。1930年、最初の作品集『不器用な天使』を改造社より刊行。同年「聖家族」を「改造」に発表。その後は病を患い入院と静養をくり返しながらも、「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」と数々の名作をうみだす。その間、詩人・立原道造との出会い、また加藤多恵との結婚があった。1940年、前年に死去した立原が戯れに編んだ『堀辰雄詩集』を山本書店よりそのまま刊行し、墓前に捧げる。1953年、春先より喀血が続き、5月28日逝去。

「2022年 『木の十字架』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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