- Amazon.co.jp ・本 (144ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101005041
感想・レビュー・書評
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盲目の美少女・春琴のドSぶりが凄いです。虫歯で苦しむ佐助の顔をおりゃーと蹴ったあたりなどは思わず笑ってしまいました。(笑)ぶったり、蹴ったり、撥で殴るのも日常茶飯事。それでも付いていくのは盲目の美少女であり芸道の達人というカリスマ性と、幼少期から主従・師弟関係にあるという、三つ子の魂百まで、というやつでしょうかね?
いや、殴られるのは嫌ですが、こういう美少女なら自分も佐助のようにマッサージだの三助だの性のお付き合いだのはやってもいいかなという妄想を持ってみたりして・・・。(笑)
もはや、愛だの夫婦だのという言葉すら陳腐と思えるほどの佐助の献身ぶりには、いちいち微笑ましく感じてしまいましたが(笑)、本当の意味でのドMに開眼したのは、やはりあの出来事の後、お師匠様・春琴と精神的にも繋がった瞬間でしょうね!ひたすらその瞬間を待ちわびて、そしてその境地に至った佐助の幸福感を谷崎はさまざまな角度から懇切に描写していて、何か妙に納得させられました。
切れ目のない文章は最初読みづらかったのですが、慣れれば論理的かつ綺麗な表現がまた心地よく、主人公の内面にあまり立ち入らず状況だけの描写が逆に、谷崎の造り上げた精神的な美の境地のあり様を最初はしんみりと、しかし振り返れば強烈に読者の心に浸透させている感じがします。あと、場面設定の色彩感覚や音感覚にも優れた作品であり、雲雀を求めて天高く見上げる春琴の姿などはとても映像的!で美しいですね。
精神世界の美に陶酔したい方にはお薦めの一作です。しかし、くれぐれも真似はしないように。いや、三助くらいなら・・・。(笑) -
愛を貫くひとつの形。
佐助の献身はひたすらの愛なのだろう。対比され描かれる春琴の傲慢さから、より引き立つ。
ストーリー展開の「抄」という形式の絶妙さ。句読点他極端に少ない文章で読者の思考さえ作者の手の内にあるようだ。 -
春琴抄
九つの時に失明した美貌の三味線弾き・春琴。裕福な彼女の家に丁稚に来た4つ年上の佐助との不気味でいて美しくさえある関係性を描く。
最初めちゃくちゃ読みにくいけど、慣れるので少し辛抱して読み進めるべし。
彼らの主観ではなく主に「春琴伝」なる伝記を読み解くことで物語は進む。その第三者の視点というのが読者と彼らの間に絶妙な距離感をもたらし、肝心なところが謎のままだったりする。物語のクライマックスは最高の幸福感だが、過度に盛り上げず呆気なく終わるのが逆に良い。
◉春琴の世話がめちゃくちゃ大変
傲慢で気性の荒い春琴と、献身的に奉仕する佐助。
春琴の着替え・食事・入浴・排泄など生活の全てに手助けが必要な上、細かな注文が山ほどつく。彼女の介助はとてつもないストレスなのだ。
彼女のSっ気を佐助は気心知れた仲の証と捉えて、ワガママもどんどん受け入れる。そのため幼少期から2人は、お互いがなくてはならない存在になる。
2人の間で侍従と恋愛の境界が極めて曖昧なまま、佐助は春琴の介助のプロフェッショナルになっていく。
◉本人たち無自覚のエロ
かの有名な佐助の虫歯のくだり。
寝床で春琴が足を温めよという。胸板に足を入れて温めていたが、虫歯が痛すぎて冷たい春琴の足で頬を冷やしていたら足蹴にされたというやつ。
…いやいや、佐助の胸板で足あっためんなや!虫歯どうこうの前に、そっちが気になりすぎて話入って来んわ!
彼らの生活にはこういう行き過ぎた侍従関係の風景があり過ぎるのだろうが、本人達はそれが普通なので無自覚。
しかし周りから見ている分にはその無自覚がそこはかとなくエロく見えてしまう。
私達の見えないところで2人はどんな生活をしているのだろう…見えない分、余計に想像力を掻き立てる。
そして春琴が妊娠し、本人は最後まで父親を明かさなかったが生まれた男の子が佐助そっくりであったことから
「あんたたち結局やることやってんじゃねーか!」と周囲をズッコケさせることになる。
◉災禍が招いたこの世の極楽
ひたすら春琴武勇伝を淡々と語っていたが、ある春琴の身に降りかかった災難をきっかけに、驚くべき展開になっていく。
佐助の愛の深さに身の毛のよだつ思いがするものの、春琴と佐助の関係はもうエロさえ超越し、神々しささえ感じるフェーズに突入。
佐助にとっては春琴とたった2人きりの極楽を生きているようだったという。
読了した後で冒頭の2人の墓の描写を改めて読み直すと、心の底からしみじみと感慨深い。墓になってもなお、春琴の側にひっそりと佇む佐助の生涯を想う。
こんな複雑で美しいエロもあったんだ、と新しい世界を発見してしまった感じ… -
1933年(昭和8年)。
恥美派というとそれ自体が異端だが、その中でも本書はさらに異端である。顔に熱湯をかけられて大火傷を負う美女と、醜い顔を見られたくないという彼女の願いを叶えるために自ら目を潰す男。極めて悲劇的な題材でありながら、不思議と陰惨さが感じられない。美文調の文体の力でもあろうが、何より作品を貫くユーモアと達観、言うならば一種の「しぶとさ」が、この作品を普通の耽美小説とは一味違うものにしている。
悲劇を滅びの美学として芸術に昇華するのは耽美派の常道だが、この物語に滅びのムードは存在しない。春琴も佐助も割と長命だし、盲目も彼らにとってはエロスを充足させるために欠かせないツールだ。視力の喪失によって、美貌の喪失という性的な危機を、彼らは悠々と乗り越える。そればかりか、盲目となることによって、佐助は己の理想とする「完璧な春琴像」を作り上げ、嬉々としてそれに隷属する。ここに至っては実物の春琴ですら、「オレの理想の春琴」を完成させるためのツールでしかない。究極の脳内恋愛である。
現実の女性よりアニメの美少女に萌えるオタク男子にも似て、現実(リアル)より仮想(ヴァーチャル)を優先させて何ら悔いるところのない佐助の生き様は、いっそ爽快で雄々しいとすら言えよう。そして、佐助のインスピレーションの源泉として、最後まで彼の期待を裏切らなかった春琴の堂々たる女帝ぶりも、また天晴れと言うべきだろう。
畢竟、何が幸福で何が不幸であるか、所詮他人に伺い知ることなどできない。ならばどれほど異端な生き方であろうと、当人が歓びをもってそれを享受するなら、それは生き方として十分アリではないか。谷崎はそんなふうに問うているようにも思える。それをニヒリズムと見るか、それとも人間讃歌と見るか。評価は人それぞれだろうが、この作品が単なる被虐趣味を超えていることは確かだろう。-
佐藤史緒さん、こんにちわ!(^o^)/
なるほど「脳内恋愛」ですか。まさに自己陶酔そのものでしたからね!(笑)
春琴の堂々たる女帝ぶ...佐藤史緒さん、こんにちわ!(^o^)/
なるほど「脳内恋愛」ですか。まさに自己陶酔そのものでしたからね!(笑)
春琴の堂々たる女帝ぶりは、自分なんかは可笑しくて仕方がありませんでしたが(笑)、確かにひとときも「オレの理想の春琴」を揺るがせなかった佐助は現代オタクと何ら変わることはなく、谷崎のエロス的美の理想世界はここにきて広く社会に浸透しているということなんでしょうね?(笑)2014/11/03 -
mkt99さん、こんにちは!
まさに。谷崎はたぶん早過ぎたんですよ。時代がようやく彼に追いついたのです(笑)mkt99さん、こんにちは!
まさに。谷崎はたぶん早過ぎたんですよ。時代がようやく彼に追いついたのです(笑)2014/11/04
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盲目の美しい娘、春琴と身の回りの世話をする下男佐助。三味線の師匠と弟子でもある。
春琴の美しさ、儚さがそこはかとなく文章から伝わってくる。一方で気性は激しく、気位高く、お金に厳しい。佐助を泣かせる程に体罰と厳しい指導を行う。
佐助は、仕えた最初から春琴への憧れがあり、師匠としての尊敬の念、やがて深い愛情へと変わっていく。愛おしさを表現する文章が何気なくエロい。マゾ的な性癖も感じさせる。
そんな上下関係であるはずなのに、妊娠するとは、オイオイ、どういう事か?えーっ⁈そういう事なのか?2人は否定し、ここではハッキリした事情は語られないままだ。
人から恨みを買う事になった春琴は顔に大火傷を負ってしまう。その春琴が「私を見るな」と言った為に、自らの目に針を刺し失明した佐助。あまりにショッキングだ。ヤバすぎる。
しかし、この事で2人は同じ盲人となり、同化し、より絆が深まる。ようやく肉体だけでなく心で結ばれた。(やっぱり肉体関係はあったんかーい)佐助は、不幸ではなく、幸せを得たと言うのだから、度肝を抜かれた。
そのクライマックスシーンでは、自然と涙が溢れ出てしまい、心が揺さぶられる。そこまでの愛があるのかと…。
今も大阪の町のどこかに2人のお墓がひっそりと存在しているかもしれない。
これが谷崎の耽美な世界なのか…。読後しばらく抜けきれない。
密やかで不思議な究極の愛の描き方に今後ハマりそうな予感がする。 -
愛というものに翻弄された男と五体満足に生まれ、蝶よ花よと大切に育てられてきたにもかかわらず、運命に翻弄されて身体的自由を奪われていく女のお話。
人を愛することの重さをずっしりと感じる、厚みの薄い本なのに読み終えた時にはぐったりするような重い愛のお話でした。
愛した人の為にどこまでも自分を犠牲にし、どんなにキツく当たられても気持ちを変えることなく尽くしぬく不変の愛情を注いだ一生と身分の差があろうが身体を張って死ぬまで守ってくれた男がずっとそばに居てくれた一生。ある意味それは究極な幸せだったのかもしれないですね。 -
ページ数が少ないと言う意味では読みやすいと言えるけど、句読点が省略されている点では読みにくいと言える。自分は慣れない文章のリズムに苦戦して結構時間がかかった。
話自体は至ってシンプル。
心理描写も少なく物足りなさを感じるほど簡潔。
言われるほどの良さが分からなかったなと思い巻末の解説を見ると、春琴抄のその簡潔さに究極の美を感じる人が多いよう。
「百の心理解剖だの性格描写だの会話や場面だの、そんなものがなんだとの感じが強く湧いてくる」と谷崎潤一郎は苦悩したという。
昔は(今も少し)結末を有耶無耶にして「あとは皆様のご想像にお任せします……」というような投げかけの物語が大嫌いだった。もやもやするし、意地悪に考えればそれは「逃げ」なんじゃないのと思っていた。でも今はちょっと違う。
物語の延長に読み手の考える余地を残しておいてくれることは、書き手から読み手への信頼があるんじゃないかと思っている。
全部を説明しなくても分かる、情景や心理描写に言葉を尽くさなくても感じてくれる、読み手にそんな期待を持ってくれてるのではないか。
勿論人間同士言葉を尽くさなくても理解しあえるなんていうのは傲慢な考えだけど、こと芸術においては自分の思うままを表現して、それが読み手に正しく伝わった時の心の共鳴はお互いにとって何者にも変え難い瞬間だと思う。
谷崎潤一郎の独自の文体も、敢えて省かれた心理描写も、ある種の作者と読者の信頼の形であると考えるのは慢心なのかもしれない。 -
雑誌程の薄さの中に、谷崎の拘りが詰まりに詰まった美麗描写の波状攻撃。
作者の“五感”への思い入れは凡人には計り切れない。
個人的には本作に最大のリスペクトを払った中上健次の『重力の都』もお気に入り。 -
盲目の琴の師範、春琴と付き人で弟子の佐助の愛が描かれた作品。
耽美的な世界観で好きな人には堪らないんだろうとは思ったが、個人的にはお付き合いするなら対等かつ痛くない方が良いので深く入り込めず…。 -
単純だが迂遠極まりない哀しい愛の形。
病的な部分が強調されがちな谷崎潤一郎の作品群にあって、『春琴抄』もおそらくきっと、嗜虐的な女性と被虐的な男性という病的なカップルの姿が浮かび上がる。
確かに、そうした性的趣向はどうしたって否定できようがない。
他方で、この物語を読んで感想を言い合う際にあまりにも性的倒錯という側面にのみ集中しすぎていないだろうかとも思う。
実際のところ、彼らなりのコミュニケーションがあわさったのだろう。
攻撃性・衝動性の高い、しかし美貌と才能に溢れる女性と、献身的な男性。
男性側は恐らく他者のお世話をするという事が自己充足であるひとなのだろう。
それは、地方都市から丁稚奉公なる封建的な人生のなかで見つけた彼の居場所だ。
そして女性は、この関西特有の母系ゲマインシャフトのなかで盲目というハンディキャップという器官劣等がありながら激しい気性という優越欲求の結果得た芸事の世界が居場所だ。
物語前半まではまったく、封建社会における主従、師弟という枠での関係でしかない。
ところが、後半にあってその関係は激変し、師弟・主従から夫婦関係へ至る。
それは男の献身であり、女性の受容という力動の結果だろう。
その後、2人の関係は逆転している。
春琴は妻という立場に甘んじようとする。文字通り、甘え始める。
しかし佐助は、もちろん献身と尊敬という彼なりの持ち味は残れど、婚姻という関係を迫ることもない。
春琴は暗にそれを求めたにも関わらずだ。
これによって、主は佐助に、従は春琴に、目立たぬが入れ替わっている。
かといって、被虐−嗜虐が入れ替わるとかそういうことでもない。
単純に、互いに愛するということをこの2人が手に入れたのだと思う。
単純だが、迂遠極まりない哀しい愛の形だ。
そして多分に倒錯している。
悲劇なのは子供たちのはずだが、この物語ではそれについて触れられることはない。
その意味では残虐な愛でもあるだろう。
そのことも、この2人の物語の哀しさを際立たせてはいないだろうか。
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谷崎の小説は初めてです。独特な世界観に驚かされました。甚だしく句読点が省かれ、改行がないのは、練り上げた文章の流れを途切れさせたくないのと、濃密で粘着的な2人の関係性を表現しているのでしょう。崇拝から始まった佐助の思いは春琴の一部でありたいと思いつめ、果ては春琴を支配していませんか?2人の心の有り様が読み手の関心事ですが、心理描写は全くせず読者を突き放しています。安易な理解を拒む聖域を描いてみせた一編でした。
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これが"耽美派"というやつなのですね。 主人公の出会いと別れまで、ほぼ日常生活を淡々と描いているに過ぎないながら、愛のみに生きる姿の究極が描かれている。子どもも生まれてしまうのに、愛の結晶という認識もまるでなく二人の世界。へぇー?!というしかない。 愛の果てに心中を図るようなことがなくよかった。個人的に。 解説に-潤一郎は道徳的に健康である・・・中略-健全ではない-と書かれてる。スゴイ納得。 読点のほぼない文体なのに淀みなく美しい。
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ちゃんと谷崎潤一郎を読んだのははじめてかも。
男女の具体的な描写が無いにもかかわらず、官能的な物語。この二人の物語は、もっと深く濃厚なものであろうことが、短い短編にもかかわらず、想像が展開する。これ以上の表現も説明も不要なのだろうが、まだまだこの二人の物語に身を置きたいという余韻を残す。 -
状況描写のみに徹するのは、師弟関係の極地に達したこの男女にこちら側を介入させないためであろう。二人だけの世界。付け入る隙は一寸もない。
大小寄り添う彼らの墓参りの情景から始まるというのがなんとも泣ける。
読みにくいと思っていた読点のない文は、やがて的確で美しい情報がダムの如く押し寄せる心地良さとなり、結局はひれ伏さざるを得ない。 -
実は初の耽美派でした。愛する心ってなんだろう。句読点が極端に少ないせいで、一見読みづらくても流れるように、立ち止まることなく美しく艶めかしい情景が次々と浮かぶ。うーむ、これが谷崎。
もしかすると、佐助はまわりの人間の嗜虐心を煽る存在なのかなと。ともすればそう扱われるのは願うがゆえ。
そして余談ですが、少し昔の「牡丹と薔薇」を思い出した。目を針で突いてというのは究極の愛を謳ったような、ここからのオマージュなのかな。 -
句読点が非常に少なく読みづらいのだが、その絶妙なつらつら加減により、後から思い出して書いた文章ではなく、頭に浮かんだことをその場でそのまま出力した文章のように感じる。目で見て読んでいる言葉が、まるで自分の頭から流れ出てきているようだ。
あらすじを聞くだけではとんでもない、頭のおかしいと思ってしまうような話なのに、何故惹きつけられるのだろうか?何故「美しい」と思うのだろうか?
変わらない奉仕を続ける佐助の一途さに同情するから?佐助の姿が自分の中のマゾヒスティックな部分と (共感はできずとも) 共鳴するから?
この本の解説にも書かれているが、この作品は「人間はどう生きるべきか」というような哲学的主題は提示しない。ただ作者の主張する美しさが描かれるのみである。これが耽美主義と言われるものなのだろうか。
不勉強の私には分からないことばかりだが、私はこういう作品に強く惹かれることが分かった。 -
難しかったけど、夢中になり読了。
究極の二人の世界。
二人にしかわからない世界。
うーん。
素敵と思ってしまった自分がいることに驚きました(笑) -
布団の中で春琴の足をあっためてやるのに痛い虫歯でほおずりして蹴り飛ばされてウヒ〜(嬉)ってなるあたりとか最高。恋は盲目ですなあ。あ!盲目なんでした。
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盲目の三味線師匠春琴に仕える佐吉のドMな愛と献身。彼女の面影を永遠に脳裏に保存するために自ら盲目の世界に入り、それを楽しむところが究極の官能だと思う。師弟の関係でありながら、二人の間に何人も子供がいるところが含みがある。文豪の官能小説はやっぱり美しい。
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句読点が極端に少なく最初は難儀しましたが、慣れてくると、浄瑠璃のように流れる言葉の旋律に、読まされてしまいました。言葉の一つ一つが美しく、行間から匂い立つエロスに魅了され、気がついたらあっという間に読み終わっていました。梅花の幹を春琴に撫でさせるシーンや、佐助が春琴の小さな足を誉め語るシーンなど、エロとフェチが散りばめてあって、盲目の二人の拙いやり取りの間に交わされる情など、まさに耽美。下手なエロ小説より余程妄想を駆り立てられて、谷崎って変態だったんだなぁってしみじみ思える作品でした。大好きです。
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谷崎が求めた 愛の至上の姿か……
一九二三年九月一日、関東地方に起こった大地震は、大多数の死傷者を出す大災害となった。この混乱に乗じて、社会主義者の大杉栄、伊藤野技等や、罪もない朝鮮人を多数殺したりして、天災と人災がいりまじった大災害でもあった。
この大震災のために、東京在住の文化人が関西に移り住んで来たが、その中に谷崎潤一郎もいた。
「春琴抄」が中央公論に発表されたのは、関西に移り住んで十年目である。この作品は、谷崎文学中、最高傑作と呼ばれ、何度か舞台化、映画化されできたのでご存知の読者も多いだろう。
物語は、下寺町を通りかかった作者が、春琴の墓参りに立ち寄ったところから始まる。
椿の木かげに鵙屋家代々の墓が並んでいるが、琴女の墓らしいものは見あたらない。寺男に問うと「それならあれにありますのがそれかも分かりませぬ」と急な坂路へ連れで行く。
実話と信じで墓探す人も
<知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台が聳えているので、今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地に建っていた>
作者中の春琴は音楽の天才で、美貌に恵まれた冨家の娘だが、不幸にして幼時に失明、それも手伝ってか、わがままで傲慢な娘として描かれる。その春琴に幼少の時から丁唯として琴の稽古へ行く手引きをつとめ、春琴への恋慕と崇拝の念に導かれその弟子になった佐助が、生涯を通じで春琴に献身するのが、この物語の骨子であるが、その佐助の墓石は、死後にも師弟の礼をつくして、少し離れた場所に春琴の半分くらいの大きさで控えていた。
小説中、二人の墓は格好の場所に、生前の様子をしのばせるように設置されているが、谷崎が手にいれて「春琴抄」を書くもととなったと書かれている小冊子「鵙屋春琴抄」は、作者の創作上のフィクションであって、実際には春琴の墓などない。しかし、谷崎の書き方がうまいため、実在の話だと信じた者が、ちょくちょく、寺へ墓のありかをたずねでくるという。
自己を無にし春琴を愛した佐助
この作品の圧巻は、何といっても、就寝中煮え湯を顔に浴びせられ、醜い火傷を負った春琴の変貌を再び見まいとして、佐助自身もまた盲目になるべく自分の眼を針で突く場面であろう。
それは愛する人の変貌を見たくないのではなく、見ることによって愛する人の心が傷つくのをおそれたためである。相手(春琴)の存在のため、自分を犠牲にしつくす佐助の人生に、谷崎は愛の至上の姿を見出したかったのだろうか。
地下鉄谷町線の谷九から西へ歩いて真言阪を上がると、そこが生国魂神社である。高台から、数知れないビルが立ち並ぶ大阪の町を見下ろしているとふと、春琴と佐助の墓が、今も変わらぬ師弟の契りを語りあって二つ並んでいるかのような気がしてくる。
夕陽の沈みゆくころ、上町台地ぞいに源聖寺坂、学園坂、口縄阪、愛染坂、清水坂などを散策し、夕陽ケ丘へ抜けるコースは、風情ある夕涼みに最適である。 -
佐助が目を針でつく場面は声をあげそうになりぐらい身体が痛くなった。
本当にこれは「愛」なのか。 -
タイトル通り、架空の伝記である「鵙屋春琴伝」を作者(≒谷崎)が当時を知る人間からの聞き書きも加えてまとめたという体裁をとっている。
三味線の師匠春琴の生涯を、彼女に献身的に仕え続けた奉公人佐助との関係を中心に描いた谷崎中期の傑作と言ったところでしょうか。この作品の目立つ特徴は、まず、改行がないこと、そして句読点が、ここに入れると文章の調子が整うという箇所以外には入れていないこと、かと思います。
にもかかわらず、読みにくさよりも文章のリズムが先んじて読み手に入ってきて、名文と思わせる。修飾を省き、簡明な文章であるのに美文に昇華されている。
断定を避ける文が殆どを占めるのも大いに技巧的。結末なんて「読者諸賢は首肯せらるるや否や」であるから、語り手は材料を並べるだけ並べて読み手に感じ方を任せている、ようにも捉えることができるのだが、断定を避けているからといって曖昧な文章なのではなく、断定を避けてる文章にもかかわらず、言うことはぶれていない。
つまり、読み手はやんわりと語り手の意図する方向に誘導されているのである。これはかなり巧妙で、気が付けば読み手は物語世界に引きこまれている。
僕としては、作品内全体の背後に流れている、「でも本当のところは春琴と佐助にしかわからないよ、ともすると本人たちにもわからないのかもしれないよ」という語り手からのメッセージがあるんじゃないかと思ってにやにやするのである。
似た趣向を持つ『盲目物語』が、献身を最後の最後で己の欲望のための献身に変えてしまったことで堕落した物語とするならば、『春琴抄』は春琴を想う献身が極まり無比なる愛に昇華した作品なんじゃないかと自分のなかでは大分熱く考えている。
文庫の後ろには初めの佐助の献身は被虐趣味だったなんて書いてあるけれども、この作品に被虐趣味は一度も登場していないと思う。
授業で、若いころの春琴が、あれほど佐助を日用品同然にしか考えていなかったのに、佐助と肉体関係に及んで子を産んだのはなぜかと先生に訊いたら、曰く、
「それは私も疑問だったんですけどね、何回か読んでいるうちに気づきました、本文にちゃんと書いてあるんですね、ほらここ、『春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろう乎多分意識的にはそうであったかと思われる』とあるでしょう、女性にも当然性欲はありますから、春琴は盲目で、あれほど日常的に佐助と触れあっていたわけですから、つまりそういうことなんでしょう。だから産まれた子供にも何の関心もないんですね」
女性の性処理とか谷崎流石に極まっていると感動してしまった。
春琴と佐助の間には子供が総じて四人産まれているのだけれど、どれも養子に出されている。ここも佐助の愛が献身的かつ真実のものである所以で、愛がある肉体関係の結果として子供が出来、それを愛する、というのではなく、肉体関係によって生じる愛には、佐助は全く関心がない。春琴に尽くす献身さこそが佐助の愛であり、であるからこそ、春琴と佐助の愛はプラトニックなのである。
肉体関係がない恋愛のみをプラトニックというのではなく、肉体関係に依存しない、観念の恋愛をプラトニックと呼ぶのである。 -
被虐趣味という言葉で称されることが多い本ストーリーだが、今日の関係性でいえば、そこまで逸脱した関係性と思えない…というのが正直な感想だった。
どちらかというと…伝聞調で記される2人の間の出来事には、主観や心の機微が意識的に記載を避けられている。そのため、あまり直情的に訴えるものがないのではないか。一方で、伝聞調による行間があるからこそ、色々な経験を積んだ人には感ぜられるものが多い…甘酸っぱかったり、苦々しかったり、憧れたり…描写されていない2人の行間を人によりさまざまに味わうことができる。ここが本書の良書たる所以であり、今日に至るまで愛される作品となってる理由なのではないか。
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
って少しすれ違いのコメントになり失礼いたしました。(笑)...
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
って少しすれ違いのコメントになり失礼いたしました。(笑)
この作品は筋といい構成といい文章といい、どれも優れものだと思いますが、とりわけ自らの趣味(?)をこんなにも追求してさらけ出してそれ自体凄いと思いました。(笑)ここまで開き直ってみてその世界に没頭した結果、出てくるエピソードはどれも愛嬌たっぷりで、谷崎も面白がりながら執筆したのではないですかね?(笑)
自分も楽しかったです。(笑)
「谷崎も面白がりながら執筆したのでは」まさに私もそう思っておりました(笑)純愛とか献身とかいう紹介文に騙されそうになるけ...
「谷崎も面白がりながら執筆したのでは」まさに私もそう思っておりました(笑)純愛とか献身とかいう紹介文に騙されそうになるけど、ぶっちゃけこれコメディだよね?と。
本の解説には「谷崎文学の頂点」とありました。(笑)しかし、確かに大笑いしたのも事実です。...
本の解説には「谷崎文学の頂点」とありました。(笑)しかし、確かに大笑いしたのも事実です。
あと、三助・・・、羨ましさも半分・・・。(笑)