- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101005058
感想・レビュー・書評
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R3.4.23 読了。
『一匹の猫を中心に、猫を溺愛している愚昧な男、猫に嫉妬し、追い出そうとする女、男への未練から猫を引取って男の心をつなぎとめようとする女の、三者三様の痴態を描く。』…(小説紹介より)。
ラジオシアター文学の扉で、紹介されていて興味を持った。初、谷崎潤一郎作品。昭和26年初版。
短い小説であったが、読み進めるのに思いがけず時間がかかった。猫と庄造と二人の女のコミカルなやり取りでとても楽しめた。庄造さんのリリーに対しての可愛がり方には、正直引いてしまった。これじゃ、奥さんが猫に嫉妬してしまいますよね。
また、別の谷崎潤一郎の作品を読んでみたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
家にあった本。正にタイトル通りの話。リリーという猫をめぐる前妻と妻と正造の日常や心情を描いただけのものが、どうしてこんなにドキドキさせるのか。大阪弁の会話と正造や前妻品子の心の声や、猫の仕草などが心に迫ってきて面白くも切なかった。
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猫賛歌の小説。(笑)人間が愛情を捧げる心理を、愛猫を中心に巧みに表現した短編作品です。
ダメ男が最も愛情を傾ける猫リリーを頂点に、新旧妻のおんな二人(いや母親も入れると三人か)の駆け引きを緻密に表現されており、また、ダメ男庄造の溺愛と憔悴ぶりがきれいに対比されていて、それが面白かった。僕なんかがこんな心理もあるだろうと予測することが、それ以上に次から次へと展開されるので、これはかなり心情が吟味されてあるのだろう。
解説によると谷崎文学の根底にある、(リリーへの)「隷属の幸福」を拒まれた男の破滅を描いたということであるが、心理描写が巧み過ぎるせいか理屈が先行し少し説教臭さのある文章になっている半面、関西弁の穏やかさと日本語表現がきれいなので、気軽に楽しみながらすらすら読めます。また、自分にはよくわかりませんが、猫好きな方にはたまらないのではないでしょうか。(笑)
ラストはかなり余韻が残るのですが、余韻が残り過ぎて結末としては物足りなさも感じてしまい、逆に忘れられないラストになりました。この後の展開がまた気になるところです。 -
猫が神様みたいに超然としているのが面白い。かたや人間はみなおろおろして誰も彼もくだらない。相手の気持ちを決めつけて、手中におさめようとあれこれ尽力するが徒労の連続。
畢竟、この小説で愛おしく思えるのは人間。「庄造と二人のおんな」だけであればただの痴話喧嘩のドタバタ劇であろうが、猫を傍らに添えることで、人間って本当にどうしようもない生き物だからこそ、生を謳歌できるのではないかと思えてくる。猫は意外とひきたて役だった。 -
いつの時代も猫は正義笑
本人達はいたって真面目だけど、側から見ると滑稽な様子が面白い。谷崎潤一郎の文章はやっぱり読みやすくて好きだ。 -
『猫と庄造と二人のおんな』猫が庄造の上にきて、彼の下に元妻、現妻がくる。庄造から見ると何が一番大切なのか、このタイトルに表された順番がばっちりハマる小説。そして、猫が支配しているものとして考えてみても、やっぱりこの順番になると思う。
猫の名前はリリー。なんて素敵な名前だろう。百合の花のように、純潔で気品があってツンとすましていながら、妖艶な芳香のように時には妖しく時には甘えてくる……庄造の理想とする女性像が全て詰まったようなものなんじゃないかな。
そんなリリーに陶酔する庄造の奉仕っぷりは、やっぱり谷崎潤一郎の描く愛の形。
現妻、福子はリリーへの嫉妬心から庄造と引き離したけれども、彼の心は猫から戻らない。元妻、品子はリリーをダシに庄造の愛を取り戻そうとするけれど、彼の執着はやっぱり猫だけに向く。そして、あれほど庄造と相思相愛だったはずのリリーは、もう彼のことを忘れたように見捨てている。
たった一匹の猫の支配する世界から逃れることの出来ない人間たちの可笑しくもちょっぴり哀愁漂う物語。 -
*猫と「蜜月」関係を結んだことのある人にはたまらない小説ではないでしょうか。って私自身は、飼っていたことはあるけど、そこまで親密な時期が続くことはなかったですが(子猫のある一時期はよく懐かれたな、とかその程度)。でも、猫と蜜月な人って本当にいると思うので、この小説で描かれている、庄造と猫の関係は、ちっとも大げさじゃないなと思います。
犬でも、同じくらい溺愛してる人はいると思うので、広く「ペット」文学とみることもできそうだが、「二人の女」が出てくるところが、やっぱり猫じゃないとあかんという気がする。庄造という男が猫とあまりに親しすぎてやきもちを妬く女ふたりが出てくるわけですが、犬には出せないエロチックさとかが、猫にはある気がする。
*庄造、元妻の品子、現妻の福子、母のおりん、が主な登場人物。彼らの心情がすーっと伝わってくる。ただだらだら綴っているだけと言えばそれまでというくらい、文章でひたすら書いてあるだけなんですけどね。この赤い夕日の描写が彼の情熱を象徴しているのだというような、凝ったことはしてなくて。だらだら書いているけど読みにくいこともなく、生い立ちや性格までも、いつの間にか「知らされて」いる。
*でまた、終わりかたの潔さったら!細雪もそうでしたが。このなよなよ男と女たちと母と猫との関係を、どういう結末で片付けるんだろうって楽しみにして読んでいったんですけどねえ!
*なよなよ男といま書いた庄造さん、まさに歌舞伎でいう和事の二枚目のような情けなさ。仁左衛門とか愛之助が、眉根を寄せて演じていそう。 -
深謀遠慮、権謀術策、邪推の果て。
ふたりの女という題名が生々しさを際立たせる。
およそ愛玩動物、ペットは飼い主をはじめとしたヒトの感情、無意識に抑圧された欲求・願望・葛藤を投影させる。
その意味では、現実と心性の中間領域たる存在だろうと思う。
正造とふたりの女、都合3名だがそれぞれ、猫のリリーに自身の感情を投影させる。
嫉妬心、愛して欲しいという欲求、自由でいさせてほしいという葛藤がこの物語では投影される。
個人の感情を投影する対象として、リリーは機能しているようだ。
他方で、ある場合には愛玩動物は夫婦仲を取り持つ機能を果たす。
夫婦とはいえ、別々の個人、主観をもつヒトであるから真に一体化することはでき得ない。
愛玩動物を通して、どういう愛し方をするか、どんなお世話をするか、仕草や鳴き声などなにを愛しいと感じ、糞便や餌付け散歩その他なにが鬱陶しいと感じるかを知ることもできる。
従って、主観と主観の中間領域としても愛玩動物は機能しうる。
ところが、この3人(正造ママも含めれば3人)はそれぞれの願望、欲求、そして葛藤を投影させるのみで歩み寄りは叶わなかった。
ここがこの一家の、この4人の病理の深さだと感じる。
やがて互いの思惑、深謀遠慮、邪推の果てに、歩み寄りの要石となるであろうリリーも年老いてゆく。
この物語からなにを得られるだろうか。
ひとのこころの歩み寄ることの困難さだろうか。愛することの困難さだろうか。
いちばんの被害者はリリーだろうか。
それぞれがそれぞれ好きなように扱われ、揺れ動く他ない高貴な名を持つ猫こそ被害者か、或いはヒトを翻弄させた加害者か。
解説は、いわゆる保守本流正統派の谷崎潤一郎解釈だ。
およそこれに異論をぶつけるだけの高邁な読書力など露ほども持ち合わせないけれど、あえて自分の感想を残しても怒られない・・と思いたい。
著者プロフィール
谷崎潤一郎の作品






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