陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

  • 新潮社 (2016年7月28日発売)
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  • 本 ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101005164

作品紹介・あらすじ

まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。『陰翳礼讃』蒔絵、金襴の袈裟、厠……。巨大な庇下に広がる闇に、独自の美を育んだ日本文化の豊穣。/『文章読本』文章に実用的と芸術的の区別はない……古典と当代の名文家たちの一字一句に学び、含蓄ある日本語を書く心得を説く。文豪の美意識と創作術の核心を余さず綴る、名随筆を集成。

感想・レビュー・書評

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  • 昭和8年に書かれた名エッセイ『陰影礼讃』と、翌年に書かれた文章道を説く『文章読本』の二作品を合わせたもの。他に、『厠のいろいろ』他二篇を収録。

    『陰影礼讃』は、当時の西洋化していく居住環境への違和感からはじまって、自然すたれていく和の美的感覚「陰影」をその手の中に取り戻すように言語化し認知し直すエッセイでした。

    電灯の明かりでぱあっと隅々まであたりを照らし出すのではなくて、燭台の灯などがぼうっと明かりを作り、部屋の中に闇のグラデーションのあるのが日本家屋の有りようです。僕にも相当うっすらと、そういった昔の暗い家の記憶があります。50年近く前に住まわれていた田舎の家というものにはそういった陰影は当然のものではなかったでしょうか。

    現代でも、「陰影」の美が好きな人は、部屋の中で間接照明を使います。カフェなど飲食店でもそういうところは多いですよね。「陰影」がいいんだ、とは言いません、「ムードがあっていい」なんて言い方をされるのが一般的かもしれない。

    今回、このエッセイからもっとも学びがあったのは金についてのところでした。和の工芸品、漆器などに金を使ったのは、それが闇に浮かび上がる工合や、暗闇の中で燈火を反射する加減を考慮したものだと思われる、と書いてある。金を使うなんて昔の人は趣味が悪いと思うことがあったのだけど、それは木を見て森を見ないことだったようです。また、漆器自体の黒さも谷崎は褒めていますし、陶器のようにカチカチ音が鳴らないところもよいのだ、としている。

    闇の支配の強い空間で、光を集めながら反射する金細工をあしらった屏風などがあるさまを想像すると、そこには金による反射がかえって闇を濃厚にしている絵が頭の中に浮かびます。その空気中の酸素を追いやってしまうような濃厚な闇と金の息苦しさをともなう印象は、ともすれば狂気を呼び覚ます危険な情調をつくり出すものがあるように感じられます。そこから考えると、陰影の美というものは、闇に隠されることの静寂や落ち着き、瞑想に誘い込む効果があるいっぽうで、精神を異界に誘う資質も感じられて、すなわち陰影は狂気と繋がっていると言えるところもあるのかもしれないです。

    では引用をしていきます。

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    が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰影のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰影を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰影の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰影の謎を解しないからである。(p32)
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    →陰影は、日本の自然環境に合わせて作られた日本家屋のなかに意図せず見いだされた美だということですね。ピンチをチャンスにするみたいなものに近い逆転の発想がそこにあったわけです。ただ、暗いのがいいのだ、といっても、暗がりに居続けると現実には緑内障になりやすい。年をとればとったなりに、そんな「美に殉ずる」ようにはあらず、割り切って生活するのがいいのではないか、と僕は思うほうです。「陰影」は楽しめるうちだけ楽しめばいいのではないですか。


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    われわれ東洋人は何でもないところに陰影を生ぜしめて、美を想像するのである。(p47)
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    →こういった東洋人ならではの感覚は、西洋人の間ではない感覚のものだから取るに足らないものだ、とするのではなく、彼等にはわからないものだけれど美としての価値がしっかりとあるもので、それは揺るぎない、とする姿勢が感じられます。世界の主人公は科学的な西洋人だとする傾向が、当時の西洋化していく時代のなかで、そしてそれまで西洋以外を植民地化していく強い力を持った西洋人への劣等感や憧れによって、もたらされていったような気がするのですが(それは現代にも少なからずそういう向きはあるでしょうが)、東洋人だってこういう豊かな感性があって、決して劣等な存在ではないのだ、とある意味西洋世界に踏みにじられた東洋人としての自尊心を再び立ち上がらせる意志のつまった言葉でもあるかなあと思いました。

    __________

    その他日用のあらゆる工芸品において、われわれの好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。銀器や陶器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり、不衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。(p49)
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    →西洋人は光を好み、闇を悪しきものとする。こういった感覚は現代の僕らでも、西洋の神話をモチーフとしたRPGなどのゲームでも感じられてきたことです。また、それによって、光を貴び闇を嫌うという心理が作られてきたかもしれない。これがそれ以前の日本ではどうだったか。たとえば仏教では、人間はどうしたって影をひきつれている存在だ、と説いていたりします。光が濃くなれば、影も濃くなりますし、光か影かの一方だけの存在ではないのが生きものだとしている。そういった感性、人間観と、この引用部分はつながるところがあるような気がしました。



    次に『文章読本』。

    これが目からウロコの連続でした。「なんだか、いちいちわかるよ、谷崎パイセン! 谷崎ニキ!」と言いたくなるほどです。

    東洋的な寡言と簡潔による名文が志賀直哉の「城崎にて」を例に谷崎潤一郎が論じている箇所があります。対比されるのは、西洋的なおしゃべりの文章。とにかく克明に言い尽くさないと気がすまないのが西洋的な文章なんです。谷崎潤一郎が言うのは、言葉で言い尽くそうとして言い尽くせるものではないし、言葉という型にあてはめてしまうことには害悪があるということ。これを基本として踏まえたうえで、『文章読本』は書かれている(p243あたりがこの部分です)。そして、芸術的な文章と実用的な文章との区別はない、という態度でいます。

    __________

    文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段、それ以外の書きようはありません。(中略)そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります。(p129)
    __________

    →文章術の基本中の基本を、ベタなんだけどベタではないように認識させてくれるところでした。迷いが起きたときにここに立ち帰ることができるのだと思うと安心感があります。


    他に「そうそう!」と思ったのが、文章の音楽的な要素、視覚的な要素。前者は、読んでみてリズムがあるかどうかで、これは天性の感覚で書かれるものだと谷崎は論じていました。後者は、漢字で書くかかなで開くか、送り仮名やルビはどうするか、など、文章をぱっと目で見た時の印象、心理を考えようということでした。そういったところは、まとまった文章を書くようになると気にするようになりますけれども、谷崎はしっかり書いてくれているなあとこれまた目からウロコです。

    そして、テニヲハを略してしまうのは田舎者らしいというところには、はっとしました。東京人は下町言葉を使っていても略してはいないと谷崎は言っている。真にたしなみがある者ならば、テニヲハをちゃんと入れるのだとあります。なるほど、思い当たります。田舎者としての自分がずばり思い当たるのでした!

    さまざまな大切なトピックがまだまだありましたけれども最後にこれを。文章術のひとつなのですが、文章に間隙を入れるというのがあります。隙間を埋めずに読み手に任せたほうがいい、と。これ、とっても大事だと僕も最近考えるようになりましたからここにシェアします。

  • "われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって、実は中々容易ではない。(略)分けても私は、書院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。(p.36)"

     谷崎潤一郎による随筆5編を集録したもの。類書は各出版社から出されているが、解説で筒井康隆が述べている通り、この新潮文庫版の特徴は『陰翳礼讃』と『文章読本』が一冊にまとめられていることだろう。

    『陰翳礼讃』
     日本の伝統文化にある美を陰翳という視点から読み解く。谷崎によれば、概して日本人は、何でもハッキリ見せるのではなく、全体を仄暗く曖昧に留めることを尊ぶのだという。日本座敷や能舞台、漆器の美しさはそれである。
    "漆器の肌は、(略)幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか(略)、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明から蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。(p.26)" 
    出典が分からないのだが、大学受験のときに英国経験主義について論じた”The mere fact of being able to do a number of things seems to him to indicate a probable incapacity for doing any one of them well.”という文を読んだのを思い出した。もちろんそれとは文脈が全然異なるが、特に西洋文化と対比させたときに、決して底を見せない「深さ」に日本文化の美(=”禅味(p.28)“)がある。僕はテレビでしか見たことがないが、例えばパリの美術館では自然光の下で作品を展示しているのに対し、日本の美術館の展示室は暗いことが多いのは、勿論作品の保存のためという実際的な理由もあるのだろうが、西洋と日本の美が前提としているものの相違がよく表れているように思う。
     冒頭に引いた日本座敷に関する文章を読んだとき、『夢十夜』(夏目漱石)の第一夜を連想した。確かに、日本座敷の仄暗さあるいは仄明るさの中には、知らない間に百年経っていてもおかしくないと思わせる、悠久の時の流れのようなものがあるように感じる(逆に、一片の闇さえ排除された白い部屋にあるのは、静止した時間だろうか)。
     ただ、日本人の肌が黄色いのを"損(p.63)"と書いたのはよく分からない。肌の色が違えば美意識も異なるものであり得るのだから、態々白色人種と比較して卑下する必要はないだろう。当時と今とでは状況が違うのは理解できるが、何故こんなことを書いたのか首を傾げざるを得ない。
     上述の通り少し疑問に思うところはあるのだが、谷崎の指摘自体は鋭いと思う。それに加えて、文章がとても素晴らしい(特に、p.22~37辺りはほんとに名文)。

    『厠のいろいろ』
     厠(トイレ)を題材にしたユニークな随筆。なんとも長閑な感じ。
    『文房具漫談』
     執筆のときに使う文房具についての拘り。
    『岡本にて』
     随筆の内容とは全然関係がないが、通っていた高校からすぐ行けるところに谷崎潤一郎記念館があったのを思い出した。なんで一回も行かなかったんだろう…

    『文章読本』
     含蓄のある日本語を書く心得について様々な項目を立てて詳述されているが、繰り返し述べられている要諦は「分かりやすく、かつ、饒舌を慎むこと」だ。本を読んでいると色々と表現を知るので、例えばブクログのレビューを書くときでも難しい表現を使いたくなって、つい必要でない形容を付け加えてしまう。ブクログは趣味だからまだいいとはいえ、それは読む人のことを考えてのことかと問われれば否なわけで、これからの戒めとせねばならないと思った。
     p.200に
    "名文も悪文も、個人の主観を離れては存在しなくなるではないか、と、そう云う不審が生じるのであります。"
    とあるが、僕もこれはずっと気になっている。一般に名著とされている本を読んで特に感心しなかったとき、本にではなく自分の方に問題があると(一旦は)考えるのがいわゆる「教養主義」であるが、では自分が感じたものはどう処理すればよいのか。これに対して谷崎は、酒の鑑定家を例に挙げて
    "一定の錬磨を経た後には、各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている(p.201)"
    と述べており、一つの答えになっているとは思う。ただし、"一定の錬磨を経た後"とはいつなのかといえば"同様に感じる"ようになるまでと言うしかないはずで、些かトートロジーのようにも感じる。
     p.324では、婦人雑誌から引っ張ってきた悪文の実例を谷崎が書き直しているが、内容は同じでもここまで鮮やかに印象が変わるものかと驚かされた。

  • 随筆集ということで今までスルーしていたけれど、読まずに死なないで良かった‥‥

  • 谷崎潤一郎の随筆集。「細雪」の文章が好きだったので随筆を読んでみたいと思い手にとる。時代が違うのでよくわからない風俗文化や差別的と取れるような表現がある中、「陰翳礼讃」で語られる考察にはうなずけるところが多々あり。「文章読本」は専ら読むばかりの私には関係ない内容かと思いつつ、そうでもないような。時代が違うから事情も異なると言えるところもある中、現在の文章に言えることが多々あり、稚拙で無駄の多いことばを垂れ流している私には痛い。とにかくどの随筆も流麗な文章。

  • 文章読本を読んだ後、この本の感想を書くのは少し気後れしてしまうな。。
    けど学びもおもしろさもある一冊だったのでちゃんと書くぞ〜。

    『陰翳礼讃』では、様々なモノに対する美への洞察力と拘りを感じ、いかに陰翳が重要で美しさの要や!という作者の熱さが伝わる。
    特に能役者の肌に関するところはすごく興味深い。
    続く『厠のいろいろ』にいたっては、お題:トイレ でよくこんなに書けるなと笑ってしまった。

    『文章読本』
    文豪自らの文章の書き方教本は勉強にもなるし、ちゃんと言語化できるルールがあることに当たり前なのだけど、私には目から鱗。

    文章においても、英語のように明瞭に書きすぎることのない日本語には、蔭があり奥行きがあるという視点と解説は、分かりやすく、俳句の楽しさを思い出した。
    例で何度か出ていた志賀直哉の文章が好みだったので今度読んでみたい。

    こういう感想を書くとき、『〇〇 類義語』をネットでたくさん検索する私と、
    どの単語を使うか類義語を当て嵌め、どれを選択するかに苦心する文豪も、一般素人の私とおんなじことしてる!となんとなく和んだ。

  • 谷崎の没後50年経過したからだと思うけど、中公から出ていた『陰翳礼讃』と『文章読本』を合体させた本。ここがミソ。
    このふたつは1933、34年に書かれており、つながってる部分があるので連続で読むのは良いことだと思う。『陰翳礼讃』のタイトルはかなり有名だけど、『文章読本』の方は読んでない人が多いんじゃないかと。

    『陰翳礼讃』の方はただのジジイの愚痴なのだが(当時47歳)、愚痴だとわかって言ってるのがよい。ただ、根拠なく言ってる、それはお前の好みだろ!という点、ツッコミどころも多少ある。

    どちらかというと『文章読本』の方が面白かった。ただ、かなり細かく解説しているので最後の方は飽きてきた。
    谷崎の小説、最初読んだときからずっと、読みやすいなーなんでだろ?と思っていたけど、『文章読本』を読むとその理由がわかる。谷崎はずっと、読みやすい文章を書くこと、あるいは内容に合わせて表現を変えることに苦心していたことが窺える。

    芥川との論争〜志賀直哉の文章に対する評価、ぐらいを押さえとくとより楽しめるかも。また、後半277頁からの森鷗外の漢字と仮名の使い方にはハッとさせられた。

    松岡正剛さんは『陰翳礼讃』のことを「うまくない」と言っているが、どこがどううまくないのか、松岡さんの文章がなに言ってるかわかんないので、説明が欲しい。

    また、タウトが『日本文化私観』を書いたのが1935年頃と、時期的に近いのでこちらも読んでみたい。

  • こちらも頭に入ってこないので一旦手離す。

    どうも最近読書に集中できないのは季節か気分かはたまた内容か。

  • 2021/2/13

    【陰翳礼賛】
    日本人の美意識は翳にあると。なるほど、以前ほのかな灯りに照らされた茶室を訪れた時に感じた妙な美しさはこれか。ただ経験不足がゆえに、それ以外に谷崎が言う能や女が醸し出す翳の美に共感することはできなかった。

    僕は(日本の中途半端な)西洋文明に染まってしまっているのだろうか。谷崎は「東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する」と言う。

    なおも物質主義が支配する令和時代において、「現状に甘んじ」る必要はないため、日本特有の美意識が損なわれるのは当然の帰結だろう。とは言え日本人の美意識は潜在的に皆に宿っているはずで、京都や鎌倉が日本屈指の観光スポットになってることからも明白。

    今一度、翳に着目して自分の美意識に自覚的になった方が良さそうだ。


    【文章読本】
    谷崎は初めて読んだのだが、こんなにも流麗な文章を書くのかと驚いた。

    これは文章と切っては切り離せない生活を送っている限り、みなが読む価値があると思う。ツイートをするときも、メール文を作成するときも、本を読むときも、こうやってブクログに感想を書くときも、あらゆる場面で活きてくる助言が書かれている。簡単に言えば、日本人は国民性としておしゃべりではない上、文法の構造上の問題から、文章はなるべく分かりやすく簡潔に書け、ということ。

    これについて谷崎は古典を引用しながら説明する。古文は受験生の宿敵の一つだが、その理由は徹底的に装飾を避けられているところにある。雄弁に語ることが是とされる現代人にとって難しいのは当然だ。古文を英訳すると、装飾は不可避だそう。これは興味深い。

    これによって自分がいかに無駄な装飾を苦心して付け加えているかに対して自覚的になる。

    また、文章に対する感覚を研ぐためには、理論の勉強ではなく古来の名文を繰り返し素読して暗唱が肝要だ言っている。理由こそ違えど、小林秀雄も素読の大切さを説いている。
    実朝や芭蕉など気に入った詩人の歌を暗記しないとなーと。

  • ◎まずは、「文章読本」を読了。

    もともと、私は実用書より小説派ですので、小説を読むより少し時間がかかりましたが、難しいぞ!と思うページは適当に流し読みするなどしながら、読み進めて最後までたどり着きました。

    ・エッセイのような、大学で谷崎の講義を聴いているような感じの読み物
    ・文章を綴る人が、作文にあたって配慮すべきこと、心にとどめ置くべきことを並べ、持論を展開
    ・特に気になったのは
    -古くからある言葉を優先すること(安易に外来語を使わないこと)
    -造語しないこと
    -品のある文章を作ること(そのために、自分の品位を磨くこと)
    -できるだけ声に出して読んで推敲すること
    (句点、読点の付け方や言葉づかいも変わる)
     といったあたりでしょうか。

    また、「饒舌にならぬこと」というのも、日頃文字数が多くて悩める私にはぐさっと刺さるところでした。(既にこのメールの文字数でアウトですね)
    なんとなく、「読む人がどう理解するか、どうとらえるかをしっかり考えて文章を作るべし」と言われている気がして、身につまされました。

    また、この本を通して、文章を書く際には、伝えたいものの本質はどこにあるのかを考えて、言葉を選び(漢字や仮名の文字使いも含めて)、用法や文体を考えるのがよい、という姿勢が貫かれているようにも感じました。

    ・単語数の少なさ(それゆえの広がり)、主語を表す多彩な表現(君、あなた、お前、貴殿、…など)、敬語を用いて隠れた主語を表現すること(「おっしゃる」と言っただけで主語がなくてもその場に登場している目上の人物の動作と分かる)…など、西洋文と異なる日本語独特の特徴を指摘し、その良さを美しい文章づくりに活かそうと工夫を重ねる文豪の努力もすごいなぁと思いました。

    ・この本が執筆されたのは昭和9年とのこと。文章は確かに谷崎らしい流れるような感じですし、出てくるちょっとした事例も時代を感じるものでしたが、指摘されていることや視点は、まったく的確で、なるほどと感じ入ることばかりでした。

    ・文章読本、という名前のものは、世間に数多く出版されているらしく、文豪の著作では、川端康成や三島由紀夫も同名の本があるようです。いずれも、綺麗な日本語を奏でる人たちなので、いつか読んでみてもよいかなぁと思っています。

  • 徹底的なまでの文章への拘り。

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著者プロフィール

1886年(明治19年)〜1965年(昭和40年)。東京・日本橋生まれ。明治末期から昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。主な作品に「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」など、傑作を多く残している。

「2024年 『谷崎潤一郎 大活字本シリーズ 全巻セット』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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