- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101006024
感想・レビュー・書評
-
敗戦後、華族制廃止により没落していく上流階級「斜陽族」流行語大賞を取れたであろう作品。
父親が没し、困窮の中援助を受けながら生活する元貴族の母娘。没落を悲しみ、最後の貴族として弱り病死する母。麻薬中毒から酒に溺れ放蕩の末、自死を選ぶ弟。弟が師事していた作家上原も酒に溺れ自堕落な生活を送っている。娘かず子は、上原に恋をし、全てが破滅した後も、彼の子供をひとり産む決意をする。弟は、上原の奥さんが好きだった。
当時、すごく売れて、太宰治は人気作家となったらしい。退廃的で明るい小説ではない。でも、どこまで破滅するのかゾクゾクする感じ。
かず子の、「自身が生きる道を切り開く革命」という底力。モデルは太宰治の愛人というから、投影されているんでしょう。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。」
「学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。」
みんな毎日、考え生きている。
そして太宰治のなぜ考えているのかを噛み砕く本質を捉えた言葉が響く。 -
昭和20年、戦後の没落貴族の一家は、ついに金策尽きて東京の家を売り伊豆の小さな家屋に移る。出戻りのかず子と、美しいお母さまの静かな暮らし。しかし出征して麻薬中毒になっていた弟の直治が戻って来て、平穏は乱される。直治は家に居つかず放蕩を繰り返し、東京の小説家の上原のところに入り浸っている。やがてお母さまが結核を患い…。
久しぶりに再読。没落貴族を描いた、太宰流の『桜の園』。スウプをヒラリ、と飲む美しい「お母さま」の描写で始まるのがとても印象的。主人公かず子が「最後の貴族」だと思うお母さまの上品さはとても魅力的で、だからこそ逆に、終盤のかず子の野卑なまでの貪欲さや生命力と対照的だ。
かず子は、途中まであまり好きになれなかった。突然、上原に恋文を送りつけ出すあたりも突拍子もなくて。ラストの猛々しさで結構好きになれたけれど。そして直治と上原はどちらもどうしようもないダメンズなのだけど、これはもういずれも太宰自身の分身だからいたしかたないか。太宰自身は貴族ではないが、裕福な大地主の家に生まれ、直治の中途半端な革命思想はおそらく太宰自身のものだろう。
かず子のモデルは、太宰の愛人だった太田静子で、妻子ある太宰の子を身籠ったのが、ちょうど太宰がこの「斜陽」を執筆中だったというから、終盤の上原とかず子の関係は、太宰と静子そのままだったのかもしれない。
蛇のエピソードの使い方などとても好きだが、登場人物への共感度は、個人的にはあまり高くなかった。実は意外とユーモアのある太宰作品の中で、これはかなり笑えない種類の作品だと思う。 -
-
はじめまして(^-^)/
リフォローありがとうございました。
斜陽は好きな小説のひとつです。
内容はちょっと困ってしまう事も...はじめまして(^-^)/
リフォローありがとうございました。
斜陽は好きな小説のひとつです。
内容はちょっと困ってしまう事もありますが、文の美しさがなんとも言えなくて。
太宰の文章が嫌いじゃないかもと書いてあって嬉しくなりました(^-^)
今、風が強く吹いているを読んでいます。
yamatamiさん、好きな本の2位になっていますね。
本当に素敵な話で毎日ドキドキしています♪
明日の箱根駅伝予選会までに読み終わりたいのですが…微妙です(笑)
では、これからよろしくお願いします。
2015/10/16
-
-
冒頭、かず子の母がスープを飲む場面からいきなり引き込まれてしまいました。
ひらり、ひらりと燕のようにスプーンを運ぶ母の姿からうかがえるかつての日々と、現在のこの母子の境遇の差にくらりとさせられるのです。
物語が始まった時点で、すでに彼らの滅びの予感は漂っているのですが、どんどん濃厚になっていく滅びの色から目が離せなくなってしまいました。
語り手のかず子、彼女の母、弟の直治、小説家の上原。
この主要な登場人物たちには、共感できない部分や思わず眉をしかめたくなってしまう言動もあります。
しかし、自分の中にもこの4人がいるような気にさせられるから不思議です。
程度の差こそあれ、きっと誰の心にも4人は潜んでいて、普段はそのことに気付いていなくても太宰治の文章を読んでハッと気付かされているのではないでしょうか。 -
断片でとるととても秀逸で、寓話に富んでいる。
全体を見ると、これはこの時代に、その空気のなかだからこそ書けるのだとおもう。
太宰はほんとうに、その時代の空気感、人の心の機微を肌で感じる作家であったのだ。
その肌感覚の鋭敏なること!
それを言葉で表せるかという驚きが、何十年もたった今でも、鮮度高く、身に迫ってくるのだ。
さいごの解説も秀逸です。
だいぶちがうけど、朝井リョウとかはいつかこういう本が書けるかもしれない。 -
太宰は好きではなかった。
『富嶽百景』『走れメロス』は好きだったが、全体的に鬱々として、自分はダメだ、私なんて生きていても仕方がない、そんなことばかり書いているのだろうと思っていた。
特に、『斜陽』なんてタイトルからして暗い、しかも破滅への道、なんて書いてるじゃないか。
くどくどと「悩んでる俺」に酔っているんだろう、そう思っていた。
それをなぜ読み始めたのか。
NHKの「100分de名著」がまたしてもきっかけとなった。
見ていてびっくり、読んでびっくり、百聞は一見に如かず。
これは「斜陽」ではない、「夜明け前」だ!
私が誤解していた四人四様の滅びと裏表紙に書いてあった。
しかし、かず子は滅びてなどいないし、滅びに向かってもいない。
かず子はこれから逞しく生きようとしている。
私生児と共に生きようと、古い道徳と争うと、そう言っているではないか!
困難の道にあえて臨もうとしている、ここで書かれているかず子の姿は、今まさに立ち上がらんとしている。
確かにかず子の母、弟の直治、恋人の上原は、滅び、あるいは滅びようとしていた。
お母様の死は一つの時代の終わりだった。
直治は最後に自分の本来の姿を認めて誇り高く、だからこそその自分に潰された。
上原も同様だ。
しかしかず子は違う。
誇りに潰されることなく、時代を乗り越え、新たな「生」を掴み取った。
彼女自身が自ら勝ち取った、新しい誇りだった。
太陽は沈む。そして一日が、その一日が積み重なった時代は終わる。
けれども翌日、また太陽は昇ってくる。
昨日の続きではなく、新しい今日として。
彼女は今まさに登ろうとしている。
暗がりを一度見たとて、それは滅びに向かったのではなかった。
新しい一日を迎える準備だったのだ。
悲壮?
違う、これは希望に満ちた本だ。
底抜けのわかりやすい明るさではないだけで。
これこそが、私が好きな太宰だった。 -
なんでしょうね。太宰さんの小説って、人の深層にある闇を描きますよね。
ただ、人間失格よりそのバランス感が丁寧かも…人間失格って死際に書いた作品だけあって、かなりなりふり構わずというか、破壊力みたいなのがあったけど、斜陽はもっとじわじわと侵食されていく感じ。
何にも満たされない、理解されない者同士が心の隙間を埋め合うのは同じですね。なんかこの「あなたは私にしかわかってあげられない」感が、女性にモテた原因だったんだろうな。 -
太宰治は、これを読む前といえば、
「走れメロス」しか読んだことが無かった。
本来はもっと、濃い、暗い、どんよりとした作品を書く人、
というイメージはありました。
でも、わざわざ暗くて後味の悪そうな本は読みたくない、
と、元々「その手」の本は敬遠するタチでした。
それが、授業の関係上避けられなくなって、読んだ作品。
「斜陽族ってなんだそりゃ、、、」
滑稽だな、位に思っていましたが、読んだ後で前言撤回。
滅びの美とは、このことか、と。
人が堕ちていくとは、このことか、と。
それを「革命」と呼んでみたり。
何しろ、かず子の言葉遣いがあまりに素敵。
直治の哀れな手記も、
どうやったらこんなに退廃的な文が書けるのだろう、と思った。
もっとも、後に「人間失格」を読んで、
更に強烈な廃人を目撃することになったのですが。
カズオイシグロの「日の名残り」と同じタイミングで読みました。
それぞれ、人生の黄昏時を描いているわけですが。
「日の名残り」のスティーブンスは、
滅びていくものを受け入れ、
新しい幸せに向かっていることが見えるけれど、
直治は死ぬし、美しいお母様も死ぬ。
かず子も、希望なんて実際見えやしない方向へ向かう。
より不幸へと向かっているように見える。
向かう方向は、違っていても、
黄昏時が美しいことには変わりがない。
ぼんやりとそんなことを思ったものです。
あまりにインパクトが強くて、
本当に、感じたことを丁寧に表現しようと思ったら、
以前書いた小論文と同じ位、
強烈に神経張り巡らして、推敲して、推敲して、
じゃないと書けないや。だからこの辺で。
M.C. -
一気に読んでしまったけれど、あとで重いものがどっと押し寄せてきた。
奥の深い小説だと思った。
かず子と直治は、同じ姉弟でも、対照的な生き方をしていると思う。
破滅する時の、男と女の本質が、あまりにも違いすぎる。
著者プロフィール
太宰治の作品






この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。





