- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101006178
感想・レビュー・書評
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先日、100分de名著『太宰治 斜陽:名もなき「声」の物語』高橋源一郎 を読み、
思いの温かいうちに『散華』だけでも読もうと。
よって今回は、『ろまん燈籠』に収録された『散華』のみのレビューとする。
太宰は結局自ら死を選び逝ってしまったけれど、丸っきりこの世の全てを放棄していたわけではないように思えた。
小説家を目指す若き芽を育てていた。
太宰はそんな風に思ってはおらず、友人として接したようだけれど。
三田君が、作品を持参した日とそうでない日の、玄関の戸が開けられる音の違い。
太宰はちゃんと聞き分けて、体も心も気遣う。
まずは体を丈夫にして、それから小説でもなんでもやったらいいなんて言う。
しかも直接ではなく、三井君の親友に頼むのだ。
君から強く言ってやったらどうだろうと。
心遣いが温かく、大人の振る舞いだ。
戸石君のことも、続く三田君のことも太宰は温かな眼差しでよく見つめている。
詩の世界で芽が出た三田君のことも、
「私には、三田君を見る眼が無かったのだと思った」
「三田君が私から離れて山岸さんのところへ行ったのは、三田君のためにも、とてもいいことだったと思った」
と記している。
三井君も三田君も、年少の友人だったと太宰は言う。
自分には、いたわるとか可愛がるなど出来ないと。
ただ年齢のことなど手加減せずに尊敬の念をもって交際したかったと。
(それでも私には充分いたわって可愛がっているように感じられたが)
しかし『散華』というタイトル通り、これは単なる楽しい思い出話ではない。
三井君は病気で、三田君は出征先で、命を落としたのだ。
太宰は三田君の原隊からのお便りを4通挙げているが、"最後の一通を受け取ったときの感動を書きたかったのである"と言う。
三田君はアッツ島守備部隊にいたが、太宰自身はその守備隊については"その後の玉砕を予感できるわけは無いのであるから………格段驚きはしなかった"けれども、"三田君の葉書の文章に感動した"と。
「御元気ですか。遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、死んで下さい。
自分も死にます、この戦争のために。」
余程心に響いたのか、この文面を太宰は『散華』の中で3度も挙げる。
私はなんだか、太宰が取り違えているような気がしてならなかった。
本人はえらく感動した風情で、これぞ詩人!と感銘を受けたようであるけれど、
三田君は、"自分は戦争なんていうよく分からぬものの為に死ぬけれども、太宰さんはそんなものの為に死ぬのではなく、もし自分で死を選ばなければならないなら、文学の為に死んで下さい"と言いたかったのではないの?
そもそも太宰が徴兵を逃れたのは、結核や自殺未遂など、心身が万全ではなかったからだよね。
戦地に赴いたこともない人間が、この戦争のために死ぬと言ってよこした便りに、"ただならぬ厳正の決意"を感じて"最高の詩のような気さえして来た"とは、呑気すぎないか。
"アッツ島玉砕の報を聞かずとも、私はこのお便りだけで、この年少の友人を心から尊敬する事が出来たのである"
確かに、素人の私でさえ、詩的で真っ直ぐな表現が並々ならぬ決意を含んで美しいとは思う。
でも、なんというか………言い方?
こういう言い方しちゃうから、太宰を嫌う作家も居たのでは?
私にはよく分からない。
三田君は"詩"のつもりで書いたのかしら?
というか、私が"詩"の概念を誤っているのかもしれないな。
心の内からポッと生まれた文章は、全て"詩"と呼べるのかもしれない。
だとしたら、酷い惨劇が起きている現場で、カメラマンが助けることより撮ることを選ぶように、
小説家であった太宰もまた、小説家として三田君からの便りを目にしたのか。
戦争を知らぬ私でも、三田君からの手紙は読んだだけでウルッとするのにな。。。
P297に自身のことを、"としとってから妙な因業爺になりかねない素質は少しあるらしいのである"と表現していて、
これを読むと年老いた自分を想像することもあったんだなと意外に思う。
Wikipediaによると『散華』の執筆時期は1943年11月上旬(推定)とあった。
『津軽』の直前かな…。
だとすると、死を意識した太宰が、故郷を見ておこうと思うに至るまでに、三田君からの便りも少なからず影響しているのだろうな。
その後、太宰は1948年に美容師の山崎富栄と心中しているが、前の年には『斜陽』のモデルの歌人である太田静子との間に子供が生まれて認知している。
きっとこの頃はもうぐちゃぐちゃだよね。
「御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。」
太宰さん、貴方は何のために死を選んだんでしょう?
アッツ島:
その惨たらしい様は広く知られているはず。
守備隊の4倍ものアメリカ兵が上陸し、制圧下に置かれた。
日本の本営も、これ以上戦力を消耗しては…との考えから、増援部隊も送らず、アッツ島の兵士たちは孤立無援状態となった。
テレビ番組の特集を見たが、手榴弾を持ったり、または丸腰で、アメリカ軍に向かってくる様は異様だったとのこと。
守備隊は全員玉砕。
山本五十六の死、アッツ島守備隊の玉砕と続き、ここから更に日本は、一般市民もこれに続けと間違った方向へ突き進んでゆく。 -
戦時下で書かれた太宰中期の作品集。「走れメロス」より道徳の教科書向きの話もあると思う。
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本書は太平洋戦争が開戦し、だんだんと敗戦の色が濃くなる時代に書かれた作品を集めた短篇集です。
時代背景をうかがわせつつも、太宰のユーモアや愛嬌が感じられるものも多かった印象です。
表題作は、性格は違えど小説好きは共通している5人兄妹がラプンツェルを下敷きにした物語を書き継いでいく、というもの。
物語の運び方や文章に各々の性格を反映させていることに舌を巻いてしまいます。
太宰の中に何人か住んでいるんじゃないか…とつい思わずにはいられません。
「服装に就いて」や「小さなアルバム」は声を出して笑っちゃいました。
太宰はどんな表情をしながらこれを書いているんだろう…と想像してしまいます。
ぐっと真面目な顔して書いていそうで、それがまたユーモラス。
笑っちゃうものだけではありません。
「散華」に引用された、戦地で玉砕した若者が太宰に宛てた生の声。
「東京だより」に描かれた、ある少女の美しさの原因に気付いた瞬間の著者の心の動き。
16編の作品を読むあいだ、思った以上に感情があっちへこっちへ揺さぶられたのでした。 -
アクの強い兄弟姉妹5人が、リレー形式でグリム童話「ラプンツェル」のパロディ小説を書き上げるまでの正月休み5日間を、ユーモアたっぷりに書き上げた喜劇系妙作である表題作「ろまん燈籠」。
無鉄砲で大人になりきれていない三男18歳。
頭は良く人好きするけど恋に苦労するタイプの長女26歳。
美男なのにケチで人を小ばかにしたところがある次男24歳。
かなりのナルシストで健啖家の次女21歳。
お人好しが取り柄の無職の長男29歳。
前知識として小さなエピソードとともに紹介される5人それぞれに違う角度にこじれた性格が、各々が担当した小説のパートの展開や文体の個性と絶妙にマッチしていて、とても面白く、ニヤニヤしながら、一気読みしてしまいました。
兄弟姉妹みんなで書いている設定なので、書き分けとして、各パートの文体や展開の巧拙具合にまでもしっかり明確な違いが見られる芸の細かさ。
この遊戯に巻き込まれる彼らの祖父母、母、女中といった、周囲の人々も、いい味出していいます。
そして、彼らが結果的に生み出した新生ラプンツェル物語は、ただただ愉快なパロディかと思いきや、意外や意外。
5人それぞれの着眼点がある設定も相まって、人間の本質的課題や命題をあれこれと結構深くついています。
それなのに、ものすごくコミカルに読み進められる抜群の娯楽性。そして、安心感。(ご安心を、太宰作ですけど、最後はハッピーエンドです。しかも、オリジナルのラプンツェルよりも何倍もハッピーです)
小説を書きつないだ順番を、年齢の上から下、もしくはその逆、性別などという単純な並びになどせずに、書き手それぞれの性質をむしろ強く意識して、長幼も性別もごちゃ混ぜにした事も、読み終わってみると、ものすごく納得がいきます。
太宰の持っていたユーモア溢れる企画力、構成力、そして筆力に脱帽の一冊です。 -
学生の頃に図書館で出会って、なんか良い本だな〜くらいにしか感じなかった。
数年経って再読してみたら、一つ一つの短篇が見事で面白い。
特に『新郎』が好み。
戦争渦中の緊張感を保ちつつ、ひたすらに生きることの大切さを感じられる。
解説を読むと時代背景も知れて、一層深い文章。
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戦時下の話が多かった。
表題作は私はあまり楽しめなかったが、他は結構好きなのがあった。
『恥』は笑えるような胸が苦しくなるような恥ずかしいような話。
『小さいアルバム』はところどころすごい笑ってしまった。この自虐、ギャグマンガにもありそうなレベルでどうしても笑ってしまう。
「私は今だってなかなかの馬鹿ですが、そのころは馬鹿より悪い。妖怪でした。」
「二匹の競馬の馬の間に、駱駝がのっそり立っているみたいですね。」
「かぼちゃのように無神経ですね。3日も洗顔しないような顔ですね。」
あたりが好き。自虐でこんないろんな言い方ができるのはさすがだなあと。
『佳日』も、白足袋がうまく履けない件は笑えるものの、戦争や、大隅君の性格などが絡まって切なくなる。最後は爽やか。
『散華』は非常に辛い作品。
戦地からの手紙の文言が心に刺さる。 -
太宰の短編集。気に入ったのをいくつか。
小説好きの5人兄妹が連作して一編の物語を書いていく「ろまん燈籠」。ストーリーだけでなく文体でもって5人の個性を描き分けた構成と筆致は見事。
「恥」。作家が作品で書いた惨めな自画像が全て事実と思い込んだ女性ファンが、ファンレターを介してわざと汚い服を着て作家の家を訪ねる。が、意外なことに、作家は清潔な家で小奇麗な姿で暮らしている。真実を知った女は恥ずかしさのあまり女友達に愚痴を書いた手紙をしたためる。理想に忠実であってほしいという女のエゴを打ち砕く話で笑えるのだが、どこか哀しい。
「新郎」。太平洋戦争開戦時に、浮足立った著者の心情が反映した小品。
逆に「十二月八日」は、夫人の目から戦争に沸く世相を描いたもの。あくまで庶民の目線で物価から街の様子まで地に足がついた生活世界を丁寧に描いている。特に生まれたばかりの赤ん坊を銭湯に入れる筆致がいい。赤ん坊の肌の触感や愛らしさの描写が、暗い不安な時代において確かな実存と感触を確かめているようで、著者の息遣いが聞こえてくる。
「散華」。これは好きな作品ではない。アッツ島で玉砕した学徒兵が作家のもとに送った決意の葉書。けど読んでしまう。おそらく太宰の実体験なのだろう。こういうのを読むとやはりこの作家は情に流されやすく、激情家タイプなのかなと思う。崇高なものへの献身と自己犠牲に憧れ美しさを感じる作家の感性を垣間見る思いで読んだ。しかし後味は悪く、なにより底暗い。 -
5人兄弟のリレー小説という形式の表題作「ろまん燈籠」を始めとした短篇集。
「ろまん燈籠」はとある5人兄弟がリレー形式で小説を執筆するのですが、物語の序盤で其々の性格や好みの文学について等の前情報があるので、その知識を踏まえて読むと「こういう風に繋げるのか、何となくわかる」「性格出てるなあ」など感じながら読み進めることが出来て面白かったです。5人其々に個性があるので、小説自体がどのような結末へ向かうのかという楽しみもありました。
其々異なった文体でロマンチックであったり怪奇的であったりと、ひとつの物語で様々な表現を試みた太宰の手腕にも驚きました。
「みみずく通信」では私の地元の新潟市を訪れた際の出来事が描かれており、昔の火災で古町が大打撃を被りお堀も今は埋め立てられてしまいましたが、今尚あるイタリア軒が登場したり、かつては砂丘だった旧制新潟高校周辺や、その間には太宰と交流のあった同じ無頼派の坂口安吾の実家もあることを思い出し、新潟の歴史に触れることが出来て面白かったです。
基本的に戦時下の短篇集ですが、戦々恐々とした雰囲気や毒々しさもなく、いつも通りの太宰の自虐もユーモアがあって思わずクスッと笑ってしまえる軽快な短篇集でした。 -
表題作を始め意外なほど読みやすく、自意識に葛藤している様子も書かれてはいるが、日常描写の細やかさと共にあるので暗さや重苦しさは感じない。寧ろ作品の多くが戦争というバックホーンの元にあるので、その当時の庶民の様子や精神性が伺われるのが興味深い。
太宰の人柄が読み取れるレビューですね。
本作は私は未読ですが、貴殿のレビューから太宰は友人の死を心の底から悼んでいる様...
太宰の人柄が読み取れるレビューですね。
本作は私は未読ですが、貴殿のレビューから太宰は友人の死を心の底から悼んでいる様に感じました。
それは作品タイトルにも反映されていますよね。
機会があれば本作、手に取りたいと思います。
コメント有難う御座います、嬉しいです!
ね。作品タイトルにはんえいされてますよね。
『散華』の前に読んだ『100分de名著 ...
コメント有難う御座います、嬉しいです!
ね。作品タイトルにはんえいされてますよね。
『散華』の前に読んだ『100分de名著 太宰治 斜陽』で高橋源一郎さんが、
「"玉砕"も"散華"と同じことばだ。………誰かが戦場で死ぬのは、"戦死"にすぎず、その兵士は、玉でも華でもない。それなのに、どこかに、その兵士は"玉"や"華"だと信じたい人が、信じさせたい人がいるのだ。」
と仰られていたのが印象的でした。