モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101007045

作品紹介・あらすじ

小林批評美学の集大成であり、批評という形式にひそむあらゆる可能性を提示する「モオツァルト」、自らの宿命のかなしい主調音を奏でて近代日本の散文中最高の達成をなした戦時中の連作「無常という事」など6編、骨董という常にそれを玩弄するものを全人的に験さずにはおかない狂気と平常心の入りまじった世界の機微にふれた「真贋」など8編、ほか「蘇我馬子の墓」を収録する。

感想・レビュー・書評

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  • 小林秀雄の文章を読んでいると心地が良いのだが、内容が良いものと悪いものがある。

    近代批評の確立者と言われたり、評論をダメにしたとか言われたりするが、個性のある文章を書いたに過ぎないと思う。
    大した内容でもないのに、引き込まれてしまう時があるし、全く面白くないのもある。
    情報が多いと言われている現代に、もし小林秀雄がいたらどういう文章を書くのかなと思ってしまう。

    ・「モオツァルト」
    モオツァルトの伝記を2つに集約している。

    モオツァルトは歌劇作者よりシンフォニー作者としての方が立っている。

    ・「当麻」
    (有名な一節)
    美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

    ・「西行」
    西行は、歌の世界に、人間孤独の観念を新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。
    (西行は和歌が素晴らしく、しかも長命のため多作)

    ・「実朝」
    (鎌倉幕府第3代将軍でこちらも和歌が素晴らかったというのは初めて知った。)

    ・「徒然草」
    吉田兼好は文章の達人であり、空前絶後であると、(とにかく褒めている。)

    ・「無常という事」
    (著者の心に残った次の文章についての批評。)
    「或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、
    夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。
    其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思うに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給えと申すなり。云々」

    ・「平家物語」
    「盛衰記」と比べると格段の違い。
    (「平家物語」の冒頭の神がかり的な素晴らしさ。)

    ・「蘇我馬子の墓」
    石舞台は蘇我馬子の墓
    竹内宿禰、大和朝廷、
    愚管抄、日本最初の史論書
    聖徳太子「経疏」
    要約の出来ぬ美しさの大和三山

    ・「鉄斎Ⅰ」
    富岡鉄斎 南画家 天保7年~大正13年
    川端康成の処
    鉄斎 酒を呑み、琴を弾きながら何処かへ行ってしまった人である。
    気質 文人画家

    「八十七歳の時に描かれた山水図を、部屋に掛けて毎日眺めているが、
    日本の南画家で此処まで行った人は一人もないと思わざるを得ない。
    文人画家気質は愚か、凡そ努力しないでも人間が抱き得る様な気質は、もう一つも現れていない。鍛錬に鍛錬を重ねて創り出した形容を絶したある純一な性格を象徴する自然だけある。」

    「万巻の書を読み千里の道を行かずんば画祖となるべからず。」
    董其昌の戒律を脇目もふらず遵奉したひとである。

    ・「鉄斎Ⅱ」
    八十九まで元気旺盛にした仕事大器晩成という朦朧たる概念を実演しているようなもの、当人も志は画にないと言っているのだから致し方がない。
    琳派
    鉄斎は非常な読書家であった。併し、若し彼に画道という芸当がなかったなら、彼の雑然たる知識は、その表現の端緒を掴み得ず、雲散霧消したのではあるまいか。

    ・「鉄斎Ⅲ」
    贋作と富岡鉄斎

    ・「光悦と宗達」
    光悦について
    岡崎政宗が有名な刀剣である政宗の由来となった人物。本阿弥光悦は偉大な芸術家。宗達は生国も死地もわからず伝説中の人物。

    己れを失わずに他人と協力する幸福、和して同じない友情の幸福、そんな事を考える。

    幸福は、己れを主張しようともしないし、他人を挑発しようともしない。

    ・「雪舟」
    「慧可断臂図」の絵の元になったのは中国人の顔輝

    百尺竿頭
    「百尺竿頭に一歩を進むべし」
    (極地に達したあと、さらになお向上の工夫せよ)

    ・「偶像崇拝」
    高野山の赤不動を見てがっかり
    ・「骨董」
    ・「真贋」

  • 本文は、モーツァルト・美を求める心と題して、noteで投稿したものです。

     
     水曜日の朝、ぼくはモーツァルトのシンフォニー第40番第1楽章を聴いて、泣きそうになったのを思いだす。その日は、いつもより早く起きていたから丁度良いと思い、かけていた。
    しかし、何故モーツァルトは、シンフォニーで何役にも転じたのか、語り部であり、聴者であり、忘れ河である。
    彼は、自らの楽曲の中で自問自答を繰り返していたのか。
    ふとそんなことを思い、狂った感覚が襲った。
    しかし、ぼくは音楽に詳しい訳では無い。空き時間に未開の地に足を踏み入れんとする者である。
    しかし、不思議だ。あの時に感じたものはいまでは、やはり偽りの鮮明の中に埋もれてしまっている。

     何故か小林さんのモオツァルトは読んでいなかった。それ熟読することは、高校生のぼくにはまだ早いのかと思っていたが、モーツァルトのあの躍動を凝縮したシンフォニーを聴いて心奪われた以上読んでみたくなった。
     Ⅰ   モーツァルト
     水曜日に聴いたシンフォニーは、無名のピアニストによる演奏だった。しかし、その後もモーツァルトのシンフォニーのことで頭は一杯で、頭の中で何度も繰り返し響いていた。
    しかし、もう一度聴きたい。メニューインの演奏があったのでそれを聴いた。なるほどこうなるのか。ぼくは彼の演奏に惹かれてしまった。メニューインは小林さんのお気に入りのヴァイオリニストとのことで、彼の来日時に、愛情を持ってこう書いている。
     「第一日目の演奏を聴いて、何か感想を書くことを約したが、きつと感動してしまつて何も言ふ事がなくなるだらうと考へてゐた。その通りになつた。タルティニのトリルが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了つた。バッハだらうが、フランクだらうが、それはもうどうでもよい事であつた。魂を悪魔に渡してから音楽を聞くといふこともある。タルティニは嘘をついたのぢやあるまい。たゞ、私は夢の中で、はつきり覚めてゐた。そして名人の鳴らすストラディヴァリウスの共鳴盤を、ひたすら追つてゐた。あゝ、何んといふ音だ。私は、どんなに渇ゑてゐたかをはつきり知つた。
    メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現れるのを見て、さぞ驚くであらう。しかし、私は、あなたの様な天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と不幸とをよく理解してゐる大人である。私はあなたに感謝する。」

    『メニューヒンを聴いて』(1951年)

     しかし、クラシックは、元気が無いと聴く気が起きないという時期がぼくにもあった。長明の言うところの朝顔と露か。oasis、レディオヘッドあたりが、丁度良いという時期が。しかし、歩いているとメヌエットのG.minorが、ぼくを急がせ次第に足取りは速くなる。

     小林秀雄が、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけないと言った楽曲は、弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516である。
    ぼくのアレグロに対する印象は、まるで、そっほを向いているように感じた。小林さんは、正確な足取りであるとおっしゃっていたが、ぼくが思うにそれは、ジャック・スパローのあの歩き方である。音がほんの少し響く地面をあの様に独りで歩いている。そして時折振り返る。多分何も見るものは無いし、見てもいない。衝動的に、そうしたに過ぎまい。 それ故、涙はついてこれない、涙ですら見えぬのだから。涙は彼の曲となる。彼の涙は、モオツァルトという忘れ河を経て、あのような明るい曲となる。涙はもはや、追いつけぬばかりではなく、何も覚えてなどいないのではあるまいか。その数滴の涙めいめいが人をヴァイオリンとを表す。モーツァルトの曲はいつも新鮮だとあるが、モーツァルトを思いだし耳を傾けると、何もかもを忘れた涙が、曲として生まれてくるからではあるまいか。しかし、これはモーツァルトに限ったことでは無く、全ての人もそうである。それが、孤独という人間存在の本質と小林さんは、書かれている。そうなると彼の楽曲はいよいよ深い。モオツァルトという人は、決して急いでいる訳では無い、ドン・ジョバンニを見ているとそんな気がしてくる。サリエリはドン・ジョバンニの上演を僅か6日で打ち切らせた。騎士長が、父レオポルトに見えたのだ。彼は父親の呪いがモーツァルトにかかっていると直感したのだ。しかし、モーツァルトにとっては果たして、レオポルトの呪いであったのか。呪いであり祝福であるかのようだどうやらサリエリは、次なる祝福を我が物にしたかったのだろう。

     小林さんが交響曲第39番 変ホ長調 K. 543第4楽章は、まるで明け方の雲のようだとおっしゃっていたが、捕らえた小鳥をかごの中で、野生のままにしておくが如く、この表現には感動した。余すことのない自然と生み出されたそれが、この第4楽章から伝わってくる。ハイドンのシンフォニーの繊細さとは違う、カーテンの匂いのするようなものでなく、冷たい川の水のようなものをモーツァルトからは感じる。ブルーノ・ワルターの指揮は、本当に素晴らしい。

     Ⅱ 批評の神様の音楽会
     小林秀雄は、文学青年でもあり音楽青年でもあった。彼の父親の職業柄また、父親の短命ともあり、しかし、海外製の蓄音機が小林秀雄の音楽への造詣を深めるに至るきっかけとなった。
    こうして思えば、無常という事は、小林秀雄の傍に、いつも音楽があったという事の象徴だとも言える。彼も宣長は、ブラームスで書いてます。といっていた。
     第一部までモーツァルトについて触れてきた、この第二部では、美を求める心を小林さんの音楽との関係について触れながら進めていく。
    私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりとした美しさの経験が根本だ、と考えている…。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。 美を求める心より   
     美しいものは、既にそこにある。我々は、めいめいの目で耳でそれを見出さなくてはならない。勿論、人それぞれである。無常という事は、多分、モーツァルトに最も影響されていると思う。これも、ぼくの考えであり、そうでなくても構わない。これは、こう言う歴史でこう言う価値があり云々とは、それほど重要ではない。その先が重要なのである。現代に於いては、これが欠落しているとしか思えぬ。

     音楽や芸術それだけではなく、自然それが、人間の創造性のダイナミクスの源であるという事は、多分、何となく分かる人も多いだろう。 梅の花だって、木に咲いているものだけが美しいのではない、散ってもなお美しい、勿論、そのようなクオリアは、人によって明らかに違ってくるもの。かつての王侯貴族達が、アートを欲していたのは、まさに一種形式的なものから自らを解毒しようとしていたのではあるまいか。
     
     1982年12月28日小林さんは、病床についていた。同年春から音楽を聴くことは無くなった。聴く気力も体力も無いのである。しかしその日、1階のテレビから、あのメニューインの演奏が放映されている。小林さんは、夫人と共に最後まで聴いていたという。宮沢賢治に、眼にて云ふという詩がある。
    あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
    わたくしから見えるのは
    やっぱりきれいな青ぞらと
    すきとほった風ばかりです。
    苦しいさはあったはずである。しかし、多分、彼の人生で最も何とも言えないものに包まれた一時であったことだろう。その約2ヶ月後、小林さんは、息を引き取った。
     美を求める心とは、即ち、人の心也。
    人間が生きる原動力となる。茂木健一郎さんが小林さんは、エピファニーの人だとおっしゃっていたが、このエピファニーというものを我々は、大切にしなくてはならない。本質は必ずしも美しいとは、限らない。美は思うほど美しいものではない。だからといって美しくないわけではない。一枚の木葉も地面におちていれば、隠すものは、そうあるまい。しかし、一と度手に取り、月にかぶせてみよ。
    我々は、創造の萌芽の芽吹く世界に怠惰しているに過ぎない。そんなものは、場違いではあるまいか。現代人が最も癪に障る。それは必ずしも考え抜いたからというものでは無くともそうであるものではないあるまいか。

     モーツァルト、これで良かったのか?
    答えてくれても良いじゃないか。
    答えてくれそうにないな。
    ぼくはまた、忘れ河の水を飲むのか。
    しかし、君は人間だな。ぼくは完全に忘れることは出来ない。思い出せもしない。

     悲しさは疾走する。涙は追いつけない。
    然れど涙は忘れ河を通り、永遠に回帰する。





  • 美麗な文章で綴られる芸術論ですが、アイロニーやユーモアもあり批評のレベルにとどまらないと思う。
    豊かな歴史的観点からの考察もさすが。
    「骨董」に関する氏の「骨董の世界が所謂「美術鑑賞」と異なるのは、品物を買ってから始まり、そこから品物が此方の生活に触れてくるのだ」との下り、サブスクとレコード購入の違いを日頃思う自分としては膝を打った。

  • 小林秀雄 「 モオツァルト 無常という事 」 表題のほか、中世文学、日本美術、骨董に通じる美意識を捉えた随筆。美意識を 耳で捉えている印象を受ける。逆説的な表現も とても面白い


    表題の「モオツァルト」はモーツァルトの愚劣な生活と完璧な芸術の不調和に目付けした名随筆。肖像画と実生活からモーツァルト像にアプローチする方法も斬新


    「モーツァルト」で 語られた「美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって〜普通一般に考えられているより遥かに美しくもなく愉快でもない」が、他の随筆の美意識にも つながっているように思う


    「モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」について、モーツァルトの音楽に 疾走感はあると思うが「かなしさ」とは何か。レクイエム、ミサ、オペラなど作品の悲しさ? モーツァルトの天才ゆえの孤独の悲しさ?掲載時(昭和21年の敗戦直後)における聞き手の悲しさ?



    著者らしい逆説的な名言の数々
    天賦の才というモーツァルトの重荷
    「才能があるおかげで仕事が楽なのは凡才に限る〜凡才が容易と見る処に〜天才は難問を見る〜強い精神は容易な事を嫌う」

    「努力は困難や障がいの発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けて来た苦労人は、発育不全な自己を持っている」

    モーツァルト作品
    *世間の愚劣な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったもの。制作とはその場その場の取引であり〜熟慮専念する時間はなかった
    *即興は彼の命〜外部からの不意打ちに対する決意の目覚め〜彼のこの世に処する覚悟
    *モーツァルトは何も狙いはしなかった〜モーツァルトは目的地を定めない。歩き方が目的地を作り出した〜他人の歌を上手に模倣するほど、自身のかけがえのない歌を模倣するに至る

  • https://www.silkroadin.com/2021/08/blog-post.html

    「モオツァルト・無常という事」を読んで。





    難しい。小説を普段から読まないので「尚更に」

    全然理解出来ませんでした。と言うのが個人的な感想。





    全体を通して、「美について著者の考えが書かれた本」というのが個人的な理解です。。





    読後、自分も美について色々と考えてみました。



    結論。



    「美は、もしかしたら存在しないかもしれない。」





    美にはいくつか種類があって、グランドキャニオンのような自然による造形や、芸術的な美、建築構造などの造形美、一生懸命な生きざまなどの精神美、など、、美の形式は一様ではない。





    しかし、美について共通して言えることは、人間が体の器官を通して感じる感覚のひとつでしかない。という事。







    実際にグランドキャニオンは必ずしも美しくないし、芸術的な美や精神美さえそれを美しいと感じるかどうかは人による。





    実際に美は存在するが、それはグランドキャニオンが美しいからではない。美の対象を見た人間の中に存在する感覚そのものが美の正体というのが妥当ではないでしょうか。





    もし、そうであるなら、美とは対象となるものを美しいと感じる心。かもしれません。







    「美とは現実にあるひとつの抗し難い力」、「美は人の行為を規正し、秩序づけることによって、愉快な自由感を与えてくれて然るべき」など、著者は本書でこのように語っています。





    わたしにとっては、本書で語られる美についての論理的に核心をついた言葉の数々が、美について新たな知見を与えてくれる一冊となりました。





    みなさんもモーツァルトを聴きながら、本書を読み、美について改めて考えてみてはいかがでしょうか。

    面白い発見があるかもしれません。是非、ご覧ください。










    (蛇足)

    私事ですが、最近ピアノソナタが好きで辻井伸行さんや反田恭平さんのベートーベン、リスト、モーツァルトなどを聴いていました。





    クラシックを聴くメリットとして集中力が高まるということは一般に広く知られてきていると思いますが、前葉体賦活系(RAS)の働きが活発になる感覚を体感(個人的)できます。





    無印BOOKという無印良品セレクトの本屋さんで偶然見つけて即購入&読了(全然理解できてませんが、、、)



    表紙の、音の旋律を表すかのようなグラフィックデザインも素敵です。





    読んだ後も飾って楽しんでみてください。



    最後まで、読んでくださってありがとうございます。

  • 2020年90冊目。批評形式の短編集。順番を無視して表題の無常という事から読んだ。宙くんのお勧めだったので。教科書に載ってるのを、今も覚えているらしい。死とは動じない美しい形。/20200608

  • 批評といえば、この人。
    なのだが、分からない。全く分からない。
    参った。素晴らしいことを伝えているんだと思うが、分からん。
    いつかわかる日が来ることを願う。

  • 『天才は寧ろ努力を発明する

  • 最初は、なんて難しい文章を書くんだろうと辟易したのですが、筆者による余所からの引用がたいへんわかりやすく取り纏められていることに気づいたとたん、これは文章力ではなく、自分の思考力が筆者の思想のレベルに追いついていなかったのだと、了解しました。その瞬間の、敗北感とは違う悔しさのような、おもしろさのような、向上心のような? そんなふうに感じたのは初めてでした。
    内容はなかなか主観的なようにも感じますが、それのどこが悪い? と思わせるような説得力。信念と文章の確かさ、なのか。
    しかしまだまだ難しい。知識も乏しくお恥ずかしい。要精進。
    「モオツァルト」「偶像崇拝」「真贋」

  • これも積んでてなかなか読めなかったが、ドライブ受けて読みました。モオツアルトの楽譜がまず読めないので、これは家人に演奏していただいた。楽譜から音楽が聞こえてこない素人は、悲しい。古文が読めない素人は悲しい。絵画も骨董も素人なのも、とても悲しい。それでも文章はビートが効いていて、実に良かった。小林秀雄の本からは音楽(リズム)と、そして声が聞こえてくる。「○○なのではない。○○なだけだ」的リズムが。

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著者プロフィール

小林秀雄
一九〇二(明治三五)年、東京生まれ。文芸評論家。東京帝国大学仏文科卒業。二九(昭和四)年、雑誌『改造』の懸賞評論に「様々なる意匠」が二席入選し、批評活動に入る。第二次大戦中は古典に関する随想を執筆。七七年、大作『本居宣長』(日本文学大賞)を刊行。その他の著書に『無常といふ事』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』(野間文芸賞)など。六七年、文化勲章受章。八三(昭和五八)年、死去。

「2022年 『戦争について』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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