- 本 ・本 (278ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101007052
感想・レビュー・書評
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これもいまさら小林秀雄に教えを請わなくても、という感想。
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(1972.06.03読了)(1972.05.20購入)
野間文芸賞受賞
*解説目録より*
モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ドガ、ルノアール、ピカソ等、近代絵画の巨匠の芸術と人間の内面を深く掘り下げた独創的美術評論。 -
ようやく通読。
ヨーロッパ旅行に持っていきながら結局受け付けなかったり、必要に迫られてセザンヌの章だけを読んだりしてきた消化不良の一冊。今回はすっきり頭に入ってきた。ゴーギャンの章にとりわけ感じ入った。 -
再読。
橋本治の小林秀雄論から、再読していたものですが、大学生時分に読んだ時よりははっきりとよく分かるような気がします。評されるとおり、「セザンヌ」と「ピカソ」がこの評論の二つの大きなピークであることは確かだと思いますが、今回読んで気になったのは、「ルノアール」。
引用を少し。
「ルノアールは・・画家として身を立てるまでに、既に熟達した絵筆の職人であった。・・彼の若い頃の職人生活が、彼の画業に強く影響しているという事は否定しまい。そしてこの影響は技術の上よりも絵画というものの彼の考え方の上にはっきり現れているのである。恐らく彼にとって、陶器の絵つけ師から画家になったという事は、飛躍でも転身でもなかったのであり、職人の道は、坦々として芸術家の道に通じていたのである。」
「・・ヴェラスケスの小さな赤いリボンには、絵画の全技術があるが、ゴッホの全画面を探しても彼らしい一技術しか見当たらない。ルノアールの確信によれば、ゴッホの独創が、こういう技術上の貧寒を償って余りあると考えるのは、絵を知らない素人の通俗な考えなのである。ゴッホの様な、個性に順じて選択された技術は、画業に熟達すればするほど、個性という資源の苦しげな開発とむすばれる。」
うーむ。ここで、小林秀雄はルノアールの主張する、「手職(メチエ)の重要性」、というより、ルノアールにあっては、それは主張とも呼べない、いわば彼の常識について語っていますが、私にはこの論は、誰しもが個性的たらんとして、(そしてそれが容易で当然の要請に見えるために)かえって苦しんでいる現代を生きることのややこしさの原因について語っているように感じられます。「まず古にあたってその道をたどる職人たれ。」つべこべ悩む前に手を動かすべきなのかもしれません。
もう1つ、ルノアール論で印象的な引用(岡本太郎には目をむかれそうな言葉ですが。。)
「ルノアールは・・・「絵は愛すべき、見て楽しい、きれいなものでなければならぬ。だが、きれいな絵で偉大なる作を描くのは、むつかしい事だ」と言う信念を育てて行ったのである。ルノアールの何気ない言葉の意味するところは意外に深いのであって、人間生活における異常なものや、劇的なものを好むのは、彼の考えによれば、そういう情況で人間は、文学者達が考えるほど、人間の本質を現すものではない。美しいものは、当たり前である。健康が当たり前であるようなものだ。彼の美学はこの一筋につながる。」
声高でなく、エキゾチックでなく、健康で楽しく過ごすことの難しさと大事さはこのところ、ようやく身にしみます(アランの「幸福論」に通じる)。
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さて、「ピカソ」からも少し引用を。
「・・美はいつも高鳴る胸の幸福感という事になったが、初めは世界の不安からの救済感であった。近代の認識批判の極まるところに、「物自体」の考えが現れたが、最初の芸術様式があった時に、「物自体」に関する本能的感受性はあったのである。・・・人間に対し、物の不可測性は依然として存するが、ただ、これを感受する生得の器官を鈍磨させて来た、世界像の平板化と表面化とによって、侵害して来たという事ではないのか。」
うーむ。「物自体」といやー、カントのアレですね。ヴォリンゲル、という人の思想に関して語っている部分ですが、人間はプリミティブには「物自体」およびその「不安」を感じるだけの、器官の鋭さを持っていた、という訳ですが。ホントかな。器官で感じられる、ぎりぎりその先、を感じるだけの鋭さをもっていた(今も持っているはず)、その不安から、もっと安定した救済を得るために、「抽象化の衝動」として芸術は生まれた、という話です。面白いですね。
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