吾輩は猫である (新潮文庫)

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  • 新潮社
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レビュー : 303
  • Amazon.co.jp ・本 (624ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010014

感想・レビュー・書評

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  • 小学校の時に読んだ本。
    ラストシーンが衝撃的で、他は忘れてしまったがそこだけ覚えていた。やはり大人になって読むと視点も変わるなと実感。

  • 良い意味で下らない。
    が、とても面白かった。
    猫の視点から語られる人間の愚劣さに共感し、尤もだと感じた。
    それにしても本当に夏目漱石は素晴らしい教養人、エリートだったのだなと感動した。
    初見の難解な熟語や到底理解出来ない論理、知らない偉人名を目にする度、膨大な知識を有していた事実を目の当たりにして畏敬・畏怖の念が湧き上がった。
    対照的に己の無教養が恥ずかしくなった。

    <猫である「吾輩」>
    「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」から推察するに、珍野家における彼の立場は最低であるにも拘らず、その思考能力が教師である主人・苦沙弥より抜群に優れているのがまた面白い。
    人間を客観的に捉え、一切の遠慮もなく手厳しく批判を述べていて、勢いがあって清々しい。
    人間の愚かさを説く一方で、主人の動向を逐一気にしている様子がいじらしい。
    何気なく膝の上に座っているなんて可愛い。
    鳴き声を打算的に出しているのには笑った。
    酒を飲んで溺死と言う最期は何とも可哀想だ。
    2歳で死を迎えるとは早世ではないか。
    人間ではなく「吾輩」自身の生活についての描写がもっと欲しかった。

    <「吾輩」の知り合いの猫>
    車屋の黒は別として、三毛子が可愛い。
    「吾輩」が主人に似て昼寝して家に籠っているばかりだからか、あまり登場しないのが惜しい。

    <苦沙弥>
    これ程まで偏屈であるのに教師が務まるのかと不思議である。
    野良猫だった「吾輩」を飼猫にした本人なので、無関心そうで意外と優しい一面も持っているのではないか。
    自ら進んで言葉を発しないので、正直存在感が迷亭や寒月に押されて消えそうになっている。
    小さな娘達に対して悉く放任主義で通しているのは、もう少し面倒を見たり可愛がってはどうかと思った。
    あまり家族に興味がないと見られる。
    痘痕を気にしつつも鏡を長時間眺めているので、結果的には自己愛が強い。
    夏目漱石自身がモデルだと言われているが、確かに胃弱や痘痕を気にする神経質な性格は共通している。
    しかしここまで間抜けではなかっただろうと思いたい。
    彼の滑稽な思考・行動を読んでいると猫と一緒に軽蔑してしまいたくなるが、私も類似点が幾つかあるので笑いながらも自身の欠点を指摘された様で複雑な気持ちになる。

    <珍野家の人々>
    苦沙弥の細君である珍野夫人はどうしてこの様な子供染みた変人と結婚したのだろう。
    扱いにくい男の面倒を飽きずに見ていて心底感心する。
    登場人物の中で一番まともで親近感が湧いた。
    長女とん子、次女すん子、三女めん子(通称坊ば)の奇天烈な名前の由来が知りたい。
    三人娘が食事や悪戯をする場面は現代でもよく見られる日常風景である。
    非常に騒がしいが、この様な光景が幸せを表しているのかなと思った。
    三人共主人に似ておらず口が動く。
    おさん(清)は何歳だろうと気になった。
    まだ二十歳に達していないだろうか。

    <苦沙弥の知り合い>
    迷亭が独身を貫いている理由は何だろうか。
    女性に興味がない訳ではないだろうが、あまりに苦沙弥を揶揄ってばかりいるので、もしかしたら苦沙弥に片想いをしているのではないかと少しばかり考えたが違うだろう。
    苦沙弥の次、若しくは一番に登場頻度が高く、詭弁を弄してばかりで嘘八百な人間と言う印象が強く残った。
    何故か寒月が好男子だとは想像出来なかった。
    にやにやしているからであろうか。
    暴慢な金田家から結婚を申し込まれたりする位なので多分そうなのだろう。
    あれだけ富子に熱を上げていたのに、知らない裡に地元の女性と入籍していて何だこの人と思った。
    バイオリンの件は長い割にはどうでも良かった。

    <珍野家の近所の人々>
    金田家の人々は意地悪くて皆嫌いだ。
    態々悪口を隣人に言わせるのは馬鹿げている。
    鈴木を利用する点でも卑怯である。
    その上、車屋の子供迄お金を利用して嫌がらせを行うとは下劣極まりない。
    落雲館中学校の生徒達も子供にしては悪賢い。
    余程近隣の人々に白い目で見られていると考えられる。
    流石に苦沙弥が気の毒に思えた。

  • 著者:夏目漱石(1867-1916、新宿区、小説家)

  • 小説の中で何か大きな事件が起きるわけではない。主人の日常に起きる小事件、主人とその周辺人物達のいい意味でくだらないおしゃべりが、猫の視点でかいてある。

    ただそれだけの小説なのに面白いのは、漱石の文章のおかげだと思う。クスッと笑ってしまうフレーズがたくさんある。むしろそれしかない。
    例えば吾輩が自分の鳴き声を「ベートーベンのシンフォニー」と喩えたり、主人の家にやってきた金持ちの女に「鼻子」というあだ名をつけたり(鼻が大きいから)。
    吾輩、なかなか賢そうに痛烈なことを言うのだが、猫なのがアンバランスで笑える。

    通して読むには長いと感じたので、章ごとページごとに区切ってその日の気分で読むのがちょうどいい。

  • 登場人物がみんな個性的で楽しい!
    適当やけど物知りな迷亭、真面目にふざけてる寒月くん、芸術肌の東風くん、我を貫き通す独仙、それから頑固で胃弱で少年のような苦沙弥先生。
    奥さんもおさんも子供達もかわいいし、車屋の黒も三毛子もかわいい。
    吾輩の物言いももちろん面白い。
    前半は気軽に読めるけど、後半になってくると段々小難しくなってくる。
    けどまあさらっと読むのが良い。

    解説にも書いてあったけど
    「面白い場面をつなぎ合わせるものとしてのみ筋はある」から、何回でも楽しめると思う。
    また気が向いた時に読みたい。

  • やっとちゃんと読み切ることができた。
    夏目漱石の文体が、読み進めるうちにどんどん変化していって、まるで生き物みたいだなと思った。
    最初と最後では文体がまるで違う。
    中盤からサクサク読めないのはちょっと辛かった。

    猫の視点から見る人間の世界は時々面白く、寂しく、退屈で、平和だ。
    人間がああでもないこうでもないと議論している光景が目に浮かぶ。
    それをなんでもない光景として片付けてしまっても良いのだが、掘り下げると当時の状況がちらちら見えたりする。
    だらだら読むのが丁度良いのかもしれない。

    名前のない猫の意外な末路はうっすら知っていたものの、愛着が湧いた頃にそうなってしまうのだから、寂しさと喪失感が半端無かった。
    呆気なさはとても堪える。
    寂しい。

    また時間を空けて読み直したい。

  • 2017/05/11

  • 人間社会についての評論を猫に語らせた漱石の処女作(1905年ホトトギスに発表)。「吾輩」の主人で中学校の英語教師苦沙弥の書斎には、ホラ話が趣味で金縁眼鏡の自称美学者迷亭、元教え子の理学士寒月、その友人の新体詩人東風、禅語を振りかざす哲学者独仙など「太平の逸民」が集い、理知的ではあるが滑稽なやりとりを繰り広げる。これに対して博識で知的な「吾輩」は鋭い批評を加える。

    やや冗長に感じる部分もあるが登場人物のやりとりはまるで落語を聞いているようで可笑しく、「吾輩」による社会批判も的を射ていて面白かった。

    冒頭「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。」p5

    印象的な部分
    「吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。」p9

    「人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。…かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。…要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。」p81

    「世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。」p167

    「鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流に達せられるのである。」p176

    「なるほど寝ていてする芸だから覚はないに違ない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。」p181

    「世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。狡猾になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人に碌なものがいないのはこの理だな、吾輩などもあるいは今のうちに多々良君の鍋の中で玉葱と共に成仏する方が得策かも知れん…」p202

    「とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である。何でも尻でも端折って、汗でも出さないと働らいていないように考えている。」p208

    「社会的動物である以上はいかに高く自ら標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。…好んで超邁を宗として、徒らに吾身の危険を求むるのは単に自己の災なるのみならず、また大いに天意に背く訳である。…庸人と相互する以上は下って庸猫と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば鼠を捕らざるべからず。――吾輩はとうとう鼠をとる事に極めた。」p209

    「どうしたら好かろうと考えて好い智慧が出ない時は、そんな事は起る気遣はないと決めるのが一番安心を得る近道である。また法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、…心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。」p213

    「彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。」p220

    「皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝ってさまざまの新形となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに被っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空を忌むごとく、人間は平等を嫌うと云う事だ。」p279

    「人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。」p353

    「すべて人間の研究と云うものは自己を研究するのである。天地と云い山川と云い日月と云い星辰と云うも皆自己の異名に過ぎぬ。自己を措いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。朝に法を聴き、夕に道を聴き、梧前灯下に書巻を手にするのは皆この自証を挑撥するの方便の具に過ぎぬ。」p355

    「自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊とく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然として吾を軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。」p356

    「主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴するにも係らず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。」p363

    「世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。」p387

    「はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を自ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。」p395

    「持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入らざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。」p407

    「世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽しているのである。その因って来るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶で癒せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。」p407

    「しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。…こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情ない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。」p410

    「塵積って山をなすと云うから、微々たる一生徒も多勢が聚合すると侮るべからざる団体となって、排斥運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支えあるまい。」p436

    「…古井武右衛門君一人の運命がどう変化しようと、主人の朝夕にはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情も自から薄い訳である。見ず知らずの人のために眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深い、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た賦税として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わばごまかし性表情で、実を云うと大分骨が折れる芸術である。このごまかしをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。」p445

    「人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう。」p459

    「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」p540

    最後「その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。…出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。『もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ』と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」p544

  • 如何なる時代でも、我々人間はかくもこうなのかと自戒を禁じ得ない。

  • ストーリーは知っているし、一部は実際に読んだことがあったのだけれど、通しで読んだのは初めてです。

    猫の視点で描いた偏屈な教師とその友人達との日常物語なんですが、主題が分かりづらく起伏のない物語でした。
    なので私は、全体を通した主題等は考えず(よくわからなくて・・・)、ディテールを楽しんでみました。

    例えばネコが、人間の「金持ち運動健康志向」流行に対抗し、自らも下等と思われたくないがために運動をしていると主張する描写がとても楽しくて、一番のお気に入りです♪
    木登りをして蝉に迫る「蝉取り運動」とか、落ちるか落ちないかの瀬戸際にチャレンジする「松滑り」、その他にもカマキリを捕まえたり垣根を走り回ったり、それらは「本能」ではなく「芸のある運動」なんです(笑)。
    漱石自身の社会批判の風刺でもあると思うんですけどこのあたり、想像してクスっとしちゃいました。。ネコかわゆい☆

    基本的にこの小説は、ダラダラとした無駄な会話の中で、近代日本の知識人の西洋崇拝を批判する、というパターンが多いんですけど、特に私は「自覚心」に対する議論が分かりやすくて印象に残りました。

    一部抜粋すると。。
    「今の人の自覚心というのは、自己と他人との間に大きな利害の溝があるということを知りすぎているということだ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むに従って一日々鋭敏になっていくから、しまいには一挙手一投足も自然にできなくなる。寝ても俺、冷めても俺、この俺が至る所につきまとっているから、人間の言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中苦しくなるばかり。」
    「今の人はどうしたら己の利になるか、損になるか寝ても覚めても考え続けだから泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の呪詛だ」
    「昔の人は己を忘れろと教えたものだ。今の人は己を忘れるなと教える。だから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が楽だと言って己を忘れるより楽なことはない」

    この他にも経済至上主義的な発想、自由主義のはきちがえ(享楽主義?!)などの批判が多く、この時代の気運やそれに漱石が危機感を持っていたことなどが伝わり興味深く読みました。

    独特のテンポを持つ文体や、落語的な会話の呼吸なんかに慣れてくるとより楽しめるようになります。
    お風呂屋さんの場面なんかも笑えました。。

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著者プロフィール

慶応3(1867)年、現在の新宿区生まれ。明治23(1890)年、帝国大学文科大学英文科に入学。明治28(1895)年から29(1896)年には『坊っちゃん』の舞台となった松山中学校で教鞭を執る。明治33(1900)年9月、イギリス留学出発。明治38(1905)年、『吾輩は猫である』を俳句雑誌「ホトトギス」に連載。明治40(1907)年、朝日新聞社に入社。以降、朝日新聞紙上に『三四郎』『それから』『こころ』などを連載。『明暗』が未完のまま、大正5(1916)年12月9日、胃潰瘍にて永眠。

「2018年 『道草』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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