それから (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.68
  • (362)
  • (501)
  • (750)
  • (52)
  • (15)
本棚登録 : 5775
感想 : 411
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010052

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 夏目漱石前期三部作の第二作。恋愛が完全な幸福としては成就しないのが三部作の共通するテーマだと思っているが本作では破滅へと通じる愛へ向かう高等遊民の悲劇が描かれている。
    世間の人々や物事に対して常にドライかつシニカルな目線を向ける代助の人格が文体にも反映されていて、終盤までは抑制の効いた落ち着いたトーンで物語が進むが折々で展開される代助の人生観が面白くて全く飽きさせない。終盤になり、代助自身も自我を抑えきれなくなるとそれに合わせて文も二、三段階ピッチが上がる。最後の平岡と代助のやりとりとそれを終えた代助の帰路の描写は狂気すら感じさせる。

    実家から莫大な資金援助を受け、悠々と暮らす代助と生活を営むためにあくせく働く平岡が対照的。かつてはお互いのために涙まで流した友人の仲が収入や社会階層の違い生じた小さなズレを契機に徐々に切り裂かれていくのが哀しい。もちろん絶交を決定づけたのは三千代の存在に違いないがその件を抜きにしてもこの二人はいずれ別れる運命だったろう。
    明日のメシが食えるかっていうのは否が応でも人の考えや行動に影響を与えるバイタルな問題だから。

    満足な豚であるよりも不満足なソクラテスである方が良いなんていう言葉があるが代助を見るとソクラテスはソクラテスなりの地獄があるのだなと実感。必要なものなら全て持っている人間が本当に欲しいものを手に入れようとした時、運命の手痛いしっぺ返しを食らう。豚にとって、悲劇とは飯が食えないことに違いないがソクラテスにとっての悲劇がこれならその悲しみは数段深い。

    三部作最後の「門」ではどんな恋が描かれているのか楽しみ。

  • 今でいう「働いたら負けだと思ってる」的な堂々たるニートっぷりの主人公・代助。親が資産家のおかげで衣食住に不足なく、教養を受け道楽を楽しみ人生を謳歌。読者の私としては、うらやましい限りである。
    一方、代助の父は一代で財を築いた実業家であり、兄の誠吾も社交家で毎日仕事の付き合いに明け暮れている。兄嫁も夫の忙しさには寂しさを隠して理解を示している。ところへ、学生時代の親友・平岡が会社のいざこざに巻き込まれて辞職し、東京へ戻ってきて代助を訪ねる。平岡は金に困って奔走していた。平岡には三千代という妻がいるが、彼女は学生時代から代助とも親しかった。平岡の結婚に三千代を斡旋したのは代助である。三千代は心臓が弱く、子を成したが亡くし、また平岡の辞職によりいっそう具合を悪くしている。
    そういった背景の中、代助は平岡に金を貸したり、貸すために兄嫁を訪ねたり、といったエピソードがだらだらとスローテンポで描かれる。平岡がパンのために奔走するのを気にかけながらも、自分はパンのためにあくせくしたくない。とニートっぷりは一点も曇らず。
    そんなフラフラしてないで世帯でも持って一人前になりなさいよ、と父をはじめ外野が代助に結婚をすすめてくる。この縁談の催促を、代助は前々から持ち前の曖昧な態度でのらりくらりと交わしてきたのであったが、いい加減にせえよ、と父の怒りは増幅中。兄嫁も心配しあれやこれやと口出しするようになる。そんな中、代助は、親友の妻である三千代に対する自身の気持ちに気付いてしまい……。


    前半の、のらりくらり具合もそれなりに面白い。が、後半、三千代への怒涛の告白に心震わされた。物事はどんどん行き詰まっていくばかり、残りページ数から見て、この展開にどうやって決着するのか……と思っていたら、まさかの終わり方で(笑)
    えっ!それからどうなったのよ?!と思わずつっこんでしまった。さすが「それから」である。あえて書かなかったのでしょう。

    全体に漂う耽美感。代助の、世の中に対する捉え方に色彩がついてまわるのが美しい。
    世の中が動く、というのは、もうニートではいられない。文明の進む方向は経済が中心になっていく、という民主主義に対する意見なのかな。繊細さんは生きづらい世の中に……。それとも、もっと深い意味があるのかな。

  •  千年読書会、今月の課題本でした。学生の時に読んだ記憶があったので、手元にあるかと思ったのですがなかったため新潮文庫版を購入。他の漱石の蔵書と比べて大分新しい見た目となってしまいました。。

     さて、本編の主人公は「代助」、とある資産家の次男坊で、大学は出たものの、30歳をこえても定職に就かず、フラフラと気ままな日々を送っています。当然結婚もしておらず、学生時代の友人「平岡」の妻「三千代」にほのかな憧れを抱いているものの、二人の幸せを祈ってる状況だったのですが、、その夫妻が仕事で失敗して東京に戻ってくるところから物語が動き始めます。

     代助はいわゆる“穀潰し”なわけですが、家族には愛されているし、期待もされている。今でいう、ニートや引きこもり、、ってほどにネガティブでは無く、当時の高等遊民との言葉がまさしく言い得て妙です。ただ、危機感のなさからくる“社会”との乖離は共通しているのかな、、

     背景となる時代は、日糖事件のころですから、1910年前後でしょうか。一等国ぶっていても、借金で首が回っていないとか、日露戦争後の日本社会状況を冷静に見通している、知識階層の感覚もなんとなく垣間見えて面白いです。

     そんな中での“金は心配しなくてよいから、国や社会のためになにかしなよ”との、父や兄の言葉はなかなかに象徴的だな、とも。次男・三男に、金銭よりも公共性の高い事業へのケアを求める。そういった観点からの社会への還元は、ある種の分業とも取れて意外とありだなぁと、そして、今でも結構あるよなぁ、と。

     さて、仕事にしくじって戻ってきた平岡夫妻、なかなか思ったような再就職もできず手元不如意に。そんな夫妻の危機に対し、金銭的には力になれない代助は、自身の無力さを感じるものの、社会に対してはまだどこか他人事のように接しています。

     そのまま十年一日のように過ぎていくのかと思いきや、夫婦間の根底の問題に触れ始めたころから、他人事ではなく“我が事”としてのめりこんでいくことに。。

     単純な愛情だけではなく、二人の不遇が故の同情もない交ぜになったその様子が、どこかアンニュイに世界と関わっていた代助が変わるきっかけに。その三千代への狂おしいほどの想いとしては、どこから来ているのか、そんな心の機微が濃やかに描かれています。

     並行して進められている、いわゆる“いいところの御嬢さん”との縁談の話との対比も象徴的で、価値観の合わない女性との結婚に、イマイチ前向きになれない代助ののらりくらりとかわそうとする煮え切らなさも面白く、、どこか微笑ましく見ていました。

     そして興味深かったのは代助と平岡の仕事に対する意識の違いでしょうか。代助は「食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪い」、平岡は「食う為めだから、猛烈に働らく気になる」と、これは今でも同じかなと。どちらも“あり”だと思いますが、個人的には代助に共感を覚えます。

     終盤、代助は勘当された状態となり「職業を探してくる」なんて風になるわけですが、代助が「自分のこころに対して愚直なまでに誠実」であることは、物語の最初から一貫していると思います。表面的には、坊ちゃん然とした甘ったれにも見えますが、当時の家族とのしがらみや金銭的な問題をも飛び越えての、代助の在り様と、それを受け入れようとする三千代は、なるほどなぁ、と。

     「仕事は“何のため”にするのですか?」

     こんな問いかけをされているように、思いました。「家族を養うためにきつくても嫌でも我慢して、働いてやっている」なんて風潮に疑問を投げかけながらも、かといって、霞を喰って生きていくわけにもいかないとの現実的な問題も対比させて。劇中の代助の選択肢はいくつもあり、自分だったらこうするのにとの投影も可能だと思います。

     ラスト、代助と三千代、ふたりの“それから”がなんとも気になる終わり方となるわけですが、、物語としては生殺しですが、問いかけとしてはこのオープンエンドはありだなと。このような物語を当時の時代を踏まえながら描き出せるのはさすが漱石といったところ、今まで読み継がれているのもあらためて、納得でした。

     ついでに言えば、代助を男性として見た場合の魅力はどうなんだろうと、女性にもきいてみたい、そんな風にも感じた一冊です。

  • 簡単に言うと、裕福な家庭に育つたニート青年が友人の妻と不倫してしまった話し。ラストシーンで、全てを失いかけた主人公の狂気じみた心理描写は、圧巻だった。

  • 何故棄ててしまったんです。確かに後からこんな事言われたらせやわな。

    でもその時は気付いて無かったからやろうけど、今になって全てを棄てる覚悟で三千代に行くのはどうなんやろか?

    もし自分が代助なら政略結婚にホイホイ乗っかって行くやろうなぁ。

  • あらゆる面倒を独自の解釈やロジックて回避、正当化し本能のまま時間を貪る主人公。
    観察眼鋭く常に上から目線が鼻につくが、趣味に生きる姿は周囲からは羨望と葛藤が感じられた。

    ふと気づいた思い、その源泉を検証する様、結論の導き、と様々な苦難や選択、判断を下してきた者ならば到達しないであろう答えを導くあたりは緩い生活をしてきた者の哀れを感じた。

    自己中な放蕩息子の末路。
    盲目的に突き進み周囲の者は離れ、身を焦がすような思いやこれから想定される破滅など現代でも何処で聞いたようなリアルさがあった。

  • 食べるための仕事は嫌だ、なんて言いながら、事業家の親の金で日々を暮らすニートが、友達の嫁を好きになり、親に愛想尽かされ、友達も失い、いよいよ食べるための仕事をしなければならない、と追い込まれる話。

    日露戦争後の時代背景や、夫々の心情の捉え方が現代とは異なるかもしれないけれど、結局そういう話。

    なんというか、主人公の身勝手さに悲しくなりました。

  • 知識人で頭が良いからこそ、食のためにする仕事は本当の仕事じゃないと言って高等遊民を決め込む代助は、三千代との不倫の愛の結果実家から勘当され、火がついたように仕事を探し始める。
    行雲流水の自然に従えば三千代を愛さずにはいられない。冒頭から代助が自分の心臓を確かめる癖があることが描かれ、三千代は心臓病で、血潮についての描写もあり、「こころ」とのつながりを感じた。最後の赤は怒りの色というよりは、命の色、活動の色のように感じた。

  • 明治 思想 モラトリアム 理 愛 百合 赤

  • 働く者からしたらただの屁理屈にしか聞こえない「高尚な精神」を言い訳として悠々自適に暮らす、現代でいうニートの代助。授業のグループワークで友人が代助に「ひねくれクソニート」というあだ名を付けていた…
    それまで淡々と、飄々と生きていた代助だったが、三千代への愛を自覚してからは激しい苦悩に襲われる。その苦しい心理を非常に細かく丁寧に、言葉を尽くして書いている。色彩の描写が印象的で、特に最後の赤、赤、赤の所は読んでいるこちらも頭がぐるぐるしてくるようだった。また、所々に漱石自身を思わせる描写があった。
    物語というより、代助の思想や感情が大半を占める本。
    彼は「それから」どうなったのだろう。

  • 純情と体裁の対立、と見た
    父、兄、平岡は、世間体や常識を重んじる人達である
    現在の価値観とそぐうものであるかはさておきとして、彼らの理屈も分からなくはない
    対して、代助と三千代は純粋である
    たとえ、世間がどうであろうと自分の信じたことを進む
    それは一種の刹那的な言動であり、そのことが後々の彼らを地獄に落とすこともある
    それでも、彼らは自分の思いを貫こうとする
    どちらにも良い悪いはない、ただただ、この二項対立の深みに物語ごとはまっていってしまった

  • 明治期のニート、なかなか賢そうだったし読んでいて面白かった

  • 主人公の恵まれた境遇が羨ましく、抱えている悩みは恵まれているからこそ持てるものでしかない、と嫉妬してしまいました。けれどもそうだからこそ面白い、というか興味深い。三四郎よりこちらの方が個人的には好きです。次は門を読む予定ですが、どんな内容か楽しみです。

  • 『三四郎』に次ぐ『それから』、『門』は三部作と言うが、『三四郎』のようなユーモアはなく終始シリアスな文体と展開だった。
    基本的には夏目漱石のユーモアをこの上なく愛する私ですが、『それから』の心理描写や表現は素晴らしく夏目漱石の文学が好きと再認識するものであった。
    当時の新興ブルジョワ社会に対する著者の批判も感じられた。
    最後主人公の代助が狂気に陥っていく様は圧巻で、それから?と問いたくなる終わりであった。

  • 三四郎に続く2作目。昔の恋愛というのは本当に自由が少なくて幸せになることがどれほど大変かを感じてしまう。代助は良い人だと思うが、三千代と真っすぐに結ばれていれば良かったのにな。

  • 自分のことを書かれていると思う瞬間があると、その世界に引きずり込まれる。読み始めは、なんでこんなやつが主人公なんだろうと思ったが、前半のやや緩慢な描写を布石として後半の急転がよりドラマチックに感じられた。すっかり夢中で読んでいた。

  • 後半、三千代と語り合う場面と平岡との対峙の場面の盛り上がりが素晴らしい。

  • 「三四郎」「それから」「門」は夏目漱石の前期三部作と呼ばれているようで、「三四郎」をずっと前に読んでいたので、それでは次は「それから」を読もうかと思って手に取った本書。最初は「三四郎」の続編なのかと思っていましたが、どうやら三部作とはいえ、主人公はそれぞれ異なるようですね。解説によると、「三四郎」の主人公のような人物の”それから”を描いた作品とのこと。

    前置きはさておき、本書の主人・代助がとにかく理屈っぽくて、なんだか頭はいいけど内面は子供のままな印象。何かやりたいことはあるんだけど、それが何かよくわからないから、先延ばし先延ばしで生きてきている。そんな主人公。屁理屈ばっかいってないで働け!といいたいけれど、実はたまに彼の考えに頷けるところもあって複雑な気分。誰しもが社会の流れに折り合いをつけて生きている、そんな現代社会において、その流れについていけない人物が、流れ自体を理屈っぽく批判している感じ。だからこそ、折り合いをつけている読み手からすると、たまに彼の言動に納得できたりするのかもしれません。

    見方によっては、ずっと子供のままであった代助が父親による強制的なお見合い、そして友人の妻・三千代との出会いをきっかけに大人になっていく、そんな物語かもしれません。一方、代助は三千代への恋心を”思い出した”のではなく、実は強制的なお見合いから逃げ出す口実として、”思い出したことにした”のではないかと思ってしまいました。もちろん代助はそんな自らの心境は理解していないでしょう。それは代助のやけに理屈っぽい性格がすべて彼を正当化するためだけにあるものであり、彼自身も自らの内面を理解し切れていないのではと思うからです。そう考えると、まあ確かに最終的には大人になった代助なのでしょうが、なんだか悲しい、というかやるせない物語だなぁと思ったり。

  • 代助の親友への態度は、苦悩の末の誠実さを供えたものだったが、やはり現実社会の仕打ちは厳しかった。私も、代助ほどではないし性質も異なるが、社会から遠い生活をしているので、後半は特に彼
    に感情移入して辛かった。最後、代助はどんな気持ちで職を探しにいったのだろう。いっそすっきりした気持ちならいいのだが。三千代が、今後幸せなれるのかも気になる。代助と平岡の関係が変わった以上、三千代はこのまま涙を流し流し短い生涯を耐えなければいけないのかもしれない。代助は、様々な重たい運命を背負ってそれからを生きるのであろう。

  • こんなことを言うのははばかられるようですが、主人公の生い立ちと思想には、かなり共鳴できるところがあります。


    ことをしなくとも、手に入るものがあって、それで満足できるのなら、なにも汗をかくことはないではないか。

    自然とそうなるべきものは、そうしておけばよいのではないか。

    流れに身を委ねながら、ときに僅かに舵を切りさえすれば、のらりくらりとそれなりの岸にたどり着けるのではないか。


    そういう態度が、いつの間にか希望と違う不可逆な状況に至らしむるものであります。

    そんな態度の集積が、彼の思想を腐敗さたとも言えます。

    そしてその思想が、破滅的な情動となって、ある狂気に帰結する。


    自身の経験と重ねあわせながら、じっくりと味わいました。

  • 朝日新聞では、昨日(3月23日)まで再連載してゐた『三四郎』の後を受けて、4月からは『それから』の再連載を開始するさうです。再連載シリーズも『こころ』から数えて三作目といふことになります。いつまでも漱石の名声に頼るのはいかがなものか、とも思ひますが、まあ良いでせう。しかし、折角再連載するならば、当時のやうに完全復刻していただきたいなあ。せめて新仮名に直さずに紙面に載せてほしいものであります。

    で、『三四郎』『それから』ときたら、次は『門』だなと想像がつきます。いはゆる三部作ですな。これらは「前期三部作」とも呼ばれ、対応する「後期三部作」は『彼岸過迄』『行人』『こころ』といふことになつてゐます。
    高校時代の国語の試験で、漱石の三部作を答へよ、といふ問題がありました。文学史の問題は国語と関係ないと存じますが、国語教師は文学カブレしてゐるので、しばしばかういふ出題もあつたのです。
    その問にわたくしは、ご親切にも前期と後期の三部作をそれぞれ記入したのでありますが、採点ではペケになりました。どうやら出題した先生は前期三部作しか認めない姿勢で、余計なものを書き込んだとして不正解にしたのでせう。以上は、どうでもいい思ひ出であります。

    この作品は、初読の前から、主人公が何やら親の脛を齧りながら仕事もせず、しかも口八丁で親族を馬鹿にしてゐるやうな人物らしい......といふ情報が入つてゐたので、「そんな奴が主人公なのか。長井代助だと? ケッ。何が高等遊民だよ。好い気なものだ。漱石ともあらう人がこれは設定ミスだな。どうも感情移入も出来さうもないぜ」と先入観を持つて読み始めた記憶があります。

    さはさりながら、つらつら考へるに、漱石作品の主人公は大概、読みながら苛々させられる奴ばかりではなかつたでせうか。
    『坊つちゃん』には「もつと世間を知れよ」と思ふし(まあ、だからこそ「坊つちゃん」なのだが)、『三四郎』に対しては「美禰子さんが好きなら態度をはつきりさせろよ、うぢうぢするな!」と云ひたくなるし、『こころ』の先生には「せつかくお嬢さんを妻に迎へながら、不幸にさせるとは怪しからんぞ」と、尻に敷かれつ放しのわたくしは慨嘆するのであります。

    はたせるかな、『それから』を一読して、やはり唸つてしまひました。うまい。何と言つても構成の妙ですね。まだ文学形式として未成熟だつた頃の「現代小説」としては、完成度が高過ぎると申せませう。ま、中には「こんなの名作でも何でもない。単なる手前勝手なニートの話ぢやないか」と斬り捨てる人もゐますがね。それはそれで分かる。

    しかしねえ、後半、代助が世俗的倫理を捨て、恋愛に走るあたりから終末にかけては、ほとんど神憑り的な展開ではないでせうか。
    周囲がすべて赤く染まつた中で、電車に乗り続ける代助。ああ、代助の「それから」が気になつて仕方がないのであります。
    万人受けはしないかも知れませんが、わたくしは『こころ』よりも好みの作品です。皆様も読みやあよ。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-531.html

  • 主人公は30歳にもなって定職に就かずに親のすねをかじって、友人に職に就いたらどうかと言われれば「世間が悪い」だのよくわからない理屈をこねくり回すし、しまいには友人の奥さんに手を出す始末。こっちのほうがよっぽど「人間失格」だ

  • 30歳になって、定職に就かず結婚もせず親からの援助で暮らす明治時代の高等遊民・代助。
    代助は学生時代の友人である平岡と三千代の結婚を斡旋。しかし、実は代助は三千代に恋をしており、その事実に今さらながら気づく。また三千代も代助を愛していたのだった。
    この小説は明治時代を背景にしているという事を考えて読むべき。個人同士の恋愛というものが結婚の条件として現れ始めた頃だろうか。だから代助は親が薦める結婚の話はすべて断っていたのだ。
    時代の変遷を学ぶという意味でも面白い小説だった。

  •  代助はまったくだめなやつだ……と実感を持って思うのに、どうにも嫌いになれないのは、自分の考えに固執して他者を見下したり、あるがままであろうとして動くべき時に動けなかったり、そういう彼の生き様に、情けなくも共感してしまうからだと思う。
     麺麭のために生きるようになったら終わりだと思っていた。けれど彼はその道を選ぶしかなくなった。信念を折った彼は柔軟になっていけるのかな。
     個人的には、代助は宗助に直結しないと思う。自分で決断した彼はたぶん、あそこまで弱くない。そうであってほしいと願いたいだけかもしれない。

     告白のシーンが好きです。飾り気がないのが、ぐっときました。
     あと兄さんの啖呵が刺さりました。信じてくれていた人に、想像が及ばないほどに馬鹿だったのだと判じられた。兄さんもやるせなかっただろうな。

  • 本心に従おうとしなかった昔の自分が、今の自分を苦しめていることにとても共感した。
    だれもが自分の中にそういう後悔があると思う。あの時勇気を出していればよかったとか、あの時こうしたかったとか。この本は恋愛の視点から書かれているが、人間の人生で普遍的な題材が書かれている。

  • 面白かったが、パンのために働くことを馬鹿にし親の臑をかじってぶらぶらしている序盤の代助には全く共感ができなかった。とはいえ少々耳が痛い部分もあった。これから先、彼は三千代を抱えてどう生きていくのだろう。

  • やっぱり漱石すげぇ 笑
    この一言しか出てこない。代助にも三千代にも、そのほかのキャラクターにも一切読者を寄り付かせない。でも離さない。解説で対比されていた「オイディプス王」をたまたま同じタイミングで買ったのは、運命なのでしょうか。

  • 高等遊民である代助はぶらぶら働きもせず、結婚もせず父の勧めにも載らず、友の妻を奪おうとする自堕落な生活を送っている。但し、三千代と知り合い、人の妻を略奪しようとし、打ち明け、三千代からも覚悟の言葉を聞き、平岡と代助が争うようになるところはこれまでの漱石の小説とは違うと思った。自分自身の人生を生きている気がした。病気である三千代とは結ばれない感じだが、自ら動いているところに女性への積極性を感じた。

  • 前半はのんびりした日常を覗いている気分だったが、後半の急展開からは心臓をドキドキさせながら読んだ。
    ラストの電車に乗っている時の描写は何か芸術性を感じた。

  • 夏目漱石の前期3部作の2作目。主人公の長井代助とその友人平岡、平岡の妻で代助のかねてよりの思い人美千代とのある種の三角関係を描く。
    夏目漱石自身が言っているように、まさにいろんな意味で「それから」という感じであった。『三四郎』の直接の続編ではないが、その「それから」を描いた作品であることは間違いない。そして、結末も、「それから」どうなるんだという感じである。
    1909年という100年以上前の話であるが、世の中に対して冷めていて、なぜか上から目線な代助の心理描写など、現代(の20代・30代)にも通じるところが多く、全体的には代助に対して感情移入できなかったが、ところどころ共感する部分もあり、流石夏目漱石と感じた。

著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

夏目漱石の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
谷崎潤一郎
ヘルマン ヘッセ
フランツ・カフカ
ドストエフスキー
三島由紀夫
安部公房
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×