門 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010069

感想・レビュー・書評

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  • 全体に漂う閉塞感、解決策は見出せず、不安は常にある一方、日常はそれなりに幸せに過ぎていく。その辺りに今の社会状況と類似を感じながら読みました。

    現代で言うところの公務員である宗助が夫婦で質素に暮らす様子、高校生の弟小六が、自分は大学で学び兄夫婦よりも輝かしい暮らしをすると漠然と考えているところ(特定の職業や方向性等の具体的イメージはない)、土地持ちの大家の裕福な暮らしぶり…。そういう点に注目していると、現代の小説と錯覚してしまいそうでした。

    大きく話が動くこともなく、淡々とした日々が描写され続けるのみ。それでも物語に惹き込まれて一気に読んでしまったのは、やはり読み継がれて来た名作の持つ力ですね。

  • 世間の片隅で夫婦ふたり、寄り添って暮らす宗助と御米。日々は基本的に穏やかに過ぎるが、宗助の弟が居候したり、御米が具合悪くなったりとちょいちょい事件も起こる。そんな中、思いがけなく親交を持つことになった大家の坂井の家で、昔の知り合いと引き合わされそうになる宗助。その男安井とは、かつて御米を巡ってトラブルがあった(らしい)。夫婦して触れないようにしてきた過去の傷に向き合うのに堪えなかった宗助は、ひとり寺の門を敲くのであった。どうしてそうなるの。
    宗助は言葉足らずで時々デリカシーを失するが、妻のことを物凄く愛している。御米もまたあまり多くを語るタイプではないが、夫を愛し細やかに気遣っている。Not love,but affection という感じの、静かな情愛に満ちた夫婦だ。だがそんなふたりにも過去にえらいことをしでかした経緯があるようで、それをかばいあって生きるが故の強い結びつきなのだろう。
    宗助は寺に行って何事か悟らんとするが、今後安井に会わなければならないなら引っ越そうくらいのことしか思い至らない。まあ十日やそこら座っていただけではそんなところが妥当だろうが、それをやったということに意味があるのかもしれない。いやどうかな。そうでもないか。
    結局安井には再会せず、思い悩んでいたカタストロフもなく、何も起こらず日々は続いていく結び。だが決して以前とは同じではないことに、少しひやりとさせられる。

  • 夏目漱石の文学は、現代的である。

    彼が生まれたのは、1867年、慶応三年のことである。
    大政奉還が行われ、急速な変化を告げる激動の日本。
    和服にちょんまげ、腰に刀をさげたお侍さんやら小奇麗なタキシードに蝶ネクタイ、ステッキを持って町を歩く紳士諸君。
    そんな時代に生まれ、そんな時代を生きた彼が描く作品が、21世紀を生きる読者の心をがっちりとつかむ。そしてそれは古典としての面白さというよりも、不思議と親近感を覚えてしまうからである。

    現代的な問題。
    それは、どう生きるかという価値の問題である。

    最低限の衣食住が確保された上で、人間の尊厳や意志といったものは、どれだけ保障されうるのか。
    高度経済成長が止まり、全員が共有できる意味や価値を喪失し、それぞれが散り散りになっていく社会。
    「多様性」という名のブラックホールに飲みこまれ、個々の価値を築くことは各人の裁量の中に限定されていく。
    核家族化という現象の終着駅は、核個人化であった。最小単位となった個人は、オンライン上で匿名性の悲痛な叫びをあげ始める。

    宗助と米子の生活は極めて厭世的だ。
    俗世的な煩わしさから遠ざかり、二人独自の空間を構築している。

    宗助の弟がそんな兄の様子を描写している個所がある。
    資金難で大学に継続して通うことが困難である自ら(弟)の状況を踏まえ、
    「するとどうしても自分一人がこんな境遇に陥るべき理由がないように感じられた。それからこんな生活状態に甘んじて、一生を送る兄夫婦がいかにも不憫に思えた。」

    大学進学、成長、就職・・・・名誉や収入、肩書といったことにこだわる弟と兄の対比がここにはある。


    しかし、宗助は過去のある瞬間以降、そうした欲求を持つことを止めたのだ。

    「彼らは複雑な社会の患いを避け得たとともに、その社会の活動から出る様々の経験に直接触れる機会を、自分とふさいでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を捨てたような結果に到着した。・・・外に向かって生長する余地を見出し得なかった二人は、内にむかって深く伸び始めたのである。彼らの生活は広さを失うと同時に、深さを増してきた」

    ある退役アメリカ軍人が過去の戦争で心に深い傷を負った。そんな彼の言葉とこの宗助の生き方は重なる部分が合った。

    そのアメリカ軍人は退役後、美術の先生として活動した。
    彼曰く、戦争の後から白いキャンバスに描くのではなく、黒く塗りつぶしたキャンパスに絵を描くようになった。
    それは、人生にも通ずるのだという。人生における黒い部分をどれだけ上から明るい絵の具を塗っていくかということ。黒い故に次第に黒が浮き上がってくるが、それを地道に塗り直す作業が、人生なのではないか。と彼は言う。

    宗助における過去は、かれにとって闇以外の何物でもなかった。彼は米子とともにささやかながら上からカラ―を足していっている。

    現代において生きることとは、価値を内側に掘り進め、無意味であるということに対して継続的に抗っていくことなのかもしれない。

  • 2009/07/22

  • 夫婦の幸せな毎日の物語。だけどそれは昔犯した罪があって成り立っているもの。
    改行が少なく、1ページ1ページに文字がぎっしり詰まっているので読みづらかった。

  • 暗い・・・この淡々とした感覚。小六の気持ちをいつまで持ち続けられるのか・・・

  • 名作って難しい。普段娯楽小説ばかり読んでいるせいか平坦なストーリーに読むスピードが上がらず。こんなに薄い文庫本なのに完読するのに苦労しました。

  •  この作品を読み、時間の流れが緩慢で淡々と進んでいくような印象を受けた。新たな事件が起こりそうになっても結局は何も起こらないままであり、過去の問題も未解決なまま物語が終わるのである。また、『それから』のその後の話という感じがした。『それから』では、代助が友人の平岡の妻であった三千代を自分の妻にするという約束をし、家族に縁を切られてしまうところで物語が終わっている。『門』では、親友の安井を裏切り夫婦になった宗助と御米が暗い過去を背負いながら細々と生きていく様子が描かれている。本文には安井を裏切ったという経緯はまるで書かれていないが、『それから』の続きだと考えて読めばスムーズに読むことができるように思う。
     そして、この作品にはいくつか疑問を感じた。まず、御米とはいったい何者なのだろうか。安井は宗助に御米を自分の妹だと紹介していたが、私は御米が安井の妹ではないと考えている。本当に御米は安井の妹ではないのだろうか。本当の妹ならばすぐに宗助に紹介するだろうし、安井がわざわざ一軒家を借りたのは家族が増えることを想定しているからではないだろうか。さらに、本当に妹であるならば、宗助と御米が結婚したことで二人が安井に対して罪悪感に苛まれ、社会から棄てられることもなかっただろうと思う。しかし、婚約者だったというならば、安井がなぜ妹だと嘘をついたのかもよく分からない。また、御米に関して言えば、美禰子や三千代とは違った印象を受けた。御米は隣の部屋にいても誰もいないかのように静かにしているし、宗助と夫婦になってからも針仕事ばかりしているように、物静かで奥ゆかしい印象だった。こんな女性が、美禰子や三千代のように奇怪な行動をとって宗助を誘惑したのかどうかも疑問だ。
     次に、主人公の宗助について考えたい。宗助が御米に何も言わずに鎌倉の禅寺へ行くことを決めたところが最も気になる部分である。御米に要らぬ心配をかけまいとしての行動だとは思うが、それは本当のやさしさとは言えないのではないだろうか。そのときの宗助はどうすれば胸を抑えつける圧迫から今の自分を救い出せるかということばかりを考えており、他人のことを考えるような心のゆとりを持ち合わせていない。自分のことで精一杯で周りがよく見えておらず、御米の気持ちを考えていない。もし、自分に隠していたことを御米が知ったならば、御米は少なからずショックを受けるのではないだろうか。夫婦ならば包み隠さず相談すべきだと思う。相談されれば、自分がその人に信頼されているのだと実感できるし、安井に関する問題には御米も関係しているのだから御米もきっとそれを受け止めて一緒に考えてくれたのではないかと思う。話し合わなければお互いを理解することはできないし、一人で何もかも抱え込んでいるのは辛くて苦しいことだ。どこかで捌け口を探さなければそれがどんどん溜まっていって、いつかその人自身を押し潰してしまうのではないだろうか。しかし、そういう宗助だからこそ、救いを求めて禅寺へ向かったのだとも考えられる。その結果は芳しくなく、問題は何も解決しないままだったが、一人で試行錯誤を繰り返す様が人間らしいようにも感じられた。
     最後に、夫婦の関係について考えたい。この夫婦は「道義上切り離すことのできない一つの有機体」であり、互いに互いを頼りにして生きているのだが、二人の間には埋められない溝のようなものがあるように思う。二人とも罪悪感を抱いてはいるが、その内容が違う。御米は三度出産に失敗し、特に三度目の出産が死産だったことに徳義上の呵責を受けているが、宗助は親友から御米を奪ったことに対して罪悪感を抱いている。そして、宗助は御米の不安を真剣に考えようとはしないし、宗助の罪悪感は御米の埒外にある。お互いに一人で不安を抱え込み、何も語らない。だが、お互いに過去を忘れようとし、何も告げなかったからこそ、この夫婦関係の平衡が今までどおり変化なく保てたのかもしれない。ガラス細工のようにもろく綱渡りのように危うい関係がなんだか物悲しい。
     夫婦の暮らしぶりを見ていると、幸せと不幸は表裏一体で引き離せないもののように思える。宗助は御米を手に入れたと同時に、その対価として社会から見放される生活を与えられたような印象を受けた。そして、二人の生活は外に広がりを求めないことで内に深く延びていき、これ以上の明るい未来は期待できないが、その代わりに晩年までずっとこのままの平凡な生活が約束されるのではないだろうか、という気がする。
     色々ボロクソに言っているが、個人的に三部作の中では『門』が一番好きかもしれない。たぶん、宗助の人間らしいところや、宗助・御米夫婦のひっそりした感じが好きなんだと思う。

  • いつ話が始まるかと思っていたら、始まらないまま終わってしまった。
    色調が全部の色に灰色を混ぜたような話だった。解説にあったけど、まさに「くすんだ」話だな。
    これで前期三部作は抑えたぞ。
    門を読む動機が、崖の上のポニョを観たからだなんて。三部作コンプリートも動機ですよ。

  • 親友を裏切って妻を得た主人公がいかに暮らしていくかという話。

    解説などを読むと、「一種の暗さがある小説で、これは漱石の病気が原因である」との論調が多い。

    確かに、叔父や弟との関係は間違いなく暗い。

    それ以上に最後の方に裏切った親友が近づいてくるあたりはなお暗い。

    しかし、その隙間隙間に貧しいながらも恵まれないながらもつましく愛を持って暮らす夫婦が描かれる描写に僕は一種の幸福の形をみた。

    愛だけじゃ生きていけないとはよく言われるが、宗助と御米夫婦はそうではない形を見せてくれた。これが一点。


    もう一点はなぜ『門』というタイトルなのかということ。

    親友が近くにいることを知った宗助は山寺の門をたたく。禅に救いを求めるのだ。それが『門』なのであろう。

    しかし彼は門を精神的にはくぐることができなかった。親友が近くにいる現実と向き合いながらいつかまた「冬」が訪れることを予期してこの小説は終わる。




    結局、一種の幸福を読者に味わわせながら、その後の暗闇を想像させるのである。

    『それから』のような露骨な悲劇的結末ではないのだが、突き放された分、読者には『それから』以上に暗さを印象づけさせる結末である。

    この3年後、『こころ』が生まれる。

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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