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本 ・本 (228ページ) / ISBN・EAN: 9784101010090
感想・レビュー・書評
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この作品は小説というよりも漢詩の世界ですね。
漢字熟語の多用と、主人公である画工(画家)の理屈っぽい思考展開で読みにくいことこの上ないのですが(笑)、ひとつひとつの場面が美しい絵(画)になっていて、これは情景を楽しむ作品ですね。自分の好きな場面は、床屋の場面と茶席の場面、そして主人公と娘の一見すれ違いだが気の利いた会話の場面などです。主人公がそうしているようにどの場面を切り取って読んでも絵になっています。
しかし、仙人の世界の物語かと思っていると(笑)、場面場面における世俗な話とか芝居っ気たっぷりな娘、絵になる情景を求めその画家としての境地を目指す主人公の思念など物語としてもこれはこれで面白かった。
これは漱石の理想の世界なのかもしれませんね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
小説なんか本を開いたところをいい加減に読んでいるのが楽しいという主人公の青年画家に「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋の外に何か読むものがありますか」と、山里の温泉宿で出会ったわけありな宿の娘の那美が返すのだが、本作はその那美の台詞に応えるように、筋以上に素晴らしい「画」がたくさん出てくる。宿での中庭越しに、少しだけ空いた障子の隙間に、一人つかっている湯船の湯煙越しに、主人公がとらえる那美の姿。人が誰も入ってこないような森の奥の池の椿の大群生、那美の兄の家から眺める蜜柑畑の広がり、出征する那美の従兄弟を停車場に送るまでの舟からの通り過ぎゆく眺め。それらが画題を切り取るように画家の目を通して描写される。文中、画の対象がないその場の空気のようなものを描きたいと主人公が言う場面があって、それは漱石自らの創作上のテーマのようにも感じたが、漱石がタルコフスキーや溝口や小津の映画を知ったら、画や詩だけでは表現できなかった方法の答えになったかも。いやむしろサイエンス・サルのような制作会社のアニメ作品こそ草枕の世界を最もうまく描けるかも知れないなぁなんて思った。百花繚乱のような漢語の修飾、床屋問答みたいなゆるい会話だけのような場面の、西洋近代文学のアンチテーゼのような表現の創出や、ラスト近くの近代文明主義の批判などの舌鋒の強さに、現代の世界各国のミュージシャンや映像クリエイターがやっているように、当時の文化の第一線であったろう文学者たちもお互いにバチバチやってたんだろうなぁと思ったりしたのだった。
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なんだか気障な話だなぁ
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自分には敷居が高いと思っていたけれど、不思議なことにページをたぐる手が止まらなかった。
言葉のひとつひとつの意味は咀嚼できなかったけれど、山や花や鳥といった自然界の有様を、日本語という表現手段で、ひとつひとつ丁寧にはたを織るように描き出しているようでした。
それがまるで森林浴でもしてるかのような心地よさを呼んでいる。
それは絵画のようでもあり音楽のようでもあり。
これは小説を読むというより体験に近かった。 -
僕の好きな著者である夏川草介は、
夏は、夏目漱石。
川は、川端康成。
介は、芥川龍之介。
そして草は、草枕(夏目漱石 作)からとっていて、本作に興味を持った。
生きづらい世の中から煩いを切り離して映すことができるのが画や詩である。この非人情を主人公が求める物語。
知が働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。そんな生きずらい世の中は現代も同じだなと感じた。本作のテーマは「自分を主観で見るから辛い。自分を詩中や画中のように非人道(自分の利害を棚に上げる、他人事、都合の良いように)にする事で楽になれる。」だと思った。
しかし、当の主人公が水墨画でなく、絵の具を使った西洋画に拘っている。かと思ったら、西洋から取り入れた文明に対して並々ならぬアンチテーゼを述べていたり。
本作はそんな単純な話ではないと思った。また整理しながら読み直したい。 -
小説でもありながら、文学評、芸術評のような側面もある。
西洋の文明がもたらされ、一気に文明化が進む明治時代。その時代において、文明の恩恵を受けながらも、自然の中にある美的感覚や情緒が損なわれていくことへ危惧を覚えたり、気を揉んだりする人はいただろう。
本作は、そういったジレンマから生み出された小説のように感じた。
多彩な語彙と文章に美しさを感じたが、読みにくさはあった。また、ゆっくりと丁寧に読み返していきたい。
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初期の漱石作品で、文体はかたく、漢語や注釈も多いので決して読みやすい作品ではありません。それでも噛んでいるうちに、スルメのような味わいがして、久しぶりの美味を堪能しました。
「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」
気ままな旅をする主人公のつぶやき。短くリズミカルな言葉の中に、漱石の想いが凝縮しているようで、にんまりします。
当時の文壇や世上の批判をさらりと受け流し? 角が立とうがなんだろうが、ひとたび筆をとればどうにも止まらない、豊かな知識や芸術観や文明論、さらには儒教、道教、菜根譚や禅……作者の想いが溢れていてとても愉しいです。
また、主人公の画家を通した芸術論はそのまま漱石の文学に対する芸術論になっていて、まるで旅のつれづれに描いた随筆のよう。自然を愛する漱石の観察力と創造性はとりわけ鋭く、その卓越した表現は深遠でみずみずしい。
「……底には細長い水草が、往生して沈んでいる。余は往生というよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡のすすきならなびくことを知っている。藻の草ならば誘う波の情けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調えて、朝な夕なに、弄(なぶ)らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代の思いを茎の先にこめながら、今に至るまで遂に動き得ずに、又、死に切れずに、生きているらしい」
いや~素晴らしい描写と喩! そしておかしみのある描写も上手い! にくたらしいくらいに。
「……何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音が気になったことはないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと督促する如く、ねるな、ねるなと忠告する如く口をきく。怪(け)しからん」
文明開化とともに急速に西欧化、近代化、機械化していく明治時代に生きた漱石。しだいに日本の文化や人間性を喪失していくような憂いや焦燥感が、作品をとおしてじんわり伝わってきます。苛立ちをあらわにする主人公の画家は、まるで100年後の高度な情報技術や人工知能まで生み出した現代を見透かしているようで、ぎょっとします。
「人は汽車に乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする……」
ぴリっとした剣呑な情景のなかにあっても、画家の目は決して逃しません。そこにあって息づき存在している人間性、その内奥でほのかに明滅する蛍のような美しさをとらえるんですね~。う~ん、これだから漱石の作品は奥がふかい、だから漱石の作品は辞められない♪ -
人生初となる夏目漱石本、チャレンジしてみました。
読み始めてしばらくは、生きている時代の違いに加えて、文豪の操る空気感に圧倒されたというか、どう受け取っていいかわからない雰囲気だったんですが、これは通常の『話を楽しむ』という目線で見るのでなく、そもそもスタート地点から描かれているものの趣旨を理解することがとても大事だな、と、読み終わって一層感じてます。
最初に『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。』と、有名な語り出しから始まるところは、究極な話、この核心的なところで、この主人公は自分の画業(または創作のヒント)のために気分転換をしに出かけた逗留先で、徹底的に第三者にこだわった立ち位置で、『スノッブにならず、誰とも程度をこえて干渉せず、かといって自分の創作にも必要以上に固執せず』というスタンスを一貫していて、まさにこれが冒頭の文言に当てはまってるんだと思いました。
主人公は、行く先々や、関わる人たちとのふれあいから、情景を読み取るために観察力をはたらかせることに最大限の力を発揮していて、そのほとんどは自分の思い通り頭にインプットされてはいたものの、とある女性の形容しがたい表情を見たことで、謎に対する自分なりの答えが導きだされるまで、いろんな角度から、ごく自然に、ときに不自然に、対象物を捉えていくシーンが描かれます。
特に愛着もなければ義務があるでもないにせよ、そういう自分の疑問に対して素直に真剣に取り組むことこそ、住みにくい世から煩いを抜いてありがたいものを作る、画業に就くものの役割だ、と、いうのが主人公のポリシーのようで、全体をとおしてのメッセージだったのかなと。自分はそんなふうに感じました。
人と出会って打ち解けて、ドラマがあって、ハッピーエンド・・・的なコテコテの話からは極限のねじれ位置にあるような、一種、不思議な読書体験でした。
漱石先生のほかの作品も是非とも読んでみたいと思います。
ここからは余談ですが、ミレーのお話が載っている、山本有三の心に太陽を持て、を読んだあとなんの意図もなくここにもミレーの話題が・・・ってとこに個人的に戦慄をおぼえました(笑)
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昭和53年3月15日 64刷 再読
1906年 明治39年 「新小説」
洋画家の主人公が、山中の温泉宿を旅する。旅の間の、出来事・豊かな自然が、映画でも見ているように語られる。洋画家の一人称というより、ナレーターといった雰囲気。そこが、非人情の表現の一環かもしれない。
冒頭の「智に働けば〜」は、余りに有名。既に、主題はそこにあるのかと思う。
メインストーリーには、宿屋の娘とのあれこれがありますが、やりとりは大人の言葉遊びと言ったところ。
俳句の歳時記は、季節を表す言葉を、時候・天文・地理・人事・動物・植物 に分類してある。(最近覚えたて!)この作品は、それらが全て含まれた、吟行の雰囲気がある。おっとりと、旅先に紛れ込む。 -
注釈だけで20ページ以上あるし言葉とか解釈が難しくて読むのが大変だった。でも全体的には面白かった。作中の「非人情の旅」って、今で言う「自分探しの旅」のようなものだと思うけど、100年以上前でも、やってる人いたんだという驚きと、それを物語にしたのも、全然昔っぽくないというか、なんか良いなと感じた。
仕事や人間関係などの人の世に嫌気がさして、山里に逃避した主人公の気持ち凄く分かるなーと思いながら読んでた。時代は違えど、人が生きる上での悩みや苦痛、葛藤や生きづらさなどの根本は変わらないのかもしれない。そう思うと昔の人たちも同じことで悩んでたんだな〜自分だけが抱えていた悩みではないんだなーと元気がもらえる。
特に現代はSNSの普及で人付き合いが密接になったり、見ず知らずの人から誹謗中傷されたり、いいねの数を気にしたり、幸せそうな他人と自分を比較したりと、昔より色々と便利にもなったけど、常に人から見られているようで、何かと生きにくい。
そういう他人と競っても自己満足にしかならないのに、無駄に見栄を張って対抗するから疲れてしまう。だから、人間関係とか全てリセットして、東南アジアに一人旅したり、主人公のように知り合いなんかいるはずのない田舎に逗留したりしたいなーと最近思ってる。
主人公のように芸術の才能は無いのかもしれないけど、モンゴルの遊牧民のように世界を転々としながら、その土地の自然やカルチャーや人々に触れて、感じたことを自由に文章にしたり、心の赴くままに生きたい、というのが自分の夢だな。
少し逸れたけど、物語に関しては、画家の主人公の思考(作品への苦悩や芸術の概念、芸術家の在るべき姿の追求など)がとても多くて、面白かった。こんなに一人で孤独に悩んで、思索して、創作するのがアーティストなんだなと思った。
那美さんのキャラも結構好きだったな。本性が掴めなくてフワフワしてる不思議ちゃんのような感じ。「久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞が悪い」
「動詞なんぞ入るものですか、それで沢山です」 那美さんの独特な言い回しというか強気な発言も面白かった。
著者プロフィール
夏目漱石の作品





