草枕 (新潮文庫)

著者 : 夏目漱石
  • 新潮社 (2005年9月発売)
3.53
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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010090

作品紹介

智に働けば角がたつ、情に棹させば流される-春の山路を登りつめた青年画家は、やがてとある温泉場で才気あふれる女、那美と出会う。俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然主義や西欧文学の現実主義への批判を込めて、その対極に位置する東洋趣味を高唱。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』とならぶ初期の代表作。

草枕 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

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  • この作品は小説というよりも漢詩の世界ですね。
    漢字熟語の多用と、主人公である画工(画家)の理屈っぽい思考展開で読みにくいことこの上ないのですが(笑)、ひとつひとつの場面が美しい絵(画)になっていて、これは情景を楽しむ作品ですね。自分の好きな場面は、床屋の場面と茶席の場面、そして主人公と娘の一見すれ違いだが気の利いた会話の場面などです。主人公がそうしているようにどの場面を切り取って読んでも絵になっています。
    しかし、仙人の世界の物語かと思っていると(笑)、場面場面における世俗な話とか芝居っ気たっぷりな娘、絵になる情景を求めその画家としての境地を目指す主人公の思念など物語としてもこれはこれで面白かった。
    これは漱石の理想の世界なのかもしれませんね。

  • 日本近代を代表する夏目漱石(1867-1916)の小説、1906年。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などと並ぶ代表的な初期作品。

    特徴的なのは、まず以てその文体であろう。漱石特有の、江戸町人文化の感性からくるテンポの好さもあるが、何より読む者の注視を促すのはその饒舌に過ぎる漢語の語彙の奔流であろう。165ページの本文に対して、現代の読者に向けて付せられた330もの注解の多くが、作中に現れる漢語・漢詩へのものである。実際、漱石は本作執筆の前に漢詩集『楚辞』を読み返したという。この過剰なまでの語彙とともに漱石自身の芸術観・人生観・文明観が織り込まれていく中で、小説の筋というものがそこに埋もれてしまっている感がある。作中で「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋の外に何か読むものがありますか」と問われた主人公に、明らかにこの作品自体について自己言及させて、次のようなことを云わせている。

    「・・・。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」

    現実に於ける人間心理を一客体として透徹した目で観察し、そこに何らの思想・観念による粉飾・価値判断・美化を施すことなく現実を「ありのまま」に書き留める。作家をして「心理学者」「自然科学者」たらしめようとする所謂自然主義文学(そこでは人間心理に対する客観性、作品に於ける論理的一貫性が求められる)が、エミール・ゾラらの影響を受けた日本の文壇(坪内逍遥『小説神髄』など)に於いても主流となっていた時期である。ヨーロッパで誕生した新たな文学潮流としての自然主義は、19世紀にあらゆる文化領域に及んだ実証主義という思潮の文学における産物である。則ち、西欧近代精神の、文学に於ける率直な具現化である。

    1900年、漱石は官費留学生として当時世界の中心であったロンドンに留学し、神経症を患うほどに近代というものの即物性を見せつけられた。それは、日本政府は西欧近代文明を自らの腹に詰め込もうと躍起になっていた時期である。そんな折に発表された『草枕』は、近代文学としての自然主義への、ひいては日本近代への、アンチ・テーゼを提示しようとしたのではないか。漱石は、本作を以て、自我・我欲への執着および他我への欺瞞的配慮から悠然駘蕩と解脱する、超俗(作中の所謂「非人情」)の文学を定立しようと意図したのではないか。横溢する漢語の中で、作品の趣は何処か茫洋幽然としている。

    これは、即物的な無‐思想で世界も日常的生も個人的感受性も覆われつくされてしまっている、目的合理性という縁無しの穴の中で無際限の暴力と喧噪に明け暮れている、雅量という美的構えを決定的に欠いてしまっている、現代という時代への批判でもある。



    「然し苦しみのないのは何故だろう。ただこの景色を一幅の絵として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只この景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう」

    「恍惚と云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。・・・。自然の色を夢の手前までぼかして、有りのままの宇宙を一段、霞の国へ押し流す。睡魔の妖腕をかりて、ありとある実相の角度を滑らかにすると共に、かく和らげられたる乾坤に、われからと微かに鈍き脈を通わせる。地を這う烟の飛ばんとして飛び得ざる如く、わが魂の、わが殻を離れんとして離るるに忍びざる態である。抜け出でんとして逡巡い、逡巡いては抜け出でんとし、果ては魂と云う個体を、もぎどうに保ちかねて、氤氳たる瞑氛が散るともなしに四肢五体に纏綿して、依々たり恋々たる心地である」

    「美術家の評によると、希臘の彫刻の理想は、端粛の二字に帰するそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲か雷霆か、見わけのつかぬ所に余韻が縹緲と存するから含蓄の趣を百世の後に伝うるのであろう。世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず結末が付く。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、既に一となり、二となり、三となった暁には、拖泥帯水の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻るわけには行かぬ」

    「放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画に於て、詩に於て、もしくは文章に於て、必須の条件である。今代芸術の一大弊竇は、所謂文明の潮流が、徒に芸術の士を駆って、拘々として随所に齷齪たらしむるにある」

    「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以て、さも名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている」

    「汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸氣の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたるのち、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寐るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これより先へは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。・・・。」

  • 素晴らしく情の通った文章の美しさに、びっくりしてしまう。
    織りなされる風景のひとつひとつが、なんと鮮やかな光を宿し、あるいは柔らかい影を宿していることか。そして、その美しさが、どれほど人の心というものに根ざしていることだろう。

    あまりごちゃごちゃ感想を言うより、その文章を抜き出す方がいいだろうと思う。以下、私がもっとも好きだった、木蓮の描写。

    「庫裏の前に大きな木蓮がある。殆んど一と抱(ひとかかえ)もあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があれば猶見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間がほがらかに隙いている。木蓮は樹下に立つ人の目を乱す程の細い枝を徒には張らぬ。花さえ明かである。この遥かなる下から見上げて一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまでも簇(むら)がって、どこまで咲いているか分らぬ。それにも関わらず一輪は遂に一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然と望まれる。花の色は無論純白ではない。極度の白きをわざと避けて、あたたかみのある淡黄に、奥ゆかしくも自らを卑下している。余は石甃の上に立って、このおとなしい花が累々とどこまでも空裏に蔓(はびこ)る様を見上げて、しばらく茫然としていた。目に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。
     木蓮の花許(ばか)りなる空を瞻(み)る
     と云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。」

  • 冒頭の数行を、宙で諳んじられるようになりたい。

    そんな本書を読むにあたっては、柄谷氏の解説がとても役に立ちました。
    解説では、本書を、徹頭徹尾、「言葉」で織りあげられたものと評しています。解説のとおり、絢爛豊富な「言葉」に終始圧巻のおもい。まるで厚塗りの油彩画の様な印象を抱きました。

    また、作中、主人公が述べた筋を読まない小説の読み方に、本書はうってつけではないかと思う。
    先ほども述べたとおり、本書は豊満な言葉群を有しておりますが、その言葉群に比して、その物語性は極めて希薄です。そんな本書だからこそ、適当に開けた頁をいい加減に読む楽しみが出来るのかもしれません。
    そういう意味で、本書はこれまで読んできた本と一線を画する特異な本で、むしろ詩に近い気がします。

    「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
    住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が造った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。」

  • 出だしの文章から、すき。美しい景色、絵画のような文章。

  • 初期の漱石作品で、文体はかたく、漢語や注釈も多いので決して読みやすい作品ではありませんが、それでも噛んでいるうちにスルメのような味わいがしてきて、久しぶりの再読を美味しく堪能しました。

    「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
    智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」

    気ままな旅をする主人公のつぶやき。短くリズミカルな言葉の中に漱石の想いが凝縮しているようで、思わずにんまりしながらその美しいしらべに釘付けになってしまいます。
     当時の文壇や世上の批判をさらりと受け流し? 角が立とうがなんだろうが、ひとたび筆をとればどうにも止まらない、豊かな知識や芸術観や文明論、さらには儒教、道教、菜根譚や禅……作者の想いが溢れていてとても愉しいです。
     また、主人公の画家を通した芸術論はそのまま漱石の文学に対する芸術論になっていて、まるで旅のつれづれに描いた随筆のような錯覚を覚えます。自然を愛する漱石の観察力と創造性はとりわけ鋭く、その卓越した表現は深遠でみずみずしい。惚れぼれします。

    「……底には細長い水草が、往生して沈んでいる。余は往生というよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡のすすきならなびくことを知っている。藻の草ならば誘う波の情けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調えて、朝な夕なに、弄(なぶ)らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代の思いを茎の先にこめながら、今に至るまで遂に動き得ずに、又、死に切れずに、生きているらしい」

    おかしみのある描写もすこぶる上手い……にくたらしいくらい(笑)。
    「……何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音が気になったことはないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと督促する如く、ねるな、ねるなと忠告する如く口をきく。怪(け)しからん」

    文明開化とともに急速に西欧化、近代化、機械化していく明治時代に生きた漱石。しだいに日本の文化や人間性を喪失していくような憂いや焦燥感が、作品をとおしてじんわり伝わってきます。苛立ちをあらわにする画家は、まるで100年後の高度な情報技術や人工知能まで生み出した現代を見透かしているようでぎょっとしてしまいます。

    「人は汽車に乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする……」

    そのような剣呑とした情景のなかでも画家の目は決して逃しません。そこにあって息づき存在している人間性、その内奥でほのかに明滅する蛍のような日本的美しさというものをはたと見てとるのですよね~。う~ん、これだから漱石の文学は奥がふかい、これだから漱石の文学は辞められない♪

  • 解説などには「これを小説と呼べるのか?」というような評判も紹介されていますが、私はそれは不当だと思うんですね。
    「余」という一人称で語り手として登場する画工の青年が、画題を探し山間の集落に立ち寄り、宿にした家のちょっと変わった娘――旦那の勤め先が戦争で傾いて失職したために離縁した、そして今では気が触れたとされている――を描きたいと思う。描きたいと思うけど何かが足りないと考える。そんな状況下で、この青年の芸術に向き合う様を中心に読んでいれば、ストーリーがない、なんてことはないんじゃないかと思います。

    特に最後の1ページは最高です。娘、出征するその従兄弟、見送りに同行した青年らのそれぞれの頭の中には複雑な思いが交錯しているのだと思います。ラストシーンに向かうはゆっくりと進む小舟。
    舟上で繰り広げられるやりとりは、ある意味でこれまでの日常の延長。しかし集落から下流に進むに連れて町に近づき、「余」が芸術活動の中で遠ざけたいと考える俗界に入っていく。娘を描きたい。しかし何かが足りない。
    心の中が見えない娘。
    出征直前の従兄弟。
    駅に着き、別れの言葉を交わす。従兄弟を乗せた列車が動き出す。顔が遠くなる。その後に起こるできごと。そして、この小説はある一点に収斂する。意外。でも、それが一番しっくりくる締めくくりのように思われます。


    本作に限らず、この時代の作品は、私たちにたくさんの日本語を失ってしまったことを思い起こさせます。
    豊かな表現をもっていたのに。自分の気持ちを表現するのは1パターンだけではなかった。自然、草花の色や様。風の吹き方。雨の降り方。そのそれぞれに最も適切なものは、たくさんの抽斗の中にぎっしりと入っていたものの中から自由に選び出せたのに。今では、すっかりガタついて開かない抽斗が多すぎるのです。
    私はこれらが永久に失われる前に取り戻したいと思います。

  • 主人公の芸術論が延々と続き一文が難解なこと難解なこと。注釈を見ながらでもまだ❓が残ります。ヒロイン那美が登場し面白くなるのが半分すぎたぐらいから。夏目漱石が、絵画、俳句、詩歌の知識にいかに秀でていたかよくわかります。

  • 絵を描く旅。
    詩を読む旅。

    もののあわれ。
    その言葉で人の表情は、どう変わるのだろうか。

    『坊っちゃん』や『我輩は猫である』の印象が強く。
    なんだか、さらさら読める気でいたが、なかなかページをめくる手が進まない。

    また機会が訪れれば再読したい。

  • 図書館で。ワシの50歳記念に50歳でお亡くなりになった漱石を何冊か読んでます。今回は「草枕」途中コレは呪文か?と思うほど頭に入ってこない個所がありましたが後半にいくにつれて面白くなってきた。お寺を訪ねて和尚さんと話をするところなんかは大変面白かった。が、小説というには物語が無く盛り上がるのかと思いきや素通り。変わった話だったよ。51歳まで後半年。もう数冊読んでみるね。コレで8冊読了。

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