- 本 ・本 (417ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101010106
感想・レビュー・書評
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後期三部作を読んだ後では少し物足りなく感じるかもしれない。
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序盤は硬い文章に読みにくさがあったが、「若い6人の男女の恋愛物語」と分かってからはストーリーが面白くてどんどん読み進められた。
明治時代の若者の恋愛に、ローマ演劇的、シェイクスピア的雰囲気を落とし込んだような作品で、そのように読めば分かりやすく面白さがあった。その後の漱石作品と比較すると、人物像やストーリーが浅いように感じる人もいるかもしれないが、これはこれで好き。
宗近君と甲野さんのあつい友情が良い。糸ちゃんも好きだな。 -
地の文が漢文調で始めはちょっと読みづらかったけど、
読んでるうちに慣れてきて癖になってくる。
新潮社のHPの紹介文。
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。
http://www.shinchosha.co.jp/book/101010/
登場人物がちょっとややこしい。
いろんな人の思惑が交錯して運命が動いていく。 -
ようやく読みきれた『虞美人草』。前半部分は漢文調が続くので慣れるまで時間がかかりました。後半部分になって、登場人物の中でも話の要となってくる人物の正確や様子が分かってきて、徐々に作品に引き込まれていきました。それは男女間のもつれや師弟関係のしがらみがかかわってきているからだと思います。このあたりから人の心にある弱い部分や傲慢が部分が感じられたのもあります。
また、虞美人草はひなげしのこと。花言葉は「心の平穏」「労り」「慰め」「思いやり」。作品の後半でようやくこのタイトルが登場人物の心の移り変わりを表しているようにさえ思えてきました。
宗近君が小野君にまじめに生きることを説く部分はすごいと思ったが、結末はすべてを藤尾さんに擦り付けたのでは?とおもえて仕方なかった。「労り」「慰め」「思いやり」を出しているように見える登場人物も、ちょっと自己中心的なものの考え方なのではと。
しかし、こういうところが、時代は違えど親近感があるようにも感じて興味深いと思いました。 -
面白かった!
先に読んだ「坑夫」は新聞小説の代打としてやっつけ(?)書きながらも虞美人草の主人公のその後の要素を持つらしいことを解説で読み、「自分」はなぜ出奔したのかと興味津々の体で読む。
持つ者の理想と持たざる者の現実、表向きダメ男vs表面イイ男。高慢な女性と淑女の対比が際立って、重なる曖昧な部分がなくて面白い。
随所に現れる漱石の思想は西洋の古典文学の文語調に展開されながらも格調高く、分厚い小説ながらぐいぐいと惹きこまれ、雰囲気いや増します。
小野の冒頭と結末の変化が面白く、藤尾の結末がバッサリ切られていてビックリかつ呆気ないところは神経症を患っていた先生がこんな力技に持って行って、あなたけっこう体力あるし、前向きな心さえ感じてしまう。物語だもの、これでイイ。
漱石先生は「こころ」と「それから」のほかは読みづらいと思い込んでいたがそんなことはないようだ。 -
幾度と無く挫折してきた虞美人草。初めて読み切った感想は「私は大人になった」。少なくとも難しい言葉に惑わされることなく表現の意味するところと文脈を読み取れる程度には。漢文と日本文化の素養に溢れた流麗な言葉遣い素晴らしいですね。
舞姫やこころと同じく、頭が良いけれど優柔不断な男が八方美人をして思いを断ち切るのを躊躇っているうちに、周りの人間が可哀想な思いをする(もしかしたら当時の人は高慢な女に降った罰に拍手喝采なのかもしれないが今は自立して美しく賢い藤尾の何が悪い)ので、小野を許すことはできないですが、女性に象徴される「文明」と「伝統」の間で揺れ動く文明人として小野くんは苦悩していたのでしょう(小野に憤慨しないだけでも大人になった)。
男が3人、女が3人、それでも決してハッピーエンドにはならない、この結末は、皆が自分で考え始めたこの時代から始まる。それにしても18節の宗近と糸の立派さ!「真面目になれる」「お迎えに参りました」漱石の本でこんなに胸が熱くなるとは思わなかった。自由恋愛で先進的な男女のこの小説でも古い道義とか誠実さとかが勝つんだなぁ。良くも悪くも。
「此処では喜劇ばかりが流行る」 -
漱石の『虞美人草』を読んだ。とても人間的な、いい小説だった。そうして久し振りに、悲しい気持ちで小説を読んだと思った。そこには、悲劇の本質が現実的な力を持って描き出されていた。とても悲しい。
『虞美人草』には、藤尾と小夜子という二人の美人の間に挟まれて、糸子という女性が登場する。学のない、平凡な女として描かれているが、僕はこの糸子ほど素晴らしい女性はいないと思った。糸子の兄の宗近と、糸子が想いを寄せる甲野も素晴らしい。彼らは皆、慥かな眼を持って生きている。
僕はといえば、甲野と小野の中間地点に自分を置いて、どちらのなかにある闇にも同調できる気がして終始苦しさを感じながら読み進めた。しかしそこには、昔の人の言葉のなかに自分と同じ苦しみを見い出すことの安心があったようにも思う。人間の型に触れることを通して普遍的なものに出会うことの安心。
かつて書かれた言葉が力を失い始めているのが現代であるという問題意識を僕は持っているが、漱石の文学は未だにその力を保持しているように思える。その言葉は現実に起きたことのうちに働いていた力だ。それは現実に苦しまれた苦しみであり、悲劇であった。それは紛れもなく、言葉の持つ現実的な力だ。 -
難解な中にもこの時代の美しい文体を楽しむことができる。
宗近の云う「真面目になること」は自分の心に備え置いてきたことと重なり合う。
「真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存していると云う観念は、真面目になって初めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持ちになる。安心する・・・」 -
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や親父のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、日本じゅうがことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解している。君の胸の中を知りぬいている。・・・僕は責任をもって糸公に受け合ってきたんだ。君がいうことを聞いてくれないと妹に合わす顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためならなんでもするよ。殺すのはもったいない」
甲野は哲学の研究者。継母と妹からは、社会的地位もなく、ふらふらした情けない人と蔑まれている。
だけど、親友の宗近は、甲野の本質を見抜いていて、人付き合いを避ける甲野を何かと気にかける。
宗近の妹糸子は甲野を慕っているけれど、甲野が何気なくいった「あなたはお嫁に行かないで、そのままのほうがいい」というひとことに縛られて、気持ちを伝えられない。
上の会話は、妹の気持ちを知った宗近が、家出しようとする甲野のところに来て、自分の家に来るよう説得する場面。
(私の筆力ではエッセンスを抜き出せず、引用・・・)
恋愛は、動物みたいに求めあう面だけがクローズアップされがちだけど、それだけじゃない。
自分を理解してくれる誰かがいること。理解したいと思う誰かがいること。その幸せに気づかせてくれた作品。
著者プロフィール
夏目漱石の作品





