虞美人草 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010106

感想・レビュー・書評

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  • ◆感想◆
    すごかった‥。
    美女藤尾がどんな悪女かと思ったら、井上親子(父娘)のパラサイト感と小野 清三の優柔不断さに、驚いてしまいました。
    5年間も会ってなかったのに、口約束だけで結婚を信じて待つ井上親子(父娘)。東京にも押しかけちゃうところ、現代だったらストーカー気質で恐怖に感じます。
    小野は、井上家との縁談を断る際、知人の浅井君に代理で行かせるダメ男っぷりです。

    小説の最後、藤尾が自殺します。
    女性視点でこの小説を読むと、一見強そうな女性の方が嫉妬で傷つき、内気そうな女性の方が強かに生きていく印象を私は持ちました。
    (※小説の中では、「(気が強い)藤尾が一人出ると昨夕の様な女(内気な小夜子)を5人殺します。」と真逆のことを欽吾が言っていました。)

    娘を亡くして悲しんでいる藤尾の母に向かって
    「泣いたって、今更仕様がない。因果だ。」
    と言うサイコパス感‥。因果なんて言えないよ‥。

    難しい言い回しが多いので、吉本隆明の「夏目漱石を読む(ちくま文庫)」を先に読むと、理解し易くなると思います。

    ◆お気に入りの言葉◆
    「菜の花を染め出す春の強き日」

    ◆印象に残った場面◆
    甲野 藤尾、宗近一(兄)、宗近糸子(妹)、甲野 欽吾(藤尾の義兄)の4人で博覧会に行きます。
    夜のイルミネーションが「竜宮城みたいに綺麗」と感動する女性陣に対し、男性陣はこう言います。
     宗近 「僕は三遍目だから驚かない。」
     欽吾 「驚くうちは楽があるもんだ。
         女は楽が多くて仕合わせだね」 
    (感想: 男たち、ちょっと冷たくないか?!)

    歩き疲れてお茶をしてる時、藤尾に気があるはずの小野が見知らぬ女性(小夜子)と一緒にいるところを見かけてしまいます。プライドが高い藤尾は、嫉妬してしまいます。

    中盤のこの場面くらいから、どんどん進展し、面白くなっていきます。

    ◆登場人物◆
    甲野 藤尾:
    傲慢な女性。小野さんが将来の夫になると思っている。親の口約束で、宗近が許嫁だが、宗近をバカにしていて一緒になる気はない。

    小野 清三:
    学校を出て学位論文を書いている。藤尾と仲良くなり、好きになる。貧乏な頃、京都の井上狐堂先生の書生をしていた。先生の娘の小夜子と結婚させられそうになるが、その気がない。

    甲野 欽吾:
    主人公の藤尾の義兄(異母兄弟)。哲学科を卒業。何もしないでブラブラしている。神経衰弱でおかしい変人扱いさらる(漱石の面影を投影)。遺産相続を放棄。

    宗近 一(はじめ):
    甲野欽吾をよく理解している親友。きっぷはいいが、劣等生で外交官試験に落第ばかり。藤尾の許嫁。藤尾が好き。

    宗近 糸子:
    宗近 一の妹。甲野欽吾のことが好き。古風で控えめ(漱石の理想の女性像?)

    井上 小夜子:
    小野清三の先生である、井上狐堂の娘。父である狐堂先生と小夜子は、小野が夫となり、一緒に住む事を既定の事実としている。(理由:書生時代から小野の面倒みていたから)

  • 後期三部作を読んだ後では少し物足りなく感じるかもしれない。

  • 地の文が漢文調で始めはちょっと読みづらかったけど、
    読んでるうちに慣れてきて癖になってくる。

    新潮社のHPの紹介文。
    大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。

    http://www.shinchosha.co.jp/book/101010/

    登場人物がちょっとややこしい。
    いろんな人の思惑が交錯して運命が動いていく。

  • 面白かった!
    先に読んだ「坑夫」は新聞小説の代打としてやっつけ(?)書きながらも虞美人草の主人公のその後の要素を持つらしいことを解説で読み、「自分」はなぜ出奔したのかと興味津々の体で読む。

    持つ者の理想と持たざる者の現実、表向きダメ男vs表面イイ男。高慢な女性と淑女の対比が際立って、重なる曖昧な部分がなくて面白い。

    随所に現れる漱石の思想は西洋の古典文学の文語調に展開されながらも格調高く、分厚い小説ながらぐいぐいと惹きこまれ、雰囲気いや増します。

    小野の冒頭と結末の変化が面白く、藤尾の結末がバッサリ切られていてビックリかつ呆気ないところは神経症を患っていた先生がこんな力技に持って行って、あなたけっこう体力あるし、前向きな心さえ感じてしまう。物語だもの、これでイイ。

    漱石先生は「こころ」と「それから」のほかは読みづらいと思い込んでいたがそんなことはないようだ。

  • 幾度と無く挫折してきた虞美人草。初めて読み切った感想は「私は大人になった」。少なくとも難しい言葉に惑わされることなく表現の意味するところと文脈を読み取れる程度には。漢文と日本文化の素養に溢れた流麗な言葉遣い素晴らしいですね。

    舞姫やこころと同じく、頭が良いけれど優柔不断な男が八方美人をして思いを断ち切るのを躊躇っているうちに、周りの人間が可哀想な思いをする(もしかしたら当時の人は高慢な女に降った罰に拍手喝采なのかもしれないが今は自立して美しく賢い藤尾の何が悪い)ので、小野を許すことはできないですが、女性に象徴される「文明」と「伝統」の間で揺れ動く文明人として小野くんは苦悩していたのでしょう(小野に憤慨しないだけでも大人になった)。
    男が3人、女が3人、それでも決してハッピーエンドにはならない、この結末は、皆が自分で考え始めたこの時代から始まる。それにしても18節の宗近と糸の立派さ!「真面目になれる」「お迎えに参りました」漱石の本でこんなに胸が熱くなるとは思わなかった。自由恋愛で先進的な男女のこの小説でも古い道義とか誠実さとかが勝つんだなぁ。良くも悪くも。
    「此処では喜劇ばかりが流行る」

  • 漱石の『虞美人草』を読んだ。とても人間的な、いい小説だった。そうして久し振りに、悲しい気持ちで小説を読んだと思った。そこには、悲劇の本質が現実的な力を持って描き出されていた。とても悲しい。

    『虞美人草』には、藤尾と小夜子という二人の美人の間に挟まれて、糸子という女性が登場する。学のない、平凡な女として描かれているが、僕はこの糸子ほど素晴らしい女性はいないと思った。糸子の兄の宗近と、糸子が想いを寄せる甲野も素晴らしい。彼らは皆、慥かな眼を持って生きている。

    僕はといえば、甲野と小野の中間地点に自分を置いて、どちらのなかにある闇にも同調できる気がして終始苦しさを感じながら読み進めた。しかしそこには、昔の人の言葉のなかに自分と同じ苦しみを見い出すことの安心があったようにも思う。人間の型に触れることを通して普遍的なものに出会うことの安心。

    かつて書かれた言葉が力を失い始めているのが現代であるという問題意識を僕は持っているが、漱石の文学は未だにその力を保持しているように思える。その言葉は現実に起きたことのうちに働いていた力だ。それは現実に苦しまれた苦しみであり、悲劇であった。それは紛れもなく、言葉の持つ現実的な力だ。

  • 難解な中にもこの時代の美しい文体を楽しむことができる。
    宗近の云う「真面目になること」は自分の心に備え置いてきたことと重なり合う。

    「真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存していると云う観念は、真面目になって初めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持ちになる。安心する・・・」

    • 抽斗さん
      この抜粋を読んで、とても『虞美人草』が読みたくなりました。
      この抜粋を読んで、とても『虞美人草』が読みたくなりました。
      2013/08/08
  • 「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や親父のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
    「糸公のために?」
    「糸公は君の知己だよ。叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、日本じゅうがことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解している。君の胸の中を知りぬいている。・・・僕は責任をもって糸公に受け合ってきたんだ。君がいうことを聞いてくれないと妹に合わす顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためならなんでもするよ。殺すのはもったいない」

    甲野は哲学の研究者。継母と妹からは、社会的地位もなく、ふらふらした情けない人と蔑まれている。
    だけど、親友の宗近は、甲野の本質を見抜いていて、人付き合いを避ける甲野を何かと気にかける。

    宗近の妹糸子は甲野を慕っているけれど、甲野が何気なくいった「あなたはお嫁に行かないで、そのままのほうがいい」というひとことに縛られて、気持ちを伝えられない。

    上の会話は、妹の気持ちを知った宗近が、家出しようとする甲野のところに来て、自分の家に来るよう説得する場面。
    (私の筆力ではエッセンスを抜き出せず、引用・・・)

    恋愛は、動物みたいに求めあう面だけがクローズアップされがちだけど、それだけじゃない。
    自分を理解してくれる誰かがいること。理解したいと思う誰かがいること。その幸せに気づかせてくれた作品。

  • 漱石の凄まじい教養と文章力に圧倒される。難解な表現は多いものの、軽快な会話劇も同時に展開されていくので思っていたよりスラスラと読み進めることが出来た。

    にしても大バッドエンドである。
    登場人物がそれぞれに背負っていた業は最後に全て藤尾に押し付けられ、藤尾は死んだ。彼女だけが自己中心的?小野も井上親子も甲野も宗近も糸子も濃淡あれどそれぞれ自己中心的ではないか。優柔不断な上に姑息な手段で縁談を断ろうとした小野、小野の気持ちなんぞ確認もせず東京へ出てきて世話になる気満々の井上親子、分かったようなことばかり並べ立てる宗近(彼がわざわざ時計を壊したのは自分を軽んじた藤尾への憎しみからではないか)……。
    それぞれの欠点は問題にもされず、ただ藤尾だけが1人、裁きを下され死んでしまう。面子を潰してプライドも踏みにじるような酷い騙し討ちのような形で。「女の癖に生意気なんだよ」「身の程を弁えろ」という声が聞こえてくるようである。生き残った連中が不幸になりますように。
    また、ラストの宗近から小野への説教も極めて凡庸であった。「真面目になれ」とは一体何なのか。そんな説教で人が変わるならこの世の中苦労はしないし、説教如きで変わることのない人間のどうしようもなさや複雑さ、ひねくれぶりを描くのが小説であり、あの程度の説教で小野がさっさと反省して物語が店じまいに入ってしまう辺りがなんとも拙速だった。

    結末には大いに不満が残るものの、しかしこの先何度も読み返したい名作だと思う。

  • 宗近君かっこ良すぎる。結婚して!
    子供じみた上部の皮を脱ぎ捨てて、真剣勝負をしなくてはいけない。そうして生きれば第二義的なことは全てどうでも良くなる。正か死か、悲劇はそれだけ。骨身に応えた。

  •  久し振りの夏目漱石。職業作家としての第1作とのことで、他の有名な作品と比べるとかなり力の入った(ところどころ難解で読みにくい)文体だなと感じる。ただ、内容は男女の恋愛を主軸に物語が展開しており、描写を全て理解してやろうと思わなければ、けっこう楽しめる小説だったと思う。

     哲学を学んだ甲野欽吾、その勝気な妹の甲野藤尾。欽吾の友人である宗近一と、あどけなさの残る妹の糸子。藤尾を嫁にと考えている男、小野清三。清三の恩師である父を持つ、清三との婚約の約束がある内気な娘、小夜子。この6人を中心に物語は展開する。
     藤尾と小野が両想いであるが、小野には許嫁である小夜子がいる。謙虚でおとなしい古い価値観の象徴のような小夜子(作中でも「過去の女」(p.151)と言われる)と、新しい時代の女性だと言わんばかりに勝気で野心的な藤尾の描写が非常に対照的だ。この小説は、例えるなら坪内逍遥『当世書生気質』のような、分かりやすい勧善懲悪の側面を持っており、小夜子は善、藤尾は悪と描かれているように見える。
    特に藤尾に至っては、ウィットに富んだ会話についてゆけない者を小馬鹿にしたり、我が強いが故に自分の言うことを聞く相手が婿として相応しいなどと言ったりと、性悪としてのキャラ付けが非常に強い。
     藤尾を選ぼうとする小野についても、小夜子を断るのが言いづらくて知り合いに頼んでやり過ごそうとし、不真面目で姑息な印象を付けられている。
     善玉として描かれる糸子や小夜子がいかにも「昔の女性」っぽく描かれているせいか、男に不都合な藤尾を悪玉扱いする家父長的小説だ!と捉えられそうにも見える。そもそも今の時代からすれば本小説内に出てくる結婚観はもはや化石同然であり、ますます「時代遅れの小説」という匂いを漂わせる。
     しかしながら、想像ではあるが……明治時代が進み急速に西洋化が進んでゆくなかで、人から道義心が失われてゆくように思われた。よって、「人生の第一義は同義にあり」(p.452)との考え方から物語がつくられ、道義を失った者の典型として藤尾と小野が描かれ、彼らに天誅を喰らわせた。ということではないだろうか。
     時代の価値観を蹂躙する者(小野・藤尾)、蹂躙される者(小夜子とその父)、これを仰ぎ見る者(欽吾・一)という3つの視点で描かれた、明治という激動の時代の功罪を描いた小説なのかな、と思った。

     『こころ』を初めて読んだ時から、夏目漱石に対しては真面目な人だという印象があった。この本の裏表紙に「許して下さい、真面目な人間になるから。」という作中の台詞が書かれており、この小説もまさに「真面目」さを希求した物語だと感じている。もちろん、真面目といっても、真面目に生きることとは何かという問いに明確な答えはないのかもしれない。嘘偽りがないこと?飾り気がないこと?正直であること?真心がこもっていること?などなど。真面目なつもり、誠実なつもりであっても、自分にとっても相手にとっても必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。この小説で描かれた勧善懲悪にしても、本当に善・悪と呼べるものなのかは分からない。ただ、だからこそ、登場人物が思い悩む、漱石の小説が好きで様々な小説を読んできた。
     明治時代の小説であり、結婚観、恋愛観、男女観、道徳観、物語全体に古さを感じる。だからこそ、時代によって変わってゆく価値観と長い間変わらない価値観とは何なのか、何を大切にすべきか、真面目さとは何かについて深く考えることができたと思う。

  • 小野は学問に優れた男で、東京帝大の銀時計を授与されるほどだが
    性格は優柔不断で、人の意見や雰囲気に流されるばかりだった

    宗近は呑気でいいかげんな性格のために、軽く扱われがちだ
    しかしその実、有言実行の男でもある

    甲野はいつも深刻な顔で超然ぶっており、周囲の反感を集めるが
    それは財産を独占しようとする母親への、愛と不信に引き裂かれてのこと

    藤尾は甲野の妹、美人で、才気走ってて、高慢
    クレオパトラに自らを重ね、男を意のまま支配することを愛情と信じる

    糸子は宗近の妹で、家庭的な女
    詩情を解さないとして、藤尾からひそかに軽蔑されているが、気にしない

    小夜子は小野の恩師の娘にあたり、暗黙のうちに許嫁とされている
    古いタイプの女だから、小野の心変わりに泣いてばかりいる

    これら男女6人の、友情と恋愛をめぐる青春残酷物語
    かなわなかった夢のつづきが、いずれ小野の未来を苛むのだろうが
    その意味で「こころ」の原型と呼べるのかもしれない
    「虞美人草」は、大学教授の地位を捨てて専業作家になった夏目漱石が
    朝日新聞に連載したはじめての作品で
    気負いはあったのだろう
    りきみ返った美文調をこれ見よがしに連ねており
    その読みづらさから
    今では漱石作品のなかでも敬遠されがちな印象にある
    ただし個人的には
    日本の小説で文章の美しさといえば、この時期の漱石と思うんよね

  • 【Impression】
    「虞美人草」が一体誰のことなのか、結局は藤尾さんであると分かるんだが、虞美人草の花言葉は「平穏、無償の愛、慰め」などであるらしい。

    作中の藤尾さんは全くの正反対である。
    最後は意中の人を得る事が出来なかったため死んでしまうような、気性の荒い人である。

    この正反対にある状況は一体どういうことを意味しているのか、いや、面白かった。
    文章が綺麗で、詩的で、漢語のにおいがする、また読み返したい本
    【Synopsis】
    ●宗近と糸子、甲野と藤尾、そこに小野が加わり、表面的には平穏に、内面では策略を巡らせた人たちとの恋愛もの。宗近と甲野はこの策略に飽き飽きしている、小野は利己的にこれを利用している、藤尾は母と共に何とか小野と婚約しようとしている
    ●表面的には比喩や揶揄、暗喩、皮肉、が飛び交い、ここぞとばかりに機を窺っているやり取り、それを分かっていながら策略に乗っかる甲野、策略に真っ向から戦う宗近、「真面目」をキーワードに小野は立ち直る。糸子は藤尾と宗近が婚約することに反対している、学問はないが非常にロジカルな面を持っている。
    ●虞美人草に例えられているのは誰なのか、恐らく糸子ではない。糸子は平穏ではない、慰めでもない。甲野の母親と真っ向から対立し、一歩も譲らない。藤尾は死んで漸く「虞美人草」になったのか、平穏を漸く手に入れたのか。

  • お祖母さん、母親、私、と三代それぞれの本棚に一冊づつ置かれています。大好きです。学生の時に授業で先生が「夏目文学の中でこんなに文学的価値がなくてつまらない作品はない」と仰って、え~っとショックを受けた思い出があります。

  • 7月7日読了。博士号取得に向け勉学に励む優柔不断なモテ男・小野さんと許婚の小夜子、哲学者の甲野さんと腹違いの勝気な妹・藤尾、外交官を目指す宗近くんとその妹の糸子、とその周囲の人々が他人と世間に気を使いながら自分の主張を通そうとして生きるさま。冒頭の山歩きの男連から始まる登場人物たちの会話のやり取りの面白さと、それをときに神の視点で見下ろしときに登場人物の視点から語る漱石の筆が実に軽快でスカしたユウモアに溢れ、面白い・・・。ぐじぐじ悩む自分も、神の視点から見下ろせば滑稽に見えるものだろうか(そうに決まっているが)。ラストの宗近君の一言の切れ味・余韻も絶妙。

  • 優柔不断な男と、それに振り回される旧時代の親子と、それを振り回す新時代の女。
    と一行で片付くお話をすさまじく回りくどく美麗字句で飾り立てている。

    しかしその飾り立て方が、すばらしく美しい。
    怠惰で鬱々として暗い、墜ちていく時だけに見られる後ろ向きの不健全な美しさ。チェーホフをちょっと思い出した。かもめとか桜の園とか。

  • まさに 憤死

  • 深めたいような

  • 「草枕」と同じく、とてつもなく難解な地の文。いやぁ、すごいですね。よくこんな文章が書けるものだと感心します。恐ろしい教養です。
    それもすごいのですが、なんといっても会話がすごい。登場人物それぞれに何か秘めたるものがあり、自分の思惑に話を持っていこうとするが、相手はそうはさせじ意識的にか無意識にかする。そういったやり取りが、とてつもなくスリリングです。
    登場人物の中ではやはり「藤尾」が魅力的です。おそらく漱石としては、藤尾を完全な悪女として描きたかったのでしょうが、思いのほかに筆が進んでしまったのでしょう。欠点があるのも人間らしさとして、また魅力の一つになっています。
    その点で、最後の展開は納得がいかないです。浅井が孤堂先生に怒られる場面までは良かったです。その後の展開は作り事めいていて、なんかしっくりきません。おそらく同じように感じる人が多いと思います。
    小野さんが孤堂先生のところに行って、ぼこぼこに怒られてへこんでしまい、その後藤尾が小野さんの様子を見て愛想をつかす、みたいな展開だったらめでたしめでたしだったのではないでしょうか。諸悪の根源は小野さんでしょう。
    虞美人草は失敗作だという話もありますが、個人的には面白かったです。やっぱり会話シーンですね。全会話が名シーンです。小野さんと浅井とのあの馬鹿馬鹿しい会話ですら面白かった。

  • 漢語調の絢爛な文体は漱石の領分といっても過言ではないでしょう。東京帝大の講師を辞め、専業作家となってから書いた初の小説とだけあって、眩暈がするほど難解かつ華麗な文章からは、並々ならぬ覚悟が伝わってきます。

    大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才・小野清三。彼の心は、美しく裕福だが傲慢で虚栄心の強い女性・藤尾と、古風で物静かな恩師の娘・小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさから抜け出すために、一旦は小夜子との縁談を断るが…。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。

    「潺湲(せんかん)」「瀲灩(れんえん)」「冪然(べきぜん)」「窈窕(ようちょう)」等々、これは正気の沙汰なのか?という語彙が乱れ咲く万華鏡の世界。その高雅な文体で綴られるのは、意外にも月並みなストーリー。真面目だが内気な青年・小野が、裕福な悪女・藤尾と貧しい乙女・小夜子の間で揺れ動くという安っぽいメロドラマを、「厚化粧」(小宮豊隆評)とも取れる絢爛たる舞台装置で見せられるというのはちぐはぐさ。まずもって人物の造形が平板かつ硬直的で、人間というよりは操り人形が話しているようなぎこちなさがついてまわります。漱石の豊饒な漢籍の素養と、迸る文才を疑う余地はありませんが、その漱石がなぜこのようなありふれた内容の小説を?という疑問を禁じえませんでしたね。

  • 初めてちゃんと読んだ漱石作品だと思う。正直難しい言葉や表現があり細かいところがあまり理解できていない気がする。人物を把握するのに苦労した。藤尾の唐突な死には驚いた。漱石にも嫌な女とか言われてなんかかわいそう。

  • 途中から一気に引き込まれて全部読んでしまった。自分の感覚でいくと、遠距離で、しかも5年も会ってないのであれば、そりゃ気持ちなんて変わって当然だろう、と思う。
    ただ、それがいかに無理のある婚約だとしても、人にそれを伝えにいかせるのは小野さんのずるさであって、井上先生がキッパリ怒るのはよかったです。
    藤尾さんはプライドが高く、素直じゃないけど、心から小野さんを愛していたようにみえ(それはけして打算ではなく)、プライドが傷ついたから自殺した、ではないと感じました。そして小野さんも藤尾さんの気高さとか美しさに心から惹かれていたのでは。
    感じたことは、この時代では結婚って当事者の気持ちより、親の約束や建前だったんだなあということ。
    それを当事者が遂行しなければ、当事者以外がそれを正しさだと説いて、遂行させることが美しいとされていたこと。
    ストーリー全体に共感は感じないけど、言葉の一つ一つには、共感というか人生の真理をつくものがあると感じ、読み終わったあとも読み返すような良い作品です。

    良い言葉メモ。
    真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据(すわ)る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。

    (中略)口が巧者(こうしゃ)に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中に敲(たた)きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。

  • 久しぶりの漱石先生。恋愛感情や人間関係の表現の巧みさ、情景描写の美しさがたまらない。夏目漱石の世界に浸れます。
    漱石先生が持つ当時の社会や人に対する批判、信条と言ったものがそれぞれの登場人物を通して伺えます。勧善懲悪的な結末で驚きもありましたが、漱石先生の作品の中でもかなり上位に入ると言ってもいい面白さではないでしょうか。

  • 職業作家として執筆した第1作で、一字一句にまで腐心して書いたという作品。

    甲野藤尾は虚栄心の強い美貌の女性。兄の欽吾が神経衰弱(鬱病)療養により世間とは距離を置き、家督相続を放棄しているのを良いことに、亡き父親の洋行帰りの品で遺品でもある金時計(甲野家の財産を象徴している)と自らの美貌で、小野と宗近という二人の男性を天秤にかけ、彼らが狼狽する様を楽しんでいた。欽吾にとっての継母、藤尾の実の母親は、口では継子の欽吾の身を案じているものの、いずれは藤尾とその夫が亡夫の遺産を全て相続すると考えていた。また、藤尾は自分を慕い訪ねて来る小野に講釈をさせては、独自の解釈で小野の心を誑かしていた。
    小野は恩師井上狐堂の愛娘である小夜子を妻に娶るという口約束を交わしていた。老い衰えた井上と小夜子は生活に窮し、小野を頼って京都から上京する。藤尾への恋慕を抱える小野は義理と人情の板挟みに密かに苦しんでいた。
    一方、快活で剛毅な性格の宗近は外交官の試験に及第するため勉学に励んでいた。若くして隠棲している欽吾の身を案じ、しっかり者の妹糸子と父親と共に生活を送っていた。
    ある日、藤尾、欽吾、宗近、糸子ら4人は上野恩賜公園で行われた東京勧業博覧会見物に繰り出す。一方、小野は井上と小夜子を案内していたが人ごみに疲れた二人を休ませるためカフェで休憩している際に藤尾たちにその様子を目撃された。藤尾は後日小野をめぐりくどく問い詰める。一方、小夜子は博士論文の提出を控えているという小野の変貌ぶりに驚いていた。
    欽吾は宗近宅を訪ね、糸子と世間話をする。糸子は欽吾に思いを寄せていたが、欽吾は自分には養えないと婉曲に断る。藤尾に対する憧れを口にした糸子に、欽吾は「藤尾のような女がいると殺される人間が5人はいます」と打ち明け、「貴方はそのままでいてください」と糸子に語る。欽吾は改めて藤尾の気持ちを確認するが、藤尾には宗近の嫁になる意志はなく、小野に固執していた。
    小野は知人の浅井を通じて小夜子との縁談を断るつもりでいた。一方、宗近は外交官の試験に及第したことを糸子に報告するが、つれない態度をとられる。欽吾の嫁になる気はないかと尋ねると糸子は泣き出した。糸子は欽吾に恋慕しており、欽吾も糸子に好意はあったがまるでなにもかも諦めているように断った。
    宗近は報告と、出家する素振りの欽吾の心境を尋ねるため甲野家を訪れる。だが、藤尾のもとに小野が訪れていることを目撃する。宗近が欽吾を問い詰めると、欽吾は継母の真意に沿うように自分が悪者になって家を捨て、財産の全てを藤尾と継母に委ねるつもりだと吐露する。そんな欽吾に宗近は糸子を娶ってくれと頼み込み、世間の全てが欽吾の敵となっても糸子だけは味方になると欽吾を説得する。
    一方、小野に依頼された浅井は井上を訪ね、博士号取得を理由に小夜子との縁談をなかったことにして欲しいと頼み込む。その替わりに生活の援助はするという小野の言葉を浅井は伝えるが、井上は激昂し、人の娘をなんだと思っていると浅井に怒りをぶちまける。小夜子は浅井と父のやり取りを聞いて落涙する。
    井上の態度に悩んだ浅井は宗近に相談する。その頃、小野は藤尾と約束した駆け落ちを果たすべきか迷っていた。そこに宗近が乗り込む。そして人の道を説き、真面目になるべきだと懇々と説得する。
    欽吾は甲野家を出る意志を固める。糸子が迎えに来ていた。父の肖像画だけを持って家を出ようという欽吾に継母は世間体を口にして押し留める。其処に宗近と小野、小夜子が連れだって現れる。そして小野が連れた小夜子こそが彼の妻となる女性だと紹介する。一方、待てども待ち合わせに現れない小野に業を煮やした藤尾は甲野家に戻り、小夜子を伴った小野に対面。謝罪された上で小夜子が自分の妻となる女性と紹介される。藤尾は宗近に見せつけるように金時計を取り出すが、宗近からこんなものが欲しくて酔狂な真似をしたのではないと突き放される。
    藤尾は毒をあおって自死した。

  • 作品に入り込むのに時間がかかった。漱石の他の作品(坊っちゃんやこころ…etc.)に慣れている人は最初戸惑いそう。
    ただ、日本語・漢文のすばらしさを存分に堪能できた1冊でした。こんな文章書ける人って今この世のなかにいないんじゃないかレベル。
    藤尾がどうしても好きになれなかったけど、現代の女性像に近いのかな。
    糸子と甲野は結ばれて幸せになってほしい。小野は今から小夜子のお父さんとバトるのかな(^^; 小野からひどいことされても結局小夜子は小野を父からかばうんだろうな~

  • 面白い!

    明治の知識人階級の男女の四角(五角?六角?)関係であり、家や財産の相続、親の介護、若者特有のプライド、職業的マウンティング、恋愛と結婚、自我と世間体、本音と建前などなど、話自体はまあ渡る世間とかその辺のベタなホームドラマとそれほど変わらないはずなのに、なぜこれほどまでにスリリングでリアルなのか!?と考えるに、ストーリーテリングとしての純粋な面白さに加えて、普遍的な人間心理に対する漱石の鋭すぎる洞察と描写。それに尽きる。

    特にそれまでずっと表面上は穏やかに行儀よく、しかし水面下ではハイコンテクストな湾曲表現による高速パンチと寝技の応酬を繰り広げていた人たちが、クライマックスで突然全員がベタ足で本音をぶちまけ始めるあたりのカタルシスが尋常ではない。例えるなら「8マイル」ラストのラップバトル。

    表層的には「義理を立てるか、我を通すか」で悩む近代日本人だったりするのだけれど、もちろんそう単純な二項対立で済むわけもなく、最終的には「生きるか死ぬか、ぎりぎりの淵に立つ自己存在」みたいな場所まで行きついてしまうのが漱石の恐ろしいところ。

    どうしても気になるのはこの物語のその後で、小野さんと小夜子がこの後一緒になってお互い幸せになれるとはどうしても思えないし、糸子は甲野さんの良き理解者には違いないけれども、甲野さんの方に愛はあるんか?そもそもこんな泥沼を経たあとにあの義母と同じ屋根の下でうまくやっていけるのか?と考えるに、唯一明るい未来が想像できるのはザ・体育会系男子の宗近さんくらいだったりする。

    これが100年以上前の小説って、本当に信じられない。漱石は代表作くらいしか読んだことなかったけど、ちょっと今から地道に過去作ディグるわ…

  • 意外にも面白く夢中で読んだ。確かに人物設定は類型的て役割通りかもしれないが、言葉による駆け引き、微妙に移ろう心理描写は漱石ならでは。経済的にも社会的にも恵まれ、精神的に安定し、大らかで義を尊ぶ宗近一家の描写には己が望んでが得られなかったものへの漱石の憧憬が感じられる。私もそれは同様だ。

  • 全体的に引っ掛かる点が多かった。
    登場人物の関係がややこしく、姓と名を一致させるのが難しかった。
    場面の移行は丁寧に説明してあって解り易かった。
    再三将来はどうするかを聞いてくる人が多くて鬱陶しい。
    自由に恋愛・結婚をできる方が本人にとって良い。
    主人公は甲野なのだろうか。
    妹の大事な話の最中に円を描いているのは面白かった。
    病んでいて厄介だが、部屋の中で思考に耽っていたりくつろいでいる姿が可笑しいけれど癒される。
    藤尾が小野と小夜子の親密そうな光景に嫉妬する所は臨場感があって惹き込まれた。
    孤堂先生も娘が大事なのは分かるが、小野に頼る気が強くてしつこい。
    義理と人情を多用されると興醒めする。
    途中でイルミネーションを見物しているのは洒落ていると思った。
    藤尾は漱石の理想だと思っていたので、嫌っていたと知り驚いた。
    紫で表現したり明らかに他の女性より魅力的に描かれている。
    しかし題名はやはり藤尾を表しているだろう。
    シェークスピアの『マクベス』に触発されたのだろうか。
    最後の一同が会し藤尾を辱めて彼女が死ぬまでの場面は非常に(悲)劇的に感じられた。
    扱いが雑で少々可哀想にも思える。
    死因が不明だが恐らく憤死で片付けて問題ないだろう。
    藤尾を小野と結婚させようとした母は因果応報で同情に値しない。
    宗近は友情による優しさから小野を説得したのだろうが、それで決心する小野には拍子抜けした。
    「真面目でなければならない」は自分の胸にも刺さった。
    女中に清というお婆さんが出てくる場面で『坊っちゃん』を思い出した。

  • (個人的)漱石再読月間の6。

    いよいよ虞美人草です。10代の中頃に読んだはずなのですが、まっったく歯が立たず、藤尾の壮絶なラストだけはくっきり記憶にあるものの、とにかく辛かった思い出しかないので、今回の再読月間に当たり、最後に回そうか、さもないとここで引っかかって終わらないかも…くらいの苦手意識だったのが、なんとするする読めるし、もう面白くてたまらない。最初の朝日新聞での連載小説で、気合いを入れて、面白い仕掛け満載なのがよくわかり、いやぁ、私も読書人として成長したなぁと感慨深いものがありました。

    キーワードは「道義」と「悲劇」

    ここでもやはり、お金がないのはツライということが延々と述べられ、意外とテーマは偏っているのかとも思う。

  • 明治の恋愛小説といって正しいのだろうか。交友範囲内の男女の関係のもつれを書いた作品。現代とは恋愛の価値観が違っているので、その前提で読んだ方が楽しめると思われる。
    全体的に内容は回りくどい。例を挙げれば、手紙の封を開けるのに迷った登場人物が、ギッチリ文字の詰まった2ページを丸々使って右往左往したりする。
    ただ、それらは描写と詩的な文言に費やされているので、浸ることが出来はじめると次第に光景が浮かぶようになって良くなってくる。慣れるのに時間はかかったが、当時の風俗などを楽しめた。静かな場所で読むのが良いかも

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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