行人 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
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レビュー : 155
  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010120

作品紹介・あらすじ

学問だけを生きがいとしている一郎は、妻に理解されないばかりでなく両親や親族からも敬遠されている。孤独に苦しみながらも、我を棄てることができない彼は、妻を愛しながらも、妻を信じることができず、弟・二郎に対する妻の愛情を疑い、弟に自分の妻とひと晩よそで泊まってくれとまで頼む…。「他の心」をつかめなくなった人間の寂寞とした姿を追究して『こころ』につながる作品。

感想・レビュー・書評

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  • 漱石の作品のなかで一番のお気に入り。
    タイトルの‘コウジン’という音の響きもいい。
    主人公の一郎。多知多解、頭脳明晰過ぎて、であるがゆえに妻や親族や周りとの調和が取れない孤独で苦悩深い知識人。彼の姿を同僚のHと弟の二郎の視点で語られる。

    一郎の孤絶が読んでいて辛い。実際、似た人を身近に知っているし苦しむ姿を見たことがある。その人は残念だが亡くなってしまった。あの人は「行人」を読んだだろうか、と読後にふと思った。そんな体験があるのでなおさらこの作品が胸に響いてきた。

  • 何事も考えに考え抜いて、それでも行動を起こさない一郎と、
    「女は鉢植えのようなもの。誰か来て動かしてくれない以上、立枯れになるまで
     じっとしている外ない」
    と言う感情主義で情熱的な直。
    そんな彼女がストレートな愛情表現をしない一郎に満足するはずもなく、
    捻れた態度をとるばかり。

    直が二郎と一夜を共にしたのに、何も行動を起こさない彼に焦れて、
    暗闇の中わざと帯を解く音など聞かせて誘惑したのは、
    鉢植えのような自分をどこか遠くへ連れ出して欲しかっただけで、
    別段二郎でなくてもよかったのだろう。
    ともあれ、これほど相性の悪い女を妻にしたことが、
    一郎にとってそもそもの不幸の始まりだった。

    思索ばかりで実行力のないことが、自分の不幸の根源だと一郎は分かっているが、
    (実行に伴う)自意識を捨てることができない。
    そして、ぐるぐると思考の螺旋に迷い込み、とうとう狂気の淵へと辿り着く。

    心が体を支配するのではなく、体が脳(心)を支配しているということが
    近年明らかになってきたようだが、
    そのような人間の本質を見抜いていた漱石はさすが。
    それにしても「何か大変なことが起こるぞ」という餌をしじゅうちらつかせ、
    読者にぞくぞくする期待を持たせるのが上手い書き手である。

  • 二郎の目を通して伝わってくる、兄の苦悩と孤独。
    それを思うと、やるせない気持ちになる。
    何となくそれを感じていたからこそ、もう少し親しい言葉を掛けてあげて下さいと、嫂に言ったのかも知れないけど…夫婦間のことって二人にしか分からないこともあるから…

    何と言うか、上手く言えないんだけど、読むのに体力を使う小説だった。でも、面白かった。

    兄はこの後どうなるんだろう。
    兄の苦悩の孤独を思えば、Hさんの言うように、このまま目が覚めなかったら、永久に幸福なのかも知れない。

  • 実はハッピーエンドだと思っている。

    漱石の後部三部作は、物語の前半では語り手が自身の視点から第三者を勝手に分析する。それが物語の本論を占める。後半になるとその第三者視点の物語が展開され、彼は全く違うことを考えていることを知る──その世界観の格差を示すことで、後者の、特に現代的(←明治)な知識人の孤独を表現する、という構成になっていると、私は理解している。特に前半を読むことによって読者は完全に庶民脳になっているので後半に入った時の騙された感が読んでいて楽しい。

    「行人」では、前半は弟(二郎)が語り手。彼の兄一郎と義姉を観察して、結婚について恋愛について、ああでもないこうでもないと邪推している。後半で友人Hから聞かされるところによれば兄の苦悩はそんなレベルではなかった、もっと明治知識人としての苦悩であった、それが義姉と共有できないことへの悲しみであった。

    ただ「彼岸過迄」も「こころ」も、その苦悩は本人からの語りもしくは遺書という形で提示されるのに対して、「行人」では、友人Hが語っている。友人Hは完全に兄を理解している。「孤独な知識人」への理解者が唯一存在するのがこの「行人」なのだ。読み終わってなんだか嬉しい気持ちになった。一郎とH結婚しろ。

  • 先ごろ読んだ、半藤一利著『漱石先生ぞな、もし』に刺激され、本作を手に取った。
    高校のころに読んだ記憶があるが、もちろん内容はすっかり忘れており、初読の気分を味わった。
    大正時代の小説にもかかわらず、けっして古さを感じさせず(勿論、登場人物の会話の言葉は明治そのもの)、現代作家が書いたといっても通用する作品。だからこそ、名作か。
    前半は、兄と嫂と弟の三角関係を扱った具体作かと思いきや、やがて、近代人の悩み・不安あるいは人間存在そのものへの問いかけへと、問題が普遍性を帯びてくる。
    やはり、漱石は並の作家ではない証左。

    文中、示唆に富んだ箴言が読者を魅了する。
    「幸福になりたいと思って、幸福の研究ばかりしていても、幸福にはなれない。」
    「山を呼び寄せようと思っても、山が来てくれない以上、自分が行くより仕方あるまい。」等々。

  • 結構面白く読めました。嫂と和歌山で一晩過ごす羽目になるのも、はわはわしながら読んでました。停電の中で義姉が帯を解くのもすんごい興奮しながら読んでました(笑)
    それから穏やかに過ぎる日々の中で、少しずつひずんでゆく兄との関係や嫂との妙な距離、母の視線なんかも、なかなかスリリングで中盤からは一息で読んでしまいました。

    「宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」 兄はさも忌々しそうにこう云い放った。そうしておいて、「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、 考えて、考えるだけだ。二郎、 どうかおれを信じられるようにしてくれ」

    この兄さんの叫びは何とも切なかったです。
    こんな頭のいい兄さんに対しておこがましいですが、よくわかるんですよ。これって宗教だけじゃないんですよね。恋愛もそうだし、幸福さえそうだと思います。
    昔、幸せについて考えた時に「そんなものはどこにもない。幸せはその人がそう思い込んでいるだけだ」ってところに行き着いて、何も考えず幸せそうな人を少し馬鹿にさえしていたけれど、今はそれが出来る人がとても羨ましいんです。
    その人がそれを幸福だと信じれば、たとえどんな状況であったとしても、誰に否定されようともそれを侵すことは出来ないんです。

    幸福の正体について考えることなど、なんて無意味なことでしょう。信じられることのなんと強く難しく潔いことでしょう。

    私も兄さんと一緒で、もしかしたら一生疑うことしか出来ない気がしているのです。
    だから、あの結末は永遠に眠る時まで安らぐことなどできないとでもいうようで、真理であったとしても、切なかった。

    それとも、そんな孤独が自分だけではないと思えば少しは救われるのかな。

  •  Hさんからの手紙で明らかになる一郎の根源的な悩みを読んでいると、100年も前に書かれた小説とは思えない。『人間の不安は科学から来る。進んで止まることを知らない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船と、何処まで行っても休ませてくれない。何処まで伴われて行かれるか分からない。実に恐ろしい』。一郎のこのセリフ、完全に2010年代に生きる私たちに向けて語られているんじゃないかと思う。
     インターネットの発展と普及によって、座り慣れたイスにふんぞり返って膨大な量の情報と思索のいらない娯楽を得ることができる。facebookで人脈作らなきゃ! ツイッターで友達にコメントしなきゃ! mixiで充実してる日記かいて、読む友達に自分は幸せだと思わせなきゃ!小説なんか読んでる場合じゃない!!
     そうやって、現代人は読書するとか、何も考えずに散歩するとか本来心の平穏のために自然にできていたことができなくなってしまったような気がする。これは一郎の「普段何をしていてもそこに安住することができない。」「自分のしていることが自分の目的(エンド)になっていない」という状態に近いのではないか。

    このまま国民皆一郎化してしまったらかなり恐ろしい。

  • 他人にこころを開かない一郎の姿を周りの人からのことばで綴っています。

    考えに考えを重ねながら、それが一層周囲との感覚の断絶につながり、深い孤独にはまってゆく一郎のくるしみが痛いほど伝わってきました。

    文学も哲学も知らない自分でも味わうことが出来ました。
    名作だと思います。

  • ずっと積読だったが「言の葉の庭」でたまたまヒロインが行人を読んでいるシーンがあり読み始めてみた。

    そこはかとない階級意識等当時の時代を感じさせる描写は新鮮であった。

    雑に物事が回っている社会において鋭敏な理解や感性は諸刃の剣。

  • 20140205読了。漱石先生、後期三部作の二作目。長くて捉えどころがないな、というのが印象の本。中心となる人物は一郎とその弟、二郎。一郎は結婚をしているが妻の自分に対する気持ちを信じることが出来ず、果ては妻が「弟に気があるのではないか?」と疑心暗鬼に陥り、弟の二郎に妻の気持ちを確かめるために一晩二人っきりで過ごしてほしい、とまで詰め寄る。一種パラノイア的な神経症を抱える。

    そうして、作中には何度か兄と弟が言い争うシーンがあるが、お互いに理解をし合うことはない。この何度かのシーンはどれも迫真生があり、心に迫る。

    最後の章は、兄一郎の学生時代からの旧友であるHさんが、兄の神経症緩和のために二人旅をし、その二人旅の様子を弟の二郎へと書いた手紙の内容で物語が終わる。余談だが、手紙という手段をもって人の心の真相を読者に伝える、という手法は次の作品である『こころ』に繋がる序章となっているような気がする。

    この手紙の中では、兄一郎はそのこころに迂闊と矛盾を抱えながら苦しみ自分の現状をHさんに吐露する。どうして自ら生きづらくするのか、と思ってしまうがそうようにしか生きられない一郎のこころに同情せざるを得ない。

    この作品を読んで、どこまで漱石先生の精神性が作品中に込められているのかが分からないけれども、夏目漱石という人は、その時代を客観的に冷静にある種の危惧をもって、つまり明晰な頭脳で批判的に世の中をみた人だけれども、その一方で何の根拠もなく何の利害もなく、“ただ人を信じる“、ということに強く憧れた人なのではないかと思う。

    信じることができずに、考えるしかないその苦しみをこの作品は伝えていると思う。

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著者プロフィール

夏目漱石(なつめ そうせき)
1867年2月9日 - 1916年12月9日
江戸・牛込馬場下(新宿区)生まれの小説家、評論家。本名は「夏目金之助」(なつめ きんのすけ)。1890年、帝国大学文科大学英文科に入学。1895~96年には『坊っちゃん』の舞台となった松山中学校で教鞭を執る。1900年、イギリスに留学。1905年、『吾輩は猫である』を俳句雑誌「ホトトギス」に連載し始め、作家活動を本格的に開始。1907年、朝日新聞社に入社。以降、朝日新聞紙上に『三四郎』『それから』『こころ』などの代表作を連載。日本の文学史に多大な影響を与えており、作品は多くの人に親しまれている。学校教科書でも多数作品が採用されている。

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