こころ (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010137

作品紹介・あらすじ

親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品。鎌倉の海岸で出会った"先生"という主人公の不思議な魅力にとりつかれた学生の眼から間接的に主人公が描かれる前半と、後半の主人公の告白体との対照が効果的で、"我執"の主題を抑制された透明な文体で展開した後期三部作の終局をなす秀作である。

感想・レビュー・書評

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  •  長い解説は読まずに書く。
     作者の意図を理解出来ているかどうかは分からないが、これは人間の原罪を描いた作品だな。
     Kという内向的な精神的に鋭く脆い友人を助けるため、自分の下宿に引き込んだ“先生”。そのために兼ねてから自分が思いを寄せていた下宿のお嬢さんを巡ってKと三角関係になり、“先生”の気持ちに気付かず、お嬢さんに対する思いを“先生”に打ち明けたK。“先生”は友人の告白を聞いて動揺し、あろうことか「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」とKを一番打ちのめす言葉で罵倒しておきながら、自分はそのすきに“お嬢さん”の母親と話を付けて、お嬢さんとの婚約に取り付けてしまった。
     酷いといえば酷い。けれど恋愛ってそんなものだ。
     そしてその後のまさかのKの自殺。Kの自殺は単なる失恋とか、“先生”への復讐とかそんなものではないだろう。もっと精神的に深いところで、理想と現実、理性と愛の矛盾みたいなところに失望したんじゃないかな。
     だけど、“先生”はその後ずっと罪の意識に苦しみ続け、世間の中で自分が認められるような何かも生計を立てるような何かもする気になれず、死んだつもりになって生き続けた。
     “先生”もKも真面目で理性的な善き人であったが、“先生”が本能的に愛を勝ちとったことで、Kを死に追いやって仕舞ったことも、あまりに自分だけに真っ直ぐすぎて失恋を機に自殺したことで、“先生”を生涯苦しめたKの行いも人間の“原罪”の成したことだと思う。
     どちらかというと前半のほうが面白く、語りてである主人公の大学生が何故廃人のような“先生”にそこまで惹かれたのか、“先生”はどうして何も仕事をしていないのに奥さんとまあまあ余裕のある生活を送ってられるのかというところが疑問であったが、そこのところの答えがないままだった。
     だけど、先生は時々ドキリとするような洞察力のあることを言い放つのが面白かった。例えば、主人公が「まだ恋は知らない」と言ったことに対して、先生は「あなたは物足りないから、私のところに来たんでしょ。」。「それは恋とは違います。」という主人公に対して、「恋に上る階段なのです。異性と抱き合う順序として、まず同性である私の所に動いてきたのです。」というセリフなど。
     こんなことを言って仕舞ってはオシマイだが、明治時代というと昔朝ドラで見た「おしん」のように生きることにただただ必死であった人も多かったのに、“先生”やKのように働かず、精神世界ばかりに生きていたこと自体は善であったといえるのだろうか。
     でもまあ、“先生”の遺書を読むと自分自身の胸がチクチクしたことも事実。やっぱり読者の原罪を背負って自ら罰したキリストのような人。
     高校の時の教科書にこの小説が部分的に掲載されていて、全く理解出来ず、唯一得意だと思っていた現国に自信が無くなってしまった。今読んだら分かるかなと思ったが、やはり難しい。
     高校の国語から“小説”が削除されるということを小耳に挟んだ。「そんなバカな」と思ったが、小説の解釈について正解を求めるような授業ならないほうが良い。だけど、接する機会は失わせないでほしい。

  • うん、言わずと知れた名作ですね。この「こころ」という作品には日本人が持つ「恥の文化」の極限を見た気がします。多くの日本人が共感するからこれだけ読まれているし、評価されているのだと思います。天邪鬼な自分をよく読んだな褒めてやりたいです。

  • 日本語が凄い。表現が凄い。もうどうにもならないほど損なわれてしまった人の、孤独な告白。そういう暗闇は周りの人も不幸にしてしまう。奥さんが一番かわいそうだ。お嬢さんが好きなのに、どうしても幸せにしてあげられなかった先生もかわいそうだ。

  • 存在はもちろん知っていたけれど読んだのははじめて。一言で言えそうなことを5行くらいかけて言っているような気がした…笑。漏れがなく表現するためにはそうなってしまうものなのかなあ、、、むずかしかった。
    心理描写がまどろっこしいけれど言い得て妙で、練られた文章なのだろうな…と思った。登場人物の行動だけを見ると、なんで!?!?!?というものだらけだけど、許してくれる人やわかってくれる人はいるだろうにひとりで自責の念にかられた経験は私もあるので、人間の心の天邪鬼さ(?)みたいなものも表れているのかなと思った。

    でも100年以上前の小説なのにこれだけ衝撃を与えられるのはやっぱり作品の力がすごいのだろうなーと。読み継がれるのはわかる。夏目漱石の他の作品も一生に一度は読んでみようかなと思わされました…笑
    でもやっぱり先生も「私」も定職に着いた方がいい気がする(余計なお世話)

  • 高校時代以来、10年以上ぶりに読み返しました。

    神経衰弱や失恋など、高校生の私にはいまいちピンと来ないものでした。
    確かに気持ちが塞ぎ込んだり、叶わなかった恋をしたりはありましたが、その結果「死」を選ぶ理由というものが分からなかったのです。
    おそらくですが、そのときの私は「K」に感情移入しようとしていたのだと思います。
    そして懸命に理解しようとしていたのだと思います。

    しかし、月日が流れ、多くの人間と触れ合ってきたことにより、一人ひとりが「何と言われようとも変えられないポリシー」というものを持っていることを知りました。
    Kの場合は、「精神」や「精神的な向上心」などですが、それは私の中ではそれほど重要視されていないものだったので、Kの心も理解できなかったのだと思います。

    逆に今の私は、「先生」の心がとても理解できました。
    目先の欲望を抑えることができず、成し遂げることによって一時的な満足感は得られるが、あとで取り返しのつかないことをしてしまったと気付いてもそれを打ち明けることができない…そんなことはよくあります。
    ましてや先生は、懺悔すべき相手を亡くしてしまったのだから、悔やんでも悔やみきれない気持ちになるのは当然です。
    奥様の「Kさんが生きていたら、貴方もそんなにならなかったでしょう」という言葉が、どれほど残酷に先生の胸に刺さったかを思うと、とても辛いです。
    でも、これは誰にでも起こりうる悲劇なのです。

    時代こそ違えど、夏目作品は古くなることを知らないと痛感しました。
    さて、10年後、20年後の私は、この本をどういう風に読むのでしょうか…。

  • 高校の現代文の授業で一部抜粋して読み、そこから興味が出て本を買って読んだ。
    なんだろう、何とも形容し難い気持ちが心のなかに渦巻く作品。
    K、お嬢さん、先生や奥さん、多くの人の感情が入り交じり、読む人の立場で作品の味や見解が変わる作品だと思う。

    人間の汚らしさやエゴイストな部分、不器用な部分が上手く表現されていて、もはや苦しい。

  • この作品は学生の頃にも読んだ記憶があります。今読むのとはまったく違った感想だったと思います。

    作品は3つに別れていて、かつ、途中で一人称というか、物語を進めていく人物が変わります。(私→先生)

    学生の頃は・・・「先生」の思惑通りなのに失恋のような感じと、友人との別れと「私」のこれからどうするのかということが興味深かった記憶があります。
    今回、再度読んで見ると・・・胸が苦しいしく、さまざまな感情が飛び交い熱い感じがしました。

    人は強欲、嫉妬、後悔などさまざまな心の動きを持ちながら生きていて、誰かに分かってもらいたいと思いながらも、誰にも見せたくないという部分があると改めて思いました。読む年齢、読む時期によって思うことが変わる作品だと思います。また、この本を読み終わり、本を閉じたとき「こころ」という題名の意味を感じることができるのかもしれないとも思いました。

  • 国語の教科書で読んだだけのこの作品は、今読んでも本当に、見事としか言いようがない。
    時代背景知りませんので、先入観抜きで作品自体のレビューします。

    3章から成り、「先生と私」「両親と私」そして最も知名度の高い「先生と遺書」と構成されていますが、
    まず言いたいのは、「先生と私」の素晴らしさ。
    結末を知った今読み返すと、如何に著者が先生の苦しみを表すのに適切な言葉を選んだかがわかります。
    「私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。」
    「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」
    結末に対して100納得するのはやはり気が進まず、平成の日本人として何かしら反論を、と読後考えたりもしましたが、
    振り返ってみれば、1章から続く先生の渇いた佇まいは異論を挟み込む余地など無いように思います。
    その牙城を更に完璧に築く後押しをするのは、あまりにも美しい日本語で書かれた3章の手紙。
    有名だからという理由でこちらも身構えてましたが、そんなアンチの意など何の意味も無い程、終盤の文章は圧巻です。
    しつこく繰り返される先生の葛藤は、あまり好感は持たれないものの、共感という点で誰もが頷かざるを得ない。
    というか時代を越えた今私なんかを唸らせている時点で、もうそれは真理でしょう笑。

    いわゆる文豪の小説に手を出したくなるきっかけとして、本作はとても良いと思います、
    少なくとも私は今、文豪モード

    • HNGSKさん
      な、なんと素晴らしいレビュー。
      私もはばかりながら、この作品が大好きです。
      tacbonaldさんのレビューに、引用されている文章がどこにあ...
      な、なんと素晴らしいレビュー。
      私もはばかりながら、この作品が大好きです。
      tacbonaldさんのレビューに、引用されている文章がどこにあるのか、確かめてみたくてたまりません。今すぐに、「こころ」を手にとって読みたい衝動に駆られました。
      もしよろしければ、フォローさせてください。
      2013/01/29
    • tacbonaldさん
      すみませんコメントに気付いてませんでした…
      コメントありがとうございます。
      レビューを書くことで、気持ちの整理にもなってさらに作品を好きにな...
      すみませんコメントに気付いてませんでした…
      コメントありがとうございます。
      レビューを書くことで、気持ちの整理にもなってさらに作品を好きになりますよね。
      これからもガンガンレビューしてってください!
      2013/02/24
  • 高校生の息子の夏の課題本だったのを読んだ。
    私も高校の授業で一部分習っただけで読むの初めて。
    映画も見たがほぼ覚えていない…多分これでしょう。
    https://www.nikkatsu.com/movie/20056.html


    『上 先生と私』
    <私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。P6>
    学生の”私”は、海水浴の鎌倉で見かけた男性と知り合いになり、東京に戻ってからも交流を続ける。
    私が年上という理由で”先生”と呼ぶその男性は、仕事は持たず本を読み散歩をしながら妻のお静さんと女中と静かに暮らしていた。まだ若くて将来を気にする必要もない私にとって、学校の教授の講義より先生の談話のほうが有意義に感じられて、月に何度も訪ねるようになる。

    この物語で、私が先生の何を気に入って家に通うようになるかは明確にされていないので、読者としては感じるしかない。
    思春期で、友情も親子の情も恋愛も超えた関係を求めたのかもしれない。
    先生は「若いうちは寂しい。きみはいずれ女性に恋をするが、その前に同性のおれのところにその寂しさを埋めに来ているんだろう。だがきみはおれに失望するだろう。おれはそんな人間なのだから」などという。

    先生は話をすればするほど不思議な人だった。家で本を読み一人で勉学をしているようだがそれを発表することはしない。厭世的で感情を表さない。先生、先生と言って慕ってくる私を迎え入れつつも「自分は人間全体を信用していないんです」という態度を崩さない。
    どうやら過去に何かがあったらしい。親族に財産を騙し取られたこと、そして学生時代の大事な友人が亡くなったことが関係しているようだ。
     「自分で自分が信用できないから、人も信用できない」
     「人間は誰でもいざという間際に悪人になる」
     <しかし私はまだ復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を元にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれでたくさんだと思う。P84>
    そんな先生の側にいる奥さんは、先生を人間として幸せにしているのは間違いなく自分(奥さん)だというが、しかし先生は人間が嫌いなので自分(奥さん)のことも嫌いにならざるを得ないのだと言う。

    この奥さんの考えは、現代からすると不思議でもある。
    先生が人偏すべてを嫌うことに対して自分の無気力さを感じるが、同時にそんな夫と互いに幸せな生活を送れるというのは、ただ流される女というよりある意味肝が座っているというのか。

    さて、先生はそうやって世間を自分を嫌いながらも、まだ若くて将来があり赤の他人である自分を慕ってくる私には心のすべてを出したいという態度を見せることもある。
    <「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が年を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている、しかしどうもあなただけは疑りたくない。(…中略…)」私は死ぬ前にたった一人で好い(※よい)から、他(※ひと)を信用して死にたいと思っている、あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか(…中略…)。よろしい私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。P87>


    そのころ故郷の父が倒れたという連絡が入り実家に戻る。
    幸い父は床を離れた。
    田舎の人々と日々を過ごすうちに、私は心のうちで父と先生とを比較した。
    両方とも世間から見れば生きているか死んでいるかも分からないおとなしい男だ。
    他に認められるものもない。
    故郷の父はすでに私には物足りない。
    だが赤の他人である先生との交流は、私に愉しみをもたらせていた。
    <肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血の中に先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実をことらわ目の前に並べてみて、初めて大きな心理でも発見したかのごとく驚いた。P64>

    東京に戻った私は先生への元を訪れる。
    相変わらず厭世的だ。
    そして私は卒業し、田舎の両親のもとに一時帰宅することになる。

    『中 両親と私』
    ここからは故郷での話。
    私には、両親と、他の地方で仕事を持った兄と、嫁に出て妊娠中の妹がいる。
    この故郷がどことは書かれていないけれど、兄の勤務地が九州ということなので、まあ西の方でなのでしょう。」
    両親は田舎の考えで、東大を卒業したのだからそれなりの職業に付き収入を得て欲しいと思っている。
    そして仕事をその”先生”に紹介してもらという。
    家族にとって、”先生”というからには何かをしているべき存在だ。先生が本当は何者なのか、ただ交流が愉しいのだということは理解してもらうことはできない。

    いや、現代読者としてもそれは不思議ですよ。この小説に限らないが、仕事をしなくても特に困った感じもなく日々を過ごせる国や時代というのはどうなっているんだと考えてしまう。

    そうしているうちに父がまた倒れる。今度こそ死が近いようだ。
    明治天皇のご病気と崩御、そして乃木大将の殉死のニュースも故郷で知った。
    ちょうど先生から「会いたいから東京に戻れないか」という電報が来たが、折も折で断るしかなかった。

    数日後、先生から大変な長文の手紙が来る。
    パラパラとめくる私の目に飛び込んできた言葉。
    <この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にいないでしょう、とくに死んでいるでしょう。P148>
    父の容態の安定を確認した私は東京への電車に飛び乗った。


    『下 先生と遺書』
    この章は先生の昔語りであり、人生の告白である。三部構成だが、この章が全体の半分を占める。
    先生が私に長い手紙を書いた理由は、私に過去を問われた時に、それを打ち明ける相手は私にだけだと思ったからだ。

    先生は、田舎の裕福な家の一人息子で鷹揚に育てられていた。
    両親が亡くなった時も、東京で学生生活を謳歌して家は叔父に任せっきりだった。
    だがその叔父に両親の財産を取られていたらしい。
    これが先生の第一の人間不信の原因だった。

    このあたりの親族間の財産争いは、たしかにひどくはあるんだが、のんきな甥っ子が都会で好き勝手してたら、田舎で生きる身としては何をのんきな!と感じる気持ちもわからなくもない。
    先生が叔父さん一家の詐欺行為や見せかけの親切や付かれた嘘に傷つくのは当然ではあるが、何も気が付かず気がついても何もしない先生も相当甘く育っているんだよね。

    そして先生は叔父と争うこともなく(気力もないしやり方も分からないし、東京に出てきたのんきな田舎のお坊ちゃんに太刀打ちできる相手でもない)、自分が受け取れるだけの財産を受け取り、残りの家と財産とは叔父に明け渡し故郷を完全に離れて東京で暮らすことにした。

    財産を掠め取られたとはいっても、受け取ったお金は学生にしてはそれなりの大金であったようだ。
    先生はせせこましい寮を出て素人下宿に移った。
    このあたりもなんとも呑気。
    この下宿は、日清戦争でなくなった軍人の未亡人(以後”奥さん”)と、その娘さん(以後”お嬢さん”)と、女中とで暮らす静かな世帯だった。
    こんな女所帯に、娘と同じ年頃の学生さんを住まわせるのだから、それなりの思惑が会っただろうとは、読者としても想像がつく。呑気な先生もそれは感じたようだ。奥さんはどうやら自分とお嬢さんとを近づけようとしているかのようだ。だがそうかと思えば決して二人きりにはさせないような、どっちとも取れない素振りを見せる。
    奥さんの思惑はどうであれ、先生はお嬢さんに惹かれていった。
    <私はその人(※お嬢さんのこと)に対して、ほとんど信仰に近い愛を持っていたのです。(…中略…)本当の愛は宗教心とそう違ったものでないとういうことを固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持ちがしました。お嬢さんを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。P186>
    しかし人間不信のある先生は、奥さんのどちらとも取れない態度に対して、自分からも踏み出せないでいる。

    その頃、先生は友人の”K”を下宿に招き入れる。
    Kはもともとお寺の家の次男だったけれど、跡継ぎのいない医者の家に養子に出されていた。
    当然医者になることを期待されていたのだけれど、頑固者のK本人は、人生を修行鍛錬で過ごしたいと思っていた。それは実家である本願寺派浄土真宗に進むというのではなく、人生そのものを哲学的な思想を持ち、常に精進して生きてゆこうとするというK独自の信念を持っていたのだ。無口で偏屈で意地っぱりのKは、人付き合い、ましてや恋愛などは人間の精神精進に対しての無駄だと軽蔑している。
    先生は、若干上から目線的な思惑で、そんな意固地なKを解きほぐしてやろうという思っていたのだ。

    Kは、人間らしさや人との交流などは、自分の弱点を隠すためのごまかしだとまで言う。
    そして言い放つ。
    「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

    そんなKの様子が最近おかしい。神経衰弱気味で顔色も悪く集中力にも欠けている。
    理由を聞く先生に対して、Kはお嬢さんへの切ない恋を打ち明ける。

    もともとお嬢さんに対して高貴な精神愛を持っていた先生は、先を越された、という思いを持つ。
    自分のお嬢さんへの想いを打ち明けるにはタイミングを逸した。だがKとお嬢さんがもし接近するようなことがあったらと嫉妬に苛まされる。
    先生はKを出し抜く事を考えるのだった。

    先生はKにその恋心をどうするつもりかと尋ねた。
    そしてその恋を砕こうとする。
    こんなことになり、一体どういう覚悟を持ってこの先生きるのか。そしてかつて自分が言われた言葉、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」を浴びせ返す。
    するとKは言う。
    「覚悟、ー覚悟ならない事もない。(P256)」

    先生は先回りすることにした。
    奥さんにお嬢さんとの結婚を申し出る。

    この求婚に関しては、もう奥さんもお嬢さんも最初からそのつもりだったのだろう、すんなり受け入れられる。何しろ奥さんが「あなたから娘に直接言う必要もありませんよ。あの子が嫌なら私が承諾するはずないじゃありませんか」とまでいう。

    見事婚約が相成った先生の新たな悩みは、Kが知っているのか知らないのか、Kの恋心を潰そうとした自分が抜け駆けしたことをどう思うのか、自分の行った卑怯な行為を言いふらされたりするだろうか。
    そんなKに対して妙な感触を持つ。夜中に隣の部屋から「まだ起きているか?」「最近よく眠れるか?」などと聞いてくる。
    どうやらKは、先生とお嬢さんの結婚を奥さんから聞いて知っていた。だがまったく変わった様子を見せなかった。
    そして数日後、布団で動脈を一気に切り裂いて自殺していた。

    遺体の第一発見者である先生が真っ先にしたことは、自分が不利になるような遺書があるかを確認することだった。
    Kの恋心は誰も知らなかったので、現状や将来を悲観しての自殺と片付けられた。
    先生はお嬢さんと結婚する。
    最初の章に先生の奥さんとしてでてきたお静さんがこのお嬢さんの今の姿。

    しかし先生の結婚生活はだんだん先生の精神を追い詰める。
    どうしても自分の妻の向こうにKを見てしまうのだ。それは叔父に騙されて傷ついた自分が、Kを騙した事を突きつけられる、自分が嫌っていた人間の汚さを自分自身に見せつけられるのだ。

    こんな精神状態ではありながら、元々が生々しい恋愛というより精神的な愛情であった二人は、夫婦として不満もなく穏やかに過ごしていたようだ。
    それでもお静さんは、自分と結婚してからの先生がどんどん無気力になってしまうことに対して負い目のようなものを持ち続ける。
    自分と結婚したのが悪いのか、自分が嫌いで引きこもるようになったのか。

    そんな生活をしばらく送ったところで”私”が先生夫婦の家を尋ねるようになったのだ。
    そして私が田舎に返っている時に明治天皇崩御のニュースが報じられる。
    先生は、自分が明治という古い時代と共に取り残されたような、先に進めないような心持ちになる。
    そして乃木大将の殉死。
    それは先生の前に”答え”を示した。

    この小説は、自殺を決めたことと、その前に私には真実を話したいということと、だが妻には自分の醜さを知らせたくないという先生の手紙で終わっている。
    私が先生の家に駆けつけてどうなったか、私と故郷の両親のことはどうなったのかは書かれていない。
    昔見た映画では、ラスト場面は、私が先生の家に到着し、夫の急死に泣き濡れるお静さんに迎えられる場面で終わっていた。
    なお、映画でもう一つだけ覚えているのはKが眉毛釣り上げ口をへの字にして「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」の台詞だけなんですけどね。

    先生が奥さんとお嬢さんの下宿に入ってからはほぼ思春期小説。恋に悩み人生を語りたくなり、自分は精神により高みを目指したがるこの頭がぐるぐるしている様子がずっと書かれている。今の私の年齢にとってはなんというか、若い人の恋愛の悩みを聞いたような(実際に聞いたことはありませんが)、振り返るような思いだった。そのため、高校の時に読んだよりずっと読みやすかった。
    高校の授業ではKの自殺と先生の自殺の理由を考えるものがあった。
    Kの自殺は友人である先生に裏切られたことと、お嬢さんへの失恋だと読めるのだが、だが失恋や裏切りがなくても自殺したのだというような読み取り方を教わった。
    Kにとっては、恋をして堕落した事自体が自分の道に外れたのであり、失恋も裏切りも関係ない。それが現れるのが「覚悟ならなくもない」という台詞と、先生に向かって「夜眠れるか」ときいた事(隣の部屋の先生が起きてたら自殺を気が付かれるから)だという。
    今回私はそれを踏まえて読んでいるのだが、やはり失恋や裏切りは関係ないのだろうと思った。

    殉死という言葉や概念は現在では遠くなり特異に感じる。だからKや先生の死に”殉死”という言葉があるとなにか特別な感じがする。
    だが、自分にはそれに殉じるだけの信念なのだと思えば分からない気持ちではない。
    Kは、自分の信念に殉じた。
    先生は、自分が人からされて嫌悪したことを自分がして気持ちは死んでいたが、肉体も死んでも良い理由が提示されたから死んだ。この先生が心を閉じてゆくことに関しては、奥さんのお静さんに自分の裏切りを告白したって受け入れてもらえたと思うんだが、先生は受け入れてほしいのではなくて罰してほしかったのだろう。ああ、このへんが人間の面倒臭さ。夫婦でKの墓参りに行く人生も送れただろうにそれじゃだめなんだ。それなら先生は、自分のすべてを告白できる相手である私に出会えて心は開放されたのかもしれない。


    夏目漱石は改めて読むとやっぱり良いですね。
    私としては、夢十夜とか蛇みたいにちょっと神経に直接触れられるような短編が好きなんですけどね。なんの説明もなく何かが起きて、なんか怖い、みたいな。

  • 世間を恐れず己の信念のままに、自虐的とも言える生き方を貫く友人Kに、
    彼の人生を根底から覆すような言葉を吐き、裏工作をして手に入れた妻。
    先生はKに恋を諦めさせたかっただけなのに、
    その言動はKの人格の全てを打ちのめし、死に追いやった。
    主人公の私は親に言われるがままに、先生に就職の斡旋を乞う手紙を書く。
    この手紙が私の思惑とは無関係に、結果的に先生を自殺へと導いてしまう。

    人間の言動というものは、それを発する側の意図しない働きをすることがある。
    軽い行き違いで済むものならいいが、
    この話のように、取り返しのつかない事態になるかもしれないから、
    言葉を発する際は気を付けなければと、感情的な私は思うのでした。

    Kの自殺以来、先生自身もいずれは自殺するという予感を抱きながらも
    実行に至らなかったのは、誰かに腹の中を全て曝け出し懺悔したかったのだろう。
    自分の罪悪感と心情を酌んでくれる「真面目な人」に全てを告白したとき、
    心の欲求が満たされ、この世の未練を断ち切ることができた。
    本書は、先生がそうまでして手に入れた妻を置き去りにして、
    自害するという究極の矛盾を描く事によって、
    人間が人間たる所以の難解な「こころ」をあぶり出している。

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

夏目漱石の作品

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