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本 ・本 (626ページ) / ISBN・EAN: 9784101010199
感想・レビュー・書評
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流石に漱石の小説は文学的だと感じる。心理描写がまるでドフトエフスキーのようだと思った。お延ぶの溌剌とした魅力とお清のしっとりとした魅力がよく描けている。自分だったらどちらに恋するのだろうかと考えたが、自分は津田と異なり、おのぶにはまって後悔するタイプなのだと思ったt
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夏目漱石の未完にして遺作。しかし、もしここで漱石は『明暗』の完了を考えていたとしたらどうだろうか。『明暗』を読み終えて、小説がここで終わっていてもいいのではないかとも思える。
漱石と言えば、私は高校生の時に現代文の授業で、『こころ』を読み通し、読み込む授業を受けた。クラス担任の国語の授業である。『こころ』は日本近代文学の最高傑作であるとされ、当時国語が苦手であったので、知識や読解力がなく、深い意味がよく分からなかった。大人になった今、読み直してみたい作品である。
これまで、『こころ』の他に『坊ちゃん』『三四郎』『それから』『門』『草枕』を読んだ。どれも当然面白かったが、何度読み返しても面白いだろうし、新たな内容と意味が発見できるだろう。幼い頃、家にあった『吾輩は猫である』を読み始めたが、最後まで読んだか記憶にない。
『明暗』には、主人公津田由雄と延夫妻を中心に周囲に登場する人物達との人間模様と人々の心理が描かれているが、社会や世間や結婚や恋愛や人間心理と全てが詰まっている。灰汁の強い友人小林、津田の妹の秀子、親戚や仕事関係の人達などの喋る言葉が多声的に内面心理と共に描かれ、物語を面白くする。
この作品の登場人物達が自分の主張を通そうとするエゴイズム(利己主義)を描くために、各人の言葉と心理を多声的にしたことがあると思う。それに付け加えるべきもう一つの特徴は、延や秀子などが語り、その心理が描写されている点である。女性の声をこれほどまでに真実に近く違和感なく描けるのは、流石日本一の文豪夏目漱石であると思った。男は女のことが分からないのだ。女もそうなのだろうか、女に生まれてみなければ分からない。男女は分かり合えないが、歩み寄ることが大事なのかもしれない。
総じて、やはり全ての描写が素晴らしく完璧だ。津田は延との結婚に満足していない。津田は昔付き合っていた清子が、なぜ自分を捨てて、他の人と結婚したのか分からない。そして最後の場面で、津田の手術後の湯治場で清子と会う。そこで物語は終わる。それからどうなるの、という所である。もっともっと漱石の作品を読み続けていたかった読者の一人である。 -
曲者だらけの「明暗」。未完作品である事実も既にひとつの魅力になっているのかもしれない。
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もし一言だけで表すとしたら「感嘆」の一言に尽きる見事な作品。
新婚半年なのに互いをさらけ出すことをできずに探り合っている、気位が高くも臆病で気のおける若い夫婦のあやうい関係と心理を、彼らを取り巻く周囲の人々の姿と共に描いています。
主人公のみならず、十数人はいる主要登場人物の立場、利害、そして個人的気質を、そこまでするかと驚愕するほど事細かに深く掘り下げて描写しつつ、その相反する点を綿密に組み合わせて、こちらの場面では誰と誰、あちらの場面では誰と誰、と、多様すぎるぐらい多様な形で、それぞれのエゴや思惑を対立させ、絡ませることを繰り返しながら、破綻も無駄もなく一つの大きな流れとして進めていくその奥行きのあまりの深さには、他の追随を許さない王者の風格さえある作品です。さすが、日本近代文学の父。
本作は、漱石の死によって未完の絶筆となった作品です。そのため、一つ目の山場が来るか、というところでとまってしまっています。彼がこの作品を完成させていたら、どれほど究極的な人間劇ができていたかと思うと、惜しくなります。 -
ブッ刺さった。今の自分にグサグサ刺さる…
体面を気にしてるのに、壁を作ったり、牽制することでしか自分を保てない。一度した結論を納得しながらどこかで
変わるんじゃないかと思ってる。でも自分からは行動を移せない。自分を表現することと相手を理解することのバランス…
少々ダウナーに浸ります
漱石すげぇ -
漱石未完の大作。
多くの人物が登場し、それぞれの考えが錯綜し、物語に立体感が出ていた。 -
漱石の未完作品。高校生のころ、「いやはや、大人だわ~」と思いながら読んでもさっぱりわからない、記憶も残らないまま時がすぎました。
大人になって再読してみると、なかなか面白い小説だと思いながら読了しました。我欲、我執だらけの登場人物のねちっこいやりとりや、金や地位名誉がらみの世俗描写が、牛のような歩みで描かれています。
「明暗」の主題、はたまた漱石が晩年ころに唱えたといわれている「則天去私」を巡って、漱石亡き後、文壇は百家争鳴の様相。結局、則天去私とは何なのか明快にはなっていないようですが、漱石は若いころに老子に関する論文も書いているようですし、東洋思想や禅などから影響を受けていますので、この作品に限らずそのようなニュアンスが滲み出ていますよね。
この作品では、とりわけ女性陣のキャラが際立っていて凄い。当時の古い慣習、結婚制度の因習、低い地位や身分に置かれた女性らの天然・自然な内面や行動の描写、優柔不断で見栄っ張りな男性の弱さやあわれみ、トリックスターのような小林の言動、いろいろな人間の赤裸々な姿がねっちりと描き出されています。さまざまな束縛――外面も内面さえ――からも解き放たれた人間、陰陽、明暗あって無為自然、男も女もそれでいいじゃない、明のみならず暗にも、醜にさえも人間美を見い出したような、ある種、漱石の諦観すら感じられて興味深い。なんだかんだ言っても、漱石はきっと人間というものが好きなんでしょうね~(^^♪
一番いいところで絶筆となってしまって残念ですが、この続きは水村美苗さんの「続明暗」で楽しんでみたいです(^^♪ -
津田由雄は30歳、延という23歳の女性と結婚して半年も経っていない。
お延とか延子とか呼ばれる彼女は細おもて色白、目が細いのだけど眉を動かすと魅力的である。
新婚なのに津田は病気で手術しなければならない、なのにしかしなにやら家計が苦しいのである。そのわけは新妻に高価な宝石の指輪をプレゼントしたから?いや、裕福に育った派手好きの彼女にいい顔をしたからに違いない。
気が強い新妻は新妻とて、なぜだか不安に付きまとわれる。一目ぼれの弱み、彼の愛情を独占したくてたまらないが、いまひとつすっきりしない。深いわけがありそうなきざしがあるのだ。
この夫婦がてんでばらばらならば、相談する津田の両親や親代わりの叔父夫婦と、延の親代わりの叔父夫婦らは、みんなそれぞれ、思い通りにはなってくれない。仲人も友人も妹も津田をつつきこそすれ、親身になってくれない。
くれない、くれないと言ったって、他人は思い通りにならないもの。その他人だって津田がエゴイストと思っているのだから。
その証拠に相思相愛と思っていた清子という人に逃げられた過去がある津田、どうもそんなところに原因があるらしい。らしいしかわからない。なぜなら漱石の死去によって絶筆になってしまったから。
いろいろあって津田が別れた清子を「どうして?どうして?」と温泉場まで追って、ストーカーまがいの行動に移っていくのにはあっけにとられる。漱石さんいいところで筆を置いちゃった。
とストーリーは通俗的?って思わない。ちゃんと立派な近代小説の始まりにして最高峰、そう、こんな長い会話文の(ドストエフスキーばりの)日本の小説が昔にもうあったんだね。迫力満点、おもしろいのなんの、さすが文豪。これを読んで小説を書きたいと思った人が多い、というのもわかる。いまごろわかって恥なんだが。
書いちゃった作家さん、あろうことか続きを書いちゃった水村美苗さんの「続 明暗」すごく楽しみなような、こわいような。 -
新婚の男には、忘れられない女がいた――。
大正5年、漱石の死を以て連載終了。
人間のエゴイズムの真髄に迫った、未完にして近代文学の最高峰。
勤め先の社長夫人の仲立ちで現在の妻お延と結婚し、平凡な毎日を送る津田には、お延と知り合う前に将来を誓い合った清子という女性がいた。ある日突然津田を捨て、自分の友人に嫁いでいった清子が、一人温泉場に滞在していることを知った津田は、秘かに彼女の元へと向かった……。
濃密な人間ドラマの中にエゴイズムのゆくすえを描いて、日本近代小説の最高峰となった漱石未完の絶筆。用語、時代背景などについての詳細な注解、解説を付す。
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お互いのことを労りあっているようでいて、何処か無関心である。他者のことを考えているようでいて、自分のことを考えている。決して自分からは本音を言わず、腹の探り合いのような掛け合い。そのような人間模様が長々と、ある意味冗長に続き、そこから、やっと本音の部分が現れてくる。そのような、主人公の夢現と言えるような霧の中で生きているような心持ちがどうなるかであろうことの要因である、消え去ってしまった元恋人との掛け合いが最後の最後に現れる。その掛け合いの端緒において、絶筆となってしまう。気持ちは幻の旅館に取り残され、、
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夏目漱石の作品





