注:内容にかなり触れています
自分は、ホラーや怪談が大好きだ(爆)
よって、ホラーや怪談の出来にはやたらうるさい(^^ゞ
以下は、そういうバカな人の感想w
どの本を読んでも、ミョーにどれも引っかかってこなくて。
本を読むのがツマラナイことが時々あるが、これを読む前って、ちょうどそんな時で。
たまたま、ある方の本棚でこの本があったを見て、前々から気にはなっていたこともあって読んでみる気になった。
というのも、その本棚の主って、感想が上手いっていうか、感想を読んでいると、それを読んだり/見たくなるとこがあって(^^ゞ
あれ? 前に本屋で見た時はイマイチっぽいなーと思ってやめちゃったんだけど、やっぱり読んでみようかな?
なんて(^^ゞ
もっとも、読んでみたら自分はこの本は結局合わなかったのだけど。
そうはいっても、これをスルっと読んだことで、また本を楽しめるようになった。
そういう意味で、感謝!感謝!な一冊なのだけれど、ただ、これって。
いわゆる、「実話怪談(タテマエとしての実話)」として読んじゃうと、起こる出来事が今一つ定番すぎるんだよなぁー。
というのは、怪談で、「死んじゃうんだよ、怖いでしょ?」とやられるとシラケるのよ(^^ゞ
死ぬことは怖い。それは確か。
でも、怪談に求める怖さって、それ?って思うわけ。
だって、“死ぬこと”こそが怖いなら、パンデミックや戦争の話の方が怖いことになるじゃない?
でも、怪談を楽しむって、そういうことじゃないと思うわけ。
幽霊のようなものを信じる/信じないは人それぞれ違うと思うけど、でも、大概の人は、信じる気持ち50%、信じない50%だと思うのだ。
よく、「そういう非合理的なことは信じない」と言う人がいるけど、それは、自分はそういうことを信じない理性的な人間だと錯覚しているだけだと思うんだよね(^^ゞ
だって、幽霊のような「こと」というのはある。
なぜなら、古今東西多くの人がそういう「こと」を体験しているからだ。
いや、それが、よく言われる「死者の魂としての幽霊」なのか、たんなる「錯覚としての幽霊」なのか、そんなことはわからない。
ていうか、わかるわけがない。
でも、幽霊みたいな「こと」は多くの人が体験している。
なら、その「こと」は実際にあるのだから(幽霊か錯覚なのかはともかくw)、あったその「こと」を非合理的という方が変だ。
自分はそう思う方だ(^^)/
でも、呪いや祟りで人が死ぬというのは、自分はあまり信じないんだよね。
だって、「俺/私の呪いで人が死んだ」と言う人はいても、その呪いで死んだかどうかなんて絶対わからないんだもん。
ていうか、呪いで人が殺せるなら、ウクライナでこんなに沢山の人が殺されているのに、実際、「呪ってやる」って言っていたのに(ただし、日本語訳。ウクライナ語でなんて言っていたのかは知らない)、なんでプーチンはピンピン生きてるんだ?って話だ。
もっとも、東南アジアなんかだと、(ウソかホントか)政治家は政敵から受ける呪術から自分を守るために呪術師を雇っているのが常識だって聞いたけど(^^;
人は誰でも死ぬのが怖い。
人は生き物なのだから、そんなのは当たり前だ。
その当たり前で、怪談を盛り上げるなら素人や実話怪談作家にでもできると思うのよ(^^;
でも、これはちゃんとした作家が書いた本という、れっきとした商品だ。
「実話怪談」が好きな人が読む「実話怪談」の本ならともかく、プロの作家の書く一般小説という「商品」としては、いささか陳腐な手法だと思ってしまうのだ(^^ゞ
ただ、聞いた元ネタ(当然、人は死なないw)の登場人物にキャラ付けをして小説にし、さらに、別の元ネタも関連付けさせて。
さらに、現実にある書評やツイッターといったものまで絡めることで、それが、さも本当のことのように装うことで、さも実際にあったことのように思わせてくれる「エンタメ」として読むのなら、それはそれで面白いと思った。
ただ、著者が自らの小説をフェイクの書評で褒めるのは、「いやいや。それって、自分で書いていて照れなかったの?」と思わないでないでもないかなぁー(^^ゞ
ていうか、榊桔平の書評は、さすがに出版社の人がプロモーションとして書いたのかな?w
その辺は知らないけど、まー、それはそれで新たな小説の手法と好意的に受け止めたこともあって、★3つくらいでもいいかなーと思った。
また、最終話にある、主人公の私(=著者?)が語る、“世に出ている実話怪談の多くは掌編である。状況や経緯が簡潔に提示され、怪異の内容が描写されたかと思うと、
潔いほど素早く幕が引かれる。だからこそ、突然見知らぬ異界へと連れ出されてそのままポンと置き去りにされるような感覚を覚えるのだ。その、本を閉じても読む前と同じ場所に戻ってこれないような感覚――信じてきた世界が揺らぐ恐怖こそが実話怪談を読む醍醐味だと思うのだが、物語にとって不必要な要素が増えれば増えるほど、その威力は弱まっていく”
なんかを読むと、あー、著者(?)は本当に怪談が好きなんだろうなー。
好きなんだけど、プロの作家だからこそ、あらゆる面で定型化され、怪談の送り手も受け手も定型化されたパターンこそが“怪談の怖さ”として楽しんでいる、現在の「実話怪談」に不満を感じていて。
だからこそ、プロの作家が書く“小説として怪談”を描いてみたかったんじゃないのかな?という気がして、そういう態度にはすごく好感を抱いた。
たださぁー。
この著者って、文章や表現に独特のクセがあるんだよね(^^ゞ
主語というか、述語というか、目的語というか。
その辺よくわからないんだけどw、変にそれらを省略するところがあるのよ(^^ゞ
例えば、1話目で「私」が件のポスターをルーペで見る場面があるけど、見るまさにその場面で、「私(主人公)」がルーペで何を見たのかが書かれていない。
もちろん、前後の流れで件のポスターを見たんだろうっていうのはわかる。
わかるんだけど、なんで「ポスターのその汚れ」と入れないんだろう?
それを省くことで、なんかしらの効果があったとも思えないし。
また、それを入れたからって、文章が冗長になるとは思えない。
ていうか、「私(主人公)」がルーペを覗く前に書かれている、ルーペの説明なんかは省いた方が、その後にある「私(主人公)の驚き」がすんなり伝わってくるように思うんだけどなぁー?w
あと、ところどころで時系列が変なのも、すごく違和感を覚える。
だって、それぞれの話が書かれるのは、それぞれの出来事が終わった後のことであるはずだ。
なのに、3話目の出だし、「九年ほど前、(中略)塩谷崇文さんは、さいたまの郊外に家を買った」と、4話目の出だし、「ネイルサロンで働く智世さんから聞いた話である」はどう考えたって変だろう。
そもそも、家を買うみたいな人生の一大事が「九年“ほど”前」とその時が曖昧なのは変だし(買った人だったら、きっかり「九年前」と語るはずだ)。
また、4話目を書いた時点というのは、智世さんはネイルサロンに「勤めている」と現在形ではなく、「勤めていた」と過去形でなければおかしい。
その辺り、ホラーとミステリーの融合と言っているわりにはフェアじゃない(^^;
そんなふうなのを見ていくと、この著者って、思い込みが強すぎるところがあって。
その思い込みが読者にも共有されていると信じ切って書いているような気がするんだよね(^^ゞ
というのは、第4話「助けてっていったのに」は、話として成立しないと思うからだ。
だって、その家を買おうとしていた親戚は、2週間試しにそこに住んでみたわけだ。
ということは、買うのはほぼ本決まりだったわけだ。
ということは、智世さん一家はすでに引越し先を買うか、借りるかしていなきゃ変だよね?
なのに、親戚が買うのをやめたからって、なんで元の家にいるの?
買うか借りるかしていなければならないはずの引っ越し先の家はどうしちゃったの?
その状況は、その家を買おうとしていた親戚も同じはずだよね。
飯田橋の辺りに家を買おうというのだから、たぶん、その資金の足しにそれまで住んでいた家を売ろうと不動産屋と話を進めていたはずだ。
なのに、写真に何かが写ってたからそれらを全てご破算って、そんなに都合よく行くもの?
いや。引っ越し先は解約して、家を売るのはやめたのなら、それはそれでいいのだ。
だって、それが事実(というか、ストーリー)なら、それ以上はツッコミようがないんだもんw
ただ、だとしても、そういう説明がないのは変だし。
なにより、主人公である「私」はその話を聞いていて、「え? 引っ越し先は!?」と思わなきゃインタビュアーとして失格だと思う(^^ゞw
ていうかさ。
旦那が撮った写真って、今どきフィルムカメラだったの?
今はプロのカメラマンでも、普通にデジカメを使うと思うけどなぁーw
怪談なんてもんは、所詮は与太話なのだ(爆)
聞いた/読んだ時、どんなに怖いと思ったとしても、後でよくよく考えてみれば、穴だらけでツッコミどころ満載である方が普通だ(^^;
つまり、怪談というのは、聞き手/読み手がその話にちょっとでも疑念を抱かせちゃったら、それは事実だろうと作り話だろうと終わりなのよ。
だって、どんなに怪談が好きな人でも、幽霊を100%信じている人なんて、まずいない(^^;
ということは、その話をちょっとでも変だと思ったら、聞き手/読み手はその話を疑って聞く/読むから、必然的に他にも変だと思うことが出てきてしまう。
怪談なんて、所詮は人の記憶なんだから。それが本当のことだろうとなんだろうと、疑って突っつき回せば必ず何か齟齬が出てくるものなのだ。
(というか、何かしら齟齬のない怪談があったら、それはおそらく作り話だ)
だから、怪談が上手い人だと、突っつかれないように「引越し先は、親戚だから決まった時点で決めようとと思っていた」とか、「旦那はフィルムカメラにコダワリがあって、デジカメが嫌いだった」みたいに、あらかじめ予防線を張ってくものなんだけどなぁ…。
でも、たぶんこの著者は思い込みが強すぎるのか、自分の中だけで話を成立させちゃっている面があって。
だから、そういう予防線を張らなかったり、変な時系列で話を進めちゃったり、言葉を省略しちゃうんじゃないのかな?
あと、1話目に何回か出てくる、“突然叫び出して車道に走り出して、車にはねられ…”というのも、読んでいて妙に違和感がある。
ま、その占い師に呪われた人は、みんな“突然叫び出して車道に走り出して、車にはねらちゃう”という設定なら、それ以上ツッコミようがないんだけどさ(^^;
でも、「私(主人公)」が他の人から聞いたそれ(突然叫び出して車道に走り出して、車にはねられ…)が、3人ともほぼ同じ表現というのはないんじゃない?w
ていうか、そもそも“突然”ってなに?
“突然”ってことは、それを目撃した人は3人のことを、その行動を起こす前から見ていたってことなの?
でも、二人目なんか夜中だよ(^^ゞ
“小花柄のチュニック”というのもそう。
その占い師って、その服しか持ってないのかよ!というのもさりながらw
そもそも、その“小花柄のチュニック”は、主人公の私(=著者?)の友人の早樹子の表現だ。
なのに、他の人も言うことが判を押したように“小花柄のチュニック”って、それはないでしょー(^^ゞ
ま、その占い師を見た人は、誰でも“小花柄のチュニック”って言ってしまう呪いをかけられちゃう、そういう設定って言うんなら、それ以上ツッコミようがないんだけどさ。←しつこいw
ていうかさ。
最終話で、榊桔平が“(5話目で出てきた霊感の強い男子大学生が)小花柄のチュニックを着たおばさんと会っているのを見た、という人がいた”というシーンがあるけど、最近の大学生の男って、普通に“チュニック”とか、“小花柄”って言うものなの?
ま、それを言っていたのは大学生の男とは書いてないんだけどさ。
でも、その後に“その人は、おそらく彼のお母さんだろうと思っていたそうだ”とあるから、普通に考えれば大学の男の友だちだと思うのだ。
そういう人が、“チュニック”だの、“小花柄”だのって言うかなぁー(^^ゞ
ていうか、岩永さんは各階3戸の角部屋に住んでいたはずなのに、後藤さんは、岩永さんの隣の栗田さんの反対側の部屋から出てくるし(◎_◎;)
そういえば、帯に「本屋大賞ノミネート」、「静岡書店大賞受賞」、「山本周五郎賞ノミネート」ってあったけど。
ぜひ、それらの賞の運営者や選考者に、自分の疑問を説明してほしいぞw
とはいえ、たんなるセールスプロモーションにすぎない今時の本の賞にツッコミ入れられても、賞の運営者や選考者も困るよね?(爆)