人生論ノート (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.57
  • (80)
  • (83)
  • (151)
  • (26)
  • (9)
本棚登録 : 1826
感想 : 137
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101019017

作品紹介・あらすじ

死について、幸福について、懐疑について、偽善について、個性について、など23題-ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木清の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。その多方面にわたる文筆活動が、どのような主体から生れたかを、率直な自己表現のなかにうかがわせるものとして、重要な意味をもつ。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【読もうと思った理由】
    かなり時間は経ってしまったが、以前読んだ「行く先はいつも名著が教えてくれる」(秋満吉彦氏著)の中で、名著として紹介されていた書籍の中の一冊だ。(他の名著が気になる方は、上記書籍の感想欄に一覧を載せております)最終的には、秋満氏が名著として紹介していた12冊は、全て読みたく思っている。その中で三木清氏の本を今回選んだ理由が、もう一つある。

    それは、今から約100年前の1927年、岩波書店から日本初の文庫本が出版されたんだそう。ドイツのレクラム文庫という文庫を参考にし、文庫本というスタイルを、日本で初めて発案したのが、著者の三木清氏らしい。当時、三木氏は法政大学で教鞭をとりつつ、岩波書店で編集顧問のような仕事をしていたとのこと。現在も岩波文庫の巻末には「読書子に寄す、岩波文庫発刊に際して」という文章が掲載されているが、その草稿を手掛けたのも三木清氏だそうだ。実際いま僕が、購入する本のほとんどは、文庫本だ。そう考えると、三木氏が日本の読書好きに果たした功績って、とてつもなく大きい。今まさに、文庫本を読めることに対する感謝を噛み締めながら、本書を読み始めた。

    【三木清って、どんな人】
    (1897-1945)
    1897年兵庫県生まれ。一高在籍時に、西田幾多郎の『善の研究』に強い感銘を受け、京大で哲学を学ぶことを決心する。当時一高を出て京大に進むことは極めて異例であった。この後、戸坂潤や西谷啓治、梯明秀など多くの俊英がこのコースをたどることとなった。
1922年からドイツに留学。当初ハイデルベルク大学のリッケルトの下で学んでいたが、翌1923年マールブルク大学に移りハイデガーから強い影響を受ける。さらに1924年フランスに移住。ハイデガーから学んだ解釈学的手法を駆使して、パスカル『パンセ』についての論文をパリの下宿で書き、『思想』に投稿。この論文がもととなり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』が出版される(1926年)。
    
1927年、法政大学の哲学科の教授に赴任。この時期から三木は人間学を基礎とした独自のマルクス解釈を展開し始める。論文「人間学のマルクス的形態」などが収められた『唯物史観と現代の意識』を1928年に刊行。マルクス主義を哲学として理解するという三木の試みは日本近代思想史上画期的な出来事であり、当時の日本の思想界に大きな反響を呼んだ。しかし、1930年に日本共産党への資金援助の嫌疑で検挙・拘留され、法政大学での職を退くことを余儀なくされる。
    
出所後の三木は多方面にわたって精力的な活動を行なっていく。1932年には『歴史哲学』を刊行。未定稿に終わったが『哲学的人間学』が執筆され始めたものこの時期にあたる。また、哲学的論稿・著作を発表すると同時に批評家としても活躍。1931年の満州事変の勃発を契機として日本の時代状況が暗転していく中で、「不安の思想」を新しいヒューマニズムによって超克することを試み(「不安の思想とその超克」(1933年)など)、時局に対する評論活動を積極的に展開する。さらには、「岩波講座哲学」、「岩波新書」などの立ち上げに尽力するなど文化人としても活躍。1937年に日本が中国との全面戦争に突入したことを背景として、三木は近衛文麿の政策集団である「昭和研究会」に参加。そこで指導的な役割を果し、東亜共同体論を展開していくこととなる。
    
三木はアカデミズムの枠をこえて積極的に時代と関わっていきながらも、哲学研究に対する意欲は旺盛であり、晩年には多くの哲学的著作が発表されている。1939年、『構想力の論理 第一』を出版。その続編である論文「経験」は同年から1943年にわたって『思想』に掲載され、三木の死後『構想力の論理 第二』として1946年に出版されている。この未完の『構想力の論理』が三木の主著であると言ってよい。また、『哲学入門』を岩波新書の一冊として刊行(1940年)。これは、三木哲学への入門書であると同時に西田哲学への最良の入門書である。その他には、『人生論ノート』(1941年)や『哲学ノート』(1941年)・『続哲学ノート』(1942年)、『技術哲学』(1942年)などがある。
    
しかし、1945年6月12日、治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留される。戦争終結後の1945年9月26日、豊多摩拘置所で疥癬(カイセン)の悪化により獄死。享年48歳。この三木の非業の死をきっかけとしてGHQは治安維持法を撤廃したとされている。残された遺稿は『親鸞』であった。

    【本書概要】
    死について、幸福について、懐疑について、偽善について、個性について、など23テーマある。ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木清氏の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。その多方面にわたる文筆活動が、どのような主体から生まれたかを、率直な自己表現のなかにうかがわせるものとして、重要な意味を持つ。

    【感想】
    2022年時点で発行部数200万部を超えるベストセラーなので、気づきが多く、今後の人生において、ためになる言葉が非常に多い。だが一点注意点がある。

    この本を執筆していた時代が、1930年代であり、国家総動員法が制定されていた時代。なので、個人が幸福を追求するといった言動は、人前では語れない重苦しい雰囲気が、世間に溢れていた時代だった。よって、普通に表現しても、検閲されて出版が難しいと感じた三木氏は、哲学用語を駆使して、敢えて難解な言葉で、このエッセイを執筆した。なので本のページ数だけでいうと、170ページ程のかなり薄い本だが、内容をしっかり理解して読もうとすると、かなり時間が掛かってしまった。

    ただ、23項目のテーマごとに区切られているので、少し手が空いた時間に、少しづつ読み進めることができたところは、かなり有り難かった。以下、自分なりに感銘を受けた部分を記します。

    (幸福について)(P20)
    愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、反対に、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするという行動に至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは、幸福の何よりもよく示すところである。

    哲学といえば、幸福や幸せの定義について書いてある本が、もしかすると最も多いのではないだろうか?そもそも哲学とは、形の見えない概念的な事象を、どう定義するかの学問だと、僕は現在思っている。そういう意味で言うと、幸福とか幸せになりたいと思っている人たちが、ほとんどではなかろうか。まさか敢えて、不幸になりたいなんて人は、極々少数派だと思う。今まで何冊か哲学書や思想書を読んできたが、「幸福とは力である」と言い切っている本は、僕は初めて出会った。なので、結構この言葉は僕にとって衝撃的な言葉である。

    また、以下に書いた言葉が、僕が本書でもっとも腑に落ちた言葉だ。それは、「人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは、人格になるということである。」という言葉だ。実は、日々の目標ノートをつけているが、そこによく記している言葉がある。それは、「自分の人格レベルを上げることが、幸せになるもっとも近道だ」である。なので、三木氏の上記の言葉に触れた際、かなり嬉しかった。まるで自分の考えが間違っていなかったと、言ってくれた様に感じたからだ。

    (習慣について)(p34)
    「人生において或る意味では、習慣がすべてである。」と、習慣のテーマの冒頭で三木氏は言っている。まぁ、若干言い過ぎのところはあると思うが、僕も習慣は、めちゃくちゃ大事だと思っている。最近読んだ、伊坂幸太郎氏の「逆ソクラテス」の感想欄にも書いたが、嘘でも何でもなく「信頼と習慣」は、僕の座右の銘である。なので、日々つけている目標ノートにも、習慣に関しても記している。「良いと思ったことは、習慣化できるまで毎日やり続けよう」と。習慣化してしまえば、無意識レベルでもその行為を行えてしまうのが、最大の利点だと思っている。また三木氏は習慣について、別の視点から以下のようにも記している。

    「習慣が技術であるように、すべての技術は習慣的になることによって、真に技術であることができる。どのような天才にも習慣によるものでなければ、何事も成就し得ない。」とある。そう、大事なことは、いかに重要なことを習慣化できるかが、今後の人生において凄く大切な事だと、改めて気づかせてくれた。

    (怒りについて)
    「ひとは軽蔑されたと感じたとき、最もよく怒る。だから自信のあるものは、あまり怒らない。(中略)ほんとうに自信のあるものは静かで、しかも威厳を具えている。それは完成した性格のことである。」

    上記に書いてあることは、本当にごもっともであるし、すべて正論だと思う。だけど軽蔑された時に感情がまったく動じず、普段通りの平常心でいることは、現在の僕ではまだ無理である。恐らくだが軽蔑されることは、自分の存在価値を否定されることと、ほぼほぼ同意であると、現在認識している。なので、人間の本能として軽蔑された際に、脳内で大きなアラートが鳴り響くのだろう。「目の前の人間は、自分にとって危険人物である」と。そこを何とか改善したく、数年前、草薙龍瞬氏の「反応しない練習」を、それこそ何度も読んだが、自分が軽蔑されたときは、どうしても心が反応してしまう。まだまだ修行が足りないと、本書から再認識させてもらえた。

    (健康について)
    「何が自分の為になり、何が自分の害になるのかの自分自身の観察が、健康を保つ最上の物理学であるということには、物理学の規則を超えた智慧がある。私はここに、このベーコンの言葉を記すのを、禁ずることができない。」とあるが、ベーコンでいくらwebで検索しても、その名言は出てこなかった。出どころは不明だが、奥が深く自分的には胸に刺さった言葉だ。またその後に三木氏はこう記している。

    「誰も他人の身代わりに健康になることができぬ、また誰も自分の身代わりに健康になることができぬ。健康は全く銘々のものである。そしてまさにその点において、平等のものである。私はそこに或る宗教的なものを感じる。すべての養生訓は、そこから出立しなければならぬ。」とある。まだ書いてあることの半分ぐらいしか腑に落ちていないが、本書に記載されている言葉の中で、今後自分の中で、理解したい言葉の一つになった。

    【雑感】
    次は、島崎藤村氏の「破戒」を読みます。この本は、ロシア人YouTuberの方が、オススメしていた本です。その方は、ロシアの有名どころの作家(ドストエフスキーやトルストイなど)は、全作読んでいるのは当然として、日本近代文学も、日本語でも読んでいるという。日本近代文学もかなりの作品数を読んだ中で、この「破戒」が最も感動したんだそう。そんなことを言われれば読みたくなるに決まっている。差別をテーマにした作品であることぐらいは知っていたので、今作を読む為に、網野善彦氏の「日本の歴史を読みなおす(全)」(ちくま学芸文庫)を読み直した。日本人ではないロシア人の方が、日本の差別問題をテーマにした本を読んで、感銘を受けたという。かなり期待して読みます!

  • 昭和初期に活躍した哲学者、三木清氏の人生について、考え抜かれた23項目の小論文的なエッセイ。
    さすがに、俯瞰的に考えていられて、時代を感じさせない。
    個性について、というのが最後に掲載されている。これは、附録とされ、大学卒業直前の「哲学研究」掲載の文章とのこと。それまでのものと比べると、長く、難しい。その中で、自分自身の個性に触れているところがあり、「万の心をもつ人」であるという。そして、心理学者がそれを理解する試みをするだろうと。そして、自分の定義がされればされるほど、その価値が減じるように思うという。
    たぶん、おそらくは、私達が理解しかねるところを、解説書を読むのではなく、ご本人の著述を読んで考えて欲しいと思っているのではないのかと思う。
    虚栄について、偽善について、懐疑についてなどは、それぞれが絡み合いながら著述されてくる。
    なかなか、全部を理解することは、難しいし、お互いが、所属する組織が、双方で理解していないとその実践には至らないのでしょう。三木もどうにか戦争を回避しようと、彼の理論を使っただろうけど、最後は、一人で獄中死を迎える。
    また、時間を置いて読んでみようと思います。

  • 本書裏表紙の説明文に、著者のことを「ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった」とし、本書については、その著者の肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集」と解説されていた。

    本書は文学ではなく、社会評論の要素が少し入った、どちらかというと哲学なのかなという認識で読んだ。そして、確かに肌のぬくもりは感じられたし、現代でもうなづけるような言葉が幾つもちりばめられていて、結構な箇所に傍線を引いた。

    自ら選んだ23のテーマについて語っている。かつて「文学界」という出版物に連載されていたもののようだ。

    後半のほうでは、例えば次のような定義にイチイチ納得させられた。

    「娯楽について」
    「娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でなければならぬ。」

    「希望について」
    「希望に生きるものはつねに若い。いな生命そのものが本質的に若さを意味している」

    「旅について」
    「人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。」

    「個性について」
    「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」「個性は自己自身のうちに他との無限の関係を含みつつしかも全体の中において占めるならびなき一によって個性なのである」

    そもそも、本書はちょっぱなから「死について」という大きなテーマを扱っている。本書を執筆したとき、自ら書いた「後記」の日付から著者は44歳だったと想像できる。そしてその稿の中で「40代は初老」であると述べていた。また初老に差し掛かった著者は、「死の恐怖」を感じなくなってきたとも言っていた。

    恐らく著者は、人生の要素の中で「死」のテーマが最も大事で、「死の恐怖」の克服が最重要事項と考えたのではないだろうか。

    そしてその次は、2番目のテーマである「幸福」だったのではないか。また後ろのテーマへ進むほど、前のほうのテーマで述べられたことが前提となっている。

    日常で考えさせられるようなテーマにも触れている。
    「虚栄心」と「名誉心」はどう違うのか?
    これらは最も区別されなければならないのに、もっと混同されているという。これらを明確に区別することは、人生における知恵の半分に当たるとまで述べる。

    「怒」と「憎み」とも本質的に異なるのに、混同されていると指摘している。「怒」には名誉心からの「怒」があり、それは人間的であるという。

    「嫉妬」は、多忙でしかも不生産的な情念であるという。ベーコンが言った「悪魔」に最もふさわしい属性であると述べている。これは、23のテーマのなかでも最悪のイメージが漂っている。

    「感傷」というのもよくない。「偽善」もよくない。「感傷」も「偽善」も、それらは「虚栄心」によるものであるとの指摘である。

    「虚栄心」の本質を理解し、「名誉心」との区別がつけられるということは、確かに人生に大きく影響を及ぼしそうだなと実感している。

    • やまさん
      abba-rainbowさん
      こんばんは。
      やま
      abba-rainbowさん
      こんばんは。
      やま
      2019/11/09
    • abba-rainbowさん
      やまさん、おはようございます。
      少しレスポンス遅くなりました。
      いつもありがとうございます。

      やまさんというと、「太陽に吠えろ」の...
      やまさん、おはようございます。
      少しレスポンス遅くなりました。
      いつもありがとうございます。

      やまさんというと、「太陽に吠えろ」の露木茂さんを連想してしまう世代でございます(笑)。
      2019/11/10
  • 170ページちょっとの薄い本。
    だがしかし、内容が濃い。
    私の場合は精神年齢が本に追いついていないせいか
    内容を理解するのに時間がかかりました。
    昭和二十九年発行。
    当時の学生さんはすんなり本の内容を受け入れていたのかと思うと、昔の人々の成長スピードの速さに驚かされます。

    この本が難しく感じる理由として、具体例がないことが挙げられます。
    使っている単語が難しい(なじみのない言葉)上に、具体例がないので、文章から自分の経験に落とし込んで理解する必要がありました。
    (辞書引きながら本読んだのは学生の時以来です)
    正直、著者の言わんとしていることを全て理解できたかというと?です。1/3くらい理解できた感覚かなぁ。

    この本で得た気づきは以下です。

    ”他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。”

    幸福と成功は同じものであると、長年ごっちゃにして生きてきましたが、そうではない!のです。
    幸福と成功は別物であり、別の性質を伴うものだと説いています。
    長いこと、他人の成功を嫉んできましたが、幸福と成功を同じものとして考えていたからなのかもしれません。
    (結構多いんじゃないかな~)
    他人の成功を素直に喜べる人は、幸福と成功の違いを理解して腹落ち出来てる人なんじゃないかな、と感じました。

    では、他人の成功を嫉妬せず、自分には自分の幸福があると自信を持つためには??

    ”自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個人的な人間ほど嫉妬的でない”

    と、著者は説いています。
    嫉妬からは何も生まれない。嫉妬するくらいなら行動しろって事ですね。

    久しぶりに体力の使う本を読みました。
    数年後読み返したら、今とは違った感じ方をするのかもしれません。

  • 「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。」(「懐疑について」より)。やっぱり、人の基本部分って「ゆらぎ」であるということを言っていると思いました。僕もずっとそう考えています。どこかひとつの位置に安住するものではない。できるだけ物事をしっかり見つめ、捉えていたいのならば、そうなのです。

    懐疑には節度が必要である、と三木清は言う。手順を踏まず、工程を飛ばした懐疑は節度がない、といえると思います。節度のない懐疑は、独断であり、宗教化に陥り、そして情念に基づいて働く、と著者は続ける。また「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家はまったく論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。」とあります。こういう、ある種のつよさを持って世の中に懐疑をはさむ(意見する)のがベターなんでしょう。

    次に「幸福について」のところで、「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。」とあります。こうやって逆転して見てみたがための見抜きは素晴らしいと思いました。そうかもしれないなぁ、なんて思いませんか。幸福は人格である、とゲーテを引いて三木清は断言しています。これは、他律性に縛られないことが生きやすさに大切だ、という僕の考えと重なっているものです。自律性という捉え方と、人格(肉体・精神・活動の総合)っていう捉え方ですから、僕の頭の中のイメージとしては符合するんです。

    というように、自分の考えの証左を得られるようなところも少しあって、勇気が湧いてくるような読書にもなりました。

    また、今日「非認知スキル」と言われているものを「習慣」という言葉で説明し、ベストセラー『サピエンス全史』の要諦である「虚構」についても、「人間の生活はフィクショナルなものである」として明らかにしていました。世代が変わるたびに忘れていくことだから、おんなじようなことを人間はくりかえしくりかえし、再度論じる人が出てくるということなのかなあ。伝承されるにしても人口に膾炙するにしても、情報量が多いし濃いからなのかもしれないです。

    こういうのもありました。「自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう」(p63-64) これは現在でいうマウンティングに通じる話。マウンティングは、いまや若者にとってメジャーな行為ですよね。それはたとえば僕らの世代が若者のときにそういった波に席巻されていたなら、やはりマウンティングは定着していたと思うモノ。若者ってのはたいてい自信のない存在だろうから、無理してでも優越を欲しがってマウンティングが始まるということになります。つまり、「マウンティング」≠「自信がないことの告白」。あと、「自慢」っていう優越がありますけれども、マウンティングほど他者を組み伏せようとする力は持っていないのだと思います。発散的というか放出的という感じで。まあ、ノーマルな自慢もあれば、マウンティング的自慢もありそうですが。そして、マウンティングがはびこると、ただの「自慢」やただの「事実」すら、受け取り手によって被マウンティング化されてしまいがち。そんなつもりはないのに、相手が「マウンティングされたぞ!」という表情なり反応なりするというアレ。そして、それがマウンティングではないことが理解されない。そういう人に出合うことはふつうにあるので、それゆえマウンティングの袋小路感があります。だから、これを回避するにはみんなが自信を持つことなのだから少しずつ実力をつけていくといいのになぁと思います。そして実力を褒め合えて認め合えるといいのになぁと。せっかくついた実力を種にマウンティングせずに。再度言いいますけど「マウンティング」≠「自信がないことの告白」です。「君をほめたいから、とにかく少しでも実力をつけてみて!」っていう脱マウンティングにつながるスタンスの拡散を希望しますねえ。マウンティングによってみんな要らないちょっとした怒りを自然に抱えあうのはどうかなぁ、ですから。

    他、利己主義者は自意識が強くそして想像力がない、と定義されていたりなど、響いてきてこちらの思索を活発にしてくれるような言葉が多々ありました。以下にいくつか興味深かったものを引用します。


    「感傷は、なにについて感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。」

    「感傷は矛盾を知らない。人は愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みもひとつに解け合う。」

    「あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会のみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」

    「『善く隠れる者は善く生きる』という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的にであるということをしっかりと見抜いて生きることである。」

    「生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。(中略)娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。(中略)生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。」

  • 『死について』『幸福につて』『懐疑について』など、一つひとつのトピックについて数ページの文章で語られている。

    三木清という哲学者の実直さが感じられる質実剛健な文章。内容は短いが奥行きがある。
    手元に置いて、迷ったとき、行き詰まったときに開いてみる。そんな本だ。

    「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」という三木氏の指摘は、寺山修司の「幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福という言葉を軽蔑している私たち自身にほかならないのである」(幸福論)という一文を思い出させる。

    もっと「幸福」を語ろう。

  • 哲学書を読み慣れていないからか、難しい文章ではないのにとても読みにくかった。


    「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、とうとう、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」p.22

  • 哲学者三木清による人生論ノート。100分de名著を見て以来気になっていたけど、古本屋で100円で売っていたので購入。

    哲学というと難しいイメージだけど、エッセイとまでいかなくても割合と読みやすい。いろんなキーワードについて数ページの量で書かれていて、アランの『幸福論』を思い出した。

    印象に残っているのは、習慣の話と後半の旅の話。また読み返したい。

  • ☆4(付箋12枚/P175→割合6.86)

    千夜千冊1550夜から。いくつかの断章からなっている。その懐疑について、松岡正剛は以下のようにまとめていた。

    “不確実なものが確実なものの基礎である。
    パスカルは「人は不確実なもののために働く」とさえ言っている。なぜ懐疑が生まれるかといえば、いかなる者も他を信じさせることができるほどには、自分を信じさせることができないからなのである。
    懐疑は方法であり、そのことを理解できた者のみが、初めて独断も方法であることを理解する。”

    ***以下抜き書き***

    ・幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘うもののみが斃れてもなお幸福である。
    機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

    ・懐疑には節度がなければならず、節度のある懐疑のみが真に懐疑の名に価するということは、懐疑が方法であることを示している。懐疑が方法であることはデカルトによって確認された真理である。デカルトの懐疑は一見考えられるように極端なものでなく、つねに注意深く節度を守っている。この点においても彼はヒューマニストであった。彼が方法叙説第三部における道徳論を暫定的な或いは一時しのぎのものとしょうしたことは極めて特徴的である。
    方法についての熟達は教養のうち最も重要なものであるが、懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。
    …懐疑が方法であることを理解した者であって初めて独断もまた方法であることを理解し得る。

    ・懐疑は一つの所に止まるというのは間違っている。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神のうちに自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現している。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端緒としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係付けであり、独断は目的への関係付けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかし独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。

    肯定が否定においてあるように、物質が精神においてあるように、独断は懐疑においてある。

    すべての懐疑にも拘らず人生は確実なものである。なぜなら、人生は形成作用である故に、単に在るものでなく、作られたものである故に。

    ・自然は芸術を模倣するというのはよく知られた言葉である。けれども芸術を模倣するのは固有な意味においては自然のうち人間のみである。人間が小説を模倣しまた模倣し得るのは、人間が本性上小説的なものであるからでなければならぬ。人間は人間的になり始めるや否や、自己と自己の生活を小説化し始める。

    ・ひとは愛に種類があるという。愛は神の愛(アガペ)、理想に対する愛(プラトン的エロス)、そして肉体的な愛という三つの段階に区別されている。そうであるなら、それに相応して怒にも、神の怒、名誉心からの怒、気分的な怒という三つの種類を区別することができるであろう。怒に段階が考えられるということは怒の深さを示すものである。ところが憎みについては同様の段階を区別し得るであろうか。怒の内面性が理解されねばならぬ。

    ・自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。しかしそれはどんなに小さくなっても、自己がその中に浮き上がっている虚無と一つのものではない。生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の条件である。けれどもこの条件は、恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが、海というものを離れて考えられないように、それなしには人間が考えられぬものである。

    ・孤独が恐ろしいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。恰も、死が恐ろしいのは、死そのもののためでなく、むしろ死の条件によってであるのと同じである。しかし孤独の条件以外に孤独そのものがあるのか。死の条件以外に死そのものがあるのか。

    ・孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」―それは物質のものでなくて人間のものである。

    孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見詰めよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう。

    ・嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自身は如何にして生ずるのであるか。自分で物をつくることによって。嫉妬からは何者も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。

    ・仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。仮説は或る意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。

    ・娯楽という観念はおそらく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。

    ・今日娯楽といわれるものの持っている唯一の意味は生理的なものである。「健全な娯楽」という合言葉がそれを示している。だから私は今日娯楽といわれるもののうち体操とスポーツだけは信用することができる。娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でもなければならぬ。そして身体の衛生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衛生は観念の運行を善くすることにある。凝結した観念が今日かくも多いということは、娯楽の意義とその方法がほんとに理解されていない証拠である。

    • ぶっかけさん
      「人生論ノート」の断章を教科で読んでいた頃のことを思い出しました。
      「人生論ノート」の断章を教科で読んでいた頃のことを思い出しました。
      2014/09/09
    • whiteprizmさん
      ぶっかけさん、ありがとう!
      教科書で載ってたんですね~(^^
      ぶっかけさん、ありがとう!
      教科書で載ってたんですね~(^^
      2014/09/09
    • 2014/09/11
  • 僕の愛読書、というか人生の指南書のひとつです。

    「嫉妬心をなくするためには、自信を持てと言われる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。」

    「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」

    もう60年以上前に書かれた文章だけれども、今でも真実を射抜く輝きを放っていますよね。「嫉妬について」、「幸福について」に限らず『人生論ノート』にはこういった名文句が溢れています。

全137件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

明治三十(一八九七)年兵庫県生まれ。京都帝国大学で西田幾多郎、波多野精一、ハイデルベルク大学でリッケルト、マールブルク大学でハイデガーの教えを受ける。大正十五(一九二六)年三高講師を経て、昭和二(一九二七)年法政大学教授。翌年、羽仁五郎と「新興科学の旗のもとに」を発刊、同年の「唯物史観と現代の意識」は社会主義と哲学の結合について知識人に大きな影響を与えた。昭和五(一九三〇)年共産党に資金を提供した容疑で治安維持法違反で検挙、入獄中に教職を失い著作活動に入る。以後マルクス主義から一定の距離を保ち、実在主義と西田哲学への関心を示す。昭和十三(一九三八)年には近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したが挫折。昭和二〇(一九四五)年三月、再度、治安維持法違反容疑で投獄、九月獄死。未完の遺稿に「親鸞」がある。主著に「パスカルに於ける人間の研究」「歴史哲学」「構想力の論理」(全二巻)「人生論ノート」のほか、「三木清全集」(全二〇巻、岩波書店)がある

「2022年 『三木清 戦間期時事論集 希望と相克』 で使われていた紹介文から引用しています。」

三木清の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×