雁 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101020013

作品紹介・あらすじ

貧窮のうちに無邪気に育ったお玉は、結婚に失敗して自殺をはかるが果さず、高利貸しの末造に望まれてその妾になる。女中と二人暮しのお玉は大学生の岡田を知り、しだいに思慕の情をつのらせるが、偶然の重なりから二人は結ばれずに終る…。極めて市井的な一女性の自我の目ざめとその挫折を岡田の友人である「僕」の回想形式をとり、一種のくすんだ哀愁味の中に描く名作である。

感想・レビュー・書評

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  • 「夢見る帝国図書館」で刺激された読書の第二弾。

    岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。(「雁」より)

    「夢見るー」では、喜和子さんの愛人だった元大学教授が、まるでお玉のように無縁坂に部屋を借りて住まわせたエピソードが語られていた。

    何故、無縁坂か。「雁」のなかでは、末造という金貸しの男が、お玉という若い女を囲い者にして、家を借りてやって住まわせる。その家というのが無縁坂にあり、お玉は無縁坂をしょっちゅう通る帝大生の岡田という男をちょっと好きになるという話である。元大学教授は喜和子さんをお玉のように愛していたのである。

    実は3年前の正月に、帝大生岡田の散歩道をわざわざ辿ったことがある。私は水月ホテルという森鴎外ゆかりの宿に泊まっていた(何とホテルの中に森鴎外旧宅が保存されている)。そこではホテル作成の「雁」の小説と散歩道を編集した文庫本を売っていて、それを見ながら朝の散歩をしたのである。

    岡田の下宿は、東大鉄門前なのだが、実はそこから歩いて10分ぐらいが無縁坂だった。私は勘違いしていた。「坂」という以上、上がってゆくと思っていたのだが、そのコースだと下るのである。右手に当時作られたばかりの岩崎邸、その左正面の辺りにお玉の「寂しい家」があったということになっている。現在は、マンションが建っていた。更に歩けば不忍池にぶち当たる。

    この散歩コースは、普通に歩けば多分1時間。岡田は、その後不忍池を回って、上野広小路と仲町の古本屋街で物色して、湯島聖堂にたどり着く。麟祥院枸橘寺を回って岡田の下宿に帰るコースだ。観光客としては、途中、不忍池反対側の上野公園に行ってもいいし、不忍池の弁天様に参っても良い。麟祥院には春日局の穴の開いた不思議な墓もある。旧岩崎邸は、見どころいっぱいである。お勧めのコースだ。今度上京した折には、上野公園のベンチに座ってみたり、国際こども図書館に入ってみたり、そのまま藝大方面に歩いて行ってみようと思う。

    「雁」を久しぶりに読むと、ひとつ気がついたことがあった。お玉と岡田が出会ったのは、明治13年の夏ということになっている。実はその時、湯島聖堂に東京図書館という帝国図書館の前身があったのである。幸田露伴少年が足繁く通っていた頃だし、夏目漱石も来ていたかもしれない。岡田も通ったかもしれない。いや、彼は架空の人物だった。当時の上野界隈が詳細に描かれている。

    まったくもって物凄く趣向を凝らした恋愛小説ではない。
    ‥‥要するに、妾だけれども、少女のような恋愛初心者として描かれている。森鴎外は、一種の心理小説を実験してみたかったのかもしれない。

    結末は、まったく記憶の外にあった。蓋し、その時〈雁〉が登場して何を象徴していたかを知り得ても、運命の悪戯というものを了解する以外は、人生にはなんの役にも立たなかったとは思う。


  • 旦那と妾奉公という古典的な状況設定の中に、人智のむなしさを込めた中編秀作。物語るようなわかりやすい文体の中に当て漢字の多用と、英語・フランス語といった外国語を織り交ぜるという鴎外ならではの、明治の香り高い文章になっている。
    物語は高利貸しの末造一家、妾奉公することになったお玉一家、そして、学生岡田と「僕」周辺の大きく3つに分かれるが、特に末造と女房、お玉と高齢の父親の心情描写が優れていて面白かった。
    才覚に優れた末造の思いに反し、しだいに別心するお玉。そして制御不能な女房。お玉は時を経ず図太くなって、学生岡田と心を通わせていく。そして、あの日あの時に投じられた思いがけない一球に全てが収斂していく。書名は人の思惑とは裏腹に状況が進展していく象徴なのですね。

  • 昭和54年2月10日 62刷 再読

    明治13年の出来事として、明治44年から書かれた鴎外中編小説。

    母親を早く亡くした世間知らずな美しい女性“お玉”は、生活の困窮から、高利貸の妾となる。騙された思いもあり、自身の運命から逃避したいと考えてみるも、年老いた父・無学な自分を考え、その生活を受け入れていた。そんな折、図らずも顔見知りとなった医大生に心惹かれ始める。
    「鯖の味噌煮」と「石にあたった雁」という偶然の出来事が、二人の関係を始まる前に終わらせてしまう。という哀愁漂う儚い恋愛物語。

    幾たびかすれ違う二人の淡い恋心が切なく、決して成就しないだろうと思っていたけど、まさか、不忍池の雁に石投げて死んだのを鍋にする為こっそり持ち帰る為に、会える最後のチャンスが潰れてしまうとは。。。

    女性の仕事が少なかった時代、誰かを頼るしかなく、自我より運に左右されていたんでしょうね。


  • 夏目さんより、鴎外の方が好きだという気がしている。

    鴎外の文章、上品。格調ある感じ?
    お玉、魅力的で素敵。
    岡田さんとのすれ違いが、切ないけどああー!ありそう!
    と思う感じ。人生は、少しの勇気とタイミングですね。

    不忍池とか、その辺りを先日散歩したのでそれも相まって面白く読みました。

  • この小説の語り手は「僕」であります。時は明治十三年(本作の執筆は明治四十四年~大正二年)、この「僕」と同じ下宿屋に止宿してゐるのが、医科大学の書生であるところの「岡田」君でした。
    岡田君は特段のがり勉ではないが、必要な勉強はそつなくこなし、試験の成績は常に中位を保ち下位にはさがらず、しかし遊ぶ時はしつかり遊ぶといふメリハリをつける人。几帳面らしく、生活習慣は実に規則正しく、時計を号砲(ドン)の時刻に合はせるのを忘れた人は岡田君に時刻を尋ねるほどださうです。
    勢ひ周囲の信頼も厚く、下宿屋のお上さんからは「岡田さんを御覧なさい」と、他の学生を諫める時に必ず引き合ひに出されるほどでした。

    そんな岡田君の散歩コースに、無縁坂の家の女がゐました。彼の散歩時には、その女は必ず窓から顔を出し岡田君を見つめてゐるのです。どうやら岡田君が来るのに合はせてわざわざ表に出るやうだと岡田君本人も気付き、以降は脱帽し会釈するやうになります。女はそれが嬉しいやうです。

    そもそもこの女は、末造なる高利貸しの下へ迎へられた「お玉」といふ女性でした。しかし末造は妻帯者で、高利貸しといふ職業も隠してゐました。真実を知つたお玉の心は、この旦那さんから離れていきます。そんな時、毎日極つて家の前を散歩する書生さんに気付き、まだ会話をした訳でもないのに淡い慕情を抱くやうになるのでした。無論、この書生が岡田君であります。

    或る時、お玉の飼ふ鳥が、青大将に襲撃され、絶体絶命のピンチに立たされます。そこへ偶偶やつてきた岡田君が青大将を退治するのです。田中邦衛さんではないよ。その事件をきつかけに、お玉は岡田君と会話をする機会を得たのであります。
    岡田君は事が済むと直ぐに立ち去つたので、お玉はお礼を述べるといふ口実で、次回岡田君が家の前を通つたら、思ひきつて声をかけやうと決心しました。

    しかし運命は残酷であります。とことんツイてゐないお玉。お玉の念願を打ち砕いたのは、下宿屋の賄に、「青魚(サバ)の味噌煮」が供されたことでした。「僕」はこの献立が気に入らなかつたらしい。喰はずに、岡田君を誘ひ外へ出てしまひます。散歩中に、不忍池で戯れに投げた石が偶然雁に当り、雁が死ぬといふ印象的な出来事がありました。岡田君たちは無縁坂に差し掛かりますが、彼一人ではなく、「僕」がくつついて行つた所為で、お玉は声をかけるタイミングを失するのです。つまり語り手の「僕」の罪は大きいですな。

    お玉といふ、幸薄い女性のはかない恋愛が読者の胸を打ちます。偶然当つた石で落命する雁と、偶然「僕」の嫌ひな献立が出たことで断ち切られたお玉の想ひ。それだけに、意図的ではないにせよ「僕」の偏食が恨めしいですな。子供ぢやあるまいし、サバの味噌煮をそこまで嫌ひますか。美味いのにねえ。

    唐突に挿入されるフランス語単語の数々(“fatalistique”とか“solennel”など)には、まあ微苦笑で迎へるとして、そもそも語り手を「僕」にする必要があつたのでせうか。特に末造やお玉関係の出来事など、余人の知り得ない内容がわんさか有るのですが。一応最後の辺りで、その事情に関して言ひ訳をしてゐますが、とても首肯できるものではないよね。

    ......などとぶつくさ言つてみましたが、読後にはどつしりとした満足感が得られます。その文体はまるで明治の御代に別れを告げるかのやうに、(明治といふ空前絶後の変革期が生んだ)口語文小説の完成を急ぐ森鷗外の使命感みたいなものを感じるのであります。いや、わたくしがちよつとさう思つただけですがね。
    ぢや、また。御機嫌よう。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-614.html

  • 『雁』は1911年(明治44年)に発表されたこの作品で言わずと知れた代表作となっています・『灰燼』は同じく同年に発表され同時進行にて執筆されたと言われています。

    『雁』の時代の設定は、1880年(明治13年)であります。高利貸しの妾・お玉が医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも結局その思いを伝えることが出来ないまま岡田は洋行する。はかない女性の心理描写と身の上が如実に表現されています。
    といった内容なのですが、『舞姫』の発表は、1890年(明治23年)となっていますので、御年28歳の時に発表された『舞姫』と49歳の時に発表された『雁』は、独逸留学つながりなので敢えて年齢の対比をさせていただきました。
    言うなれば作品の設定が、鷗外先生が留学する前と留学した後に書かれた作品という事になります。
     さて、この作品が何故鷗外先生の代表作なのか、と言う疑問が僕自身にはあります。
    作品そのものは、どちらかというとはかない女性と岡田の物語で、取り立てて秀逸とは言えないと思ったからです。その疑問があって、この作品に限っては3回程読み直しました。

     鷗外先生がこの作品を書かれたのは、満49歳、官職では陸軍軍医総監の位、陸軍省医務局長という軍医行政最高のポストにあったことを思えば、いかにも積極的な表現意欲といわざるを得ないが、僕の個人的な意見で言うなら49歳の年齢なれば本職の官職をこなしながら、『雁』と同時に『灰燼』も執筆しているのです。ここに何らかの因果関係があるのかと思わざるを得ません。しかしながら、そこでも作品自体の評価が高いことの理由が判然としないのです。
    ただ、3回も読み返すと見えてくるものが、作品自体の内容ではなく作品の構成なのです。
    巻末の解説にも書いていますが、「前に見た事と後に聞いた事と」を一つにまとまった「物語」に再構成されているのではないかと思うのです。
    この構成の性格は、単に『雁』一個のものではなく、鷗外文学の深処に通じるものと思うのです。
    「体験した話と聞いた話の融合」は、物語小説の世界では当たり前のように思われますが、例えば真ん中から折り畳める鏡があったとしたら、折り畳むと左右対象であることは「初めに見た物語をもってきて、最終部分にもまた見た話に戻る物語の進行で帰結しています。
     これは、偶然か作為的なのかは分かりませんが、現実世界から夢を見てまた現実世界に戻ると言うものです。もしそれが作為的に構成を計算されたものであるなら、鷗外文学の真骨頂ではないかと思いました。一夜の長い夢を見た様な気分になりました。
    ネットで検索をしても、この作品の書評はあまり見かけませんが代表作であるという理由は心情的に細やかな点と、思いが伝わらなかった残酷さを併せ持つ妙なのかもしれません。
    既読の方も多いかと思いますが、今一度再読されてみては如何ですか。

  • 森鴎外の作品を読む時には、いつも明治という時代背景を念頭にテーマ設定を考えてみる。
    それは西欧文化に影響を受ける中での人々の心の葛藤のようなものではないか。(これは夏目漱石等の海外を知る明治の文豪に共通しているのだろう)

    先日、文京区の森鴎外記念館を訪れたが、その際に鴎外がフェミニストであることを知る。娘の教育に対しても同様のことを感じた。
    「雁」のテーマのひとつは、妾という旧態然の仕組みの中にあって、時代は女性の自立、自意識が芽生え始めている、その時代のミスマッチのようなものではなかったのか。
    それは妾を抱える末造とその妻とのやり取りでも気付かされた。

    以下引用~
    女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。
    ・・・
    欲しいと云う望みと、それを買うことは所詮企て及ばぬと云う諦めとが一つになって、或る痛切で無い、微かな、甘い哀愁的情緒が生じている。
    女はそれを味わうことを楽しみにしている。それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感じさせる。女は落ち着いていられぬ程その品物に悩まされる。たとい幾日か待てば容易く手に入ると知っても、それを待つ余裕がない。女は暑さも寒さも世闇も雨雪をも厭わずに、衝動的に思い立って、それを買いに往くことがある。
    ・・・
    岡田はお玉のためには、これまで只欲しい物であったが、今や忽ち変じて買いたい物になったのである。

  • 個人的に非常に好みだった。末蔵の妻と妾に対する二面性やお玉の自我の芽生などが印象的であった。自我の芽生によってお玉は末蔵に対してのあしらい方を覚え、学生岡田に対する思慕を募らせる。岡田も満更ではないようであるが、何も起こることはなく2人は他人のまま終わるのである。この結末から鴎外が小説をロマンティックな展開を乗せつつあくまで現実に寄せていく、平凡に終わるように仕向けていると考えることができる。小説とはフィクションとノンフィクションを混ぜることで面白さが見えるからだろうか。

    視点が岡田やお玉、末蔵ではなく岡田の友人の視点で語られることも非常に面白い。物語をただ当事者に語らせるのではなくなんらかを通して読者に伝えることで物語に深みが生まれる。今回はそれが岡田の友人だったのだろう。また、恋愛事情を第三者から見ることで、盲目ではないクリアーな描写ができているのではないか。最後のお玉の様子などは、又聞きしたものではなく、友人本人が見た様子である。こういった細かな描写が小説を作っているのだろう。

  • 最近現代小説ばかりだったので、久々の近代小説であった。初、鴎外作品。
    100年も前の作品だが、とてもそうとは思えない。人の感情の機微というのは、いつの時代にも変わらないのかも知れない。

    読んでいて感心したのは、ごく普通の、言ってみれば地味なお玉の心情の微妙な心の動きを描いている点だ。
    無邪気で純粋な少女であったお玉が、世の中の苦みを知り、ドラマチックな出来事ではなくあくまで日常の生活の中で徐々に「女性」へと変化していく様子が、とても繊細に描かれている。
    鴎外は一体どれだけの女性と交際してきたのだろう、と思ってしまうほどだ。

    タイトルの「雁」に込められた意味も色々と分析されているようだ。
    中盤までは全く登場しないのだが、終盤、お玉と岡田の運命がすれ違う分岐点として「雁」がとても象徴的に現れる。この雁の意味するところは多くの解釈があるところだが、渡り鳥である雁が死んだ、ということは、洋行した岡田の運命を暗示しているような気もしてしまう…。あくまで個人的な印象であるが。
    また、お玉のその後に関しては、「僕にお玉の情人になる要約の備わっていぬことは論を須たぬ」(p128)と言いながらも、僕がお玉に好意を抱いていたことは明らかであり(p115)、「僕」が岡田に対して劣等感を抱いていることはなんとなく読み取れるから、どんな形にせよお玉とお近づきになれたことは確かだろう。
    そう考えると、本作は単なる哀愁に溢れた淡い恋愛話というだけではない、どこかひんやりしたものを感じさせる。最後のたった一段落のあるなしで、物語の印象が大きく変わり、思わずウーンと唸らされた。。

    馴染みの上野が舞台となっていたこともあり、情景を思い浮かべながら楽しめた。
    この本を手にしながら上野を歩いてみたいと思う。

    レビュー全文
    http://preciousdays20xx.blog19.fc2.com/blog-entry-473.html

  • この話からは見えない、「僕」とお玉の関係がとても気になる。

    お玉が岡田に出会うまでの引き込み方がものすごく上手くて、違う世界に行っていた所で岡田との出会いに戻され、ハッとした。

    すれ違い続ける人間模様、なんだか哀しい。

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著者プロフィール

森鷗外(1862~1922)
小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。本名は森林太郎。明治中期から大正期にかけて活躍し、近代日本文学において、夏目漱石とともに双璧を成す。代表作は『舞姫』『雁』『阿部一族』など。『高瀬舟』は今も教科書で親しまれている後期の傑作で、そのテーマ性は現在に通じている。『最後の一句』『山椒大夫』も歴史に取材しながら、近代小説の相貌を持つ。

「2022年 『大活字本 高瀬舟』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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