- 本 ・本 (282ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101020051
感想・レビュー・書評
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芦田愛菜さんの「まなの本棚」に感化され、拝読しました。
事前のイメージとは違い、内容は深くともさらっと読みやすく、ページ数も少ない為物足りないほどすぐ読み終わってしまいました。
森鴎外の緻密で繊細な描写は、やはり文豪らしく秀逸でした。特に情景描写の美しさに惹かれました。
「その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏の温かさが、両岸の土からも、川床の土からも、もやになって立ちのぼるかと思われる夜であった」
安楽死について、罪について、読了後も引きずるように思いを巡らせずにはいられません。
善悪の区別がつかないような展開に、幾度となく心が揺さぶられる作品。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
何十年も前に、この『鶏』を読んだ時に、とてもイラっとしたのを思い出す。今もそうだが、この”別当”のタイプの人がものすごく嫌いなのである。足元をみて、じわじわとグレーゾーンで悪いことというか、セコいことをするヤカラ。人のものを自分のもののように使い、勘違いする。この別当の延長線に最近大きな問題になった某球団をクビになった犯罪者のような人に繋がるのかと思う。
石田は吝(けち)ではあるが、美学のある人物として描かれる。美学、というか良えカッコしいというか、めんどくさいというか、、そこらへんもわからんでもない。腹が立っても言わない人っちゅうかねぇ。ほんま、わからんでもないが、モヤるのである。
「鶏なんぞはいらんと云え。」
執着、という言葉を考えさせられる話でもある(主観)。
この時代の軍人(位の高い)的な、というか、
石田(森先生のアバター)の教育者向きの部分を感じなくはない。
細かいことは思うけど言えない、モヤっとしつつ
表向きはポーカーフェイス上等である
それ以上に、別当タイプのうざい人にはかかわらず、
関わると同じクソに落ちるように感じて逆に口聞けない
無視が一番というか、、(100%主観か)
書き出すと、異常に長くなるのでこの辺でやめておく(笑)
小倉三部作と総称されるのは
「鶏」、「独身」、「二人の友
学生時代、研究テーマを森鴎外にしようかめちゃくちゃ悩んだ時期があった。
結局別の人にしたが(すまん森先生)、それぐらい非常に入れ込んだ作家である。
小倉の旧森鴎外邸を訪れる機会に恵まれたのでゆっくり再読した
「この土地の家は大小の違いがあるばかりで。
どの家も皆同じ平面図に依って建てたようにできている。」
『鶏』で石田が感じた小倉の住宅は、
そのまま森先生が感じたことであろう
現在はしょうしょう背の高い近代コンクリートのアパートメントなどが周りを囲んでいて、少々興がそがれるが、邸本体のたたずまいはしっかりと当時を保っている。
「門口を入って左側が外壁で、家は右の方へ長方形に延びている。その長方形が表側と裏側に分かれていて、裏側が勝手になっているのである。」
「先ず、柱が鉄丹(ベンがら)か何かで、代赭(明るめのマットな赤茶、赤土の顔料赭”そほに”)のような色に塗ってあるのが異様に感ぜられた。」
異様ではあるが不快ではない、とも書かれている。
新築とは言わないが、建ててからそんなに年数が経っていないのに、
「何となく古い、時代のある家のように思われる。」
このあたりは要塞が近いので石塀や煉瓦塀を築くことができなかったらしい。なので、現在も当時のままの竹の生垣なのであろうか。
「玄関から次の間を経て、右に突き当たる西の詰が一番よい座敷で、床の間が附いている。」
裏側の方は、西の詰が小さい間、その次がやや広い。「この二間が表側の床の間のある屋敷の裏」
「表側の次の間と玄関と裏が、半ば土間になっている台所」
「井戸は土間の隅に掘ってある」室内井戸になっている。
「庭には石炭屑を敷かないので、綺麗な砂」
「真中に大きな百日紅の木がある。垣の方に寄って夾竹桃が五六本立っている」
残念ながら庭の地面も庭木も経年ですこし違っている
裏庭は表庭の3倍ぐらいの広さ(現在はそんなに広くはない)、所々にみかんの樹、「瓦で築いた花壇には菊、丸石で畳んだ井戸、どの石の隙間からも赤い蟹。」
赤い蟹はいなかったが、ジョウビタキがうろうろしていて
とても趣があった。 -
今年の新潮3冊目
表題作はどちらも古典をアレンジした話。
「山椒大夫」の、予期せぬ悲劇的な始まりに絶句。
いきなり人買いに捕まって、乳母は死に、親子はバラバラに引きさかれ、あっというまに姉弟は山椒大夫の奴隷になるとか、転落具合と絶望感が半端じゃなくて、茫然。
原典はもっと残酷なようですが、鷗外版もじゅうぶん胸が痛む話でした。
「高瀬舟」は、弟を安楽死させた兄と、その護送役の話。
安楽死は罪なのか? と悶々とする役人。
罪ではない気もするが、わからない。
わからないからお上の判断に従おう。
お上が間違うはずがないんだから。
(「最後の一句」にもありました)
こんな皮肉ばかり言ってたら、そりゃ左遷させられます。
(これでも丸くなったというんだから…)
また、この兄・喜助は、足るを知る人間として描かれているのですが、正反対なのが、足るを知らない帝国主義政府というわけですね。
明治の末頃から、日本はどんどん軍事拡張して大陸を暴走していくわけだけど…
内輪の鷗外としては、大っぴらに反論することもできず、かといって黙っているのも忍びなかったのだろうと推測。
彼の日露戦争従軍記をぜひ読みたい。
◇
それにしても、独語や仏語が文中にありすぎです。
ルビもない原語そのままのときもあるので、読めもしない。
該当の日本語がないせいかもしれませんが、それにしても多い。
このグローバル現代でさえ、あんまりカタカナを使われるとイラッとするのに、当時はどうだったのか。
それさえなければ、ふつうに読みやすい文章です。 -
『高瀬船』
ざっくりと「安楽死」がテーマの話、くらいの認識しかなかった。改めて読み返すと「こんな話だったっけ?」という発見があった。
まず、喜助が悲しんでいない。むしろ喜んでいる。自分の記憶の中では、弟を「殺し」てしまった喜助は罪の意識に苛まれ船上では悲壮感を携えながら揺られている、というイメージがあった。しかしそのような喜助の姿はそこにはなく、むしろ穏やかな雰囲気で居るのである。
「弟を殺してしまったことで罪の意識が生じ、罪人としての自分が罰せられることに喜びを感じているのかな?」と喜助の感情を解釈してみたりしたが、どうもそのような様子は読み取れない。場合によっては、そのような感情を持っていても不思議ではないが、喜助の「喜」の感情は「罪を償う」ことから生まれるものではない。その主因は、おそらく、「現生活からの解放」だろう。現に彼はお上から僅かなお金をもらって喜んでいる─これまでこんなお金を持ち歩いたことがない─と。
さて、本文冒頭に戻ろう。『高瀬船』は安楽死がテーマの作品と言われている。しかし、本書の最後に記されている『高瀬船縁起』で、鴎外は高瀬船では2つのテーマがあると述べている。一つはむろん安楽死しである。もう一つは「財産に対する観念」、有り体に言えば「足るを知る」である。人の欲は際限がないもので、金が無ければ金を望み、金があっても更なる金を望む。我々は現状に満足することはないし、言うなればその欲望こそが文明を進化させて来た。その観点で言えば、欲望フルスロットルで生きてゆくことは、一概に「悪」だと断定はできない。
だが、常に不満の状態で生きることはとうてい幸せな生活とは言い難い。そこには漠然とした不安感があり物足りなさがあり焦燥感がある。足るを知らずに生きることは、今を蔑ろに生きることであり、過去を投げ捨て理想の未来に依存して生きることである。
喜助は罪人という身の上でありながら、その境遇にある種の喜びを見出している。その感情の出所は喜助本人にしかわかりようがない。しかし、そこには、すべてを失ったことで吹っ切れた喜助の「諦観」の念が裏返ったとでも言うべき一種の喜びがあるように私には思われるのである。
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『興津弥五右衛門の遺書』は、読むのに難儀した。
山椒大夫、高瀬舟とも高校時代の文学史で、森鴎外作ということは知っていたが、実際に読んだのは初めて。
やっぱり教科書に載っている、試験に出る文学作品は一読すべきである。深い。深いが故に何度も読み返す必要があろう。
作中でてくる重要な登場人物が意外に若い。山椒大夫も最後の一句も子供である。早熟な鴎外だからなのか。
また1年後に再読する予定。 -
諦念、受容、流転‥‥
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昭和54年10月15日 28刷 再読
鴎外日露戦争後、医務局長となり、自由に小説を書きはじめた時代の 短編12編
「杯」
明治43年1月 1910年
8人の少女達がそれぞれの杯で泉の水を飲む。一人は異国の少女で、陰湿な言葉で排除されようとするが、その態度と自国の言葉で自己を主張する。
凛として美しい。数ページだが、印象深い。
「普請中」
明治43年6月 1910年
ドイツから愛人だった女性が訪ねてくるが、拒絶する日本人参事官。日本はまだ政治も文化も普請中である、待ち合わせのレストランも工事中。
「カズイスチカ」
明治44年2月 1911年 臨床記録
医学士の青年が、開業医の父親の代診をした経験。父親の知識と経験に尊敬をする様になる。
「生理的腫瘍」の表現には、感嘆。病気だと思っていた妊娠のことでした。
「妄想」
明治44年3月 1911年
鴎外と思われる翁が自分の半生を振り返る。自分は、望まれた自分を演じてきたようだ、と。ドイツ留学時代、自然科学を研究しながら哲学を漁り、それが、その後の作品にも影響する。生と死にも言及しており、これからの生き方について考えいたのだろうか。
最後にきて、これらの著述自体を反故とする。と書き加えられていた。
「百物語」
明治44年 1911年
僕(鴎外)は百物語の催しに参加するも、話には興味なく、集まった人、開催して人を興味を持ってみる。
「興津弥五右衛門の遺書」
1912年 歴史小説集『意地』の一つ
難しくて読めない。
一番良い香木(初音)を買う為に人を斬ってしまう。でもそれは主人の願いだから許される。初音の一部は献上され(白菊)となり、今も徳川美術館に展示されているそうな。
「護持院原の敵討ち」
大正2年 歴史小説『意地』の一つ
盗賊に父親を殺された青年と父親の世話になった壮年の男が、敵討ちをする為全国を巡る。その過酷さに息子は離脱してしまう。最後は敵討ちをすることができる。
これは中々良い。心情が理解できる。敵討ち制度は明治初頭に廃止されたが、武士社会に於いて、重要な役割があったのかもしれない。
「山椒大夫」
大正4年 1915年 五説経 さんせい大夫原話
理不尽な人攫いにより辛酸をなめる安寿と厨子王。
昔は絵本でもありましたね。小説では、拷問のシーンは無く、自ら入水。焼印も夢の中の出来事となっております。後は、ほぼ同じ。
安寿の武士の家の姉たる悲哀、弟への愛情。
世界の何処かでは、まだこようなことが起きているのかと思う。
「二人の友」
大正4年 1915年 小倉にて
実在した二人の友と鴎外との顛末。
時代なのか、それぞれ頭脳明晰なのか、懐が深い三人。小倉で知り合ったが鴎外が、東京へ戻ると、それまでの生活を捨てて、二人とも付いてきてしまう。それぞれの得意な分野で学び合う。一人は結婚の面倒までみる。
現在では、考えられないような実話ですが、微笑ましくもあり、無鉄砲でもあり。
「最後の一句」
大正4年 1915年 太田蜀山人「一話一句」
死罪と決まった父親を助ける為、長女は自身と幼い姉弟を身代わりに差し出す。そこで、お上に審判を促す。少女の「間違いはございませんでしょうから」という、意思表示が表題となっている。
「高瀬舟」
大正5年1月 1916年 翁草 「流人の話」
高瀬川を下る舟に乗る罪人、喜介。彼の生き様に、安楽死と、知足を語る。
考えても、経験を積んでも、結論が出ない題材。純粋に感嘆して読んだ、が、その後の自作解説までは読んでいないので、本当に意図したところは理解していないのかもしれない。
森鴎外では、この短編集が一番、理解しやすいのでは、と思う。鴎外自身が、多少自由となったこともあるのかもしれない。 -
何年ぶりかに「高瀬舟」を
読んでみたくて購入
ちょっと思い違いをしていたシーンや
当時はあまりピンと来なかった事が
感慨深ったり再発見できて良かった
当時は該当する日本語が
無かったのか
外国カタカナ語を
そのまま使っている短編は
ちょっと読みづらかった
「二人の友」が良かった
淡水の交わりとは
こういうものかなと
ブックオフ一宮妙興寺店にて購入 -
山椒大夫・高瀬舟の両作はもちろん素晴らしいのだが、個人的には、杯、カズイスチカ、二人の友の三作がよかった。カズイスチカのオチのベタさには一本取られた。いくら昔とはいえ普通分かるでしょ。
山椒太夫は、そもそもそう簡単に人攫いに引っかかるか。また、安寿は身を犠牲にする必要があったのか。等、多少首をひねりたくなる。厨子王の出世も随分調子良いが、元の話があるのであまり変えるわけにはいかなかったのかな。
高瀬舟は、真の名作は古びないテーマを内包しているということを良く示している例だと思う。 -
『高瀬舟』
「人は身に病があると、この病気がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、又その蓄えがもっと多かったらと思う。 …人はどこまで往って踏み止ることが出来るものやら分からない。」
人間の欲と安楽死の問題を考えさせられる物語。
著者プロフィール
森鴎外の作品





