中動態の世界 意志と責任の考古学 (新潮文庫)

  • 新潮社 (2025年3月28日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (528ページ) / ISBN・EAN: 9784101035420

作品紹介・あらすじ

誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探求すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した”中動態“に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。時代を画する責任論を新たに収録。

みんなの感想まとめ

人間の愛や責任についての新たな視点を提供する本書は、特に「中動態」という概念に焦点を当てています。能動態と受動態の間に位置するこの中動態は、恋愛のような感情の曖昧さを表現し、日常の中での人間の自由や不...

感想・レビュー・書評

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  • まだ自分には理解できない部分は多分にあったので、もっと知識や哲学に関する素養がついてから改めて再読してみたいと思いました。

    能動態の対義語は受動態というのはよく知られていますが、ここでは「中動態」と呼ばれる概念について深掘りしていくものでした。

    「私はあなたを愛しています」「私はあなたに愛されています」 これはよくある能動態、受動態の文章ですが、
    「私はあなたに恋に落とされた」となると、恋をしているし(能動)、落とされている(受動)、という中途半端な態となっています。

    その曖昧さや態の歴史を様々な哲学者を取り上げながら分析していく本でした。
    國分功一郎さんって哲学者挙げて、批評して深掘りしながら進めるの好きだなあと感じました。

  • 「免責が引責を可能にする」
    この一節に私はしびれた。

    なにかミスがあると、世の中では「責任をとれ!」という話になる。言い換えれば「このミスを犯す意志を持ったものは誰か?」というお話。本書では、このような「意志によって根拠付けられる責任」を「堕落した責任」と呼ぶ。

    責任とは、そういうものではない。責任とは応答することなのだ、と。そしてその応答としての責任の生成は、実は免責※によって生まれる、と本書はいう。

    ※ここでいう免責とは、無罪放免にする、という意味ではなく、自らの行為が、意志ではなく、無数の原因によってもたらされた結果であることを理解する手続きのことを指す

    この考えに、私は驚いた。
    コペルニクス的転回!
    そして全く考えたこともない発想だったけれど、ものすごく腑に落ちる気がしたのだ。

    國分功一郎さんの本は、確かに咀嚼するのに時間がかかる(そして私はまだ咀嚼しきれていない)のだが、そこから得るエッセンスがもたらす思考的影響が、半端ない。

  • 銃を突きつけられてお金を差し出す時、その行為は能動か受動か?
    私たちは能動態と受動態の二項対立を当たり前の概念だと考えているけれど、する・されるで簡単に分けられない行為は身の回りにたくさんある。
    実はそのまた昔、今は無き“中動態”というもう一つの態が存在していた…!
    中動態を使って私たちの行為を説明する時、意志とは、責任とは、自由とは一体何か。私たちはそれらを持っているのだろうか。
    …とまあそんな話。
    3章まではノリノリで読めたけど、その先から難しくて度々置いていかれた。哲学の知識と根気が必要。
    なんとなく意味を辿って最後まで読むことはできた。文庫版補遺があって助かった。
    テーマは非常に興味深いし重要だと感じる。
    また知識をつけて読み返したい。

  • 意志(個人)ではなく関係性を重視すると責任の不在が問題視される。責任をどう考えるか。
    結論としては、能動ー受動態の世界観ではなく、むしろ能動ー中動態の世界に身を置くことで、責任の念が生じる。
    現代は個人に重心が傾き過ぎなので、そろそろ関係性、中動態の出番かな、と思う

  • やはり最高に面白い。単行本版を読んでから数年の間に國分功一郎さんの著作も『暇と退屈の倫理学』『責任の生成』『言語が消滅する前に』『目的への抵抗』などなど読んできていたので本書の議論についても新たな気づきや理解が深まるところが多かった。補遺も國分さん自身が思考を深め、進めてきているから社会的な実践に関わるポイントが明快で素晴らしい。

    個人的には最近國分さんとは別の角度からアーレントのことを考えていたのでアーレントが「区別」の人であることに色々と思いを馳せた。

    國分さんがアーレントに質問したかったこと、私も私なりの関心から同じことを聞いてみたい。

    “一度でよいので実際に会ってお話をしてみたかった。「ビリーもクラッガードもヴィアも我々そのものではないでしょうか?アレント先生には彼らのようなところはありませんか?」ーーーその際におうかがいしたかったことはただ一つこれである”

  • 受動態と能動態、どちらにも当てはまらない中動態について解説しながら人間の意志と責任について考える本。

    言語学の部分は知見が少なく読みにくく感じたが、ギリシャ語から流れを読み解いておりとても丁寧に書かれている。
    全てのものはお互いに作用し合っていて、最初の始まりを決めることはできない。
    でも外部からの刺激をそのまま他に流しているだけではなく、外部からの刺激と、自身の持つ変状する力を掛け合わせて、それを外部へ伝えているという論調がしっくりきました。

    全著、『暇と退屈の倫理学』よりも難解に感じました。
    特にハイデガーの解説は難しかった…いつかちゃんと原本を読んでみたい。

  • 難解
    読んでいるうちに理解できるところと、もう理解を諦めて読み飛ばすところとがあった

    中動態という動詞の考え方があることを知れたことだけで十分だと思うことにする

  • 普段の行動や感情を能動と受動という2つの区分を疑い、中動態という新しい(過去に存在していたが消えてしまった)概念を提案する。新しい概念を提案するのに、既存の概念で抜け漏れていることや過去の歴史、異国の文法などあらゆる角度から理論を固めて行く過程が凄まじい、、

    能動と受動という区分は行為の帰属先を当然のように求める。その手前にそれそのものを認知し、出来事を描写する中動的な思考があり、それを知ると認識によってもたらさせる「自由」を得られるらしい

  • 同じ新潮文庫から出ているから
    「暇と退屈の倫理学」の向こう側の話かと思っていたら、
    (作品を書くに至った経緯としては連続性があるものの)
    全く別の系統の話だった。

    かつて確かに存在した態、中動態。
    現在の(特に英語で顕著な)能動態と受動態の二元論に
    吞み込まれてしまった態。

    現在の言語体系の中では本質を見失ってしまう
    責任と意志について探索していく。

    前半はほぼ言語学なので、興味のない人は読み飛ばしてしまってもいいかも?

  • 暇と退屈の倫理学に続き國分功一郎さんの本を読むのは2冊目です。が、又しても難解。こちらも最後まで読めるか分からないので、途中ですが、まとめていこうと思います。

    まず、中動態と聞いた時に私は無意識のことか?
    古文で言う『る らる 』の自発のことか?と思い読み進めましたが、また少し違うみたいです。

    能動態は「主体から発して主体の外で完遂する過程」を表現し、中動態は「主語がその座となるような過程を表しているのであって、主語はその過程の内部にある」とのこと。

    便利な中動態が無くなったのは意志と責任を結びつけたいという考えから。

    こちらの対談を読んで、もっと理解が深まりました。
    http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

    現在の医療現場での「意思決定支援」に代わる言葉として「欲望形成支援」を。
    家族の大病に寄り添ってきた私にとって、これはとても納得させられる文章でした。

  • 大変難解だか奥深い。

  • 暇と退屈からこっちも気になって読んだ。
    正直かなり難しい。ちょっと読み飛ばした部分もある。
    ただ、中動態という新しい(?)概念も知ることができた。今の言語では中動態が広まっていないのがもどかしくなる。

    以下、本書と直接関係ないが感想。

    小説などの物語がなくならない理由の一端に、中動態の喪失があるかもしれない。
    特に悲劇のような物語では、登場人物は誰かに強制された行動もあれば、進んで自分で行ったとは言えない行動もする。大きな物語の流れの中で、彼らは思い通りに行かない行動を自らとる。こういった行為は能動態/受動態では書き表せない。
    物語を読む人は、ストーリーを楽しむだけでなく、確かにあるが表現できず忘れてしまった中動態へのノスタルジーを感じているのかもしれない。

  • 「読んでて難しい」「難解だ」と感じる人ほど(少なくとも私はこちら側だと思う…)、「能動↔︎受動」の言語に基づく思考体系に浸かってしまっているということなのでしょう……


    中動態について、言語の歴史やスピノザ哲学など、あらゆる側面から國分先生の哲学論が展開されていきます。難しくても読み終えて初めて「中動態の世界」の入り口に立てるのかもしれない。
    最後に能動態↔︎中動態的思考から「責任論」に話は移行していきますが、社会の分断が進む現代社会が進むべきヒントを与えてくれるカギとなるのではないでしょうか。

    「暇と退屈の倫理学」でもあった通り、本書もまた「(理解しきれない部分があったとしても)通読してはじめて意味を持つ」のだと感じました。


    この感想を読んでくださった方も、なにかのご縁だと思って、たとえ本書を読み始めてから難しいと感じたとしても、最後まで読んでみてほしいです。。

  • 難解だけれどどうしても分かりたくなる!読み進めたい!と思わせてくれるのは筆者の丁寧な先行の哲学の精読と確かな(そして誠実な)筆力によるものと思います。ただ難解でとっつきにくい本と感じて読まないのはあまりにも勿体ない、難解だけれど確かに分かる・共感できる部分がたくさんある、哲学によって人を救済したいという真摯で優しい願いを不思議と感じられる書籍。
    哲学用語や言語学の用語、概念など難しいところは検索したり調べたりしつつの読書となりましたがとっても有意義な時間になりました。

  • 第1章 能動と受動をめぐる諸問題

    概要:意志と能動/受動構造の関係について。意志は能動の構成要件になっているようにみえるが、その根拠は弱い。

    「私が何ごとかをなす」とはどういうことか?
    「歩く」を例にとった場合、その動作と行為は別物と考えることができる。
    動作はもちろん、行為も「意志の実現」ではない。行為はむしろ、諸条件のもとでの諸関係の実現とみなすべきだ。

    「想いにふける」や「謝る」という行為も、意志によって気持ちが定位できないゆえに、「意志の実現」とみなすことはできない。

    「私が歩く」と「私において歩行が実現されている」の文の違いは前者には私の意志の存在を喚起させる力があるのに対して、後者にはそれがない。p31

    それでは、意志とは何だろうか?
    ≪意志とは一般に、目的や計画を実現しようとする精神の働きを指す。、、、意志は目的や計画をもっているのであって、その意味で意志は意識と結びついている。意志は自分や周囲のさまざまな条件を意識しながら働きをなす。、、、意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。≫p31~32

    しかし、この定義では意志と意識のあいだに矛盾が生じる。
    ≪意志はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄から独立しているとも考えられる。というのも、ある人物の意志による行為とみなされるのは、その人物が自発的に、自由な選択のもとで自らなしたと言われる行為のことだからである。(意志は行為の出発点である)
    意志は物事を意識していなければならない。つまり、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうして意識された物事から独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。この矛盾をどう考えたらいいだろうか?≫p32~33

    このような意志の概念の曖昧さを位置づけるために能動/受動というあいまいな区別を利用しているのではないか。

    意志という不確かな概念をどうとらえるべきか。

    物事の責任を問われるのは当事者の意志で自由に選択できる条件がある場合に限られる。
    授業中に居眠りする生徒を教師が叱責するとき、その生徒が家庭事情から毎晩遅くまでアルバイトをしているといった選択不能な環境に置かれていたケースなら不問に帰されるが、ゲームで夜更かししていたという理由なら叱責の対象となる。

    ≪これは言い換えれば、責任を負うためには人は能動的でなければならないということである。受動的であるとき、あるいは受動的であらざるを得ないときには、人は責任を負うものとはみなされない。≫p36

    しかし、この論理は実際に現実で運用されるには無理がある。

    ゲームで夜更かしをした生徒は意志が弱い受動的な人物と評されうるが、いざ授業中の居眠りで叱責される段になると、自由に選択できる意志をもった能動的な人物が(それでも)できなかった、という論理で有罪の宣告を受けることになる。

    このように責任の根拠は不確実性が強い。
    ≪人は能動的であったから責任を負わされると言うよりも、何らかの理由で責任あるものとみなしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。≫p37

    アルコール依存症や薬物依存症のケースでも、能動的な選択を前提とする責任の根拠を精密に指定するのは難しいが、多くの場合は法によって責任は問われることになる。

    意志の在り方や能動と受動の区別は不正確で曖昧だが、社会的必要性からその役割は正当化されうる。

    行為における意志の在り方に関して、スピノザは「自由な意志」という概念を否定し、行為は意志を原因とするという考えを退けた。
    ≪スピノザによれば、意志は「自由な原因」ではない。それは「強制された原因」である。すなわち、私が何ごとかをなすのは、何ごとからも自由な自発的意意志によってではない。いかなる物事にも、それに対して作用してくれる原因があるのだから、意志についてもそれを決定し、何ごとかを志向するよう強制する原因がある。≫p42

    では、にもかかわらず人はなぜ意志を行為の源泉としてみるのだろうか?

    スピノザは太陽の光を浴びると、それがまるで自分のすぐ近くにあるかのように感じてしまう例を挙げて説明する。
    ≪精神はここで、身体が受ける刺激に基づいて太陽のことをイメージしており、またそのような刺激を身体に与えることは、太陽が持つ特性の一つだからである。、、、太陽までの真の距離を知ったとしても、太陽の光を浴びれば、われわれは「やはり太陽を近くにあるものとして表象する」のだ。
    太陽の光と人間身体が出会ったとき、両者の持つ特性ゆえに、そのような効果が発生する。スピノザは意志についても同じようにこれを効果として考えた。≫p43~44

    さて、能動と受動の区別が意志のようになにがしかの効果であるならば、その効果を発生させているものは何だろうか?

    能動態と受動態の区別は普遍的であるように見えるが、多くの言語にはその区別がない。
    現在主流の言語である英語の源流であるインド・ヨーロッパ語族においても、能動態/受動態の構造はかなり後世になってから出現した新しい文法規則である。

    インド・ヨーロッパ語族に能動態/受動態が出現する以前は能動態/中動態の区別が規則をして用いられていた。

    現在汎用されている能動態/受動態の区別は、この比較的新しくできた文法規則の効果であり、そこに矛盾が発生するのはこの効果が現実と合わないからではないか。

    能動態/受動態の区別に変わり、古来より使われていた能動態/中動態のパースペクティブで現実をとらえたとき、この矛盾は幾分解消されはしないか。

    意志はこの効果のありようによって位置づけを変えるのではないだろうか。

    第2章 中動態という古名

    能動態/受動態の区別以前は能動態/中動態で区分されており、受動態は中動態の派生形であったとすれば、能動態と受動態の中間として位置づけられている中動態という名称は文法の歴史と矛盾するのではないか。

    以下に文法研究の歴史を概観する。

    文法研究のこうしとして確認できる『クラテュロス』では、ギリシア語の文の要素を名詞的要素と動詞的要素、すなわちオノマとレーマに分ける考え方が提示されている。
    次に体系的な研究を行ったアリストテレスの『命題論』では、レーマの規定に時制の指示が加わるが、ここでレーマは動詞というより述語というべきものになっている。

    アリストテレスの『カテゴリー論』では「なにかを語るとき、あらかじめ語られる際の概念的な枠組み(カテゴリー)を認識する。語られるものは、たとえば、「人が走る」「人が勝つ」などの組み合わせで語られる文と、「人」「勝つ」など組み合わせなしで語られるものの2種類がある、とする。

    語られる際の概念的な枠組みは10項目ある。
    1.実態
    2.量
    3.質
    4.関係
    5.場所
    6.時
    7.姿勢
    8.状態
    9.能動(なすか)
    10.受動(被るか)

    バンヴェニストによると、はじめの6つのカテゴリーは名詞の形態に、後の4つのカテゴリーは動詞の形態に対応するとし、それらの4つの形態はそれぞれ、中動態、中動態の完了形、能動態、受動態に当てはまる。

    アリストテレスの整理の仕方には、能動態と中動態の対立が能動態と受動態の対立に置き換えられていく過程が見て取れる。

    最古のギリシア語の体系的な文法書であるトラクス著『文法の技法』(テクネー)では能動態/受動態/中動態の三区分が出現する契機が示される。

    とはいえ、能動態と受動態については説明が付されておらず、中動態のみ「中道は、部分的に能動を、部分的に受動を示し、、」という簡単な紹介があることから、この書物が著された時点ですでに中動態は能動と受動に従属するものとして扱われているとみなせる。

    したがって中動態(メソテース)の意味は能動と受動の中間という消極的な位置づけが与えられているにすぎない。

    それでは古来から使われていた中動態はテクネーでは能動態と受動態の間でどのように配分されているのか。トラクスの翻訳の方法論を研究したアンダーセンの解釈を見てみる。

    トラクスはエネルゲイア(行為、活動)とパトス(誰かに起こったこと、経験)を文法の用語として能動、受動と切り分けて使っており、以降これが基準として参照されることになるが、アンダーセンはこれを能動と中動に区分けすべきだと言う。

    というのも、ギリシア語の動詞の活用は二つしかなく、アンダーセンはパトスを受動態よりも中動態として扱うべきだと考えたからである。

    エネルゲイアとパトスの具体例を検討しつつ、パトスがどのような使用法で使われているのかを検証する。

    エネルゲイアの例では直説法現在一人称単数で活用する「私は打つ」という文は「遂行」を表す。
    対し、パトスの例では同じく直説法現在一人称単数の活用で受動態として訳すと「私は打たれる」となる。
    しかし、これを中動態として訳した場合、いくつか複数の訳出例が出てくる。
    「経験」を強調する場合は「私が打たれた状態にある」となるし、再帰的な意味で訳すと「私は自分で自分を打つ」となる。さらに抽象的な意味を付加すれば「私は(何かに)心を打たれた状態にある」とも訳出可能だし、さらに進めれば「私が(なにかを)悼んでいる」という解釈もできる。

    アンダーセンは中動態とメソテースを別物として活用区分を考察した。
    ≪アンダーセンの解釈のポイントをまとめれば次の4点になる。1.エネルゲイアとパトスを能動及び受動と翻訳してはならない。2.ギリシア語にあるのは能動態と中動態の活用のみである。3.「遂行」を意味するエネルゲイアは能動態の活用に「経験」を意味するパトスは中動態の活用に対応する。4.メソテースなる語は、この二つのカテゴリーに当てはまらない例外を指し示すための二次的な用語である。≫p81

    それでは、アンダーセンがメソテースの例として挙げる文はどのようなものだろうか。
    1.能動態の完了形
    「槍が突き立てられていた」という文では能動態の完了形が受動的な意味を示している。槍が突き立てられたままの状態にあるという点で単なる能動態とは違う意味を付与されている。

    2.完了時制が時間関係以上に動詞の意味を規定する
    「破壊されてしまっている」という能動態完了形の原義が「自らが破壊された状態にある」に転化し、さらに「正気を失っている」「破壊する運命にある」とニュアンスを変える場合がある。

    以上2つの例からも完了時制は主語が何かを遂行する(能動)のでも、主語が何かを被る(受動)でもなく、主語がある状態であり続ける事態を指す。

    ≪つまり完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉するということである。そして、そのような特別な地位を持つ時制である完了が、中動態と深い関係をもつ。≫p87

    アンダーセンによれば、パトスの意味である経験を表すのは受動態ではなく、中動態であり、メソテースはそれとは別で能動態の完了形及びその完了時制が時間関係を超越した意味を動詞に与える例に該当する。

    メソテースに分類される完了時制の効果は主語が何かを遂行する(能動態)のでも何かを被る(受動態)のでもなく、主語がある状態であり続けるという表現に見て取れる。

    中動態の効果は他にも「能動の意味を持つが、主語がその行為を自らのためになす際に用いられる」例が挙げられる。

    エネルゲイア(遂行)とパトス(経験)の区分に当てはまらない例、主語が述語を経験しているが遂行しているわけではない例及び主語が述語を経験することなく遂行している例がメソテースに該当する。

    以上の考察から、能動態、中動態、メソテース、受動態の歴史的な位置関係を整理できる。

    トラクスは能動態と中動態をエネルゲイア(遂行)とパトス(経験)に分け、そこに当てはまらない例をメソテースとまとめた。
    ところが、後世の学者は「能動態と対立する受動態という枠に収まらない中動態という態があった」と思い込み、そもそもぴったり重なるはずのない中動態とメソテースを同じものとして扱った。

    さて、國分はこのように能動態(遂行)、受動態、中動態(経験)、メソテース(完了、持続?)を区分するが、中動態とメソテースの違いは以降の論証で取り上げられていくことになるのだろうか。

    國分は、現在流通している能動態/受動態のパースペクティブは本来の能動態/中動態活用を誤読、翻訳されたものへの参照を重ねた結果出現した見方であるとした。

    さらに、エネルゲイアを遂行、パトスを経験と翻訳し、これを能動態と中動態の対立に重ねたアンダーセンの解釈も批判し、中動態の意味がいかなるものかに迫っていく。

    第3章 中動態の意味論

    中動態に注目する研究の多くは能動態と受動態の枠に収まらない場所に中動態を位置づけている。

    たとえば、心理学者のジョージ・ハワードは「言い争いの後でベランダから落ちた被害者の死は自殺なのか他殺なのか」に関して考察し、persuadeという動詞をめぐって能動態でも受動態でもない「私は自分を説得されるがままにする」という意味も可能だと結論付けている。

    哲学の世界でもデリダやラカンは同じように中動態を位置づけているが、本書では能動態/中動態の枠組みが能動態/受動態の枠組みへと改変されたパースペクティブ、その変化に注目する。

    もともとの古典ギリシア語の中動態とはいかなるものだったのであろうか。

    現在風に訳すと「彼は馬をつなぎから外す」となる文章を本来の中動態活用で訳すとどうなるか。

    ≪中動態に活用しているとき、動詞の示す動作は主語に作用を及ぼすことを含意している。どういうことかというと、この場合、彼は自分のために馬をつなぎから外す人物はおそらくその馬に乗るのだ。もし、召使が主人のために馬をつなぎから外すのであれば、別の言い方をしなければならない。その際に用いられるのが能動態である。≫p107

    言語学者のアランは中動態の使い方に共通する抽象的な意味を「主語の被作用性」といい、中動態は主語が己の行為の作用を自ら受け取る活用だとした。

    しかし、この定義は能動態/受動態の枠組みの解体、つまり能動態の意味を問い直す中動態の役割が示されていない。

    バンヴェニストはその役割を担う中動態の定義を示唆している。

    ≪能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。≫p111~112

    現在の能動態/受動態の枠組みではない形式では中動態はどのような使われ方をしていたのだろうか。

    ラテン語にある「形式所相動詞」というグループは「形としては受動態だが、意味は能動」と説明され、インド=ヨーロッパ語の歴史ではもともと中動態のみをとる動詞だったことが分かっている。

    ≪これらの形式所相動詞の存在は極めて重要である。中動態のみをとる動詞があり、また、中動態が態として消滅した後もそれらが特殊な動詞グループを形成していたということは、中動態によってしか表せない観念があることを意味しているからである。≫p117

    次に、中動態しかとらない動詞と能動態しかとらない動詞を挙げ、その使い方を比較検討してみる。

    その結果、能動態/中動態の枠組みにおける能動態と中動態の違いは以下のように説明される。

    ≪能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。≫p120

    例えば「与える」では与えたものが、「食べる」では食べたものが主語が占めている場所とは別のところで操作される。
    「行く」の場合、能動態のバイノーには「立ち去る」、「行ってしまう」のニュアンスがあるのに対し、中動態のエルコマイには「戻ってくる」というニュアンスがある。

    「できる」は、主語がそれを為し得る能力の発揮される座であり、「欲する」は欲望によって突き動かされる過程の中に主語があるので、どちらも中動態である。

    バンヴェニストは中動態を以下のように定義する。
    ≪主語はその過程の行為者であって、同時にその中心である。主語(主体)は、主語の中で成し遂げられる何ごとか、生まれる、眠る、寝ている、想像する、成長する、等々を成し遂げる。そしてその主語は、まさしく自らがその動作主である過程の内部にいる≫p123

    さて、この定義では「在る」が能動態に分類される理由がわかりにくいが、バンヴェニストはこう解釈する。

    ≪在る(存在する)は、インド=ヨーロッパ語では「行く」と同様、主体の関与が必要とはされない過程なのである≫p124

    これを受けて、國分は能動態/中動態の枠組みを以下のように整理する。

    ≪中動態と対立するところの能動態においては、主体は蔑ろにされている。「能動性」とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している。≫p124

    能動態/中動態の枠組みで整理したとしても、全ての行為を能動と中動に振り分けることはできない。

    そこには能動的な中動、中動的な能動と濃淡がある。

    中動態の定義を「主語の被作用性」としたアランは左側に低度の被作用性、右側に高度の被作用性を位置づけたスケールを提示している。

    このスケールでは、主語の被作用性が低い場合には能動態が、それが高い場合には中動態が用いられる。

    中動態を母体として受動態が派生した過程では、ある状態を表わす文に一回性の行為や出来事を切り取って読み取る解釈が導入されたと考えられる。

    例えば中動態活用の「欲する状態にある」に「誰それのせいで」をたすと「なにがしかのせいで欲する状態にされた」という受動態になる。

    逆に受動態活用の「打たれた」から「誰それによって」を引くと「打たれた状態にある」つまり「悲しんでいる」や「悼んでいる」といった中動態になる。

    能動態/受動態の枠組みと能動態/中動態の枠組みの大きな違いに意志の概念の扱い方がある。

    能動態/中動態の枠組みでは、主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志の概念は能動態/受動態の枠組みほどは前景化しない。

    第4章 言語と思考

    能動態と受動態の対立構造には意志の観念が前景化するが、能動態と中動態の構造では意志の概念はわかりにくい。

    能動態と中動態の対立構造をおさらいすると
    ≪能動態と中動態の対立に見出されるのは、主語が動詞によって示される過程の外にあるか内にあるかの区別である。中動態は動詞の示す過程の内に主語が位置付けられる事態を示し、能動態はその過程が主語の外で完遂する事態を示す。≫p136

    古代ギリシアでは、意志はなじみのない概念であり、アリストテレスも「自由」や「自由意志」については口にしていない。

    ジャン=ピエール・ヴェルナンは、能動態と中動態の構造の中における意志の位置づけについて以下のように説明する。
    ≪ここから引き出される心理学的な結論とは、ギリシア語や古代インド=ヨーロッパ語で表現される思考には、行為者が自らの行為の源泉であるという考え方がないということだ。ギリシアには意志というカテゴリーがない。≫p139~140

    能動態と受動態の対立が生み出す効果が意志、責任、人間主体などといった概念を補強したのではないか。

    ここで、國分は意志は行為者の行為の源泉であり、それゆえ責任を伴うという現代特有の定義を持ち出しており、以降この意味において意志のあり方に批判検討を加えていくことになる。

  • 自分で何かをする「能動態」でも、誰かに何かをされる「受動態」でもない、「中動態」という概念が古代の言語にはあった。誰かを好きになるのは、自分の意志なのか。依存症に陥るのは、その人の意志が弱いからなのか。自己責任論が跋扈する現代社会に於いて、その概念は昨今の様々な出来事について大事な視点を齎してくれる。非常に有意義かつ面白い知的冒険だった。

  • 100de名著のスピノザ「エチカ」、暇倫に続いて國分功一郎先生の本は3作目になる。

    1番難しかった。再読が必須レベル。たぶん25%も理解してないし頭に入ってない。

    暇倫よりもっと荒削りな書き口で、暇倫より前の作品かと思ったレベル。國分先生の中でも書き起こすのが難しかったんやろうと思う。

    中動態ってのも初めて聞いたし、結果この未知の態についてよくわかったのかわかってないのかも不明。矢印ではなく丸っと帰ってくるイメージのみ残った。

    ここ最近、悪手悪手で自滅するような人たちが多い。そういう人たちは責任を取れないのかなんなのか?と思っていた。広陵高校野球部のフロント陣とか、フジテレビの経営陣とか、池袋轢き逃げの飯塚受刑者とか、しょうもない炎上するインフルエンサーとか。

    行為のコミュニズムの観点から見ると、これらは全部構造上の問題を孕んでて、問題となる行動をしたことやその後の不誠実な対応は、もはやよく言われる本人の意志とか責任とかいう次元ではないんやなと思った。

    國分先生が最後の謝辞にバンヴェニストとアレントを入れているのはなかなか胸にきた。読んでる中でバンヴェニストすごって思ったし、アレントめっちゃ出てきて草って思ってもいた。結局アレントのこと好きなんかい!っていうのもほほえましくて◎

    個性とは関数であるという関数個性論を自分は唱えてるんやが、中動態の世界、能動と受動の違い、外からの刺激に対してどんな応答をするかといったところが本性である的な話はすごく参考になった。

    自分の中でまた追求欲が出てきた。
    正直よくわからんかったけど、こういう気持ちになれたのはよかった。
    能受対立ではない言語を1から作ってみたいかも。

    ごちゃついた感想になったけど、
    また読みますわ、しゃーなしやで國分先生。

  • 主体と行為について、能動態や受動態だけではなく、中動態の視点で解釈することで、意思や責任について捉え直すことができる

    言語学や哲学の議論の一般書として、また意思や自己責任を通じて感じる生きづらさや孤独感に対する問いかけとして、興味深く読むことができた

    主体と行為の関係については、龍樹(ナーガールジュナ)の「中論」に登場する「運動の考察」と、直接的ではないものの通底する思想を感じた

  • 難しかった。中動態の世界については面白いと思ったのだけど、それ故に自分の興味が散乱してしまっていちいち気になることが多くってずっと目が滑ってしまった。要勉強。

  • すごく面白かった。
    8章まで読んだ上で読む9章と文庫版補遺が特に面白かった。
    しばらくは手元に置いて常に参照したい。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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