- 本 ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101036045
感想・レビュー・書評
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もっと早く気づいて読んでいればと思った.痛快&傑作自伝.良書.
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大野晋氏が亡くなつてもう5年が経つのであります。井上ひさし氏、丸谷才一氏も鬼籍に入り、日本語の番人と呼べる人たちが少なくなつてしまひました。
その昔、英語教育の泰斗たる故・松本亨氏がその半生を語つた、『英語と私』といふ本がありましたが、これはその日本語版とでも申せませうか。
実家である東京の下町・深川の思ひ出を読みますと、父親から与へられた『広辞林』『字源』がその後の大野氏の方向性に影響を与へたのではないかと思はれます。
特段に教育熱心とも見えない商人の父親がナゼ? と不思議に思ひますが、書画を好む人だつたさうなので、その関連でせうか。
わたくしの父も別段読書家ではありませんが、ナゼか家には新潮社版「現代日本文学全集」全50巻があり、これが無ければわたくしは本好きになつてゐたかどうか。
単なる自叙伝ではなく、日本語研究の実際をうかがふこともでき、まことに興味深いのであります。地道ですねえ。また、日本古典作品に記載がある「校注」とか「校訂」といふのが、かくも大変な作業であつたとは。今後は心して読む。
日本語の源流を求めて「タミル語」に行き着く。これに関しては誹謗中傷がひどかつたやうです。無論わたくしには判定する知識も能力もないのですが、井上ひさし氏が「学者大野晋を信じるが故に彼の学説をも信じる」と語るのに賛成するものであります。
さはやかな読後感。感動の一冊と申せませう。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-122.html -
(2009.10.30読了)
大野晋さんの自伝的エッセイです。大野さんの伝記である下記の本は、この本とかなり重複します。この本を読めば、「孤高」は、読まなくでいいでしょう。
「孤高-国語学者大野晋の生涯-」川村二郎著、東京書籍、2009.09.11
「孤高」を読んでしまった人は、「日本語と私」を読まなくてもいいでしょう。
小学校のころからタミル語の研究までの思い出を楽しく語ってくれます。
◆幾何の勉強(37頁)
「先生、このごろ幾何が分かんなくなってきたんですけど」「それはね、僕も経験があるよ。兄貴に教わった。二年の教科書からやり直せばいいんだよ」。私はそれをやってみた。三年生の分までやり直すと、授業に追いつくことができた。
(高校一・二年をバスケの部活で過ごした同級生で、三年になってから部活がなくなったので、一年の数学からやりなおしたら、よくわかるようになって、三年の終わりごろには、試験で満点を取っていました。びっくりでした。)
◆西洋かぶれ(79頁)
世間では横のものを縦にすれば学者だといわれていた。それでは、ブローカーではないか。ロンドンに数年もいた人だといえば世に重んじられる。しかしそういう人はおよそ西洋かぶれである。かぶれとは黴のこと。黴にはなりたくなかった。
◆考古学(188頁)
古代日本語を考える場合に、音韻や文法を見ているだけではいけないと悟った私は、臥床のうちに、雄山閣の「人類学・先史学講座」(9冊)を取り寄せて全部に目を通した。そこには言語史と結び付くデータが散らばっていた。
◆送り仮名(220頁)
もともと送り仮名は発音も単語も構造的にまったく異なる中国語の漢字を、ヤマトコトバの表記のために、仮名と混ぜて使うことから生じたものである。つまり漢字と仮名を混用して一つのヤマトコトバの単語を書こうとするものだから、規則を立てることが難しい。ここに慣習的に行われて、それが次第に定着したものである。
◆廊下トンビ(222頁)
大学の理科系の学部長クラスの人が国語審議会の副委員長であった。この人が慇懃に発言する。「私は国語のことは全く暗い人間でございますが、これは文部省でいろいろお練り下さった案でございまして、広い意味で配慮のなされた案で、とてもいい案だと存じます。ご意見のある方もいらっしゃいましょうが、この案に全く賛成でござます。」
(何とか審議会の学識経験者たちは、きっとこんな感じなんでしょう。)
◆「週刊文春」(282頁)
日本語とタミル語が近い関係にあると発表した大野さんの説に対して「週刊文春」は1981年12月10日号から8回にわたって大野攻撃記事を掲載した。
それ以後しばらく、原稿依頼が来なくなった。
(味方になってくれたのは、井上ひさしと丸谷才一だったとか)
(2009年10月31日・記) -
筆者の視点は鋭く、眼差しはとてもあたたかいです。
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