鏡子の家 (新潮文庫 み-3-6 新潮文庫)

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  • 新潮社 (1964年10月7日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (640ページ) / ISBN・EAN: 9784101050065

感想・レビュー・書評

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  • 評論家や三島研究者からは評判が今でも悪い、この作品。
    私は、分裂した自己を登場人物に内包させ表現した、この作品が好きです。
    この作品が評価されていたら、氏の未来はまた変わっていたかも、などと感じながら。

    • きたごやたろうさん
      「いいね」ありがとうございます。

      「いいね」。
      ありがたいですが、ご自身の読書の時間も大切になさってくださいね!
      「いいね」ありがとうございます。

      「いいね」。
      ありがたいですが、ご自身の読書の時間も大切になさってくださいね!
      2025/11/16
  • 主人公4人。俳優、ボクサー、画家、エリート。

  • あまりにも面白い 綺麗にまとまってる

    久しぶりに金閣寺読んだ時の満足感が得られた
    5人の考え方、壁に対するそれぞれの向き合い方が大変興味深かった 
    とくに清一郎 
    このなんでも見据えてる感じが特に三島らしかった
    助け合わない交友は新しかった

    これが当時ウケなかったのか、今はウケそうだけどな



  • 久しぶりに本当に三島らしい小説を読んだ。
    年々と青春から離れていっているので、三島本の読み方も変わってきているが、やはり私の心を捉えて離さない。
    ストーリーはもちろんだが、文章やはこびがやっぱり別格なのだ。
    改めてそんな実感をさせてもらった1冊だった。


    物語は表題にもある鏡子という女性の家に集う4人の青年を中心に進む。
    この4人、生活も性格も育ちもてんでばらばら。このばらばら具合のおかげで彼らは共存できているのだが、干渉しあわないという考えのもとに厭世的に彼らは繋がっている。
    わかりやすい一文を引用してみよう。

    【しかし四人が四人とも、言わず語らずのうちに感じていた。われわれは壁の前に立っている四人なんだと。
    それが時代の壁であるか、社会の壁であるかわからない。いずれにしろ、彼らの少年期にはこんな壁はすっかり瓦解して、明るい外光のうちに、どこまでも瓦礫がつづいていたのである。日は瓦礫の地平線から昇り、そこへ沈んだ。ガラス瓶のかけらをかがやかせる日毎の日の出は、おちちらばった無数の断片に美を与えた。この世界が瓦礫と断片から成り立っているとは信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期は消えてしまった。今ただ一つたしかなことは、巨きな壁があり、その壁に鼻を突きつけて、四人が立っているということなのである。
    『俺はその壁をぶち割ってやるんだ』と峻吉は拳を握って思っていた。
    『僕はその壁を鏡に変えてしまうだろう』と収は怠惰な気持ちで思った。
    『僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変わってしまえば』と夏雄は熱烈に考えた。
    そして清一郎の考えていたことはこうである。
    『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ』】


    『もはや戦後ではない』がこの小説の舞台だ。それだけに物語はその戦後の波にのまれてのそれぞれの結末を用意している。
    それがまたおもしろい。
    設定的にもそうなのだが、それが深く掘り下げてゆかれる中でも彼らはけして混じり合わない。ここまでキャラがたっている登場人物が出てくる小説ならば、それぞれの行動や思惑が複雑に絡まり合い、主要な人物以外の登場人物の悲哀すら巻きこんで坂を転がってゆくことが多い。しかし本書ではそういうことが一切ないのだ。勿論友人としての交遊は多少あるが、けしてのその域を出ず影響されない。また後々きく誰かの結末にたいしても”ただ”見送る。
    五つの鍵がはめ込まれて運命の歯車が回り始めるという事はしない。一斉に放たれた存在だが、しかしそれぞれ違う獲物を全く異なった方法により追いかけ、そして違う最後に帰着する。互いになど目もくれないのだ。あくまで彼らは時代の波によりそれぞれの結末にたどり着くことになるのだ。
    面白いよな、三島にとって戦後とはまるでパーティーのような強烈な時間だったのかと私は思った。


    三島の小説って大体そうなのだが、前半は伏線のために設定等の解説をしっかり準備するので退屈に感じてしまう人が多いと思う。ただでさえ文章がくどくてめんどくさいのに、加えてのこのじらしっぷりは苦手と言われても仕方ない。まぁ私はマニアだから大丈夫なのだが、この小説でも第一部よりも第二部の方が格段に面白い。しかし第二部から読み始めても内容はほとんどわからないだろう。これがミシマのとっつくにくさだな。しかしこの伏線が合わさってゆく感じがたまらないのも事実。これはマニアの心理だろうな。
    ちなみに私は4人の中では清一郎が一番のお気に入りだ。破滅信望者のニヒリスト。
    特に紐育での部分が全体的にかなりよかった。
    文章としても藤子とフランクのやりとりのくだり、まつげに雪のところなんて何で無駄にこんな文章綺麗なのって舌を巻いてしまった。
    いや、まいるね。


    そういえば、
    鏡子の洋館、実物があるらしいので一度見に行ってみたいなと思う。

  • ■ネタバレの内容を含みます(ブクログの機能で文字が隠れるのがあまり好きではない)
    --

     「この世界はこれでなかなかしっかりしてゐる(全集7・530)」と鏡子が観念することが、この作品の主題だったに相違ない。

     ショーペンハウアーでいうところの「意志」は、鏡子たちに反発する。有無を言わさず、世界はそういう風になっているのである。夏雄にとっての水仙、収にとっての身体的痛み、鏡子にとっての真砂子(と夏雄の身体)……。反発は、痛みと生の実感を同時にもたらして止まない。

     峻吉は逆の面からこれを書いている。身体が興行として社会化・管理されているという逆説。峻吉に限らず、この本は身体というものが巧みに書き込まれていて面白い。

     清一郎の解釈は自信がない。個人的には、①「鏡子の家」という虚構の上位互換として、国家レベルで理念的な米国の社交界(ブラジル人がどうこうのあたり)が持ち出され、清一郎離脱による鏡子の敗北を導いた。②日米と戦後史とミクロの結合 などの要素を背負っていたように思う。そう考えると、やはりこの物語の主人公は鏡子だという気がする。

     まだ理解の外側にある領域が多いものの、端々に『青の時代』『沈める滝』『女神』を感じ、なるほどそれまでの三島の総決算らしい雰囲気を感じた。とはいえ、第一部は(当然ながら)虚無・冷笑主義のパターンになっていて行先不明感が強く、あまり読み心地が良くない。後世の人間である我々は「当時」の空気感を知らないので、それもあるのかな。

  • 本作『鏡子の家』は1959年に発表された長編小説です。三島由紀夫は1954年に『潮騒』で新潮社文学賞、56年に『金閣寺』で読売文学賞を受賞し、プライベートでも58年に瑤子夫人と結婚するなどまさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

    そんな三島が精魂込めて書き下ろした『鏡子の家』。この作品の大きな主題は「時代」であると三島自身が述べています。

    三島はこの小説で鏡子の家に集まる4人の青年に時代を投影し三島流の「戦後は終わった」文学を表現しようとしました。これは三島にとっても初めての試みで野心的な挑戦でした。

    しかし500日をかけ精魂込めて書き下ろした『鏡子の家』は批評家に酷評され、失敗作の烙印を押されてしまいます。三島はこのことに深い傷を負うことになりました。

    『鏡子の家』はたしかに成功作とは言えないでしょう。実際に三島由紀夫は精魂込めて書き下ろしたこの作品が世間に受け入れられず、さらには識者からも理解されないという孤独を味わうことになります。

    私自身もこの作品を「面白いです!ものすごくおすすめです!」とは残念ながら言えません。ですが読んで失敗したとは全く思いません。たしかに350ページほどまでは苦行でした。ですがその後はもう夢中です。それは事実です。そして『豊饒の海』へと繋がり得る水仙の花や、夏雄や収の破滅は非常に読み応えのあるものでした。

    そうした意味でもこの作品を読めたことは私にとって大いに意味深いものでした。

  • むちゃくちゃ面白い。一番好きなのは夏雄。音楽家のclarkのインタビュー(timeout tokyo)を読んでいると、夏雄のことを思い出す。天才ゆえのピュアで危なっかしい制作への情熱。

    下記はclark
    「純粋なカオスだよ。満足する答えを出すのが難しいな。カオスや状態の領域でいえば、僕は間違いなくカオスの端にいる。」
    「何事もなぜやるかを本当に理解している人って存在するんだろうか?それを把握したと思えばすぐに、現実というタマネギの別の皮の層みたいなものが現れて、無限の深淵に直面するよ。」
    「渋谷のホテルのエレベーターに乗ったまま作曲したら、音楽にどんな効果が出るだろうって思って」

    10年前くらいに読んだからまた読み直したい

  • 昭和29年~31年を舞台に
    刹那的であろうとする若者たちの群像を書いたものだ
    しかし彼らは要するにスタイリストの集まりでしかないので
    どうしてもいろんなことを考えてしまう
    同時代、都会の若者には、やはり三島由紀夫の年寄り臭さを
    難ずる声も多かったらしい
    武田泰淳の小説(ニセ札つかいの手記)にそういう意見があったのだが
    結局、悪ぶってるポーズが鼻についたという話なんだろう
    快楽を前にしては
    考えずに飛びつくのが刹那主義の現代的解釈であるからして
    つまり、この物語の主人公たちは、刹那を楽しめない人々だった
    刹那を気取りつつも
    真実の愛だの立身出世だのいう価値観に未練を残し
    現実に対してシニカルな態度しかとれない
    そうやって抱え込んだ自分だけの絶望をナルシスティックに愛しつつ
    世界の終わりを夢想することで、未来の不安をごまかしてる
    そんな連中だ
    他人の目を恐れてばかりの悲しいヒューマニストたち
    生きることは極私的な負け戦であるという事実に
    どうしても耐えられない
    それでもまあ
    自殺する勇気がないから「生きよう」なんて
    ポジティブを装って居直るフリをした「金閣寺」の頃に比べりゃ
    ずいぶん進歩したものである
    しかし、たったそれだけのことを五人前にも嵩増しして
    長々と書く必要はあったのだろうか?
    そう問われるならば、これはあったに違いない
    三島が欲していたのは、理想を共に並び見る同志だったんだから
    …その内実が、世界の終わりであったにせよ

    なお、「鏡子の家」を書き上げた三島は
    次いで「宴のあと」に着手したのだが
    三島由紀夫のキャリアにおいて
    ここが、最も重大なターニングポイントではなかったか
    個人的にはそう考えてる

  • いやぁ、まさにキミタケ君はよく私のことをわかってくれている!と思わせてくれる小説です。
    朝鮮戦争後の頽廃した時代野中で名門の資産家の令嬢である鏡子の家に集まって来る四人の青年たちが描く軌跡。

     林真理子の「20代に読みたい名作」という本に紹介されてて気になって読んだ。
     そこで林真理子は三島のことを「アフォリズムの天才」と呼んで、「三島という人はよく私のことをわかってくれているわと、一方的な親愛を文豪に寄せる。共感のいちばん素朴な形の始まりである。」と語っている。そうそう!読書の一番の醍醐味は、それですよね。

     この本を読むと確かに三島は「アフォリズムの天才」だ、と思わせてくれるくらいアフォリズムがちりばめられている。これがこの小説の魅力1つめ。
     2つめは〈アンチ私〉がいるところ。登場人物の一人である杉本清一郎。私の生き方に思いっきり蹴りをいれてくれた。
     3つめは文庫4頁にわたる武井の筋肉論。三島、ぶっ飛ばし過ぎだよ。

  • 鏡子の家、ようやく読了。


    鏡子は「鏡」で、家の中心にいてそれぞれを映す存在。中心といっても権力者というわけではなく、真ん中に鏡が置いてあるという感じ。
    (鏡子が鏡というのは、解説の田中西二郎さんより)

    民子と光子はそれぞれにキャラクターがあるけれども、収に対して、かたや「痩せっぽち」と言い、かたや肉体美に気付かず、適当に賞賛するところや、最初の小太りが最後に痩せ、かたや太るという具合で、対照をなしている。

    収と峻吉は肉体派で、考えすぎる収と考えることを避ける峻吉。ともに肉体的な「死」を迎えた点でも共通する。演劇の世界に生きる収は、夢と現実の境界にいながら死を迎え、考えることをしなかった峻吉は、ボクシングをやめたあと、有り余る時間の中で、かつ正木に出会い、「考える」世界に足を踏み入れる。(この正木には、金閣寺の柏木のにおいがする。)

    崩壊間際に生を感じる清一郎(いわゆる三島文学の男)と、2年間の間に一度崩壊し新世界を見つける夏雄(三島文学の男になった男)

    鏡子の裏側には山川夫人がいる。

    山川夫人の家で、滑稽な様子を見ながら交わされた会話の、人間自身を表す時の地獄絵図、という点を知ると、普段の社会生活の一見穏やかでありながらも実は表面的に過ぎない感じに、ことさら「パセティック」と感じる清一郎、ひいては三島文学世界が見えてくる。

    自分の世界を見つけ、新たな世界を「見に」、出発しようとする夏雄に、最後にいまひとつの「世界」(=視野)を教え、鏡子の家は閉まる。

    自らが鏡の中の世界に入っていくことにした鏡子の家の鏡は、これらを映すことをやめ、
    鏡子の家はただの家になり、犬のにおいが充満し、人のにおいはなくなる。(かつて清一郎がここに来たときは、「人臭いぞ」と言っていた)

    とにかく長かったので頭がついていけてませんでしたし、しょっちゅう三島用語がわざとらしく出てくる(ように感じた)ので、表現の豊かさの良さが若干削がれた気がしていましたが、
    もう一度、全体図を掴むために眺め読みをしてみると、うまい具合に構造化してるのだなあと感じました。最初と最後がちゃんと照合されているなど、こんなに長い作品で、最初から最後まで練られた構成であることの大変さを理解しました。

  • 同じところへ集っていた5人が、最後は別々のところに辿りついていて、そこがリアルだなと思った。

  • 解説者が「メリイ・ゴーラウンド方式」と評した手法が登場人物の栄華と衰退をを明らかにしていく。
    返す返すも1970年が無ければ、今、どんな評価と作品になっていただろう。

  • いまさらいうのもなんだが、三島由紀夫は日本の大作家である。堪能した。

    三島由紀夫の作品中での位置づけはどうなのだろう、精緻な構想といい、ひねり方といい、技巧に長けていて、うまいストーリーではある。もっと早く読めばよかった。

    或る時代(1954年ころ、朝鮮戦争後の退廃した世代相)の中で悩む青年たちを描き出している。

    いつの時代だとて青年は懊悩するものだ。
    この時代はこんなに退廃の気分がしていたのか?中学生になったばかりの私にわかろうはずが無いが、こんなデカダンスの世だったのだろうか、ことさら作者が借りているのか、さておいて。

    四人の個性的な青年のストイシズム追求の物語が、解説者(田中西二郎)言うところの「メリ・ゴオ・ランド方式」でぐるぐるまわる。
    エリート社員杉本清一郎(会社で出世するタイプの)、大学のボクシングの選手深井峻吉(後にプロ入り)、日本画家の山形夏雄(美的感覚が天才的な)、俳優舟木収(美貌だが配役をもらえない)ら四人が、鏡子というマダムのサロンを中心にして桜の季節から2年後の桜の季節までの、浮き沈みの物語。

    ストーリを追う小説でないことは確かで、それぞれの美意識を四人の青年がストイックに追求した結果が果たしていかなるや?いや、鏡の役割の鏡子も含めて五つの唯美意識のゆくえがテーマである。

    それは三島由紀夫の芸術の唯美家としての姿でもある。凡庸な私がどれほど理解できたかは別として、追体験の芸術的苦悩は味わうに興ありである。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/713388

  • 三島由紀夫の特番を見て購読。金閣寺の後に書かれた本で、当時も大注目されたが、評価は二分されていたらしい。4人の主人公(エリートサラリーマン、ボクシング一筋の選手、才能ある若き芸術家、売れないが美貌の役者)が、その友人である資産家の女性(鏡子)と、それぞれの生き方を語り共有する形式。親しい友人だが互いに干渉しないのがルール。三島はこの作品でも「美とは何か」「人生の意味とは何か」「哲学を持たない社会の劣悪さ」を描こうとしているのだと思う。また、それぞれが干渉しないというのは、友人であっても、根底では分かり合えないのだということなのか。5人のうち、4人の人生は破綻する。これは、のちの三島の行動を知っているだけに、何かの暗喩に思えてならない。金閣寺でも「世界を変えるのは理念か行動か」という問いがあったが、現実の社会はそんな単純なものではない。この本ではその2つが5つになっているが、それでも生き残るのは1つというのは変わらないのか。

  • 文体と構成とキャラの勝利、、早くも2021年ベストに出会ってしまった予感。成立しないとわかっていても第三部を求めてしまうほどに良い、、
    解説にあるように、三島は「現実の印象を"色彩と形態の原素"へと還元する作業の代りに、"観念とイメイジの言葉"へと還元する散文の芸術家」であり、その「磨かれた語彙にくるまれた影像が活字の奥から脳髄にしみこむ」感覚を一度味わうともはや他の作家が読めなくなる。。この作品を読むと一層強く実感する。
    これは前提知識なしに挑むのが楽しい。つまらないページが一切ないし一種劇的な展開に痺れる。なんとなく鏡子と夏雄の事物への見惚れ方が一番近いのかなと思ってたけど清一郎じゃないんだ…!最後らへんは藤子目線で清一郎がほんとに崩壊して乱れる姿を見たくなったが、、まあ少し傷ついたところも見れたから良しとしよう。峻吉にしても収にしても、わたしは全員違った意味でかなり好きで、それぞれに三島のある一面が投影されていたように思う。鏡子には遠い祖先のような親近感を抱いた…あらゆる偏見から解き放たれた空間、他人の情念を通して何ものにもとらわれずに何ものをも愛しているような感覚、…そして結局人生という邪教を信じることにするという。繰り返し、退屈、単調さは永く酔わせてくれるお酒。

  • 前半は、読んでて苛つきを感じることが多かった。理想を抱きながら、世の中の雑事に対して超然とした態度を取っている登場人物たち。そのシニカルな姿勢、世の中の破滅を信じながらも生活の破滅の心配はないという甘えた心。
    後半になると、それぞれの登場人物たちは、冷笑し無関心でいた世の中から手の平を返され、ナイフを突きつけられはじめる。その時に感じた胸のすくような感じ。他者の苦境に「ざまぁみろ」と思うような心境。読後、自分の中の一番汚くて醜い部分を、まるで鏡のようにこの小説に映し出された気がして、なんとも言えない気持ちになった。

  • 亡くなる5年くらい前の作品?
    当時体を鍛えていたはずなので、そのようなことが反映されている

  • 1954年の若者たち。冒頭、都内をドライブ中に勝鬨橋が跳ね上がる日常風景が新鮮。

  • 彼女はいくら待っても自分の心に、どんな種類の偏見も生じないのを、一種の病気のように思ってあきらめた。田舎の清浄な空気に育った人たちが病菌に弱いように、鏡子は戦後の時代が培った有毒なもろもろの観念に手放しで犯され、人が治ったあとも決して治らなかった。

    世界が必ず滅びるという確信がなかったら、どうやって生きてゆくことができるだろう。

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著者プロフィール

本名平岡公威。東京四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。以後、『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』『豊饒の海』など、次々話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。ちくま文庫に『三島由紀夫レター教室』『命売ります』『肉体の学校』『反貞女大学』『恋の都』『私の遍歴時代』『文化防衛論』『三島由紀夫の美学講座』などがある。

「1998年 『命売ります』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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