- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101050089
感想・レビュー・書評
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中学生の娘の課題本の中の一つ。
どれがいいのかなと言われて私が「あなたは三島由紀夫はこういう機会でないと読まないだろうから読んでみたら?」とお勧めしたのだが、クラスでこれを選んだ人は2,3人だけだったらしい。そんな娘から「もう!全然わからなくて半泣きで読んだ!文学少女のお母なら面白いかもね」と言って回ってきたわ 笑(※文学”少女”じゃありませんが/笑)
実際の金閣寺放火事件をもとにした小説。
主人公である溝口という僧侶見習い学生の一人称で、放火に至るまでの心理を溝口の幼少期から辿り解きほぐしている。
溝口には、美に関する潔癖さを求める反面、人の裏切りや嫌悪感を見ることに喜びを感じる性質もある。
それは、幼い頃から僧侶の父に金閣寺の美しさを聞いて育ち、溝口の心のなかで絶対的な美として根付いたこと、しかし生まれついての吃音で人との交流が苦手なところから成り立った性質だ。
<私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢見ていた。P61>
村でも官能的で小悪魔的な美少女の有為子の裏切り行為を見て喜びを感じたり、
見栄えも完璧な海軍機関学生の象徴であるかのような短剣の内部に傷をつけて、美しいものの中にある瑕疵に弑逆的な喜びを感じたりする。
この海軍機関学生だが、見栄えも精神的にもキラキラして後輩に一説振って時代の最先端という感じで、溝口の実が手とするタイプである。しかし溝口が「じぶんは軍人にはならない。坊主になるから」ということを吃りながら告げたところ「ふうん、そんならあと何年かで、俺も貴様の厄介になるわけだな」とつぶやく。自分の日常の行く先は戦って死ぬことだと理解している、この時代の刹那的な煌めきを感じる。
溝口は父の紹介で金閣寺に見習い僧侶に入る。だが実際に見た金閣寺はごく普通の3階建ての木造の寺であり、心に描いてきた絶対的な日の象徴ではなかった。<美しいどころか、不調和な落ち着かない感じをさえ受けた。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた。(P33)>という複雑な心境。
その気持が変わったのは、戦争が始まり、金閣寺も有限なのだと思ったときだった。ずっとあるものもなくなるかもしれない。金閣寺の美しさは有限である。それを感じた時に美しさが際立って感じられるようになった。
考えが陰に籠りがちな溝口に対して、陽性を振りまく学友の鶴川。
溝口の考えをさらに斜に構えたように世界を見ている柏木。この柏木は内反足の障害を持つが、溝口の吃音コンプレックスとは違い、障害を逆手に取り人の心を操り、特に高嶺の花であるかのような女性を次々籠絡しては捨ててみせる。
溝口は柏木から示され女性と関係を持とうとするが、そのたびに美の象徴である金閣寺が浮かび、どうしても踏み込めなくなるのだった。
金閣寺。自分が日を眼にすると目の前に現れて無効化してしまう金閣寺。
ある日、菊の花と蜂を見ていたときだった。自分を蜂と同化させると金閣寺は現れずに、菊の花として認識する。
そこで美に対する認識を改めて考えることになる。
美に対する風雑な心持ちは人との関係にも現れる。
ある日溝口は、自分の老師が芸姑を連れているところに出くわす。そしてそのつもりはないのに老師を付け回しているかのように思われてしまう。
溝口はそこでむしろ老師を脅迫するような真似をする。老師が自分を叱りつけることにより、人の醜さを知れば、その時こそ人を受け入れられるのではないかと思ったのだ。だが老師からは完璧な沈黙が帰ってくる。その後溝口は学校もサボり寺から行方をくらませたり、学費を使い込んだりもする。
溝口の母は、息子が金閣寺住職になることを夢見て(そして途中まではその有力候補であった)生きていた。溝口の破壊的行為をただ失望してみることしかできない。
<母を醜くしているのは…希望だった。P253>
そして老師は、まるで無視するかのような見捨てたことを見せつけるような態度を見せる。
<自分のまわりのもの凡てから逃げ出したい。自分の周りのものがぷんぷん匂わしている無力の匂いから。…老師も無力だ。酷く無力なんだ。それがわかった。P225>
老師に「私を見抜いてください」と問いかけるが、「見抜く必要はない。その面に現れている」とまるで相手にされないのだった。
<われわれが突如として残虐になるのは、うららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木漏れ日の戯れているのをぼんやり眺めているような、そういう瞬間だ。P242>
金閣を焼かねばならぬ。
その後も溝口は逡巡する。老師や他の僧侶たちに見せつけるかのような堕落を示し、柏木に思わせぶりなことを言い、小刀を買い、使い込んだ鐘で童貞を捨てるがそれでも決行にはなにかが足りない。
ある夜ついに今夜決行を決める。
最後に見た金閣寺はまさに美そのものだった。
準備していた藁や荷物を足利義満像の前に積み、火をつけて回る。
共に死ぬつもりだったが、死に場所と決めた蔵の扉を開けられない。
拒まれていると感じた溝口は金閣寺を飛び出し、山で燃え盛る金閣寺を見る。
「生きよう」と思った。
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読書会メモ
・この時代の人は、突然奪われるということ、自分の行く先は直接死があるということをわかっている感じがする。
・自分を強制していた枠がなくなり、戸惑って心の行く先が金閣寺へと向かった。
・戦前日本文化の象徴だった金閣寺だが、終戦でこれまでの価値観が一気に変わった。人の心は変わったが、象徴である金閣寺は残っている。
・法と混沌。三島由紀夫は法。終戦で、価値観が壊れたということをこの小説で著した。
・美しく壊れるべきだったものが残った。壊れるべきだったから壊した。
・壊れないことを確認するためにわざと壊そうとする人という印象。
・宗教は人の心を救うものなら、金閣寺という宗教建築物を壊すことで一人の青年が「生きよう」と思ったのなら、宗教の本来としてそれは良くないけど良いのかな。
・金閣寺を恋愛対象としてストーカー殺人。
・「金閣寺」と、三島由紀夫が自決した「自衛隊」は同一的なものか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
引き続き昔の文学を…の流れで、以前は読了できなかった三島由紀夫さん・金閣寺に再挑戦…
いやーーー、ムズいっすねーーー(笑)
辛くて辛くて…もう何とか頑張って読み切った感じ、全然自分が圧倒的にレベル足りないなと…m(_ _)m
主人公が過酷で歪な環境だったということは理解できるんですけど…「金閣寺燃やす」っていう思考に至ったところがやはり肌感として理解できなかった(金閣寺の美しさに嫉妬するとか、世直しのために燃やすとか)ので、そこが作品の理解度に直結しているのかなと。
戦後という時代背景も色濃く影響していると思うので、当時読んだ方々にはより共感できたのかもしれませんが…
ただ、文章の表現力・装飾性は圧倒的なものがあるなと…いませんね、こんな美しい日本語を綴る人は。
凄まじい筆力を持った作家さんということは理解できたので、そこは自分が前から少しは成長を感じた部分ではありました(笑)
また4、5年後くらいにもう一回トライしてみるかな…(´∀`)
<印象に残った言葉>
・私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。(P28)
・『金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とか同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝らぬ事態……。』(P81)
・しかし今までついぞ思いもしなかったこの考えは、生まれると同時に、忽ち力を増し、巨きささを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、こうであった。『金閣を焼かなければならぬ』(P242)
・この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌するんだ。(P273、柏木)
・別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(P330)
<内容(「BOOK」データベースより)>
金閣を焼かなければならぬ――。破滅に至る青年の「告白」。
最も読まれている三島作品。国際的評価も高い。〔新解説〕恩田陸
「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」。吃音と醜い外貌に悩む学僧・溝口にとって、金閣は世界を超脱した美そのものだった。ならばなぜ、彼は憧れを焼いたのか? 現実の金閣放火事件に材を取り、31歳の三島が自らの内面全てを託した不朽の名作。血と炎のイメージで描く〈現象の否定とイデアの肯定〉──三島文学を貫く最大の原理がここにある。
巻末に用語、時代背景などについての詳細な注解、佐伯彰一、中村光夫、恩田陸による解説、さらに年譜を付す。-
わたしもずっと読めずに本棚にあります
素直な感想いいですね
「金閣寺燃やす」読解に挑戦したくなりました!わたしもずっと読めずに本棚にあります
素直な感想いいですね
「金閣寺燃やす」読解に挑戦したくなりました!2024/03/30
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なんとか頑張って読んだ。
主人公が金閣寺に火を放つまでの、内面の独白が永遠に続く。もちろん、他の描写もはいるのだが(そこは、なかなか面白く読めた)、主人公の孤独と絶望による内面形成は、きっとそうであろうと思いながらも、理解するのは難しかった。
これを読みながら、秋葉原の連続殺傷事件を思い出したりした。
三島由紀夫の語彙表現力に圧倒されながら、それについていけない自分が非常に残念…。
作家が生きた時代と、自分の生きている時代、若い人たちの生きている時代も全く違い、そこを超えての普遍的な価値はあるのだろうが、理解し深く共感できる人は徐々に少なくなっていくのだろう。
2020.2.6 -
以前読んだときは途中で読むのをやめてしまったので、今回はじめて最後まで読んだ 読書を娯楽と捉えると、この手の作品は重過ぎる 実話を元にした話ではあるが、主人公の性格はきっと三島の想像だろう 何もかもを他人のせいにする男で好感は持てず、同情もわかないが、それはそのように書いたのだろう 読書初心者には根気のいる作品
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うーん、これは面白かった。読んで満足。
意外と読みやすかったし。
実際起きた金閣寺の放火事件を題材にしたということで、硬派なものをイメージしていたけど、
主人公の心理描写が精緻で複雑で圧倒的で、すごい引き込まれました。
美への執着とか、ものすごい劣等感とか、やたらと難解な屁理屈とか、
なんかわけわかんないとこも多かったけど
青春の青臭さ全開で、一つ間違えばただの幼稚なヘタレくんなんだけど
なんかすごかった。
緊張感の高まりも、美醜の対比も、罪と許しも、友情も、耽美的な死も悲劇的な死も、
なにもかも、これが三島文学かぁと。
最後のところ、感動しちゃったなぁ。
またいつか読み返したい。-
tiaraさん!
>最後のところ、感動しちゃったなぁ。
わかります。
僕も引き込まれて読んで、ラスト二行に衝撃を受けましたもん。
ああ、...tiaraさん!
>最後のところ、感動しちゃったなぁ。
わかります。
僕も引き込まれて読んで、ラスト二行に衝撃を受けましたもん。
ああ、読み返したくなりました。2013/07/25 -
kwosaさんへ
「人間失格」のとこのコメントでおすすめしてくださいましたよね。
そのおかげで早々に手に取ることができました。
ありがとう...kwosaさんへ
「人間失格」のとこのコメントでおすすめしてくださいましたよね。
そのおかげで早々に手に取ることができました。
ありがとうございました!
ドラマチックに一緒に燃えてしまうのかなーなんて思っていたくらいなので、わお!ってなりました。
いいラストでしたよね。2013/07/26
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ちょっと意味が解らない。とか言っちゃだめか……
最後まで主人公、溝口の主観で物語は描かれている。
柏木との対話は興味深い。
己の持つ狡猾さ、邪悪、恨み、愚かさ、凡そ人には明かせない暗黒の部分。偽善を装い、他人が私を受け入れること。それは自ら劣等を受け入れる妥協を含む恐れがある。永遠に矯正する機会を失うかもしれない。そこに甘んじることは何よりも許すことのできないこと。あまりにも醜く、救いようのない穢れを受け入れることなのだ。
唯一無二の金閣寺は、破滅的な行為の中で、美しさを完成させる。狂った美への執着が最後、どのような感情で締め括られたのか。
理解に苦しむ部分が多かったが、追求すると深みに嵌る恐れがある。美とは何か。この小説はただ狂っているものを描いているわけじゃなく、人の考え方を、極端な二つに分けて、その一方の主観を描いているような気がした。
私は二分された別の一方に属していただけで、ただただ極端な考えに、極端な不審感を抱いていたようだ。
読了。
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著者、三島由紀夫さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。
---引用開始
三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。
---引用終了
で、本作の内容は、次のとおり。
---引用開始
1950年7月1日、「国宝・金閣寺焼失。放火犯人は寺の青年僧」という衝撃のニュースが世人の耳目を驚かせた。この事件の陰に潜められた若い学僧の悩み―ハンディを背負った宿命の子の、生への消しがたい呪いと、それゆえに金閣の美の魔力に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたった悲劇…。31歳の鬼才三島が全青春の決算として告白体の名文に綴った不朽の金字塔。
---引用終了
私が20歳前後の頃、著者の作品を良く読みました。
もう、40年も前のことですね。
本作も既読でしたが、著者の作品をブクログに登録したいと思い、再読。
文体の美しさに、魅了。 -
三島由紀夫の傑作、やっと読了。
特に最終章に近くにつれて秀逸。金閣の描写がとても美しく迫ってくる。
禅海和尚が救いだ。
「人の見ている私と、私の考えている私と、どちらが持続しているのでしょうか。」
「どちらもすぐ途絶えるのじゃ。」
仏教小説として受け取りたい。-
2021/01/01
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金閣寺に放火した若い修行僧の歪で不可解な心理とそこに至るまでの悲しい生い立ちを、三島らしい論理性と配置美を駆使して、陰鬱で偏執的かつ狂気的な美として昇華させた作品。
昭和25年に実際に起きた事件を下敷きに描かれている。
辺鄙で貧しい土地の住職の息子に生まれた溝口少年。生来の重度の吃音のために自己表現がうまくできず、他者との関係性が築けずに常に孤独だった。
彼は父の伝手で、金閣寺で修行をすることになる。幼児の時から、繰り返し、「金閣ほど美しいものは地上にない」と父から聞かされていた寺に。
実際に目にした金閣は、父が語り聞かせたほどには美しいとは思われない。
けれどそれは、太平洋戦争が激化していた時代。
室町の時代から半永遠的で絶対的なものとして存在し続けてきた美の象徴である金閣が、空襲の火に焼き滅ぼされるかもしれない、矮小で醜く孤独な自分と同じ運命を辿るかもしれない、という想像は、彼を酔わし、それはいつしか、偏執的なまでの執着心となる。
彼にとって「金閣」は、実体の美以上に、精神的な美として存在することとなる。
けれど、京都は空襲に遭うことなく、戦後を迎える。
それでも、肥大した彼の執着心は収まらず狂気的になり、何をする時にも、「金閣」は、まるで独立した人格を持つ存在かのように、彼にとって絶対的な存在として脳裏に現れるようになる。
そして、幼少期よりうまくいかない他者との関係による苦痛と鬱屈は、一種の毒親ともいえる母の野望からの圧迫も加わり、歳を重ね失敗を積み重ねる度に一層激しく彼を苛み、追い込んでいく。
やがて生活をすさませ孤立感を深めた彼は、「金閣を焼かねばならぬ」という想念に取り憑かれるようになって…。
読めば読むほど、あらすじを書こうと振り返れば振り返るほど、異常性が浮かび上がってくる物語なのに、それでも読めてしまうし、惹き込まれてしまう。結局どうにも理解し難い部分も多いのだけど。
それはやはり、緻密に組み立てられた構成と、溝口以外の登場人物たちの無駄ない役割配置の二本柱が支える頑強な土台の上で、彼の異常な心理と、実体と観念が入り混じる「金閣」の水際だった魔性的な美が、これまた執拗なまでに丹念に語られるからなのだと思う。
巧みな独白形式も相まって、ある種の青春小説でもあるし、探偵は出てこないけど犯人の動機を追求しきっている点では犯罪小説とも言えそう。
決して面白かったり楽しい作品ではないけれど、不思議と蠱惑的で中毒性の高い作品なのは間違いない。 -
三島由紀夫は美を追求しすぎて、美に呪われて死んでしまった人だと作品を読むたび感じる。
基本的に作品そのものに興味があるので、文豪の人生にはそこまで惹かれないことが多いけど、三島だけは例外。
その美に囚われた人生で作られた作品は、なぜか私の心を打ってきて私まで呪いにかけようとしてくる。
この『金閣寺』の主人公は、金閣寺への執着が半端じゃない。主人公にとっての"美"とは金閣寺そのものだからだ。自分という醜く儚い存在と、金閣寺という絶対的に美しく永遠な存在との対立構造が、三島由紀夫のきらきらひかるような綺麗な文章で描かれていた。世間への復讐とかそういうものじゃなく、主人公は自分のちっぽけさ、醜さを常に思い知らせてくる金閣寺が単に許せなかっただけなのかもしれない。全然次元は違うけれど、好きな相手に振り向いてもらえない腹いせに相手を殺してしまう、そういう幼稚さ・視野の狭さを感じた。
三島の小説は個人的にはまだまだ難しいけど、やっぱり読めば読むほどなんか気になってしまう。怖い、私にとっての金閣寺が三島由紀夫なのか。あまり囚われすぎないように、慎重に慎重に彼の作品を読み進めていけたらなと思います。笑 -
新潮の限定カバーに惹かれて読んだ。純文学は読み慣れていないのでなかなか苦労したが、読後は達成感と疲労感があった。そこそこ読めているつもりでいたが、ラストがさっぱりわからなかった。んー、おもしろい。
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こんにちは♪
雨が上がり、又暑くなりました。
久しぶりに蝉が鳴いています。
白鳥とコウモリ、読みました!読み応えのある本でした。ミステリー?...こんにちは♪
雨が上がり、又暑くなりました。
久しぶりに蝉が鳴いています。
白鳥とコウモリ、読みました!読み応えのある本でした。ミステリー?、刑事、推理ものは久しぶりでとても良かったです。分厚い本でしたが・・・・
ワクチン接種、1回目だけ済み、来月初めに2回目です。1回目は腕が2日程痛くなりましたが、それだけです。2回目はどうかなぁ?
(゜-゜)good luck☆2021/08/20 -
こんばんは!!
雨が降ったり止んだり落ち着かない天気が続いていますねー。高校野球ファンの祖父母は最近毎日天気を気にしています笑
東野圭吾です...こんばんは!!
雨が降ったり止んだり落ち着かない天気が続いていますねー。高校野球ファンの祖父母は最近毎日天気を気にしています笑
東野圭吾ですか!いいですね♪
僕は今週TOEICがあるのでそれが終わったらどっぷり読書するつもりです。
ゆうママさん、ワクチン1回目打ったんですね。2回目のほうが副反応がツライらしいですよねー。ポカリとか冷えピタとか買っといた方が良さそうですね…2021/08/21
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言うまでもなく、1950年の金閣寺放火事件をテーマとした、放火犯視点での一人称独伯形式の小説。
インタビューに基づくドキュメンタリーでは勿論なく、報道から想像を膨らませて書いた作品、ということで、どこまで犯人の内面に迫っているのか分からないが、フィクションとして読む分には、全くもって理解不能というほどの狂人ではなかった。(それがこの事件をテーマとした作品群における各作者の腕の見せ所なんだろう。)
モデルの犯人は、この作品の連載が始まってほどなく、1956年3月に結核と統合失調症で亡くなっているようなので、犯人自身がこの作品を読んでどう思ったか?という点は、(多分読んでないのだろうが)確認出来ないのが残念だ。
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三島由紀夫さんの名作と呼ばれる作品。読み応えはあると感じましたが、凡人にはこの作品の意図というか意味というかそういうものを読み取るにのは難しかったです。
主人公の金閣寺放火にいたるまでの心の内、心の底に近い部分を中心に話が流れていくので、通勤通学の途中で読むという読書の楽しみ方ではなく、図書館や静かな場所で「よし!金閣寺よ、かかってこい!」という気合が必要だと感じました。 -
久しぶりの再読。三島の死後50周年でいろいろ再読しようと思いながら放置していたのを今更。若い頃読んだきりで詳細はほとんど忘れていたので新鮮な気持ちで読みなおす。自分の中で『仮面の告白』と混同している部分もあり、もっと短編だと思っていたのが意外と長尺で、しかもひたすら主人公の内面を描くことにページが費やされていて、その執拗さに今更驚いた。
題材はご存知、昭和25年の「金閣寺放火事件」。死者こそ出ていませんが、当時はかなりの衝撃的事件だったのでしょう、犯人の心理を追求したい作家の創作意欲をそそったと思われ。今ならさしずめ京アニ放火事件でしょうか。同じ題材を扱った水上勉『五番町夕霧楼』(https://booklog.jp/users/yamaitsu/archives/1/4093522855)を以前読みましたが、あちらは女郎になった幼馴染の少女との恋愛が設定されており、アプローチの仕方は三島とは全然違いました。比べてみるのも面白い。
三島はとにかく主人公=犯人の内面だけをひたすら追求する。もちろん関わる人物の影響はあるけれど、なんというか、事件は彼の内面で起こった、という印象。事件当時、三島は25歳で、犯人とさほど年齢は変わらず、戦後5年、戦争で死に損ねたことにガッカリしたような若者特有の失望感は、三島自身の感じていたことを投影されているのかもしれない。戦時中は金閣も自分もいずれ滅ぶもの(金閣も爆撃で焼かれるだろう)と思って仲間意識を持っていた主人公が、戦後結局焼かれることなく、つまり永遠に残るであろう金閣寺に、やがて一人滅びる自分との敵対関係を見出したのかなと思う部分もあった。
印象的な登場人物は、主人公の出会う二人の対照的な友人。素直で明るく、吃音の主人公にもなんの偏見もなく接する天使のような鶴川と、自らも内反足の障害を持ちながらその劣等感を武器に独自の鋭い論理を繰り広げる悪魔のような柏木。しかし鶴川は不慮の事故で突然亡くなり、主人公は唯一の、まっとうに生きていくためのよすがを失ってしまう。後にこの鶴川の死が自殺であったことを柏木が主人公に告げる場面はなかなか衝撃的だったけど、それでも鶴川が生きていてくれたら主人公はあんな事件は起こさなかったかもと思い切ない。
鹿苑寺(金閣寺)の住職であり、主人公の師匠とも育ての親ともいえる老師というのも得体のしれない人物。ただの俗物なのか、それともものすごく度量の大きい人物なのか、主人公同様読者からも計りかねる。ある意味主人公に対して寛大な側面もあり、それゆえにあえて主人公は彼の怒りを買いたい、逆撫でして破門されたいという屈折した心理にいたってしまう。この老師が、のちに少し登場する禅海和尚のような豪放磊落な人物であれば、主人公はここまで屈折しなかっただろう。とはいえ老師が悪いというよりは主人公の資質の問題。
普通ならこんな大それた犯罪を起こせば、家族が世間からどんな目で見られるか、と考え思いとどまりそうなものだけれど、この主人公は父を亡くし、母親のことは卑小で本性醜悪な人間として軽蔑しきっている。自身の内面のへりくつばかりで「金閣を焼かねばならぬ」と思い詰める彼に家族のことなど念頭にない。ある意味突拍子もないこの思いつきを、三島は読者にも納得いくように理詰めで説いてゆき、容赦なく主人公を追いつめていく。読者に「なんで?」と思わせる隙を与えないあたりは流石。
現実の放火事件の犯人は、放火後カルモチン(睡眠薬)を飲み切腹しようとするも一命を取り留めたらしいが、今作の主人公は放火後、死ぬつもりで準備してきたカルモチンと包丁を投げ捨てる。やるべきことをやった晴れ晴れしい気持ちでいっぱいになった主人公はなんと最後の一行でこう述懐する。「生きようと私は思った。」なんか上手く言えないけど、このラストが現実と文学の違いだな、と思います。 -
スローリーディングの実践を読んで、まずは金閣寺から。
自分を主人公の立場において物語を楽しんだり、小説の文章の描写などを楽しむことはできるが、平野さんほど深読みしてはまだまだ楽しめきれていないな。
でもゆっくり味わって読むことは大切というのは賛成。小さい頃に何度も何度も読んだ本、音楽は今でもしっかりと心の中に残っているから。これからはもう少し味わって楽しみたい。
さて肝心の小説自体への感想は、、、主人公の妄想癖がかなりありすぎて共感できるようなものではなかった。が、こういった思考回路をもって生活している人がいて、結果として社会を騒がせるような行為になったり、日常の中で自分にとっての違和感ある行為になったりするんだなと。
世界を変えるのは認識か?行為か?
自分にとって世界は変えるのは認識であり、行為でもある。もちろん他にもあるだろうと認識もしている。
故に、この質問自体、この議論自体が無用という認識。 -
う、上手いなあ。
少年期の、吃りという疎外感と、両親への反抗心。
それが仏的世界や、もっと大きなモノへの悪意として結実してゆき、行為だけが変革を起こすと頑なに信じる。
少年革命なんとか、と言ってもいいようなドラマが広がっている。
以下、ラストシーンのネタバレ含むので注意!
「物質というものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから手の届かないものであるかということを、死顔ほど如実に語ってくれるものはなかった。」
父の死に際して、涙を流さなかった「私」の目である。
「大声で歌いもせず、叫びながら駈けまわりもしない少年は、こんな風にして、自分の生を確かめてみることを学んだ。」
父と金閣という「絶対的存在」を分かち合いながら、亡くなった父は只の物質であると見做す。
後に、彼を慕った友人、鶴川が事故死した際には、鶴川の精神が、彼の姿を通じて象徴化される。
「鶴川はいつもこうして、私の誤解に充ちた解説者であった。が、彼は私には少しもうるさくない、必要な人間になっていた。彼は私のまことに善意な通訳者、私の言葉を現世の言葉に飜訳してくれる、かけがえのない友であった。」
私の好きな部分。
自分の悪意すら、誤解をしてくれる善き友。
そこに恐怖すら覚えるのだが、反転して善に近づけてくれる友人の存在に共感するのだ。
但し、主人公はその後、悪友柏木との親交を深めて、反転させることを許さない淵へと追い込まれてゆく。
「いいかね。美というものはそういうものなのだ。だから猫を斬ったことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉したように見えるが、さてそれが最後の解決であったかどうかわからない。美の根は絶たれず、たとい猫は死んでも、猫の美しさは死んでいないかもしれないからだ。」
世界を変貌させるのは「行為」だと考える「私」に対し、悪友柏木は「認識」であると考える。
「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。」という小林秀雄の名文句がどうしても重なってくる。
観念的な美を、主人公は金閣寺に喩えた。そして、そのシンボルを行為によって象徴的に破壊する。
カルモチンと小刀は、実際の事件では使われ、この作品の末尾においては使われない。
生きることを望んだ「私」の胸の内にあったのは何だったのか。
色々考えつくこともあるのだけど、陳腐な気もするので、もう少し煮詰めてみようと思う。 -
参りました。ごめんなさい。許してください。
相変わらず変態。ヘンタイです。
美しいです。
好きではないけど…面白い!…うーん。脱帽ですね。
三島由紀夫さん。
食わず嫌いの印象論で言うと、余り好きではないのです。
でも、そこは男児四十にして惑わず(?)、読んでみましょう。
励みとしては、橋本治さん「三島由紀夫とはなんだったのか」を、いつか読むために。
と、言う長いタイトルの個人的試みの、第2弾。
第1弾の「仮面の告白」もそうなんですが…読んでみて。
「やっぱり好きじゃねえよ、俺」。…と、好みとしては思うんですが…。
でも、力負けと言うか。
オモシロイ。
それは誤魔化しようがないです。
1950年に、京都の金閣寺(つまり鹿苑寺)が、同寺の若い僧によって放火されて全焼。
犯人の若い僧は吃音、つまり、どもりの強い人だったそう。
放火の後、薬飲んで腹に刃物を突き立てて自殺未遂のところ、警察に確保。
さまざまな心理的な動機があったそう。つまり、判りにくい動機でしかなかったそう(笑)。
父は僧侶で既に病死。
母は息子の犯罪を受けて自殺。
犯人の青年は統合失調症(かつては精神分裂病と呼ばれていましたね)と診断。
懲役7年。
どんどん病気が重くなり、服役中の1956年3月に病死したそうです。
さて、この実際の事件をモデルに書かれたのが、小説「金閣寺」。
犯人の病死する以前、1956年1月から雑誌に連載開始。
三島由紀夫さんの創作資料として、金閣寺及び犯人さんの周辺に、執拗に取材した取材ノートがあるそうです(当然取材拒否されまくったそうですが)。
あくまで、「モデル」ですから。
実際の事件や犯人とは違うところもあるようです。
主人公は「私」。一人称小説です。
裏日本の侘しい寒村。貧しい住職の息子。
物心ついてから、ずっと吃音。
その劣等感に苛まれ。
健康、若さや恋愛、性愛や女性や友情…。と、かけ離れた少年期。
醜い己。惨めな自分。
美しさ、は自らの彼岸に常にあり。
戦時色強い時代に、病の父の希望、鹿苑寺(金閣寺)の住み込み修業僧に。
父の口癖は「金閣寺ほど美しいものはない」。
内向的。喜びの無い生活。
父の病死。母の期待。「いつか金閣寺の住職に」。
大谷大学に進学も。誰からも愛されず認められず。関心も持たれず。
ひたすら金閣寺の美に酔い、儚く寒く生きてきた主人公。
唯一の友人。人生の微かな灯。
しかし、その友は戦後の混乱期に事故死。
そして、障害を持つ悪友が出来る。
この友が、実に純粋なる悪意に満ちて、偽善に満ちた現世を打つ。
己の障害を糧に、利用し、女を誑す。善意の仮面を剥ぎ、露悪の醜悪を叩きつけ、刹那のみに価値を置く。
ファウストのような、フォルススタッフのような、ドクターキリコのような。
影響を受けつつも、そこまで強靭になれない。
ナイーブな「私」。
きっかけは、やはり「異性」と「友情」と「職場」と「家族」。
つまりは「人間関係」。
友情に見捨てられ。異性への惨めな憧れ。満たされぬ思い。
それを上回る、汚れた男女関係への嫌悪。
そして、金閣寺住職が金に倦んで女遊びをしている現実。
何かが切れてしまう。ぐれていく。反逆する。
もともとが孤独な青年が、余計に周囲から孤立していく。
最早、将来、金閣寺の住職、という希望もない。
そして、母が。自分を見る目が冥い。
ふっ。 …と、裏日本に出奔のように旅に出る。生まれ故郷の近く。冥い海。寒村。
そこで、雲から陽が差すように、思いが浮かぶ。
「金閣寺を燃やさねばならぬ」
…ここんとこ、超絶です。
スバラシイ。
時間が停まり。水際から一斉に鳥がはばたき。タラの夕陽にスカーレットが誓うような。
四回転ジャンプから何もなかったかのように完璧に着氷するような。
触れなば斬れん白刃の緊張感。
その断崖を超えた、無重力状態の恍惚。
(最近は、フィギュア観戦も愉しんでいるので…)
もう…たかが紙に文字が印刷されているだけで、コレダケの感情を他人の脳みそに作れるのか。
ほんとに、スバラシイ。
一事が万事ですが、文章が超絶です。
日本語が巧緻です。
三島さんの本人も、相当に苦心されたようです。
成程「仮面の告白」に比べたら、硬質、ハードボイルド。
放火するあたりからの畳み込み方は、息もつけない。
仁左衛門の油地獄を観ているよう。
スタンディング・オーベーション。
拍手喝采アンコールの暴動です。
…なんだけど…なんなんでしょう、この感じ。
…若い肉体の饐えた腋臭をコレデモカと嗅がされたような…。
なぜここまで、複雑にねじれ曲がった不幸を舐めるように憎悪しつつ愛さねばならんねん…。
かわいそうやねん…。
異形の彼方の、孤独のパンクロック。
内臓を抉って豚の腸を投げて、全裸になって糞尿を垂れるような。
そんな超絶パンクな、ホモで難病のロックスターのコンサートを見せられたような…。
なんだけど、歌声の澄み具合…美しい…というような。
正常と日常と安寧と平和と均整。
そんな僕たちの「普通」の、なるたけ隠したい暗部と陰部と欺瞞の構造的矛盾を、レイプのように暴虐にたたきつけるんですよね…。
…うむむむ。
いや、美味しいんですよ。すごい料理人の仕事が詰まった誇り高い逸品です。
なんだけど…。いや、凄いですけど。
好き、というのぢゃ、無いのですよ…。
なんだけど…。
その語り口。
その優雅さと無駄の無さ。
高名な指揮者の忘我の棒振りを見るような。
フィギュアやバレエの奇跡的な最高得点演技を見るような。
うーん。
これが美しさ。文章の芸術と言わなくて、何が芸術なんだろうか?という感じ。
細かくは覚えていませんが、
"戦争が人生を私から遠ざけた" (だったかな?てにをはは、自信なし)
…もう、こんな文章が惜しげもなく乱打されます。
拾い集めて額に入れたいようなフレーズが湯水のように、ダダ流れ。音色で言えば、エリック・ドルフィーの神がかり演奏のような。
月並みですが、才気溢れん語り口。
それに、恐らくは、想像を絶する「努力」と「執念」の人だったのかな…と。
解説等でも言及されていますが、「金閣寺放火事件」をモデルにしつつ、三島さんは三島さん自身を叩きつけているんだと思います。
世の中的に言うと、戦中育ちの戦後世代、そして無類の金持ちボンボンとしては、秩序混沌たる戦後の時代に、自らの劣等感と時代の大人たちへの不信感の泥沼を這い回って来たのでしょうが。
また、そんな観点もおいおいと。
次は、「潮騒」か「豊饒の海」か…。
三島由紀夫さん、恐るべしですね。
実に面白く、美しい。
なんだけど…なんかキモチワルイんですよね…。 -
三島由紀夫を今の地位へ押し上げた圧倒的金字塔。
作者の美に対する特異な感性・哲学が乗り移った登場人物が饒舌体で読者を圧倒する。
何より彼の文学表現は豪華絢爛でミニマルの対極地。意外と本作は三島作品の読み始めとしては取っ付きにくいかもしれないが、必読である事には変わりない一冊。 -
ずっと気になっていた本。
やっと読みました。
生と死、美と醜、陽と陰、光と影、昼と夜、男と女、正と邪、善と悪、明と暗など、様々な対比を用いながら、主人公が終末へと向かっていく過程を描いているのですが、決定打は足りない印象。
あえてそうしているのであれば、それはそれで非常に練られた手法だと思います。
基本的にはロジカルに話が進んでいくように思うのですが、終末へと向かう方法を主人公が思いついた瞬間については、かなり飛躍があるように思いました。
その瞬間もロジカルに進められたら、完璧だったと思います。
が、これも狙っていたのだとしたら、その計画性には恐れ入ります。
表現力については、凄まじいほどの豊かさを感じました。
これほど奥行きのある表現は初めて見ましたし、それでいて新鮮で、視覚的で、的確。
日本語そのもののもつ可能性や広がりや深み、そういったものも感じながら、読むことができました。 -
自身の不完全性に直面し、金閣という美の象徴に苦しめられる。疎外感を覚える社会の中で、愚鈍な生に絶望し、いつしか純潔な破滅を望むようになる。内面に大きな闇を抱え、理解されないことこそがアイデンティティになっているという自負を持つ主人公。それと対照的に、他者に対して開放的で、物事の明るい側面を見つめているように見える鶴川や、コンプレックスを逆に利用し、世俗的な社会を乗りこなしている柏木など、主人公の内面との向き合い方は異なる姿勢を見せる人物像が印象的だった。
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金閣寺を放火するまでに至った青年の告白。
耽美的であり、徹底的に洗練された思想の深みを感じつつも、読者である私自身の教養の浅さからか、理解できない表現や思考が多く、読破するのが大変だった。
いずれまた是非、読み直してみたい。 -
三島由紀夫が天才と揶揄される理由がよくわかる。
鬱屈としたこの物語を、ここまで綺麗に書き上げられるものかと感嘆した。
人の抱えるコンプレックスを描くために、自分の闇の部分とかなり向き合ったのではないだろうか。
心臓を掴まれるような思いがした。
しかし、この苦悩を本当に理解できるのは、男性だけだろうなと思う。 -
いつかは読んでみたいと思っていた三島由紀夫。
主人公の内面描写がすごい。
倒錯した美学と深い思考がこれでもかと描かれている。
人間のドロっとした部分は、自分にも思い当たる節を感じてドキッとしながら読んだ。
そんな中、老師が俗っぽくて風刺が効いていて面白かった。
唯一明るい存在だと思っていた鶴川が柏木に手紙を送っていたことに驚いた。それぞれ闇を抱えているのが人間というものなのだろう。
そして柏木には何か人を惹きつけるものがあるのだろう。
柏木の言葉
「この世界を変貌させるものは認識だ。
この生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだといおう。」
が印象に残った。
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昔の小説を読むには時間がかかる。
だからドラマやYouTubeで解説を見た方が早いのだが、三島由紀夫さんが知りたくて。
完璧主義、自己愛、半端のない執着…
疲れるだろうな。しんどいだろうな。
「美」は私の人生の概念にそれほどなかったが、「コンプレックスの対称」としてみれば、この主人公のようにいつでもどこでも線で結びついて出てくる訳ではないものの、誰にでも多少あるものだと思った。
だができれば「そんなのは執着だよ」と流して金閣を燃やさない「強さ」と言われるものを備えてほしい、それはそうでなければ今の世の中ではどうしても生きづらいから。 -
どうしたらこんな文章を書くことができるのだろう。決して短くはない話の初めから終わりまで、一時も途切れることなく続く張りつめた緊張感。理知的に構成されつくし、解析されつくした物語を成す一文一文は、驚くほど比喩と詩情に富んでいる。それでいて作者の筆の呼吸やリズムは人間的に乱れることがなく、その語りは読者である私たちを物語の方へ誘い引き寄せはしても、完全に内部へ入り込むことは許さない。「無欠」という言葉はこの小説の為にあるとさえ思える。(だから読んでいて疲れる。)そしてこの異様なまでの「完全性への固執」が、三島由紀夫の生そのものだったようにさえ感じられる。
いつも思うのだけれど、三島由紀夫の人生は当人によって緻密に計算・構成されつくした「現実世界の小説」で、自決も含めて彼は周到に用意したプロットをただひとつひとつ実行に移していったにすぎないのではないか、と。その証拠に(かどうかは実際分からないけれど)、作中で彼は主人公に述べさせている。「運命というものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をえがいて、その幻に親しんでいる筈だ。」と。この小説『金閣寺』を読み終えて、そのゆるぎない、欠くところのない非現実的な美しさに、私は畏怖の念といわれのない悲しみを抱いている。-
小林秀雄は「なんで最後に主人公を死なせなかったんだ?だから小説として完結してない」と三島に意地悪を言っています。どう思われますか? 三島にと...小林秀雄は「なんで最後に主人公を死なせなかったんだ?だから小説として完結してない」と三島に意地悪を言っています。どう思われますか? 三島にとってはこの時点はまだ「刑架の幻」の段階だったのかもしれませんね。2011/06/02
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コメントを下さっていたのですね!ありがとうございます。私は逆に「なんで主人公を死なせなければいけないんだ?」という感じです。金閣を焼くことに...コメントを下さっていたのですね!ありがとうございます。私は逆に「なんで主人公を死なせなければいけないんだ?」という感じです。金閣を焼くことによってしか繋ぎえなった生への一筋の望み……こんなラストほど悲劇的で美しく完成されたものを他に思いつきません。すりむさんはどう思われますか?2011/06/30
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